第十一話:『正しい詐欺師』
管理都市のゲートを越えた先の世界は、お世辞にも「整っている」とは言い難かった。
道はろくに整備されておらず、不揃いな岩と泥が入り混じっていた。
「……信じられない。道が平らじゃないなんて、設計ミスじゃないの?」
ルエリアは、スカートの裾が泥に汚れるのを忌々しげに見つめながら、一歩一歩を呪うように歩いていた。天使としての「清潔感」を維持できないこの環境は、彼女にとって苦行でしかない。
けど、ふと立ち止まった彼女の視線の先には、管理番号もついていない鮮やかな青い花が揺れていた。
「あの花……名前は何ていうのかしら。登録されてないのに、あんなに綺麗に……」
「わはは! ルエリア、それは『名もなき花』だ! どこへ向かっても、何を見てもいい! これぞ旅、これぞ自由だな!」
レグナスは豪快に笑いながら、道なき茂みへ突き進もうとする。
「おい、待てバカ。そっちは崖だ」
ゼンが冷めた声を投げながら、レグナスの首根っこを掴む。
「自由と無謀を履き違えるな。……ったく、先が思いやられるぜ」
ゼンはため息をつき、背負い袋を直した。
その袋の奥底には、修復された小さな木彫りの人形が、静かに眠っている。
その夜、森の中で三人は火を囲んでいた。
「ぬう……! この巨大猪、どうして解体できぬのだ! 勇者の剣をもってしても、ただの肉塊が斬れぬとは」
レグナスとルエリアが仕留めてきた巨大な獲物を前に、ゼンが包丁を握る。
「力任せに振るからだ。貸せ、こうやるんだよ」
ルエリアは少し離れた場所から、慣れた手つきで肉を捌くゼンを不思議そうに見守っていた。
「……ねえ。虫が寄ってきてるんだけど」
「森なんだから当たり前だろ」
「当たり前で済ませないで。せめて結界くらい張らせなさいよ」
「却下。魔力がもったいねぇ」
「私の快適性より魔力の方が大事なの?」
「当たり前だ」
「でも……!」
ゼンは笑いもせず、切り分けた肉を鍋へ放り込んだ。
「いいから食え。ほら、味は保証する」
差し出された簡素なスープを一口すすったルエリアは、言葉を失った。管理都市の栄養剤のような食事とは違う、荒々しく野趣あふれる味は身体に染み渡る味だった。
「命の味だ」
ゼンは焚き火を見つめたまま優しく伝えた。
「……命の味」
ルエリアは空を見上げたまま、しばらく動けなかった。
「……美味しい」
思わず漏れた言葉に、ゼンが焚き火を見つめたまま答えた。
「腹が減ってたからだ」
「それだけ?」
「それで十分だ」
ルエリアは少し納得がいかない顔をしながら、もう一口スープをすすった。
「……そういうものなの?」
「生きるって、大体そんなもんだ」
ルエリアは何も言わず、もう一度スープへ口をつけた。
管理都市の白く無機質な光ではない、爆ぜる焚き火の不規則な揺らめき。それが、今自分の胃の中にある熱いスープと呼応している。
「……これが、生きてるってことなの」
呟きは夜の闇に吸い込まれた。
ふと横を見ると、ゼンは火の粉を見つめながら、一瞬だけ物憂げな表情を見せた。
だが、ルエリアがその理由を知ることはなかった。
翌朝、一行は補給のために街道沿いの賑やかな宿場町へと立ち寄った。
「わはは! 見ろ、ルエリア! あの屋台の菓子、見たこともない色をしているぞ!」
「ちょっと、レグナス! はしゃぎすぎよ。……でも、確かに少し興味深いわね」
ルエリアもレグナスも、見るものすべてが珍しく、いつしか警戒心を緩めていた。
そんな中、ルエリアの目が、人混みの隙間、路地裏の物陰にいる少年の姿を捉えた。
身なりの貧しい、しかし瞳の澄んだ少年――ロイ。
彼は周囲を気にしながら、懐からカチカチに固くなったパンを一切れ取り出し、地べたに座り込む小さな少女へ優しく笑いかけながら手渡した。
(あの子……)
ルエリアの胸が少し痛んだ、その直後だった。
ロイはきりっと表情を切り替えると、明るい笑みを浮かべてこちらへ近づいてきた。
「そこのお姉さん、いい服着てるね! もしかして遠くから来た旅の人?」
「ええ。そうだけど……?」
屈託のない少年の笑顔に、ルエリアは思わず足を止める。ロイは手にした、不思議な光沢を放つ乾燥した草の束を差し出してみせた。
「だったらこれ、持っていきなよ。外の道は危ないだろ? 旅人ならみんな持ってる回復草さ。お守り代わりに買う人もいるくらいなんだ」
「回復草……?」
ルエリアは差し出された草をまじまじと見つめた。
「管理都市では見たことがないわ」
「そりゃそうだよ。こういうのは外でしか採れないからね」
ロイは得意げに笑う。
ルエリアの脳裏に、昨日見つけた青い「名もなき花」が浮かんだ。
管理番号もなく、データにも登録されていない。それでも確かに存在していた、美しい花。
外の世界には、自分の知らないものがまだいくらでもある。
「……そう。私が知らないだけなのね」
ルエリアは小さく呟くと、財布へ手を伸ばした。
レグナスもまた、先ほど少年が少女へパンを渡していた姿を思い出したのか、大きく頷いて懐から財布を取り出す。
「よし、これで我らの旅も安泰だな! 少年、釣りはいらぬ。勇者の慈悲を受け取るがいい!」
「わあ、ありがとう! ……あ、お兄さん、その背中の袋、紐が緩んでるよ。直してあげる」
ロイが手際よくレグナスの背負い袋の紐を弄る。
レグナスの背負い袋には、ゼンの袋も一緒に括り付けられていた。
仕留めた猪の肉を運ぶため、一時的にレグナスへ預けていたものだ。
ロイが袋の紐を直している間、ゼンは通りの反対側に並ぶ店へ顔を向けていた。
猪の肉を買い取ってくれる店を探していた。
「おお、気が利く少年だ。わはは!」
二人が満足げに歩き出し、少年が路地裏へ消えた直後、ゼンは買った草を受け取り、鼻先で軽く嗅いだ。
「……おい、おめでたい奴らだな。その草、ただの雑草を煮出した汁で染めただけだぞ」
「え?」
ルエリアが慌てて草を強くこすると、指先にべっとりと緑色の顔料がついた。
「なっ……! 嘘でしょう!? ただの草じゃない!」
「待て! 戻れ少年! 勇者の善意をもてあそぶとは……む? 財布がない!?」
レグナスが慌てて腰を叩くが、そこにあるはずの革財布は消えていた。さらに、預かっていたゼンの背負い袋まで消えている。
レグナスの顔から血の気が引く。
「……ゼン、すまぬ。……貴殿から預かっていた袋も、ない」
「何だと?」
ゼンの目が一瞬で鋭くなった。袋の中には、予備の食料だけではない。彼が修復し続けてきた「ココの人形」が入っていたのだ。
「……あのガキ、死にたいらしいな」
ゼンの全身から、先ほどまでの怠惰な空気が消え、凍り付くような殺気が漏れ出す。
プライドを傷つけられたルエリアと、責任を感じて顔を真っ赤にしたレグナスが、ロイが逃げ込んだ裏路地へと駆け出した。
「おい、そっちは――」
ゼンの制止も聞かず、二人は少年の影を追って町の外れへと突き進む。
ロイは逃げ足が速く、崩れかけた建物の間を縫うように駆けていく。
気づけば、周囲から人の気配が消えていた。
空気の温度が一段階下がり、立ち並ぶ建物はどれも歪んでいる。崩れた壁には、奇妙な幾何学模様のノイズが走っていた。
「……何、ここ。さっきまでの宿場町とは空気が違うわ」
地図を広げたレグナスが眉をひそめた。
「おかしい。ここは平原のはずだ。こんな街は記されていない」
遅れて追いついたゼンが、廃墟を見渡して吐き捨てる。
「地図にないわけだ。ここは、システムが捨てた旧市街だ」
ルエリアが身を震わせる。視界の端で、薄ぼんやりとした人影がゆらゆらと揺れていた。
それは幽霊ではない。
システムから切り離され、存在の半分をデジタルノイズに侵食された住人たちだった。
システムは彼らを「バグ」と判定しながら、修復も消去もできず、この場所へゴミのように放置した。
「あ……が……助け……て……」
一人の老人が、ルエリアに手を伸ばす。その腕には幾何学模様のノイズが走り、崩れた輪郭から光の粒がこぼれ落ちていた。
「っ、待って、今治してあげるわ!」
ルエリアが天使の治癒術を施そうとする。だが、聖なる光が老人の身体に触れた瞬間。
キィィィィィン、と耳を刺すような高音が鳴り響き、世界が一瞬だけ激しく揺らいだ。
「――え?」
ルエリアの視界が、強烈なノイズに侵食される。
次の瞬間、彼女の目に飛び込んできたのは、目の前の廃墟ではなかった。
雲一つない青空。
大理石で作られた美しい噴水。
市場の活気あふれる賑わいと、行き交う人々の陽気な笑い声。
そこにいた老人は、今よりずっと若く、背筋を伸ばし、小さな孫らしき少女の手を引いて幸せそうに笑っていた。
『見てくれ……あれが孫だ……』
老人の若々しい声が、頭に直接響く。老人が誇らしげに指差した先で、幼い少女が緊張した面持ちで踊っていた。
『下手くそだろう? でもな……あの子、この日のために何日も練習したんだ』
しかし直後、美しい景色にバチバチと黒いノイズが走り、ガラスのようにひび割れた。
子供の顔がぐにゃりと崩れ、建物が消え、街が砂のように崩壊していく。
一瞬で元の冷たい廃墟へと引き戻され、ルエリアは息を呑んだ。
目の前にいるのは、何十年も前に終わったはずの人生を、世界のバグのせいで「終われずに」ただ肉体を苛まれ続けている老人だった。
「……」
レグナスは拳を握りしめ、言葉を失う。
周囲には誰もいない。祭りも、誇らしかった孫の踊りも、何十年も前に消え去っている。
ゼンだけが、静かに目を閉じた。
「もういねぇよ」
老人はかすんだ目で虚空を見つめ、力なく笑った。
「……そうか、あの子も先に行っちまったか……」
「……祭りは、とっくに終わってたんだな……」
その寂しげな一言のあと、ゼンはゆっくりと前に出ると、その右手に、影を練り合わせたような漆黒の光を宿した。
「ゼン、何を……! 彼は苦しんでいるのよ、破壊なんてしたら――」
「黙って見てろ」
老人の胸元へ、漆黒に染まった右手を押し当てた。
「削り取れ」
刹那、老人の体を苛んでいたノイズが、ゼンの手に吸い込まれるように消えていく。
その瞬間だった。
崩れかけた同期データが、最後の記憶を燃やすように、老人の身体の周囲を一瞬だけ鮮やかに染め上げた。
灰色だった崩れた廃墟が、一瞬にして黄金色の夕焼けと祭りの街並みに変わる。
消えたはずの人々が陽気な幻影となって現れ、広場の向こうから、あの小さな孫の少女が笑顔で走ってきて、こちらに向かって大きく手を振った。
「――っ!」
「違う……!」
ルエリアの身体が激しく震えていた。
「私は見たのよ! この人は生きてた! 家族がいて、笑って、愛されてた! まだ、助けられるかもしれないじゃない! 終わったなんて、誰が決めたのよ……っ!」
諦めたくない、世界のバグなんかにこの人の命を奪わせたくない。
しかし、彼女の叫びとは無関係に、ノイズの明滅と共に祭りの街並みも、人々の姿も次々に掻き消えていく。
ただ一人、孫だけが老人のもとへ走り寄った。
老人は、駆け寄った孫の幻に抱きつかれるように、穏やかに目を細めた。
「……ああ……やっと……帰れる……」
満足げな、安らかな声とともに、その輪郭が淡い光へと溶けていく。
やがて老人の姿は、塵となって風に消えた。
ゼンはその跡を見つめたまま、低く言った。
「終わったと決めたのは、あいつ自身だ」
ルエリアは何も言い返せなかった。
老人が最後に浮かべたのは、苦痛ではなく安らぎだった。
隣にいたレグナスが息を呑む。
「おい、ルエリア。ゼンの手を見ろ」
ゼンの右手が、激しく痙攣していた。
老人を苛んでいた幾何学模様が、今度はゼンの右腕を這い回り、激しく火花を散らしていた。
「俺も知ってる」
ゼンは老人が消え去った虚空を見つめたまま、冷たく、だが奥底にどうしようもない痛みを孕んだ声で呟いた。
「忘れたいのに忘れられねぇ地獄も、終わりたいのに終われねぇ奴の気持ちもな」
「え……?」
ルエリアはその言葉の意味を理解できなかった。
しかし、ゼンの横顔があまりにも痛々しく、そしてどこか切なく見えて、言葉を失う。ゼンは呼吸を整えながら、冷徹な現実を突きつけるように続けた。
「中途半端な希望は、ただの拷問だ。あいつを繋いでいたバグを削った。……ようやく、ただの死体に戻れたんだよ」
ルエリアは、自分の白く綺麗な手が、何一つ老人を救えなかったことを悟った。
どれだけ言葉を尽くしても、彼女の綺麗な光はノイズを悪化させるだけで、彼を地獄から引き上げることすらできなかったのだ。
破壊。消去。
それがゼンの力なのだと、今まではそう思っていた。
だが、その本質は、誰もが目を背ける「終わらせるという救済」だった。
「……最低な男」
ルエリアは思わずそう呟いた。
だがその横顔を見ていると、どうしても「最低」という言葉だけでは片付けられなかった。
ゼンは何も言わない。
ただ一人で、老人の消えた場所を見つめ続けていた。
その時。
廃墟のさらに奥で、長く停止していた赤い光が、ひとつだけ点灯した。
『――侵入者を確認』
──第十一話・終。




