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第四話:『ズレる世界と追跡者』

その頃――。


風が、一瞬だけ止まった。

遠くの悲鳴が、ノイズとともに途切れる。


『【情報】:不快感軽減のため、周辺音声を消去しました』


その瞬間、ゼンの視界の端を黒いノイズが掠めた。


「……っ」


頭蓋の奥に、細い針を差し込まれたような痛みが走る。


ほんの一瞬。

立っている場所も、肩に触れる重みも、ひどく遠いものに感じられた。


肩の上で、ケンイチが不安げにゼンの頬を覗き込む。

「キュ……」


「そんな顔すんな」


ゼンは確かめるように、自分の手のひらを見つめた。


指を一度だけ握り、ゆっくりと開く。


それから肩の上のケンイチへ目を向け、何かを飲み込むように小さく息を吐いた。


「……今回は平気だ」


ケンイチは安心できない様子で、ゼンの肩へ身体を寄せた。


ゼンは眠そうな目のまま、遠くで途切れた悲鳴の方角を見つめる。


「面倒なのが来る前に、寝たいんだけどな」


そうぼやきながら、ゼンは雑踏の奥へと消えていった。


「店の修理代ぇぇぇ!!」


崩れた壁に背を預け、レグナスが荒く吠えた。服は汚れ、マントは裂け、見るからに満身創痍だ。


「あなたが無駄に騒ぐからでしょ」


ルエリアも同じく疲弊してはいるが、口調だけは優雅さを崩さない。


「余は最強だぞ!? なぜこんな泥臭い追跡を……!」


「その最強さんがこれっぽっちも役に立ってないからよ」

「ぐっ……!」


あれから三日。

二人は店主と怒り狂う住民たちに追われ、わずかな所持金まで毟り取られた挙げ句、機械天使の執拗な捜索からも逃げ続けていた。食料も尽き、完全に限界を迎えている。


「あの店の修理代! おかげで正真正銘、完璧な無一文だ!」


レグナスが魂の叫びを上げる。


「見つけたら、必ず責任を取らせてやる!」


「……修理代のためだけに、三日も探してるわけじゃない」


ルエリアが静かに言った。


「む?」


レグナスが眉を上げる。


「お主こそ、なぜあの男をそこまで追うのだ?」


ルエリアは一瞬、答えに詰まった。


店の修理代。

置き去りにされたことへの腹立たしさ。

それも、もちろんある。


けれど、それだけではなかった。


「あの力、普通じゃない」


ルエリアは自分に言い聞かせるように呟いた。


「天使でも、悪魔でもない。システムはあいつを認識できないのに、あいつはシステムの動きだけを止めた」


「ならば、何者だというのだ?」


「分からない」


ルエリアは小さく首を振る。


「だから、確かめるのよ」

胸の奥に、わずかな引っかかりがあった。

理由は分からない。ただ何かが、噛み合っていない感覚だけがずっと残っている。


あの男と別れてすぐ、視界の文字システムが戻り、世界が再び「正しい形」に同期された時のあの感覚。


『それが本来の、息をしてるって状態だろ』


ゼンのぶっきらぼうな声が、頭の奥で何度も反響する。


(……何よ、それ。意味なんて分からない)


分からないはずなのに、どうしても引っかかる。

一瞬、思考の深層に、砂粒みたいな小さな違和感がざらりと滑り落ちた。


思い出す。同じように、理由の分からない違和感を覚えた日のことを。


以前、上位街区の配給所で、一人の女性が拘束されるのを見たことがある。


その日、女性に支給されたのは、システムが算出した一日分の完全食だった。摂取量も、栄養価も、食べる時刻も、すべて正しく決められていた。


けれど、配給所の外には、市民認証を失った幼い子供が座り込んでいた。

登録されていない者へ資源を渡せば、配給計算に誤差が生じるため、食料は支給されない。


女性は周囲を気にしながら、自分の完全食を半分に割った。

そして、その片方を子供へ差し出した。ただ、それだけだった。


『【警告】:登録外個体への資源譲渡を確認』

『【判定】:配給秩序への不正干渉』

『【警告】:自己管理義務の放棄を確認しました』


女性はすぐに機械天使に囲まれた。


「この子、お腹を空かせているんです」


女性の願いは、無機質な処理音にかき消された。


『【処理】:社会適応プログラムへの再登録を開始します』


女性の手から完全食が取り上げられ、子供は地面へ落ちた欠片を見つめていた。


その場に居合わせたルエリアの視界にも、承認を求める表示が浮かんだ。


『【確認】:規定違反個体の拘束を承認しますか?』


当時のルエリアは、迷わず承認した。

一人へ余分に渡せば平等な配給が崩れる。感情だけで例外を認めれば、秩序は維持できない。


それが、この世界の「正しさ」だった。


拘束されていく女性が、最後に子供を振り返った。

自分が連れていかれる恐怖より、空腹の子供を心配する目をしていた。


ルエリアは、その視線から目を逸らした。


(私は――正しい処理を承認した)


そう言い聞かせた。

それなのに今になって、あの日地面へ落ちた完全食の欠片だけが、やけに鮮明に思い出された。


『【推奨】:不要な思考はストレスの原因となります』


(ルールは、間違ってない。違反したんだから、当然よ)


自分に言い聞かせる。だが、一度生じた脳裏の揺らぎは、もう消えてはくれなかった。


「ルエリア……?」

「おい、ルエリア?」

「えっ?」

「大丈夫か? 少しぼんやりしておったぞ?」

「大丈夫、少し疲れただけ」

「確かに……余も限界じゃ。なぜ余が路上生活を……」


その時だった。

「キュ」と聞き覚えのある、小さな鳴き声がした。二人の視線が同時に跳ねる。


「……いたわ」


路地裏を迷いなく歩くトラ柄のペンギン――ケンイチの姿があった。


「尾行するわよ」

「わかった。隠密行動も最強のスキルのうちだ」


ルエリアは無言で頷き、ペンギンの小さな背中を追って足音を消した。


ケンイチは街外れにある、崩れかけた古寺の裏手へ回り、何もない灰色の壁へ向かってまっすぐ歩いていく。

「ちょっと、そこは壁――」

レグナスが声を上げかけた、その次の瞬間だった。


トラ柄の身体が、黒いノイズに輪郭を崩しながら、壁の向こうへ溶けるように消えた。


同時に、世界がズレた。


「……え?」


ルエリアの視界の中で、古寺の壁が一瞬だけ二重に重なる。


一つは、崩れかけた灰色の壁。

もう一つは、その半歩奥に存在する、煤けた古い鉄の扉。


石畳の継ぎ目も、壁を這う蔦も、差し込む陽光も、ほんのわずかに位置を違えて重なっていた。

まるで同じ場所に、二つの世界が噛み合わないまま存在しているようだった。


「なんじゃ、これは……」


レグナスが目を見開く。


ルエリアの胸を、ぞわりとした違和感がよぎる。


三日前、あの隠れ家を出た時にも感じた。

世界が軋み、何かを「正しい位置」へ戻そうとする、あの気味の悪い感覚。


だが、それも一瞬だった。

次の瞬間には景色は元へ戻り、灰色の壁だけが静かにそこにある。


「……同期が、ずれてる?」


ルエリアが恐る恐る壁へ手を伸ばす。


指先が触れた瞬間、水面のような波紋が静かに広がった。

ノイズの奥から、三日前に消えたはずの古い鉄の扉が、ゆっくりと姿を現す。


「ここね」


ルエリアは迷わず扉を押し開けた。


二人が中へ入ると、鉄の扉は音もなく閉じる。


堂内には再び静寂だけが戻った。


その頃――。


古寺から離れた空。


雲間を滑空する一体の機械天使の瞳が、淡く明滅する。


『【同期誤差を検知】』

『【追跡を継続します】』


白い翼が静かに旋回し、誤差の残滓だけを追うように空を巡り続ける。

だが、その存在に気付く者は誰もいなかった。


薄暗い堂内には、崩れた柱、割れた床、そして煤けた古い彫像たちが、あの日と同じように静かに眠っていた。


そして――


「……勝手に入るなよ」


気だるげな声が、暗い堂内に響いた。


ルエリアは息を呑む。

やっと見つけた。

怒鳴りつけるつもりだった。

店の修理代も、三日間逃げ回らされたことも、全部文句を言うつもりだった。


なのに、ゼンの姿を見た瞬間、胸の奥が理由もなくざわついた。


──第四話・終。

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