第十話:『勇者の条件』
古寺の冷たい空気の中に、こんにゃくの焼ける香ばしい匂いが漂う。
狩りを終え、三人は一時的にゼンの隠れ家――古びた寺へと身を寄せていた。
縁側の柱に刻まれた無数の傷跡は、かつてこの寺に多くの人々が集っていた名残だった。
「そういえば、あなたはここで普段何をしてるの?」
ルエリアの問いに、ゼンは串に刺さったこんにゃくを無造作にかじりながら答えた。
「問答やって暇つぶしてた」
ゼンは口の中のこんにゃくを飲み込み、面倒そうに続ける。
「……何が正しいか、答えを欲しがる奴が多すぎるんだよ」
「え? 導いてあげていたの?」
「まさか。俺が何を言っても、奴らは勝手に解釈して、勝手に満足して帰るだけだ。他人の答えを自分の答えだと思い込んで、そのまま死ぬまで走れる。幸せなこった」
「最低ね」
ルエリアが眉をひそめると、ゼンは冷めた目で彼女を見返した。
「天使様だって同じだろ。くだらない集会で中身のない話をしても、人間どもは何かを得た気になって満足してる。……他人の話なんて、穴の開いた靴下程度の価値しかねぇってのにな」
「本当に、憎たらしい男……」
ゼンは少し笑みを浮かべる。
「でも実際に決めるのは、自分だ。そこに気づきもしない」
ルエリアは腕を組み、ふんとそっぽを向いた。
「どうしてこんなにズレてるのかしら……」
「問答も暇つぶしも結構だが、ルエリアはこの後どうするのだ?」
レグナスが身を乗り出して尋ねる。
「まさか、狩りをしてラーメンを食べるためだけに街を飛び出してきたわけでもあるまい」
ルエリアは少しだけ視線を落とした。ここ数日で見た光景が、次々と脳裏をよぎる。
白く整えられた街。点数で価値を決められる人々。
正しいとされるものだけが残り、少しでもはみ出せば排除される世界。
そして――自分で選び、苦労して手に入れた、あの一杯のラーメン。
「……世界を見たい。いろんな街。いろんな人。いろんな考え。楽しそうに生きている人も、苦しんでいる人も。天使も、悪魔も、人間も……。そこで出会って、見て、感じたことを……全部、自分のものにしたいの」
ランタンの火が、彼女の瞳の中で小さく揺れる。レグナスの顔が、ぱっと明るくなった。
「旅か!」
大きな声が寺に響いた。
「素晴らしいではないか!」
ルエリアは少し照れくさそうに視線をそらす。
「まだ決めたばかりよ」
「決めたことに意味がある!」
レグナスは満面の笑みで拳を握った。
「余も同行しよう!」
「勝手に決めないで」
「もう決まった!」
縁側に寝転がったままのゼンが、片手をひらひらと振った。
「気をつけろよ」
あまりにもやる気のない見送りに、ルエリアが呆れ顔を見せた、その時だった。
「ゼンーーー! 遊びに来てやったぞ!」
「「「きたぞーー!」」」
トラ柄のペンギン・ケンイチに案内され、ココを先頭にした数人の子供たちが境内に雪崩れ込んできた。静かだった古寺が一気に騒がしくなる。
ココの腰には、不格好な手作りの木彫りの人形が大切そうにぶら下がっていた。
「ココ、また来たのか。お前らもゾロゾロと……」
ゼンが呆れたように頭をかくと、ココは胸を張って得意げに笑った。
「へへっ、今日はちゃんと気をつけてたんだよ!」
「何をだ?」
「点数だよ。最近けっこう減ってきちゃってるからさ。もうあんまり余計なことしないようにしようって思ってたんだ」
ルエリアはほっとしたようにうなずく。
「それが賢明よ」
だがココは、少し照れくさそうに鼻の頭をこすった。
「でもさ、困ってる人を見ると、なんか放っておけないんだよね。今日もさ、おじいちゃんの荷物持ってあげたら、また点数引かれちゃったよ!」
ココの報告に、ルエリアの顔色が瞬時に変わる。
「また!?」
だがココはまったく気にしていない。
「おじいちゃん、ちょっと嬉しそうだったんだ。だから、なんか俺も嬉しくなってさ。すごく気分がいいんだ」
レグナスは感動したように両腕を広げた。
「手助けをして気分がいいとは……なんと人間らしい言葉だ!」
ココは照れくさそうに頭をかいた。「へへっ」
ルエリアは慌ててココの前にしゃがみ込んだ。
「ちょっと、また点数を引かれたって……あなた、点数がゼロになったら拘束されるのよ?」
ココはまったく怯える様子もなく、にっと笑った。
「知ってるよ。前にゼンが教えてくれたんだ。『俺の正解は俺の中にある』って。だから、俺はこれでいいんだ!」
口元を緩めるゼンに、ルエリアは「いい加減なことを……」と深いため息をついた。
「ねえ! みんなで花いちもんめしよう!」
「……花いちもんめ?」
ココは大切そうに木彫りの人形を縁側へ置き、ルエリアとレグナスを引っ張った。「あっち向いてホイ」さえ知らない二人は、その非効率そうな遊びに首を傾げた。
「戦術競技の一種か?」
「違うよ!」
「人を奪い合って何が楽しいのよ?」
「ふむ、歌による心理戦、人数管理、交渉、そして最終的には腕力勝負……。奥が深そうではないか!」
寺の境内で、奇妙な競技が始まった。「あの子が欲しい」「あの子じゃわからん」。歌って、笑って、手を引いて、転んで。
「勝った! 誰を指名しようかしら!」と息を切らしながら走り回るルエリア。
「ぬわあああ! 負けた! 悔しい、もう一回だ!」と本気で悔しがるレグナス。
ゼンはそんな二人を眺めて、珍しく腹を抱えて笑っていた。
結果、古寺の庭はカオスと化したが、遊び終えるころには、空はすっかり茜色に染まっていた。
ココが額の汗をぬぐいながら言う。
「そろそろ帰るよ」
ゼンは立ち上がり、大きく伸びをした。
「ちょうど買い出しにも行くところだ。ついでに送っていくか」
ルエリアとレグナスも当然のようについてくる。
「旅に出る前の最後の護衛だな!」
四人と一匹は並んで市場へ向かった。夕方の通りには、仕事を終えた人々が静かに行き交っている。市場の入口に着くと、ココは振り返って手を振った。
「じゃあね!」
「また遊ぶぞ!」
「今度こそ余が勝つ!」
「そんなに悔しかったのね……」
ゼンたちと別れ、ココが市場の奥へ歩き出してしばらくした頃だった。
「……あっ!」
道端で老人が荷物を落とし、困っているのが目に入った。
ココは迷うことなく、その老人のもとへ駆け寄った。
彼が荷物を拾い上げた瞬間――上空から無機質な機械声が響いた。
『【警告】:未承認の善行行為を検知。個体識別番号C-0-0-7、評価点数を一ポイント減算。残存評価点数、ゼロ。拘束命令を発行します』
白い翼を持つ機械天使が降下してくる。
光の輪がココの手首へ伸びた。
ココは腕を引き、必死にそれを振り払った。老人の前から退かないまま、小さな拳を強く握りしめた。
「間違ってない……!」
ココは唇を噛み締めた。
(怖い……体が動かない)
(……正しいってなんだっけ?)
『【警告】:拘束命令への継続拒否を確認』
『【再判定】:修正不能個体。消去処理へ移行します』
機械天使が突進し、抵抗するココを強く弾き飛ばした。
小さな身体が石畳を転がり、肘と額から血が滲む。
ココは震える腕で石畳を押し、何度もよろめきながら必死に立ち上がった。
涙が頬を伝い、震える声が漏れる。
「痛い! 怖い! 誰か助けて……正しいこと、しただけなのに……なんで?」
「……正しく、なかったの?」
「俺が間違ってたから……消されるの?」
ココは震える膝で立ったまま、静かに目を閉じた。まるで、生きることを諦めるかのように。
その時、ココの脳裏にある言葉がこだまする。
(俺の正解は、俺の中にある)
(そうだ。俺の正解は――俺が決める!)
ココはカッと目を開き、機械天使を睨んで大きな声で言い放った。
「俺は間違ってない! 怖いけど……お前の言うことなんか信じない! 俺の正解は、俺が決めるんだ! 俺が負けても、俺の勝ちだ!」
上空の機械天使が、消去を執行するために容赦なく光の槍を構えた。
その先端に、消去の白い光が収束する。
もはやこれまでと思ったその時。
「危ない!」
騒ぎを聞きつけ、真っ先に駆け戻ってきたレグナスが、間一髪でココを突き飛ばし、自らの背中でその一撃を受け止めた。背中から激しく血が噴き、膝が石畳へ落ちる。
レグナスは、口元から血をこぼしながら、ココを背に庇ったまま立ち上がった。
その声には怒りが満ちている。
「貴様――この者が何をした!」
怒気が大気を震わせる。
「自分の正しさを貫くことが、どれほど恐ろしいか貴様らに分かるか! 間違っているかもしれぬ、笑われるかもしれぬ、誰も助けてくれないかもしれぬ! それでも、この子は立ち向かった!」
レグナスは拳を握り締め、機械天使を真っ向から睨み返した。
「自分より遥かに大きなものへ立ち向かう者こそ、真の勇者だ! 余は、この子を勇者と認める! この子の誇りを、間違いだと切り捨てるな!」
「俺が……勇者?」
その宣言に、ココの瞳が大きく見開かれた。その言葉は、少年の胸の奥へまっすぐ届いた。
『【報告】:対象を制圧します』
「ぬっ……!」
無機質な声とともに、光の鎖がレグナスの手足に絡みついた。
管理外のイレギュラーであるレグナスには光の鎖も完全には食い込まない。
それでも、数で押さえ込まれれば動けない。
「離せ!」
レグナスがもがく。だがその隙を突き、別の機械天使が放った光の衝撃波が、ココの小さな身体を無惨に吹き飛ばした。
石畳の上に倒れ伏す少年。辺りが静まり返る。レグナスの顔から血の気が引く。
「……ココ?」
刹那。
遅れて駆け込んできたゼンの黒い閃光が、周囲の機械天使をまとめて撃ち砕いた。
その背後から、ルエリアも青ざめた顔で走り込んでくる。
「……そこまでだ」
ゼンの瞳は、かつてないほど冷たく燃えていた。機械天使の群れが次々と砕け、白い破片となって宙に散っていく。ほんの数秒で、残ったのは静寂だけだった。
ゼンはココのそばへしゃがみ込んだ。
「おい、ココ!」
「……ゼン。ありがと……。レグナスも……ありがとう」
レグナスは悔しそうに拳を握り締める。
「……余は、最後まで守れなかった」
その肩に、ゼンがぽんと手を置いた。ルエリアは慌ててココの傷を確かめる。
「急いで寺へ戻るわよ!」
その夜。古寺の本堂で、三人は交代でココの看病を続けた。
看病の最中、ルエリアは無意識に両手を組んだ。
神へ祈ろうとしたのだ。
だが、指が震え、うまく組むことができなかった。
システムに従うなら、排除される者は救う価値のない欠陥個体だ。
それなのに、いま目の前で熱にうなされている少年は、誰よりも勇敢に、自分の信じたものを守った。
レグナスは、ココを勇者と呼んだ。
ルエリアにも、その言葉が間違っているとは思えなかった。
(……私は、誰に対して、何を祈ればいいの?)
天使として教え込まれた『正解』が、少年の寝顔を前に、砂の城のように崩れていった。
ココの傷はゼンとルエリアの手によって塞がり始めていた。だが、眠る少年の指先が時折、激しく火花を散らすようなデジタルノイズを散らしていた。
「これは……何?」
ルエリアが息を呑む。
ゼンは答えなかった。
レグナスだけは頑としてココのそばを離れなかった。
「余が朝まで見ている」
誰が止めても聞かず、少年の枕元に座り続ける。小さな手で、少年の手をそっと握りしめながら。
そして――夜が明けた。
障子越しの朝日が差し込んだころ、ココのまぶたがゆっくりと開いた。
「……あれ?」
レグナスの顔が、ぱっと明るくなる。「目を覚ましたか!」
ココは少しぼんやりしたあと、にっこり笑った。
「おはよう、勇者さま」
その言葉に、レグナスは大きな目を瞬かせたあと、照れ隠しのように豪快に笑った。
「ふっ。勇者はお前の方だ、ココ」
駆け付けたルエリアは、呆れたようにため息をついた。
「本当に心配したのよ」
「ごめん。でも、後悔はしてない」
その言葉に、ルエリアは何も返せなかった。
この小さな少年は、自分の信じたことを守った。間違っているかもしれないと知りながら、それでも手を差し伸べた。それは、かつてのルエリアにはできなかったことだ。ただ与えられた正解を守り、疑うことなく生きてきた彼女にとって、ココの姿は眩しかった。
それから数日、ココは驚くほどの元気を取り戻したように見えた。
境内に子供たちの明るい声が戻り、ココはレグナスと本気で走り回って遊んでいた。
♢♢♢
やがて、旅立ちの日が訪れる。
夕暮れの光が寺を赤く染める中、ルエリアとレグナスは旅支度を整えていた。
ルエリアはココの前にしゃがみ込む。
「本当にもう大丈夫なの?」
「うん!」
ココは元気よく笑う。
「また無茶しちゃ駄目よ」
「でも困ってる人がいたら助けちゃうかも」
「……もう」
困ったように笑うルエリア。
レグナスが大きく頷く。
「それでこそ勇者だ!」
ルエリアが笑って手を振る。
「また遊ぼうね!」
「うん!」
ココも笑って、大きく頷いた。
ルエリアはゼンへ視線を向けた。
「あなたは来ないの?」
「行かねぇよ。昼寝してる方が楽だ」
「相変わらずね」
「待っておるぞ」
レグナスが笑いながら手を振る。
「考えとく」
二人は寺を後にした。
静かになった境内で、ココはぽつりと呟く。
「……ゼン」
「ん?」
「本当は、レグナスたちと一緒に行きたかったんでしょ?」
ゼンの視線がわずかに泳ぐ。
「どうだかな。あんな騒がしい連中と一緒じゃ昼寝もできねぇ」
「うそだ」
「……何で分かる」
「ずっと見送ってたもん」
ゼンは何も答えない。
ココは木彫りの人形を握りしめ、笑った。
「行きなよ、ゼン。世界を見てきてよ」
ゼンは何も答えず、ただココを見つめていた。
その時、ココの輪郭が激しくブレた。奥に無機質な幾何学コードが透けて見える。
ゼンの表情が、わずかに変わる。
「……ああ」
「ゼン。また遊ぼうね」
ココが、いつものようにいたずらっぽく笑う。
ゼンは何も言わず、その小さな頭を撫でようと、ぶっきらぼうに手を伸ばした。
だが、指先が髪に触れる直前、ココの輪郭が崩れた。
淡い光の粒が、さらさらとゼンの指の間をすり抜けていく。
「……ありがとう、ゼン」
最後に聞こえた少年の言葉も、伸ばされた小さな手も、すべてが夕暮れの風にほどけていった。
掴もうとしたゼンの手のひらには、温もりも、重みも残らなかった。
ただ、少年が最期まで握りしめていた木彫りの人形だけが、コト、と静かな音を立てて石畳へ落ちた。
「……ああ。ありがとう、ココ」
ゼンの絞り出すような声だけが、誰もいなくなった境内に虚しく響いた。
「……ったく。ガキのくせに、余計なこと言いやがって」
ゼンは、ココが消えていった夕暮れの空を眺めていた。
すると、一緒に遊んでいた子供の一人が、ひょっこりと顔を出した。
「あ、ゼン! ボール忘れちゃったんだ。取ってきていい?」
「勝手にしろ。そこに転がってるだろ」
ゼンが指差すと、子供はボールを拾い上げた。ふと、その足元に落ちていた手作りの木彫りの人形が目に入る。
「……ねえ、これ誰の?」
子供が不思議そうに尋ねる。ゼンは少しだけ目を細めて答えた。
「ココのだよ。あいつ、置き忘れてったんだな」
「ココ?」
子供は首を傾げた。
「……誰、それ? 僕たちの友達に、そんな名前の子いたっけ?」
ゼンは息を止めた。
子供の瞳には、一切の嘘も悪意もなかった。ただ、ココが最初から存在しなかったかのような、純粋で残酷な「正常」だけがあった。
「……いや。俺の勘違いだ」
ゼンは人形を拾い上げ、懐にしまい込んだ。
「早く帰れ。点数引かれるぞ」
「はーい! またね、ゼン!」
走り去る子供の背中を見送り、ゼンは静かに寺の門を閉めた。
「……じゃあなココ、またな」
ゼンは誰もいない境内に向かって呟き、今度こそ振り返らずに、仲間たちの待つ道へと踏み出した。
少し先の分かれ道で、案の定、言い争う声が聞こえてくる。
「右よ! 地図を見れば明らかでしょう!」
「左だ! 勇者の勘がそう告げておる!」
「あ、ゼン! 結局来たのね」
「やはり来たか。ココはどうした?」
追いついたゼンに、二人が問いかける。
「……疲れて寝た。起こすなってさ」
「そう、良かったわ。また遊びたいものね」
「ふん、次は余が勝つがな!」
三人と一匹は歩き出す。白い街の外へ。まだ見ぬ景色の向こうへ。
ふと、風に乗って子供たちの歌声が聞こえたような気がした。
『あの子がほしい――♪』
『あの子じゃわからん――♪』
『勝ってうれしい、花いちもんめ――♪』
ゼンは足を止めず、懐の人形をそっと握った。
懐に残った人形の重みだけが、世界の「いなかった」という答えに逆らっていた。
「……次は、負けんなよ。勇者」
誰にも届かない声は、夕暮れの風に消えた。
三人と一匹は、正解のない道を歩いていった。
──第十話・終。




