第二話:『不効率な朝』
(……その文字より、自分の目で見ろよ)
昨日の別れ際、あの青年――ゼンが投げかけた言葉が、ルエリアの耳の奥にこびりついて離れない。
視界の端で明滅し続ける、白いシステム通知。
以前は「安心」の証だったそれが、今はまるで自分を縛り上げる鎖のように見えていた。
『【推奨】:本日の推奨行動を開始します』
『【注意】:感情の揺らぎに注意してください』
『【警告】:不要な思考はストレスの原因となります』
(……不要な思考って、何よ。大きなお世話よ)
「……バカバカしい。不規則な生活のせいで、私の回路がバグっただけよ」
だが思い出すだけで、胸の奥がざわつく。
自分が信じてきた完璧な秩序を、あの男はたった数分で揺らしてしまった。
そう結論づけても、違和感は消えない。
それどころか、昨日まで当然だった白い文字の方が、今日はひどくうるさく感じられた。
『【再警告】:安定した思考と行動を推奨します』
ルエリアは目の前の警告へ指を伸ばした。
昨日と同じように閉じようとして、指が止まる。
閉じても、また現れる。
ならば。
「……うるさいわね」
指先を強く振り抜いた。
半透明のウィンドウが、ガラスのような音を立てて砕け散る。
通知を閉じたことはある。
だが、警告そのものを拒絶したのは初めてだった。
いつまでも物陰に隠れているわけにはいかない。
食料も、寝床も、下層で生きるための情報も必要だった。
外套の襟を深く引き上げ、ルエリアは街へ出た。
石畳の市場は、いつも通り整然としていた。人々は適切な距離を保ち、最適化された朝を過ごしている。だがルエリアには、それが少しだけ息苦しく感じられた。
頭を振り、「街の観察」に集中しようとした、その時だった。
『【警告】:重大な騒音を検知』
「返せぇぇぇ!! 余の、余の朝食を返せぇぇ!」
市場中に響き渡る、およそ最適化とは程遠い大声。
(……この声、まさか)
ルエリアは嫌な予感がして顔をしかめた。
現場へ向かうと、そこには金髪の少年――レグナスが、一匹のトラ柄のペンギンを必死に追いかけていた。ペンギンのくちばしには、彼がどこからか調達してきたであろう焼き魚が丸ごと一匹挟まっている。
「キュ」
「『キュ』じゃない! 余の朝食を盗むなと言っているのだ!」
(なにあれ……ペンギン? いえ、この街の遺伝子管理データにも該当しない。そもそもトラ柄って何よ……?)
ルエリアがその不気味なほどの「未登録感」に目を細める。
しかし、ペンギンは器用にゴミ箱を跳び越え、追いついてきたレグナスの額を盛大に蹴って逃走した。
「ぐはっ、余を足場にするなぁぁ!」
無様に転がったレグナスの先には、運悪く、いかにも市民評価の低そうなガラの悪い男たちがたむろしていた。
レグナスの頭が、男の一人の靴に見事に衝突する。
「おいガキ。今の接触で俺の残り少ない市民評価に傷がついたぞ。どう落とし前つけるんだ?」
『【警告】:不必要な接触。トラブル発生率90%』
男たちがレグナスの胸ぐらを乱暴に掴み上げた。
レグナスの表情が引きつる。
「……事故である。断じて不慮の事故である」
レグナスは冷や汗を流しながら、迷わず逃げ切ったペンギンを指差した。
「犯人はあやつだ。余は無関係、むしろ被害者である!」
「ピィー!!」
遠くの屋根の上で、トラ柄のペンギン――ケンイチが翼を激しく振って抗議している。
男たちがレグナスを完全に囲んだ。
「財布置いて消えろ。それともその鳥ごと丸焼きにされたいか?」
レグナスは一歩、また一歩と後ずさる。
「……最強の余も、あいにく今は持ち合わせがなくてな。鳥よ、お前の犠牲は忘れないぞ、達者でな!」
「キュ!?」
(本当に、揃いも揃って非効率な連中……)
ルエリアは深いため息をついた。そして、一歩前へ出る。
凛とした声が、市場の喧騒を切り裂いた。
「そこまでよ。それ以上は、評価どころじゃ済まさないわよ」
「なんだぁ? 最適化ごっこのお人形さんが、正義の味方気取りか?」
鼻で笑う男たちに、彼女は優雅にため息をつく。
「教育してあげる。……地に伏しなさい」
ルエリアが鞭を一閃させた。
刹那、男たちが一斉に膝をつく。まるで地面そのものに身体を引き寄せられたかのように、身動きが取れなくなっていた。
「な、なんだ……身体が重ぇ……っ!?」
「少し、あなたたちの足元だけ重くしたのよ。反省しなさい」
『【警告】:非効率な接触が発生しています』
『【警告】:介入は推奨されません。即時の離脱を――』
「うるさいって言ってるでしょう」
指先で払うように、その表示を消す。
呆然とするレグナスの前で、ルエリアは涼しい顔で微笑んでいた。
だが、地面に張り付いた男の一人が「ブスが調子乗んな」と吐き捨てた瞬間、彼女の完璧な笑顔がピキリと凍りついた。
「……今、なんて言ったの?」
指先がわずかに下がる。
「誰がブスですって? 訂正するなら、今のうちよ」
ルエリアの背後から、どす黒い怒りのオーラが噴き出した。
『【警告】:心拍数に急激な変動を検知。メンタルケア・モードを強制起動します。深呼吸をしてください。スー、ハー、スー、ハー』
「……ケアが必要なのは、私の心じゃなくて、アイツらの頭よ!!」
ルエリアが指先をわずかに引き下げると、男たちにかかっていた重圧が数倍に跳ね上がった。
石畳が軋み、男たちの顔が地面すれすれまで叩き落とされる。
さらに指をひねると、男たちの口元だけが石畳へ押しつけられた。
声を出そうとしても、唇すら動かせない。
「大減点よ。まとめて静かにしてあげる」
鼻先と石畳の隙間は、紙一枚分。
「次は止めないわよ」
そのあまりに冷酷で容赦のない手際に、隣で見ていたレグナスすら顎をガクガクと震わせた。
「眼科の受診をおすすめするわ。……もっとも、立ち上がれたら、だけど」
「……あ、あんたは」
レグナスが顔を上げ、驚きに目を見開く。
「あなた、朝から問題を起こしてるの?」
レグナスの顔がぱっと明るくなった。
「おお! 昨日の口うるさい天使!」
「誰が口うるさいですって?」
ルエリアはフンと鼻を鳴らし、あえて高位天使の名残を感じさせる傲慢な態度で返した。
「……相変わらず、ペンギン一匹に手こずってるみたいね」
「なっ、あれは余の戦略的撤退の範疇――」
そんな不毛な会話をしていると、上空から冷徹な機械音が響いた。
『【発見】:逃亡者。個体名……ルエリア』
「チッ! 見つかった!」
「いいから立ちなさい。追っ手が来るわよ!」
しかし、ルエリアの言葉は遅すぎた。
キィィィンと空気を切り裂く音が響き、白銀の執行機械――機械天使の軍勢が市場へ舞い降りる。
『【索敵完了】:逃亡者ルエリア。……および、不確定要素の拘束を開始します』
「冗談じゃないわ! 逃げるわよ、最強さん!」
「なぜ余まで巻き添えにされるのじゃ!? 状況が悪化しておるではないか!」
機械天使たちが一斉に腕を掲げた。容赦のない光の礫が、ルエリアたちと周囲の石畳に降り注ぐ!
その頭上では、屋根から騒ぎを眺めていたケンイチにも銀色の捕縛網が迫っていた。
「キュ!?」
だが、ルエリアたちはそれに気づかないまま路地へ駆け込んだ。
二人は市場の喧騒を駆け抜け、屋根を跳び、複雑に入り組んだ路地へと逃げ込んだ。
だが、執拗な追跡を振り切ることはできず、ついに高い石壁に囲まれた袋小路へと追い詰められる。
「……まずいわね。あなた『最強』なんでしょ? 何か策はないの!」
「うむ! 余は最強じゃ! 雑魚など一撃で蹴散らしてくれる!」
レグナスが自信満々に大剣を引き抜き、機械天使の集団へと果敢に飛び込んだ。
「ハァァァッ!」
レグナスの剣筋は完璧だった。
白銀の装甲の継ぎ目を、寸分の狂いもなく捉えている。
だが。
ガキィンッ!
渾身の刃は装甲に弾かれ、激しい火花だけを散らした。
「なぜじゃ!? 今のは確実に斬ったぞ!」
「威力が足りてないのよ!」
『【判定】:脅威レベル・低。排除します』
機械的な音声と共に、機械天使のカウンターの拳がレグナスの腹部にめり込んだ。
「ごふっ……!?」
レグナスは文字通り紙屑のように吹き飛ばされ、背後の壁に叩きつけられて崩れ落ちた。ピクリとも動かない。
「レグナス……!?」
ルエリアの頬に、冷たい汗が伝わる。
上空から舞い降りた機械天使の指揮官が、冷徹に告げた。
「ルエリア様。手荒な真似はしたくありません。我々と一緒にお戻りください」
「冗談……っ!」
ルエリアは鋭い眼差しで鞭を構え、力を込める。だがその瞬間、指揮官の胸元で、高位権限を示す白い紋章が点灯した。
次の瞬間、ルエリアの神経接続へ外部から強制命令が流れ込んだ。
ルエリアの視界を埋め尽くすように、真紅のエラーウィンドウが何十枚も強制ポップアップした。
『【緊急警告】:過剰な暴力行使は市民ランクの剥奪対象です』
『【警告】:高位天使権限は凍結されています』
『【警告】:思考のノイズを検知。即座にシャットダウンします』
「しまっ……、あ……っ!」
網膜を塞ぐ真っ赤な文字の嵐に視界を奪われ、ルエリアの動きが一瞬だけ完全に停止する。システムによる、内側からの精神拘束。
その隙を、冷酷な機械が見逃すはずもなかった。
機械天使の腕から、銀色の捕縛ワイヤーが鋭い音を立てて射出される。
逃げ場のない袋小路。視界は真っ赤な警告で塞がれ、身体は重い。
(嘘……。私、ここで捕まるの……?)
拘束されれば、また「間違えないこと」だけを考える無機質な人形に戻される。
迫り来る銀色の蛇を見つめながら、ルエリアのプライドが、心の底から悲鳴を上げた。
戻りたくない。あの息苦しい、誰も笑わない白い世界にだけは。
激しい恐怖の中で、彼女の脳裏に、昨日の別れ際にあの青年が投げかけた言葉がリフレインする。
『……その文字より、自分の目で見ろよ』
(私は……もう、あんな文字に縛られた人形に戻りたくない……っ!)
でも、身体が動かない。ワイヤーが目の前にまで迫る。
元の「正しい人形」に戻されることへの絶対的な恐怖が、ルエリアの喉を震わせた。
「た……、たす……け……っ」
管理教育を受け、完璧を義務付けられてきた彼女にとって、それは己の存在すべての敗北を意味する言葉。喉の奥で、掠れた声が途切れる。
その、絶望の瞬間だった。
ルエリアの眼前まで迫っていた銀色の捕縛ワイヤーが、空中でピタリと静止した。
「……え?」
あと数センチ。
まるで時間だけを切り取られたように、鋭い先端がルエリアの目の前で止まっている。
それだけではない。
袋小路を包囲していた機械天使たちが、腕を掲げた姿勢のまま、一斉に動きを止めていた。
『【警告】:動作命令への応答なし』
『【再試行】:駆動系――正常』
『【再試行】:通信系――正常』
『【エラー】:停止原因を特定できません』
「なに……これ……?」
機体の駆動灯は正常に点滅している。
視覚装置も、ルエリアを捉えたままだ。
それなのに、指一本動かせない。
『【照合】:外部干渉の痕跡なし』
『【警告】:未定義現象を観測』
『【解析】:対象不明――』
その時、袋小路の入り口から、ひどく眠そうな声が聞こえた。
「やっと見つけた」
機械天使たちの隙間を縫うように、青年がのんびりと歩いてくる。
昨日、世界の「正しさ」を鉄屑へ変えた青年――ゼンだった。
捕縛ワイヤーは止まった。
だが、神経へ食い込んだ強制命令は消えていない。
ルエリアの身体は、依然として指一本動かなかった。
ゼンは何もしていない。
少なくとも、ルエリアにはそう見えた。
手を掲げてもいない。命令も発していない。
なのに、彼が袋小路へ足を踏み入れた瞬間から、世界の方が勝手に彼へ道を譲っている。
「あなた……昨日の……!」
ルエリアの声が震えた。
ゼンは答えず、一体の機械天使の前で足を止める。
その機体が展開していた捕縛網の中では、トラ柄のペンギンが逆さまになってもがいていた。
「キュ~……」
「探したぞ、バカ鳥。勝手に盗み食いして捕まってんじゃねぇよ」
ゼンが網へ指を伸ばした、その瞬間だった。
捕縛網が力を失い、するりと地面へ落ちた。
ゼンは落下してきたケンイチの首根っこを、猫のようにつまみ上げる。
「キュ!」
『【警告】:拘束装置の強制解除を確認』
『【照合】:解除主体を特定できません』
機械天使たちの視覚装置が、混乱したように明滅しながらゼンを追う。
『【走査】:対象個体――異常なし』
『【照合】:停止現象との因果関係を確認できません』
ゼンはそんな警告など聞こえていないように、ケンイチを肩へ放り上げた。
そして、停止した機械天使の軍勢と、地面に転がるレグナス、動けずにいるルエリアを順に見た。
「なんだ。またお前らか。トラブルを引き寄せる電波でも出してんのか?」
「……その台詞、そのまま返すわ」
ルエリアはゼンを睨みつけた。
「昨日も今日も、あなたが来た途端にシステムがおかしくなってるじゃない」
ゼンは肩をすくめる。
「偶然だろ」
ゼンは、停止した機械天使たちに一瞥をくれただけで、そのまま引き返す。
「探しものしてただけだ。それに、これ以上は『過剰接触』になるからな。おいとまするわ」
『【復旧処理】:制御系統を再構築します』
『【再起動まで】:推定十秒』
ゼンは歩き出した。
ただし、足取りは妙に遅かった。
「待って……っ!」
ルエリアは声を絞り出した。だが、やはり「助けて」の四文字が、喉に引っかかって出てこない。言えば、自分が完全に壊れてしまう気がしたからだ。
ゼンはルエリアの横を通り過ぎる瞬間に、冷めた瞳で吐き捨てた。
「……『助けて』の一言も言えねぇのか。面倒な奴だな」
ルエリアは唇を震わせた。
否定したいのに、何一つ言い返せなかった。
──だが。
その隣で、倒れていたはずのレグナスが、這いつくばったまま顔を上げた。
「仕方ない! 余を助ける栄誉を授けよう! 助けてぇぇぇ!!」
プライドの欠片も残っていない、生きるための、あまりにも潔い全力の絶叫。
その声に、ゼンは再びピタリと足を止めた。
──第二話・終。




