第八話:『騎士の選択』
「こ、恋……?」
レグナスは、自分には縁遠かった言葉を確かめるように呟き、頬を赤くしたまま腕を組んだ。
「だが、余はその者と会釈を交わしたことしかないぞ」
「毎朝探して、いなかったら落ち着かないんでしょ?」
「うむ……」
「だったら、少なくとも気になってるのは間違いないじゃない」
レグナスは神妙な顔でしばらく考え込み、やがて小さく頷いた。
「なるほど……これが恋というものか」
「たぶんね」
ルエリアが答えると、レグナスはさらに難しい顔になった。
「しかし、困ったな」
「何がよ?」
「余は女性と恋仲になったことがない。この想いを、どう扱えばよいのか分からぬのじゃ」
(……なにこれ。普通に真面目なやつじゃない)
ルエリアは拍子抜けしながらも、勢いよくカバンを漁った。
「たしかここに――あった!」
取り出したのは一冊の分厚い冊子。
『男女の接触と言動の注意 完全マニュアル――その行動、本当に大丈夫ですか?』
「これ貸してあげる。マニュアル通りにやれば確実よ」
「そ、そうか……感謝する」
レグナスは少し戸惑いながら受け取った。だが、すぐにその表情が曇る。
「……だが、余は決めておる。想いは伝えず、この街を出ようとな」
「なんでよ?」
相手の同意も得ずに想いを告げ、感情へ一方的に踏み込むことは、この街では重大な規範違反だ。
本来なら、黙って街を去るというレグナスの判断は正しいはずだった。
それなのにルエリアは、彼が何を恐れ、何を迷っているのか――その続きを聞いてみたいと思っていた。
「格好いい理由ではないぞ」
レグナスは少しだけ視線を逸らした。
「……恥ずかしいのじゃ」
「それに」と静かに続ける。
「仮に想いをそのまま伝えたとしても、この街ではルール違反。減点じゃろう。彼女に迷惑はかけられん」
ルエリアは言葉を失った。
(……なにそれ。ちゃんと、相手のこと考えてるじゃない)
「余はな」レグナスは少しだけ、自嘲するように笑った。
「他人には正しいと思うことを押し付けるくせに、否定されると感情的になる。この世界に来てから……それに気づいた。元の世界でも同じじゃ。上の者には何も言えず、下には偉そうにしておった。……小さい男よ」
ルエリアは、静かにそれを聞いていた。
(……なんだ、こいつ。ちゃんと、自分で考えて、分かってんじゃない)
「……いいんじゃないかな」
自然と、言葉が出た。
「なにがだ?」
「想い、伝えても」
レグナスが目を見開く。
「私も協力するわ」
ルエリアは少しだけ笑った。
「本当の気持ち、伝えなさいよ。正しいかどうかなんて分からないけど、今のあんた、ちょっと寂しそうだし。それに……」
少しだけ照れくさそうに、視線を落とす。
「実は私……変わろうとしてるの。だからレグナスだって変わりなさいよ」
沈黙。
やがて、レグナスがゆっくりと立ち上がった。その顔には、もう迷いがなかった。
「……ありがとう、ルエリア。よし、想いを伝える」
「そうよ」ルエリアも立ち上がり、少しだけ誇らしげに胸を張った。
「ちゃんと伝えなさい。本当の気持ち、伝えたいことを教えて。私が最後にアドバイスしてあげる」
自分の中の知識を総動員して、迷える騎士を導こうとするその顔は、ほんの少し熱を帯びている。
対するレグナスは、静かに目を閉じた。
やがて覚悟を決めたように目を開き、真っ直ぐにルエリアを見つめる。
その眼差しは、救国を誓う騎士のごとき威厳に満ちていた。
彼は深く息を吸い込み、聖剣を抜く時のような重厚な声で宣言した。
「ルエリア」
「うん」
「余は――」
短い静寂。
「彼女のおっぱいを触りたい」
一瞬、世界の音が消えた。
「……は?」
思考停止するルエリアを余所に、レグナスは聖剣を掲げるような厳粛さで熱弁を始めた。
「ルエリア、貴様はこの街の人間を見て何も感じぬのか!? 配給された飯を食い、決められた時間に眠り、エラーを恐れて心を殺して歩く……。そこには『熱』がない! 命の拍動が聞こえぬのだ!」
「は? ちょっと――」
「だが、おっぱいは違う!」
レグナスの瞳に、かつての戦場を思い出すような鋭い光が宿る。
「あれは……この死んだような街に唯一残された『生命の輝き』なのだ! 柔らかさ、温もり、そしてあの抗いがたい曲線……。あれこそが、理屈や効率を超えて、余に『生きている』と実感させる! オリハルコンの剣やミスリルの盾など、所詮は無機質な鉄の塊。だが、彼女の胸に装備されたあの輝きには、どんな名剣すら及ばぬ魂の熱量が宿っているのだ!!」
「な、何言ってんのあんた――!?」
「一度でいい。余はこの偽りの平穏を脱ぎ捨て、あの圧倒的な『生』の象徴に、魂ごと触れてみたいのだ! ルエリア、これが余の……騎士としての、いや、一人の『男』としての真実の誓いだ!」
「…………」
ルエリアは、レグナスの手から『完全マニュアル』をひったくって握りつぶしたい衝動に駆られた。高鳴っていた鼓動は、別の意味で限界を迎えようとしている。
「ルエリア、ありがとう! ようやく気付いた。本音を伝える喜びを!」
晴れやかな顔のレグナスには、一切の迷いがない。
「この時間なら彼女は公園にいるはずじゃ。早速、この想いを伝えてくる!」
「レグナス待ちなさい! ダメ、行かないで!!」
ルエリアの絶叫が虚しく響く中、騎士(の格好をした変態)は、この世の「正解」をすべて踏みにじるような足取りで、猛然と走り去っていった。
◇ ◇ ◇
数分後。静寂を愛するはずの公園に、騎士の咆哮が響き渡った。
「余は――貴様のことが好きだ!」
公園にいた人々が、一斉に動きを止める。
「……貴様の、その……おっぱいに触れてみたいと思ったのだ!」
空気が、物理的に凍りついた。
「……は? ……え、何? 気持ち悪い。……やだ、こっち見ないで。衛兵! 天使様! 誰かこの変態を排除して!!」
告白された女性は、汚物を見るような目で顔を引きつらせて絶叫した。周囲の住民たちからも、一斉に冷酷な軽蔑の視線が突き刺さる。
『【警告】:極めて不適切なハラスメント発言、および公序良俗に反する言動を検知』
空から、数体の機械天使が音もなく降り立った。
「いや、余が本音を――」
『【判定】:対象および関係者を不適合者として拘束。再教育施設へ連行します』
「はあ!? なぜ彼女まで! 余が触りたいと言っただけであろう!」
その時、生い茂る木々の影からルエリアが飛び出した。
「待ちなさい! 彼女は本当に関係ないでしょ!」
『【警告】:干渉行為を検知。追加対象:天使ルエリア・セラフィナ』
「はぁ!? なんで私まで対象になるのよ! だからマニュアル通りにやればよかったのよ、この馬鹿騎士!!」
押し問答になりかけた、その時だった。
「――そこまでにしておきなさい」
ルエリアたちを取り囲んでいた機械天使たちが一斉に動作を停止し、無機質なレンズの光を消す。
『【停止】:上位権限を確認。スリープモードへ移行します』
道の奥から、一人の天使が静かに歩いてくる。その姿を見た瞬間、ルエリアの目が見開かれた。
「……先生」
恩師――かつてルエリアに天使としての「正解」を説いたその人は、乱れた現場を冷徹に見つめていた。
「逃げなさい、ルエリア」
静かな、しかし抗えない響きを持つ声。
「先生、私は……これは、その……彼が変なことを言い出して、私は止めようと……!」
必死に「正解」を並べ立てて弁明しようとするルエリアに、先生は静かに歩み寄り、その頬を優しく撫でた。
「ルエリア。あなたはかつて、私が教えた言葉を覚えているかしら」
「え……?」
「『正解に従いなさい。けれど、考えることまで手放してはいけない』」
先生の瞳に、かすかな哀しみと期待が混ざる。
「今のあなたは、ちゃんと自分で考えて、悩み、苦しんでいる。……この街にいれば、あなたはもう一度、自分の迷いを間違いだと思い込もうとするでしょう」
「先生……!」
「外を見てきなさい。正解ではなく、“自分で選んだ答え”を知るために。それでも戻りたいと思うなら――その時は、システムの数字ではなく、自分の意志で私の前に立ちなさい」
先生が指先をかすかに動かした。
「さようなら、私の可愛いエラー」
次の瞬間、視界が真っ白な光に弾かれた。
気づけば、ルエリアとレグナスは、高い城壁に守られた白い街の外、荒涼とした大地の上に立っていた。
吹き抜ける荒野の風が、ルエリアの短い髪を揺らす。
あまりに一瞬の出来事に、彼女は呆然と自分の両手を見つめた。
「……追い出された、のね。私」
システムの警告音も、白いガイド文字もここにはない。
本当に、あの「完璧な檻」から切り離されてしまったのだ。
「……ふむ。あの御仁、ただ者ではないな。余が動こうとした瞬間には、すでに先手を取られておった」
隣で、レグナスが感心したように顎をさすっている。相変わらずのマイペースぶりに、ルエリアの額に青筋が浮かんだ。
「感心してる場合じゃないでしょ!! そもそもあんたが! 公園の真ん中で! 最低最悪の変態告白なんてするから――っ!!」
「何を言う! ルエリア、余は貴様の『本当の気持ちを伝えろ』という助言に、騎士の誇りを賭けて実直に従ったまでだ!」
「おっぱいのどこに誇りがあるのよこの大馬鹿ーーーっ!!」
ルエリアの絶叫が、遮るもののない荒野に虚しく響き渡る。
ひとしきり怒鳴り散らし、はぁはぁと肩で息を切らせたルエリアは、やがて力なく地面に座り込んだ。
見上げる城壁は、あまりにも高くて冷たい。
本当に、もう戻れない。戻る場所を失くしてしまった。
「……はぁ。これから、どうすんのよ……」
膝を抱え、ぽつりとこぼした弱音。
ふと顔を上げると、レグナスが先ほど渡した『完全マニュアル』を、律儀に懐へ収めていた。
「どうするも何も、行く先など一つしかなかろう」
レグナスは不敵に笑い、白い街に背を向けて歩き出す。
「余の『生』の輝きを探す旅じゃ。……付いてくるのであろう? 相棒」
「……誰が相棒よ」
ルエリアは唇を尖らせながらも、ゆっくりと立ち上がった。
振り返ったその先、地平線の向こうには、あの気だるげな男が待つ、古寺のある街が広がっている。
「……そのマニュアル、もう要らないでしょ。……バカ騎士」
小さく毒づきながら、ルエリアは自分の足で、荒涼とした大地を一歩踏み出した。
◇ ◇ ◇
◆ 聖域・高位議事堂
「……報告を」
音のない白い空間。玉座に座す高位天使たちの視線が、中央に立つ一人の天使に注がれる。
「対象ルエリア・セラフィナ、および剣士個体レグナスを都市外へ排出しました」
ルエリアの恩師は、静かに頭を下げた。
「理由は」
「完成のためです。彼女は、想定以上の“揺らぎ”を持っている。管理されたこの都市では、もはや彼女の真価は測定できません。ゆえに――外部環境にて、経過観察を行います」
「剣士の方はどうする」
「問題ありません。むしろ、都市内に置く方が均衡を崩す要因となります。『本能』を隠せぬ異質は、システムの正解を汚しますから」
冷徹な論理の中に、わずかな熱が含まれていた。
「……承認」
議場が閉鎖され、一人残された恩師がわずかに口角を上げた。
「これでいい。あとはあなた次第よ、ルエリア」
◇ ◇ ◇
その頃――街外れの、崩れかけた古寺。
軋む賽銭箱の上に、ひとりの男が寝転がっていた。
「……またやってる」
片目だけを開ける。視線は、遠く白い街の中心へ。
普通の人間には見えない距離。だが、ゼンの視界には、街から光と共に弾き出された二人の姿がはっきりと映っていた。
「キュ……」
神棚の上で、ケンイチが心配そうに小さく鳴いた。
「分かってる。まだ動かねぇよ」
気だるげに答えながら、ゼンは腕を枕にしたまま呟く。
「……あの街、ほんと分かりやすいよな。飯も寝床もタダで、感情は禁止。そりゃあ平和だわな。死人みたいに静かで」
最適化。管理。排除。全部、“正しい形”に揃えられている。
だからこそ――
「ズレたやつは、すぐ分かる」
視線を、遠くの大地に投げ出されたルエリアへと固定する。
「檻から出された鳥は、最初は飛べねぇ」
助ける気はない。介入する理由もない。本来なら。
「……めんどくせぇ」
小さく吐き捨てる。だがその目は、決して逸らさなかった。
まるで、これから始まる物語のすべてを、見届けるかのように。
──第八話・終。




