第九話:『不自由という名の自由な一杯』
ルエリアとレグナスは、かつてゼンと出会った街へと戻ってきた。
管理社会の象徴である高い城壁を背に、レグナスが不敵に笑って問いかける。
「自由になったな。さて、どうするか?」
ルエリアは、その問いに言葉を詰まらせた。
(自由……。自由って、何をすればいいの?)
食事の時間も、推奨される睡眠時間も、すべては自己決定。あの角を曲がるべきか、この路地を行くべきか、その一歩にさえ「正解」のナビゲーションは表示されない。
『【最適】:到達点の街へ戻り、再接続を申請しましょう』
(うるさいわよ……!)
脳内にこびりつくシステムの残響を、ルエリアは無理やり思考の隅へ追いやった。
「まずは飯と寝床じゃな」
レグナスが不安げなルエリアの横顔を見て、少し声を和らげる。
「しばらく行動を共にせんか? 余もまだこの世界のことは詳しく知らんし、ルエリアも外の世界には疎かろ」
その提案に、ルエリアは内心で深く安堵した。だが、それを悟られないよう、いつもの高飛車な態度を取り繕う。
「……そうね。まあ、いいわよ!」
「まずは食料だが、獲物を探そう。獲物を狩れば食料にもなるし、店で買い取ってもらえる。労働で対価を得るのもいいが、余は子供だし、ルエリアに……労働はのぅ」
「なんですって? 私は高位天使よ。ソディウスでは天才と言われていたんだから、労働くらい完璧にこなせるわ!」
「……そうか? なら、ちょうどあの酒場で清掃の仕事を募集しておる。話はつけてやるから頼むぞ。余は狩りの準備をしてくる。わずかだが金銭はあるのでな」
「任せなさい!」
「うむ。では四時間後にここでな」
自信満々に背を向けるルエリア。レグナスはその小さな背中を見送りながら、不安そうに呟いた。
「……大丈夫か、あれ」
三時間後。
予定より少し早めに、準備を終えたレグナスが待ち合わせ場所に戻った。
広場の噴水の前に、ポツンと座り込んでいる人影がある。
レグナスは嫌な予感がしたが、あえて何も聞かずに声をかけた。
「……狩りに行くか?」
ルエリアは顔を上げず、消え入りそうな声で絞り出した。
「……も、問題ないわ」
(マニュアルのない清掃など、何をどこまでやればいいのか全く分からず、『指示書を出せ』と要求して開始五分で追い出されたなど、死んでも言えないわ……!)
二人は狩りをしながら、古寺へ向かおうとした。
だが、記憶通りの道を何度辿っても、なぜか同じ広場へ戻ってきてしまう。
そうして数時間、あてもなく歩き続けた。
ルエリアは「空腹」という感覚を知らなかった。それは一種の“異常”に思えた。体が重く、力が入らない。思考が鈍っていく。
「これ、何……?」
ぽつりと漏れた呟きに、レグナスが顔を向けた。
「空腹じゃ。食わないとこうなる。だが……」
レグナスが落ちていた石を拾う。前方の草むらに、小さく素早い獣の影があった。
しかし、何度も石を投げても、獣にはかすりもしない。
「くそっ……! なぜ当たらん……っ」
ルエリアの顔色は真っ白だった。目の前の少女一人守れない現状に、騎士は歯噛みする。
ふと、ルエリアは古寺でゼンが吐き捨てた言葉を思い出した。
『効率的な考えしかできない奴に、この場所は見つけられないからな』
(……効率的、じゃない考え……)
ルエリアは網膜のナビゲーターの電源を、脳内で完全にシャットダウンした。
「あっちよ。……たぶん。根拠はないけど、風がそっちから吹いてる気がする。今は、一番間違ってると思う方へ行くわ」
瓦礫の影。崩れかけた壁の向こう側。
焚き火のそばで、退屈そうに木の枝で地面を削っているゼンがいた。
「……あー。またお前らか。どうしたそんなにボロボロで、哀れじゃねーか」
心底どうでもよさそうな声。
「“また”で済ませるな。こっちは空腹で機能停止寸前なのだぞ」
レグナスが眉をひそめるが、ゼンは「知るかよ。勝手に腹減ってるだけだろ」と興味なさげに視線を外した。
「で、どうする。このままフラフラ歩いても、何も出てこねぇぞ」
ゼンの問いに、レグナスが問う。
「……なら、どうするべきだ」
「狩る。それだけだ」
ゼンは一度言葉を切り、視線をルエリアへ向けた。
「……なぁ、ルエリア。自由ってのはどうだ? 想像してたよりずっと、不自由だろ。多くの不自由と戦って、泥まみれになって、それでようやく得られるのは……ほんの少しの『自由』だ。そのちっぽけな自由の味を、今から味わいに行くか?」
ルエリアは唇を噛んだ。
「……何それ。そんなの、コストパフォーマンスが悪すぎるじゃない。わざわざ苦労して、得られるものが『ほんの少し』なんて……」
「その『正解』にズレを感じて、お前はあそこから出てきたんだろ?」
ゼンが薄く笑う。
「……っ。それは……!」
「いいじゃないか、ルエリア!」レグナスが割って入る。「余もその『自由の味』とやらに興味がある。そんなちっぽけな計算に収まるほど、余の魂は安くないぞ!」
「……もう、どいつもこいつも非論理的ね。分かったわよ。そこまで言うなら、私が正しく評価してあげるわ」
「じゃ、裏の森にちょうどいいのがいるぞ。勝手にどうぞ」
ゼンは再び地面を削り始めた。付いてくる気はさらさらないらしい。
「行くぞ、ルエリア!」
「ちょっと、あの男、本当に案内すらしない気ね……っ!」
古寺の裏の森。
先ほど取り逃がした獣が、草むらの奥から顔を覗かせた。
レグナスが踏み込む。だが、やはり子供の体では一歩遅い。
(逃げられる――!)そう思った瞬間だった。
ルエリアが無意識に手を伸ばす。
(止まれ……っ!)
高位天使の能力。空気がわずかに歪み、獣の動きが一瞬だけ鈍る。
「そこじゃ!」
石は獣の後ろ脚に直撃した。
バランスを崩した獣へ、レグナスが飛び込み、渾身の一撃を叩き込む。
「やった……やったわよレグナス!」
獣が動かなくなった瞬間、ルエリアの歓声が喉の奥で止まった。
自分たちが生きるために、目の前の命を止めた。
管理された食事には存在しなかった重さだった。
「うむ! 貴様の援護、見事であったぞ!」
二人は慣れない手つきで獣を抱え、必死にゼンのいる焚き火へと持ち帰った。
ゼンは持ち込まれた獲物を見て、億劫そうにナイフを抜く。
「へえ、本当に狩ったのか。……じゃ、解体だけはやってやるよ。お前らがやると肉が腐る」
ルエリアはそのやり取りを眺めていたが、不意に視界が揺れ、ふらついた。
足がもつれ、地面に手をつく。
「おい」
レグナスが駆け寄った。
「大丈夫か」
「……平気」
即答したものの、声は弱々しい。
ゼンがゆっくりと立ち上がり、近づいてきた。
「腹減ってるだけだ」
「……そう」
理解はできないまま、ルエリアは頷いた。
解体された剥き出しの赤身の肉から漂ってくる、野蛮な生の匂い。
美しくパッケージされた無菌の食事しか知らなかったルエリアにとって、それはおぞましいはずの光景だった。だが、その匂いは暴力的と言えるほど強烈に彼女の脳を刺激した。
ルエリアの腹が、小さく、けれどはっきりと鳴った。
「……今の」
「腹だな」
「……そう」
一拍遅れて意味を理解する。
「……っ」
ルエリアは耳まで真っ赤にして腹を押さえた。
その時、瓦礫の隙間から、痩せこけた住民の影がじっと肉を凝視しているのに気づいた。
ルエリアが反射的に肉の塊を手に一歩近づくと、ゼンの静かな声が刺さる。
「そいつにやったら、お前らの分がなくなるぞ。ここはそういう場所だ。正解なんてねぇよ」
ルエリアの足が止まる。少しだけ考え、自分に言い訳をするように呟いた。
「……お腹が鳴る音って、聞いてると……なんか落ち着かないのよ」
そして、ずっしりと重い命の塊を、迷わずその影へと差し出した。
影は震える手で肉を受け取り、闇の奥へ消えていった。
直後、ルエリアの腹がさっきより大きな音で鳴り響き、レグナスのお腹も盛大に轟いた。
ゼンが呆れたようにナイフを収める。
「はぁ……何やってんだか。おい、最強。もう一匹行くぞ。じゃねぇと、そこの天使が飢え死にする」
「ふっ。当然だ!」
俄然、目を輝かせるレグナス。ルエリアは、手のひらに残るかすかな生肉の温もりを見つめた後、どこかスッキリした顔で二人の背中を追いかけた。
仕留めた数匹の獣を担ぎ、三人は夜の街の端にある古びた屋台へとたどり着いた。
屋台の店主は、差し出された獲物を見るなり、驚きと喜びで顔を綻ばせた。
「助かるよ! この辺りじゃ肉の仕入れもままならなくてな。この値段でよければ、買い取らせてもらえないか?」
店主が提示した額を見て、ルエリアが即座に口を挟んだ。
「待って。その金額、安すぎない? ……これなら、明日の朝まで待って正規の買取店に行けば、少なくとも倍の値段で売れるわ。今ここで売却するのは、取引としてあまりに非効率だわ」
論理的な正論を突きつけるルエリアを、ゼンは眠たげな目で見下ろした。
「明日までこいつを担いで歩くのか? 面倒くせぇ。ここでいいだろ」
「面倒とかそういう問題じゃないわ! 資産運用としてあまりに非効率だって言ってるのよ」
「よいではないか、ルエリア。店主も助かると言っておる」
レグナスは腹を押さえ、豪快に笑った。
「それに余はもう限界じゃ! 明日まで空腹に耐えるなど、御免被る!」
「もう……! あなたたち、少しは計画性を持ちなさいよ!」
頬を膨らませて怒るルエリア。そんな彼女の様子を見て、店主は申し訳なさそうに、けれど温かく笑った。
「お嬢ちゃん、そう怒らないでくれ。安く譲ってもらったお礼に、うちの特製を三人に振る舞うよ。……金はいらない。とっておきだ」
屋台のカウンターに、並々と注がれた三杯のラーメンが置かれた。
ルエリアはその丼を見て、絶句した。
「……何、これ。こんな時間にこんなもの食べたら、ソディウスじゃ一発で減点よ」
「理屈はいいから食えよ。伸びるぞ」
ゼンはさっさと箸を割り、湯気の立つ麺を啜り始めた。
「むおっ! これは……体に染み渡る味じゃな! 余は、感動したぞ!」レグナスが豪快にスープを飲み干す。
ルエリアは躊躇いながらも、抗いがたい匂いに負け、麺を口に運んだ。
「――っ」
脳を突き抜けるような、濃密な塩気と脂の旨味。
栄養も健康も完璧に管理されたパウチ食では絶対に味わえない、不健康で、非効率で、けれど強烈な「生命」の味だった。
最後の一滴までスープを飲み干したルエリアは、空になった丼を見つめたまま、しばらく動けなかった。
「……で。どうだ、ルエリア」
隣で早々に完食していたゼンが、意地悪く口角を上げる。
「さっき言っただろ。不自由と戦って、泥まみれになって、ようやく手に入れた『ほんの少しの自由』……その味は、お前の言うコスパに見合うもんだったか?」
ルエリアはハッとして、ゼンを見返す。
数時間前、彼に突きつけられた問い。あの時は「非効率だ」と撥ねつけたはずの言葉が、今の胃の腑に溜まった熱い満足感と結びついていく。
「……最悪よ」
ルエリアは顔を赤くし、ぷいっと視線を逸らした。
「喉は渇くし、服は汚れるし、夜中にこんなものを食べるなんて健康管理の観点からも論外だわ。コストも時間も、何一つ計算が合わない」
「ははっ! 相変わらず頑固じゃな、ルエリア!」
レグナスが愉快そうに笑い、店主からお代わりを受け取る。
「だが、その『計算が合わん』という感覚こそが、心が動いておる証拠よ。余も、この一杯のために戦ったと思えば、今のこの不自由もそう悪くないと思えてくるわ!」
ルエリアは、湯気で少し潤んだ瞳で、再び自分の空の器を見つめた。
正規の買取店に行けば倍の値段で売れたはずの獲物。その差額を捨てて手に入れたのは、たった一杯の、雑で、不健康で、けれど最高に熱いラーメン。
「……計算は、狂いっぱなしだけど」
ルエリアは小さく、けれど確かな声で言った。
「……でも。この味を知らないまま、あそこでずっと『正解』を食べているよりは……少しだけ、マシかもしれないわ」
その言葉を聞いて、ゼンは満足げに目を細めた。
「……だろ」
三人は、夜の風が吹き抜ける屋台を後にした。
ルエリアの視界では、【未接続】の文字がまだ消えずに点滅している。
それを見るたび、胸の奥には小さな不安が戻ってきた。
けれど、胃の中には、それ以上に確かな熱が残っていた。
正しい時間でも、正しい栄養でも、正しい値段でもない。
自分たちで選び、手に入れた一杯。
「……明日も、あれ食べられるかしら」
「金があればな」
「だったら、また狩ればよい!」
レグナスの笑い声が、雑で不自由な夜空へ響いた。
ルエリアは呆れたように息を吐きながら、その足取りを少しだけ速めた。
空は相変わらず雑で、不自由だった。
けれどその下で味わった「自由」は、どんな最適解よりも鮮烈だった。
──第九話・終。




