第七話:『正解じゃない選択』
機械天使の小隊を退けた直後、ゼンは二人を寺の外へと促した。
「これ以上ここにいると場所が割れる。しばらくここには来るな」
「また来るわ」
「好きにしろ」
ゼンが面倒そうに肩をすくめると、レグナスが尋ねた。
「次はどこで会えばよい?」
「さあな」
そう素っ気なく答えると、ゼンは振り返りもせず寺の奥へ消えていった。
ルエリアが何気なく振り返る。
「……あれ?」
さっきまで背後にあったはずの古びた寺の姿が見当たらない。そこには静かな空き地と、数本の枯れ木が広がっているだけだった。
「消えた……?」
レグナスが眉をひそめて周囲を見回す。
「いや、見失っただけじゃろう」
ゼンが戦闘中に口にした言葉が、ルエリアの脳裏に蘇る。
『効率的な考えしかできない奴に、この場所は見つけられないからな』
二人はしばらく周囲を見回したが、寺への入口は見つからなかった。
やがて諦め、そのまま街道へと歩き出した。
その時――視界に、白い文字が鮮明に浮かび上がり、ルエリアは思わず眉をひそめた。
『【報告】:推奨行動プログラムを再開します』
『【報告】:皆様、引き続き最適で平和な一日を』
さっきまでの異様な光景が、まるで夢だったかのように遠ざかっていく。
ルエリアは無意識に胸元を押さえた。あの薄暗い隠れ家で聞いた言葉が、頭の中で何度も繰り返される。
「その割に、つまんなそうだけどな」
「それが本来の『息をしてる』って状態だろ」
「……意味わかんない」
吐き捨てるように呟く。
だが、否定するほど胸の奥がざわついた。
本当に、自分のいた世界は正しかったのか。あの街の人々は、本当に幸せだったのか。
そして自分は、本当にそこで息をしていたのか。
ルエリアは、前を歩くレグナスを見る。
泥だらけの服を着た、どう見ても「最適」とは程遠い存在。
それなのに、不思議と彼は苦しそうには見えなかった。
「……ねえ、レグナス」
「なんだ?」
「戻るわよ。もう一度だけ、あの街に。システムから外れた人間が、本当にただの不適合者なのか、自分の目で確かめたいの」
レグナスは腕を組み、大きく頷く。
「うむ。余にも戻る理由はある」
「……何?」
「飯じゃ。朝から開いている店を探さねばならん」
「……あんたは本当にブレないわね」
呆れながらも、ルエリアは小さく笑った。
システムの警告でも、誰かの命令でもない。自分たちの意志で、あえて檻へ戻る。
それは、この世界で最も「非効率」で、最も人間らしい選択だった。
「行くわよ。……私たちの『ズレ』が、どこまで通用するか試してやるわ」
二人は白い文字が流れる街道をしばらく歩き、やがて巨大な隔壁の前へ辿り着いた。
天使の管理都市ソディウス。
天使スコアによって選別された人間と、正式な市民認証を持つ者だけが立ち入ることを許された、最も天界に近い街。
入口を守る純白の門へ近づくと、無数の光がルエリアの身体を上から下まで走査した。
『【照合】:高位天使個体を確認』
『【対象】:ルエリア・セラフィナ』
『【状態】:帰還命令違反』
『【処理】:保護・回収対象として入域を許可します』
「……入れるのか?」
隣でレグナスが眉をひそめる。
「私の権限は、まだ完全には消されていないみたいね」
ルエリアは網膜に浮かんだ文字を睨んだ。
高位天使の権限は、市民認証のように簡単には剥奪できない。まして天界は、彼女をまだ処分対象ではなく、連れ戻すべき個体として認識している。
だから門は閉ざされない。
逃げた獲物が自ら檻へ戻ってくるのを、拒む理由などないのだ。
『【確認】:未登録個体一名の同行を検知』
『【申請】:一時同行権限を使用しますか?』
ルエリアは一瞬だけ指を止めた。
この申請を承認すれば、自分がソディウスへ戻ったことも、レグナスを連れていることも、天界へ記録される。
「どうした?」
「……何でもないわ」
ルエリアは『承認』へ触れた。
『【許可】:一時同行者として入域を承認』
『【記録】:高位天使個体の帰還を上層管理局へ送信しました』
白い隔壁が、音もなく左右へ開いていく。
レグナスが剣の柄へ手を添えた。
「完全に見つかったのではないか?」
「ええ。たぶん、入った瞬間からね」
「ならば、なぜ誰も来ぬ?」
ルエリアは、開かれた門の奥に続く白い街を見つめた。
「すぐに捕まえるより、泳がせた方が得だと判断したんでしょうね。私が誰と接触するのか、どこへ逃げるのか……全部見るために」
「罠だと分かっていて入るのか」
「だから言ったでしょ」
ルエリアは、一歩だけ白い檻へ踏み込んだ。
「自分の目で確かめるって」
二人は再び、無機質な白の街へと足を踏み入れた。
現実の建物の輪郭へ、仮想空間上の座標と情報が寸分の狂いもなく貼りついている。壁面には住民の評価に合わせた広告が浮かび、空中には交通経路や推奨行動が白い光となって流れていた。
道を歩く人々の足元には、仮想上の最適移動線が伸びている。彼らは表示された線をなぞるように進み、立ち止まる位置も、誰かとすれ違う距離も、すべてシステムの演算どおりだった。
現実と仮想。
本来なら別々に存在する二つの世界が、この街では誤差一つなく重なっている。
それは完璧な同期。
そして同時に、誰一人として予定された場所から外れない、透明な檻でもあった。
レグナスが、人々の視線が集まる何もない空間へ手を伸ばした。
だが、その指は何にも触れずに通り抜ける。
「以前から気になっておったが、皆は何を見て歩いておる?」
「仮想空間の案内表示よ。市民認証がないあんたには、ほとんど見えてないでしょうけど」
「見えぬものに従って歩いているのか?」
「この街では、見えないんじゃないわ。現実と同じくらい、そこにあるのよ」
レグナスが、白い街並みを見回しながら顔をしかめた。
「相変わらず、息が詰まる街じゃ」
「……あんた、よくここに住んでいられたわね」
ルエリアが呆れたように言うと、レグナスは肩をすくめた。
「好きで住んでいたわけではない」
「じゃあ、どうしてよ」
「衣食住に困らぬからだ」
即答だった。
「……単純ね」
整えられた建物。同じ高さ、同じ色、同じ間隔。
規則的に歩く人々。同じ表情、同じ距離感、同じ生活。
(……これが、“正しい世界”)
そう思うはずだった。今までは。
「誤解です……! 手を繋いでいただけなんです!」
白く無機質な街路に、場違いな悲鳴が響く。そこには、純白の翼を持つ機械天使に拘束された青年と、その手を必死に掴もうとする恋人がいた。
二人の指先が触れた地点だけ、現実に重なっていた仮想座標が赤く明滅している。
接触した位置も、時間も、互いのデバイス情報も、すでにシステムへ記録されていた。
『【警告】:身体的接触への同意ログが未登録です』
『【判定】:規範逸脱として再教育施設へ移送します』
「同意していました! ログを残し忘れただけなんです! ここを追い出されたら、私たちは生きていけません……!」
青年が叫ぶ。
ルエリアはそれを見て、小さく息を吐いた。
(……そりゃそうでしょ。何やってんのよ)
ログも残さず、衆人環視の中で接触する。この世界のルールに照らせば、彼らの行為はただの「エラー」だ。連行されるのは自業自得。そう思う一方で、ルエリアの足はなぜか止まっていた。
(……まただ)
冷徹な警告音が耳に触れた瞬間、ルエリアの脳裏に、あの日の光景が蘇った。
空腹の子供へ完全食を差し出した女性。
その善意を「規則違反」と断じ、迷わず拘束を承認した自分。
あの時と同じ警告音が、今度は目の前の恋人たちへ向けられている。
あの日の自分なら、今回も迷わず承認していただろう。
目の前の二人を「規則違反だ」と切り捨て、視線を逸らす。それが、これまでの「正解」だった。なのに――なぜ、今さら足が止まるのか。
『【確認】:非公式干渉への処分に同意しますか?』
『【推奨】:承認』
ルエリアの網膜に、高位権限の名残である「承認ボタン」のウィンドウがポップアップする。
彼女の承認がなくても処分は実行される。これはただ、高位天使としてシステムの判断に賛同したかを記録するための表示だった。
かつての彼女なら、一瞬の躊躇もなく「承認」を選び、それ以上考える必要などないと思っていただろう。
だが、ルエリアは震える指先を伸ばした。
そして、承認ボタンではなく、その半透明のウィンドウ自体を強く、払うようにして閉じた。
『【警告】:推奨処理への不同意を確認』
『【記録】:判断逸脱を保存します』
(……あ。私、今度は承認しなかった)
システムの提示する「正解」を、自分の意志で拒絶した。胸の奥に残っていた砂粒のような違和感が、初めて確かな体温を帯びた。
「――おい、その辺にしておけ」
隣にいたレグナスが、機械天使へ声をかけた。
「……レグナス?」
機械天使の視覚装置がレグナスを捉える。
『【照合】:市民認証なし』
『【判定】:現時点での直接的脅威なし』
『【優先】:規定違反個体の移送を継続します』
機械天使は赤い明滅を繰り返しながら、そのまま二人を連行しようとする。
「そいつら、何した」
『【回答】:非公式な身体接触を確認』
『【処置】:規範逸脱個体への再教育を実施します』
「飯も寝床も貰える代わりに、誰かと手を繋ぐことも許されんのか。なるほどな」
「ちょっとやめなさいよ。騒ぎを起こしたら、今すぐ確保部隊が来るわ」
ルエリアが小声で止める。
「望むなら、余がその拘束を外すが」
レグナスが踏み出そうとすると、青年は怯えたように首を振った。
「やめてください! 逆らえば、本当にこの街から追放されてしまう……! 僕たちは……ちゃんと反省します。システムの指示に従いますから……お願いです、放っておいてください!」
「そうです! 天使様は間違えませんから……! 私たちはちゃんと従います、だから……お願いします、どうかこの街にいさせてください……!」
女性も必死に機械天使へ懇願する。
二人が求めているのは救出ではない。システムから再び「正しい」と認められることなのだ。
レグナスは二人をじっと見つめ、何かを言いかけ、口を閉ざした。
「……そうか。なら、余が口を挟むことではないな」
くるりと背を向ける。
そのまま、歩み去っていく。
連行される二人。それを見送る周囲の冷たい、無関心な視線。
承認はしなかった。
けれど、止めることもできなかった。
ルエリアの胸が、ぎゅっと締め付けられる。
(これが、“正しい世界”。誰も逆らわない、誰も疑わない……)
なのに、息が詰まる。
レグナスの背を追い、ルエリアは声を上げた。
「ちょっと待ちなさいよ!」
足を止めたレグナスが振り返る。だが、その表情にはどこか割り切れないものが残っていた。
二人はそのまま、近くのベンチに腰を下ろした。
街を歩き回るうちに、いつしか陽は大きく傾いていた。
「……どうして、あそこで引き下がったの?」
レグナスは少し考えるように視線を落とした。
「本人たちが望んでおらぬのに、余の正しさで連れ出すのは違うと思ったのだ」
レグナスは、二人が連行されていった方角へ視線を向けた。
「他人の想いとは、分からぬものだな。余はいつも、自分が正しいと信じすぎていたのかもしれん」
「……珍しいわね。あんたがそんなことで悩むなんて」
「余とて、悩みくらいある」
「たとえば?」
レグナスはしばらく黙り込み、やがて観念したように口を開いた。
「実はな――余がこの街に留まっていた理由は、衣食住だけではないのじゃ」
「へぇ?」
ルエリアが首を傾げる。
レグナスは少しだけ視線を逸らし、珍しく困ったように頬を赤くした。
「毎朝、公園を散歩している女性がいてな」
「それで?」
「最近、その者がおらぬ日があると、妙に落ち着かぬのだ」
「……」
「これは何なのだ?」
ルエリアは目を丸くしたあと、わずかに口元を緩めた。
「……それ、恋じゃない?」
「なっ……!?」
レグナスは顔を真っ赤にして絶句した。
二人の間に、短い沈黙と柔らかな空気が流れる。
夕陽が、白い街を淡く染めていく。
正解か、不正解か。そんな二択ばかり考えていたはずなのに。
今は少しだけ、目の前の、不器用で人間らしい騎士の恋の続きを聞いてみたいと思った。
──第七話・終。




