第三話:『文字のない夜』
「仕方ない! 余を助ける栄誉を授けよう! 助けてぇぇぇ!!」
袋小路に響き渡った、レグナスのプライドをかなぐり捨てた全力の絶叫。
その声に、歩き出していたゼンが再び足を止めた。
『【再起動まで】:五秒』
停止していた機械天使たちの駆動灯が、再び強く明滅し始める。
ゼンは肩の上のケンイチを一瞥し、深く、重いため息をついた。
「……聞こえちまったからな」
レグナスの顔がぱっと明るくなった。
「おお! 助けてくれるのか!」
「いや。助けたいわけじゃねぇ」
ゼンは冷淡に言い放つ。
「は?」
ルエリアとレグナスの声が重なった。そんな彼らに、ゼンは気だるげに視線を投げかける。
「お前が助けてって言ったからな」
「言ったぞ!」
「だから仕方ねぇ」
直後、包囲していた機械天使の一団が翼を唸らせ、一斉に突撃を開始した。
「裂風陣!」
放たれた真空の刃が石壁を易々と切り裂き、ゼンへと肉薄する。
次の瞬間。
乾いた銃声が響いた。
ゼンの右手に握られた黒い銃から、漆黒の弾丸が射出される。
漆黒の弾丸は装甲をすり抜けた。
直後、再起動したはずの駆動灯が一斉に沈黙し、機械天使たちは糸を切られた人形のように動きを止めた。
「武器を……生成した!?」
「元素武装……!? でも、こんな力は記録にない……!」
ルエリアが驚愕に声を震わせる。それは、高位天使である彼女の知識にも存在しない、異質極まる『黒』だった。
だがその直後、上空の空気が一瞬で凍りついた。
キィィィィンと鼓膜を鋭く刺すような高周波の駆動音。重装甲を纏い、背後に巨大な光輪を背負った、これまでの個体とは明らかに次元の違う威圧感を放つ影が舞い降りる。
ルエリアの網膜のシステムログが、一瞬で真っ赤な警告色に染まった。
『【警告】:高位天使反応を検知』
『【照合】:天秤宮・二等星――アルカディア』
『【推奨】:周辺市民は直ちに目を伏せ、祈りの姿勢を取ってください』
ルエリアは顔から血の気が引いた。
「う、嘘……。なんでこんな区画に、天秤宮の二等星が……っ」
ゼンの顔からも気だるさが消え、わずかに眉をひそめて上空を睨みつけた。
「チッ、もう動き出したか……。今の俺じゃ、あれは割に合わねぇな」
アルカディアの全身を白い紋様がゆっくりと駆け巡る。
周囲の光が一か所へ吸い寄せられるように収束し始めた。
あの一撃が放たれれば、この区画ごと消し飛びかねない。
ゼンは舌打ちし、黒い銃を袋小路の奥へ向けた。
「そこ、どけ」
「え?」
乾いた銃声。
漆黒の衝撃が石壁の基部を撃ち抜き、轟音と共に壁全体を内側へ吹き飛ばした。
だが、壁の向こうは通路ではなかった。
まだ開店前の小さな食料品店。
衝撃波は店の裏壁を突き破り、商品棚と保管箱をまとめてなぎ倒す。包装された食料と木片が舞い上がり、店内が一瞬で見る影もなく崩れた。
「ちょっと! 店じゃない!」
「道にはなっただろ」
『【損害処理】:破壊主体の個体認証に失敗』
『【代替処理】:周辺街区の登録市民へ修繕費を均等請求します』
システムの冷たい音声を聞き流し、ゼンは崩れた店舗の向こうを顎で示した。
ゼンはレグナスの襟首を掴み、ルエリアの腕を引いた。
「逃げるぞ。苦情は生き残ってから聞く」
システムの巡回ルートの「空白」を突き、ゴミ溜めのような細い路地を駆け抜ける。追っ手の足音が遠のき、ゼンが滑り込んだのは、打ち捨てられた古寺の床下へ続く隠し扉だった。
ほこりっぽい重い扉を閉め、鉄のかんぬきを下ろす。
「ここはシステムの死角だ。しばらくは、あの文字も追ってこねぇ」
外の物音が完全に消えるまで、三人は地下室で静かに息を潜めていた。
やがて天井近くの小窓から差し込んでいたわずかな光が薄れ、完全に夜が訪れた。
ゼンは床に座り込み、無造作に古いコンロに火をつけた。
ふと、ルエリアは自分の視界の端を常に占領していた『推奨行動』や『評価ログ』の白い文字が、霧が晴れるように消え去っていることに気づいた。
「消えた……。システムが私を見失っているんだわ」
「デトックス中だ。ありがたく思え」
ルエリアはほっと息をつき、改めて奇妙な室内を見回した。
薄暗い空間のあちこちに、頭部の欠けた仏像や、煤けた女神の銅像、精緻な手彫りの木樽などが無造作に転がっている。今の「最適化された世界」では無用の長物、あるいは例外バグとして即座にデータ消去されるはずの、古い時代の遺物たちだ。
ルエリアは崩れた女神像の指先に触れ、ふと疑問を口にした。
「……ねえ、これ何?」
「知らねぇ」
ゼンはコンロの火を見つめながらぶっきらぼうに返す。
「知らないのに、どうしてここに置いてるの? データの無駄だし、効率も悪いでしょ」
「さあな」
パチパチと火が熾り、ゼンの気だるげな横顔を赤く照らす。
「……ただ、壊したくなかっただけだ」
「え……?」
「意味なんかねぇよ。なんとなく残ってたから、なんとなくここに置いとく。それじゃダメなのか?」
ゼンはそれ以上語ろうとせず、無造作に肉の塊を網の上に載せた。
効率や規律、論理的な意味だけで構築された世界で育ってきたルエリアにとって、その答えが理解できなかった。けれど、なぜか否定することもできなかった。
しばらくすると、静寂の中に「ジューッ」という肉が焼ける音が響き始める。これまでの人生で嗅いだことのない、脳を直接揺さぶるような強烈な香りが漂ってきた。
「な、何よこれ。ひどく野蛮な匂い……! 栄養価も計算不能だわ!」
ルエリアは鼻を押さえて顔をしかめる。
「ふん、栄養値とやらで味まで決めておる天使には刺激が強かろう!」
レグナスがヨダレを垂らしそうになりながらゼンの手元を凝視している。そのアホな煽りに、ルエリアは即座に噛みついた。
「やかましいわよ! 味覚の最適化すらされていない野蛮人の食べ物と一緒にしないで。そんな不潔なもの、万死に値するわ!」
「お、おう……。そこまで言うか……」
レグナスが若干引き気味に身を引く。
ゼンは焼き上がった「正体不明の肉塊」を、串に刺したまま二人に差し出した。
「食うか? 不効率の極致だぞ」
「いらないわ。私は、自分の健康を管理する義務があるの」
ルエリアは潔癖なまでに背筋を伸ばし、その誘いを拒絶した。
「そうかい……まぁ正解じゃないものを食うのは、結構疲れるからな」
ゼンは皮肉げに笑い、自分の肉を口に運ぶ。
咀嚼する音、パチパチと爆ぜる火の粉。それ以外に、何も聞こえない。
ルエリアはふと気づいた。
いつもなら視界を埋め尽くすはずの「推奨行動」も「栄養グラフ」も、ここにはない。
「ねえ、ゼン。文字がない世界って……こんなに、静かなのね」
「静かすぎて怖ぇか? 何をすればいいか、誰も教えてくれねぇからな」
ゼンは煙の向こう側から彼女を見つめた。
「正しいか間違いかも、必要か無駄かも、誰も決めてくれねぇ。それが本来の『息をしてる』って状態だろ。綺麗に分けられねぇもんが、そこにあるだけだ」
「……そう、ね」
ルエリアは答えながら、自分の呼吸音さえも異質な音楽のように聞こえる空間で、ぽつりと小さく言った。
「……ありがと」
「……珍しいな。その言葉、この街じゃあんまり聞かねぇ。……耳がバグったかと思ったぜ」
「…………!!」
ルエリアは顔を赤くし、反射的に食ってかかる。
「減点対象じゃなかったか?」
「そ、そんなルールないわよ!」
即座に否定するルエリア。だが、その声はわずかに揺れていた。ゼンは肩をすくめる。
「……まあいい。ちゃんと自分で言葉を選べるじゃねぇか」
「っ……!」
ルエリアは言葉を失う。
隣では、レグナスが「余が世界で一番美味いと言ってやる!」と叫びながら、ケンイチと肉を奪い合っている。
管理も、評価もない、この不自由で、脂っこくて、静かな時間。
「……別に、あんたのためじゃないわ。必要だったから言っただけよ」
「そうかよ」
ゼンはあっさり流す。その軽さに、逆にルエリアの頬がわずかに熱を帯びた。
「……何よ」
「いや。悪くないなって思っただけだ」
「――っ!」
ルエリアは何も言えなかった。
その後、三人は追っ手の気配が消えるまで、文字のない地下室で夜を明かした。
腹を満たしたレグナスは木箱にもたれて眠り、ケンイチもその腹の上で丸くなっている。
ルエリアは、警告も推奨行動もない静寂の中で、なかなか眠れなかった。
何をすれば正しいのか分からない夜は、怖いはずだった。
それなのに、不思議と息苦しくはなかった。
やがて小窓の向こうが、わずかに白み始める。
「……さて。夜明け前だ、そろそろ行け。これ以上ここにいると、揺らぎで追っ手に位置がバレる」
寝ぼけるレグナスをゼンが扉の外に放り出す。ルエリアも最後に一度だけ振り返り、外へと足を踏み出した。
だが、外に出た瞬間。
視界の端で表示が激しく乱れ、粗いポリゴン状の赤と白のノイズが走った。
脳裏に不快な電子音が鳴り響き、刺すような白光が周囲の景色を強制的に上書きしていく。
まるでシステムが、そこにあったはずの空間を「正しくないもの」として塗り潰していくようだった。
ハッと息を呑んで振り返る。だが、そこにはノイズの残滓すらなく、ただの古びた灰色の壁が続いているだけだった。
「あれ……? さっきの扉、どこだっけ?」
レグナスが首を傾げて壁を触るが、境界線はない。
「嘘、完全に迷路だわ……。あの場所、どこだったの……?」
ルエリアの空間認識能力を以てしても、ゼンの隠れ家へ続く道は、最初から存在しなかったかのように消えていた。
途方に暮れる間もなく、東の空から朝日が昇り、街のホログラムが一斉に起動する。
『【報告】:本日の推奨行動が開始されます』
『【告知】:皆様、今日も最適で平和な一日を』
完璧な日常が戻ってくる。そしてそれは、容赦のない現実を連れてきた。
「見つけたぞぉぉぉ! お前らぁぁぁ!!」
朝の市場の石畳を揺るがすような怒号。
血相を変えて走ってきたのは、夜のうちに開店前の店を半壊させられた、あの食料品店の店主だった。その後ろには、端末を片手に怒り狂う街の住人たちが大挙して押し寄せてきている。
『【損害処理】:破壊主体の個体認証に失敗』
『【代替処理】:周辺街区の登録市民へ修繕費を均等請求します』
「あいつらだ! 連帯責任で俺たちの口座から勝手に修理費を引き落とした元凶は!」
「おい、金を返せ! 弁償しろ!!」
『【アラート】:市民からの明確な殺意を検知。即時の問題解決を推奨します』
「なぜ朝一番から、余が他人の借金を背負わされておるのじゃ!?」
レグナスが目を剥いて悲鳴を上げる。当然、店をぶっ壊したゼンは影も形もない。
「ちょっと、壊したのは私たちじゃないわ! 別の男よ!」
ルエリアが必死に弁明するが、激昂した集団に完全に囲まれてしまう。
「また状況が悪化しておるではないか!!」
「あいつ――! 原因を作った本人だけ、認証対象から外れてるじゃない!」
「待て! 話せばわかる! 余は最強だが今は金が――ぐわっ!?」
「お前らぁぁぁ! 弁償しろぉぉ!」
飛び交う罵声、突きつけられる天文学的な修理代の請求データ。
朝日が照らす騒がしい市場の中で、ルエリアとレグナスは再び全力で逃げ惑う羽目になるのだった。
その頃。
喧騒から遠く離れた古寺で、ゼンはケンイチを腹の上に乗せ、あくびをしながら寝転がっていた。
手元の端末には、ルエリアたちが街の住民に追い回されている騒音ログだけが、途切れ途切れに流れ込んでいた。
ゼンは一瞬だけ起き上がりかけ、やめた。
「壊した奴は無視して、関係ない奴らから取るのか」
「キュ?」
腹の上のケンイチが、不思議そうに首を傾げて鳴いた。
ゼンは小さく息を吐き、冷めた瞳で天井を見上げる。
「……やっぱり、この街は壊れてる」
彼はまた目を閉じ、最適化された無機質な白の世界の片隅で、深い眠りへと落ちていった。
──第三話・終。




