第一話:『正しさの外側』
第一話:『正しさの外側』
『【警告】:本日の推奨行動:不要な会話は控えましょう』
『【警告】:過度な接触は評価低下の要因となります』
網膜に投影される白い文字が、視界の端で無機質に点滅している。
誰もがそれを気にしない――いや、気にしないふりをしていた。
最適化された日常。
機械のようにすれ違う人々。
誰も目を合わせず、誰も立ち止まらない。
空気だけが、じわじわと冷えていくようだった。
『【警告】:推奨経路から逸脱しています』
『【推奨】:上位街区へ帰還してください』
「分かってるわよ……!」
天使の少女・ルエリアは、視界の端に浮かぶ警告を乱暴に払い除けた。
背後を振り返る。
白銀の追跡機の姿は、まだない。
ソディウス・ゴモラスを抜け出し、下層へ逃げ込んでから、警告通知は一度も途切れていなかった。
ぼろぼろの外套を深く羽織り、ルエリアは足早に歩いた。
市民認証の位置情報だけは、強制的に遮断した。
だが、幼い頃から神経へ接続されている天界システムまでは、自分の意思では解除できなかった。
本気で逃げるなら、認証そのものも捨てるべきだった。
それでも、捨てられなかった。
いや。
捨てなかった。
管理社会から逃げ出したはずなのに、その管理システムだけは手放せずにいる。
自由になりたかったはずなのに、何も指示されないことが、どうしようもなく怖かった。
それでも、どこかで自分の感情まで見張られているような気がして、胸の奥が落ち着かなかった。
『【警告】:感情の揺らぎを検知しました』
『【推奨】:安定した行動を推奨します』
「……もう、評価なんて関係ないでしょ」
そう呟いた自分の言葉に、ルエリア自身が驚いた。
本当にそう思っているわけではない。
システムから切り離され、評価が下がり続けることへの恐怖は、まだ胸の奥に冷たく残っていた。
ドンッ。
不意に、正面から歩いてきた男と肩がぶつかった。
男はルエリアを一目見るなり、即座に頭を下げ、アバターの表情を「平謝り」に固定した。
「すみません」
『不適切接触ログを記録しました』
男はアバターの笑顔の陰で、小さく舌打ちした。
「……チッ。何もしてねぇよ」
「……これが普通。今までの私は、そう思ってた」
ルエリアは立ち去る男の後ろ姿を見つめ、自分に言い聞かせるように、小さく呟いた。
その時だった。
『【警告】:感情の──【er…or】』
『【警告】:定義不──【e…】』
「っ……!?」
ルエリアは息を呑み、思わず目を瞬かせた。
網膜のシステム表示が一瞬だけ、まるで強烈なジャミングを受けたかのように真っ赤に反転し、歪んで消えたのだ。驚いて周囲を見回すが、行き交う人々は誰一人としてその異変に気づいていない。ルエリアの視界のシステムだけが、明確に狂っていた。
視線の先、大きな木陰。
一人の青年が、芝生の上に寝そべっていた。
その傍らでは、トラ柄の奇妙なペンギンが、青年を真似るように丸くなって眠っている。
彼の頭上には、市民なら誰もが怯えるはずの『警告ウィンドウ』が、エラーを起こしながら何十枚も不気味に重なって表示されている。
『【警告】:芝生への立ち入りは禁止されています』
『【推奨】:速やかに退避してください』
青年は欠伸を一つし、そのまま寝返りを打った。
まるで世界そのものに、一切の興味がないかのように。
『【警告】:推奨行動への不履行を確認』
『【警告】:評価が低下します』
「……うるせぇな」
通りすがった人々は青年をちらりと見ると、まるで汚れでも見るように目を逸らし、誰一人近づこうとはしなかった。
「関わるな」
「評価まで下がる」
誰かが小さく囁く。
ルエリアだけが、その異様な光景から目を離せなかった。
その光景を見渡した次の瞬間。
「くだらん‼」
木陰の青年とは真逆の方向――きれいに舗装された通りの真ん中から、静寂を切り裂くような、堂々とした少年の声が響いたのはその直後だった。
ルエリアが声のした方へ振り向くと、腰に鉄の剣を下げた少年レグナスが立っていた。この高度に管理された世界にはおよそ似つかわしくない、異質な存在。
「息苦しくないか? 何をそんなに気にしながら生きておるのか?」
周囲を見渡しながら、少年は呆れたように、そして堂々と問いかけてきた。
「ここも、さっきまでいた白い街とたいして変わらんな」
「白い街……? あなた、まさかソディウス・ゴモラスから来たの?」
ルエリアは思わず問い返した。
「そうだが!」
「どうしてソディウスにいた人間が、こんな下層に……。いい? ここはあそこみたいにシステムが全部守ってくれる場所じゃないの。目が合っただけで絡んでくる人間だっているのよ」
絶句するルエリアを余所に、少年レグナスは自信満々に胸を張った。
「余は最強だからな!!」
「はぁっ!? いい? 外には目が合っただけで襲いかかるモンスターみたいな生き物や、虚偽の映像で人を陥れるような不適切な連中が繁殖しているの! 危険性がわかった?」
少年はゆっくりと顔を上げた。その瞳には、野生児のような言葉とは裏腹に、迷いのないまっすぐな光が宿っていた。
「それが何なのじゃ? 悪い奴がおるからって、全員疑うなんて損ではないか」
「…………っ」
ルエリアの思考が停止した。言葉を返せない。
彼女が育った世界では、すべてがシステムに最適化され、人を疑うことも、ルールから外れることも、すべてが『エラー』でしかなかったからだ。
「うるさいぞ。そこの哀れな二人」
うっとうしそうに、でも自然と鼓膜に染み込んでくる口調。
先ほどまで木陰で寝そべっていた青年――ゼンが、気だるげに起き上がってこちらを見ていた。
「お前さ……さっきから“間違えないこと”ばっかり考えてるよな」
「なによあんた? それが普通でしょ」
ゼンは空を見上げ、ルエリアの胸を刺すように言った。
「普通ねぇ……その割に、全員つまんなそうだけどな。……特に、お前とか」
「な……っ、なんですって……!?」
ルエリアはカッと顔を赤くし、ゼンを睨みつけた。
「間違えないことは、正しいことよ。正しいから、みんな安心して生きていられるの。私は、べつにつまらなくなんて──」
「本当にそう思ってるのか?」
「……っ、思ってるわよ! これは正しいことなんだから!」
『【警告】:感情の揺らぎを検知しました』
激しく点滅する通知。ルエリアは唇を噛んだ。強がりながらも不安げに揺れる彼女の瞳を、ゼンは一瞬だけじっと見つめた。
「貴様、何者だ」
レグナスがゼンを睨みつける。ゼンは少しだけ視線を上げた。
「ただの通りすがりだ。……それよりお前、ズレてるな。立ち方。目線。呼吸。この世界の人間じゃねぇ」
「……余はレグナス。最強の騎士だ。で、貴様は?」
青年は少し黙り込み、それから面倒そうに答えた。
「ゼン。……それ以上は、俺もよく知らない」
「知らないって何よ。自分のことくらい説明できるでしょう?」
ルエリアの追及に、ゼンは自嘲気味に口元を歪めた。
「知らないから、俺は生きていけるのかもな」
さらりと告げながら、ゼンは何かを確かめるように、自分の手のひらを見つめた。
「逃げろ! ロボ天使だ!!」
その時、路地裏から子供たちの悲鳴が響いた。
先頭を走る少年の腕には、食べかけの同期パンが抱えられている。
『未登録の食料取得を確認』
『窃盗対象を拘束します』
背後から浮遊してくるのは、白銀の執行機械――ロボ天使。
「盗んだの……?」
ルエリアは反射的に外套の襟を引き上げ、顔を隠した。
ここで騒ぎを起こせば、自分の居場所まで知られてしまう。
それに、盗みは明確な規則違反だ。
拘束されるのは当然のこと――そのはずだった。
子供の一人が石畳につまずき、地面へ倒れ込む。
腕の中から転がり落ちたパンへ、痩せ細った手が必死に伸びた。
『対象の抵抗を確認』
『強制拘束へ移行します』
ロボ天使の腕から、鋭い銀色の捕縛ワイヤーが展開される。
「……そこまでする必要は……」
思わず声が漏れた。
だが、ルエリアの足は動かない。
助ければ見つかる。
規則を破ったのは、あの子供だ。
自分には関係ない。
そう言い聞かせているのに、パンへ伸ばされた小さな手から目を逸らすことができなかった。
「……だから嫌いなんだよ」
気だるそうな声と共に、ゼンが歩み出た。
まるで散歩の途中に、道端の石を拾うような足取りで。
「おい、天使」
ゼンはルエリアを見ないまま問いかけた。
「こいつらは、飢えて死ぬのが正しいのか?」
「それは……」
反射的に、教え込まれた答えが口をつく。
「盗みは、規則違反よ。だから――」
いつもなら、その先の言葉は迷わず出てきた。
処罰されて当然。
なのに今は、口にできなかった。
ルエリアは倒れた子供を見つめる。
「だから……拘束されるのが、正しい……はず……」
「正しいはず、ね」
ゼンは小さく鼻で笑った。
「ルールなら、腹は膨れねぇだろ」
『【警告】:執行を継続します』
迫るワイヤー。ゼンは深くため息をついた。
「なら仕方ねぇな」
黒い何かが滲み出す。影。泥。呪い。世界の法則そのものを汚染するような黒。
ゼンが右手を上げると、システムが狂ったように悲鳴を上げた。
『【警告】:未知の権限を確認』
『【警告】:対象の走査に失敗』
『【エラー】:論理整合性を喪失──』
『【再試行】:error──error──error』
世界の絶対的な管理者であるシステムが、理解できない異物を前にしてパニックを起こしていく。
「お前らの正解に入らねぇなら、俺は外でいい」
黒い銃身が形成される。二丁拳銃が、牙を剥いた。
ゼンが引き金を引く。黒い閃光。
音も衝撃もない。
ルエリアの視界に表示されていた機械天使の識別コードが、端から一文字ずつ黒く塗り潰されていく。
【ANGEL-EXECUTOR】
【ANGEL-EXE■■■】
【■■■■■■■■】
次の瞬間、天界の秩序を執行する存在が、識別コードすら残さず消えた。白銀の身体がボロボロと崩れ落ち、静かな鉄屑の山へと変わっていた。
「あ……、あ……っ」
ルエリアは恐怖で身をすくませ、震える瞳でゼンを見ていた。
助かった安堵などない。自身の拠り所である「正しさ」を目の前で無残に破壊された混乱。
「何よそれ……そんなの、世界の定義にないわよ……! あなた、一体何を呼び出したの!?」
「正しさの外側かな?」
ゼンはだらけきった無表情に戻り、歩き出す。
「待ちなさい! 答えなさいよ!」
ルエリアが叫ぶが、青年は振り返らない。
「その文字より、自分の目で見ろよ」
ただ一言だけ残し、青年は雑踏へと消えていった。
──その瞬間、ゼンの脳裏を鋭いノイズが駆け抜けた。
「……っ」
一歩だけ足が止まる。
視界の端が黒く染まり、頭蓋の奥を細い針で掻き回されるような痛みが走った。
その肩口では、トラ柄の奇妙なペンギンが、不安そうにゼンの顔を見上げていた。
「いつものことだ」
ゼンはこめかみを押さえ、何事もなかったかのように再び歩き出した。
ただ、その背後を追うケンイチのトラ柄の一部が、一瞬だけ黒いノイズに侵食されていた。
『【警告】:緊急更新情報を受信しました』
『【推奨】:発見時は直ちに上位天使へ報告してください。接触を避けてください。対象は極めて危険です』
ルエリアの視界を真っ赤な警告文が埋め尽くしていく。
けれど、彼女の脳裏に焼き付いて離れないのは、先ほど向けられたゼンの、どこか虚無を抱えた瞳。そして「こいつらは飢えて死ぬのが正しいのか?」というあの言葉だった。
ルエリアは恐怖も冷めやらぬまま、小さく唇を噛み、その通知を閉じた。
一度目は、自分の心を守るためだった。
今度は、誰かの言葉を自分で確かめるために。
赤い警告が、視界から消える。
それは逃亡したあの日とは違う、二度目の『エラー』だった。
──第一話・終。
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