幕間 陽向が忘れたもの
静まり返った薄暗い部屋に、ただ二人の足音だけが響いていた。
「最近陽向、大丈夫?」
言葉を投げかけながら、静香先生はいつものように優しく両腕を広げる。
陽向はその胸へと躊躇いなく飛び込み、ぎゅっと抱きついた。
「陽向? よしよし……」
子供をあやすように頭を撫でる、柔らかな手のひら。
その温もりに顔をうずめながら、陽向は悪戯っぽく囁いた。
「私ね?」
「なぁに?」
——ドスッ
重く鈍い音が、静寂を無惨に切り裂いた。
「がぼっ……!?」
「後輩くんから魔力もらうことにしました〜」
先生の腹部を無慈悲に貫いたのは、陽向の手。
溢れ出す温かい肉と、濃密な魔力の感触。
陽向の瞳は狂気じみた恍惚に爛々と輝き始める。
「ひ……な……」
——ドサッ。
支えを失った静香先生の身体が、床へと盛大に崩れ落ちた。
「えへへ、食べないと勿体ないよ〜。ガブリ、あむあむ」
自らの手と口元を朱に染め上げながら、陽向は笑顔で食らいつく。
純度の高い魔力が肉体へと流れ込む万能感に背筋を震わせ、夢中で肉を咀嚼し続けた。
「う〜ん、美味しい……っ、ピチャピチャ……」
「そこまでするとは想定外でしたね」
背後から呆れたような、わずかに意外そうな忍の声が響く。
だが陽向は振り向きもせず、ただひたすらに喰らいつき続けた。
「はぁ……」
忍は小さく息を吐くと、呆れを込めて指を鳴らした。
——パチン。
乾いた音に、陽向の貪る手がふと止まる。
「あれ……」
「下、見たらどうですか?」
「……え?」
忍の冷徹な声に促され、陽向は視線を足元へと落とした。
「……何を食べているのか、分かっていますか?」
血の海。
引き千切られた肉片。
そして、見慣れた白衣を着た、二度と動かない「何か」。
陽向の視線が、その事切れた顔でピタリと固まる。
「…………せん、せい?」
数秒間、世界からすべての音が消え去った。
呆然としたまま、自らの口元に触れる。
手に付着した温かい血。
舌に残る肉の味。
自分が誰を喰らっていたのか、脳が急速に現実を理解し始める。
「……っ!!」
次の瞬間、陽向はその場に激しく倒れ込み、胃の中のものを残らず吐き出した。
「あっ……あっ……あぁぁっ……!!」
血塗れの手で、もはや原型を留めていない先生の遺体を抱きしめる。
全身を猛烈な拒絶と絶望の震えが襲い、大粒の涙が血の混じった頬を濡らしていった。
「ふむ……」
「殺して……!」
「?」
「私を殺して!! お願い……もう、私……こんなの、私……っ!」
自責の念に押し潰され、喉を掻きむしりながら泣き叫ぶ陽向。
忍はその悲惨な光景を、冷めた目で眺めていた。
「まだ使えるのに……」
忍の唇が、穏やかで冷酷な弧を描く。
「分かりました。では——貴方のその『穴』、埋めてあげますね?」
「……え?」
忍がすっと腰を落とし、冷たい指先を陽向の額へとそっと触れさせた。
忍の異質な神気が、陽向の脳裏へ直接侵入し、記憶と精神を塗り替えていく。
「やっ……だめ……! せんしぇい、助け——」
「ふふ」
「…………」
叫びは途中で途切れ、陽向の全身から完全に力が抜けた。
数秒の静寂。
次の瞬間、陽向の瞳から絶望の色が嘘のように消え去り、いつもの柔らかな、けれどどこか焦点の合わない光芒が戻ってきた。
「あれ〜? 忍ちゃん、私に何してたの〜?」
陽向は何事もなかったかのように立ち上がり、自分の頬に触れた。
濡れた指先を見て、不思議そうに首をかしげる。
「?」
「少し怖い夢を見ていたのでは?」
「そっか〜。だから私、泣いてるんだね?」
無邪気に笑う陽向の足元には、真っ赤に染まった床と、かつて大切だった人の成れの果てが転がっている。
「早く後輩くんのところ行こ〜?」
「はい。そうしましょうか」
「えへへ〜、後輩くん♪」
陽向は血の匂いが漂う部屋を、あどけない足取りで後にした。
その背後を、忍は満足げな笑みを浮かべながら静かに従っていった。
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