119話 今は誰の唇も見たくない
リビングが修羅場と化す中、ソファの端で正座させられていた陽向先輩は、ちっとも反省していない様子でてへっと舌を出した。
「えへへ……ごめんね〜、後輩くん。でもね、すっごく美味しかったから……またもっとしたいな?」
先輩は上目遣いでこちらを見つめながら、己の艶やかな唇を指先で妖艶になぞる。
「ッッッ……!」
その仕草に先ほどの生々しい感触がフラッシュバックし、全身の血が一気に沸騰した。限界だった。
俺は弾かれたようにソファから飛び起き、玄関へ向かって脱兎のごとく駆け出した。
「あっ! 兄さん、どこに行くのですか!?」
「待って〜、私も一緒に行く〜!」
先輩がふわりと立ち上がって追おうとした瞬間、背後から凄まじい殺気を帯びた手が伸び、その肩をガシッと掴んで固定した。
「……陽向先輩? 私たち、み〜っちりとお話し合いをする必要がありますよねぇ……?」
「え〜〜……忍ちゃん怖いよ〜……」
背後から響く氷点下の威圧感を背に、俺は靴を突っ掛けてドアを蹴破るように外へと飛び出した。
夜の冷たい風が、火照りきった顔を冷ましていく。
自宅から少し離れたコンビニの明かりの下、俺は壁に背中を預けて大きく息を吐き出した。
「ふぅ……なんとか、あの魔窟から脱出できた……」
だが、意識を落ち着かせようとすればするほど、唇に残った柔らかく湿り気のある感触が脳裏に蘇ってしまう。
「……先輩の唇、本当に柔らかかったな……って、違う違う!」
俺は両手で自分の頬を思い切り叩き、首を激しく横に振った。
「違うぞ、忘れろ俺……! あれは、事故だ事故!」
「あれ? 西条くん?」
「——ッ!?」
不意に横から声をかけられ、心臓が飛び跳ねた。
振り返ると、そこには私服姿にコンビニ袋を提げた委員長が立っていた。
「い、委員長……!?」
「ふふ、どうしたの? こんな夜遅くに、一人でコンビニの前で頭振ったりして」
そう言いながら、委員長が一歩、二歩と距離を詰めてくる。
息がかかりそうなほど——近い。
「ねぇ……西条くん?」
上目遣いに覗き込んでくる彼女の唇が、街灯の光を反射して艶やかにプルプルと潤っているのが目に入った。
つい先ほどの陽向先輩との一件が重なり、脳の危険信号が一気に最大音量で鳴り響く。
(……ダメだ、今の俺にこの距離感は刺激が強すぎる!!)
「っ……!」
俺は一切の返答を放棄し、地面を蹴って脱兎のごとく全速力でその場からダッシュした。
「あっ!? ちょ、ちょっと西条くん!? なんで逃げるのーー!?」
夜の住宅街に響く委員長の困惑した叫び声を背中で聞き流しながら、俺はただひたすらに夜道を駆け抜けるのだった。




