序章Ⅱ:『同期率 99.4%』
午前六時。
覚醒を促す神聖な鐘の音が、彼女の脳波に直接響いた。
「おはようございます、ルエリア様。本日の精神波は極めて良好。天界システムとの同期安定率は九九・四パーセントです」
九九・四パーセント。
十分に優秀な数値。
それでもルエリアは、残りの〇・六パーセントが何なのか、幼い頃から少しだけ気になっていた。
視界の隅に、今日の予定を告げる白い文字が浮かぶ。
同時に、簡素だった部屋の壁が白亜の大理石へと塗り替わり、足元には雲のような床が広がった。
これが【空間同期】。
現実の部屋へ、仮想空間の質感と機能を重ねる技術だ。
天界の管理AIによって『善良市民』と認定された者だけが住む上位街区――『ソディウス・ゴモラス』。
巨大な白銀の壁によって、同期率の低い下層街区から完全に隔離された楽園である。
現実の街にも、建物も道路も空も存在している。
だが、古びた壁を修繕するより、その上から白亜の宮殿を同期した方が早い。曇り空が気に入らなければ青空を重ね、質素な食事には最高級の味覚データを与えればいい。
人々はいつしか、現実を作り直すより、理想のデータで覆い隠すことを選ぶようになった。
ルエリアがダイニングへ向かうと、あらかじめ同期処理された朝食が並んでいた。
完璧な栄養バランス、完璧な温度、完璧な味付け。
「美味しい」と声に出す必要はない。咀嚼するだけで、脳の味覚プロファイルに「至高の充足感」のシグナルが直接送信されるからだ。
完璧に美味しい。
けれど、昨日とまったく同じ味だった。
ルエリアは一瞬だけ手を止めたが、すぐに網膜へ『【認知】:安定した味こそが絶対の幸福です』と表示され、考えるのをやめた。
「本日も推奨される効率的行動をお取りください。あなたの幸福はシステムによって保証されています」
AIの心地よい合成音声を聞きながら、ルエリアはクローゼットを開けた。
中にあるのは、装飾一つない簡素な白い衣服だけだった。それが、同期を解除した彼女の肉体が実際に纏っている唯一の衣服だった。
現実に豪華な刺繍を施す必要はない。データを重ねれば、何千種類もの聖装へ一瞬で着替えられるからだ。
ルエリアがその布地へ天使の【アバターコード】を同期させた瞬間、鏡の中の彼女は、簡素な白い衣服とは似ても似つかない、汚れなき純白の聖装を纏っていた。
街へ出ると、そこは目も眩むような白い楽園だった。
ゴミ一つない大通り。頭上には、現実の異常気象を完全に遮断した、どこまでも透き通るようなデジタルの青空が広がっている。
この上位街区では、現実の年齢も傷も生活の困窮も、高品質なアバターで覆い隠すのが当然とされていた。
誰も立ち止まらない。誰も大声で笑わない。
この街の住民は全員、網膜に投影される『推奨行動』に従って動いている。
遠くで、二人の子供が追いかけっこをしながら大声で笑った。
『【警告】:歩行レーンからの逸脱を検知』
そばにいた母親が慌てて二人の手を引く。
笑い声は、機械のようにぴたりと止まった。
なぜかルエリアは、静かになったことを少し寂しいと思った。
『【推奨】:前方のアバターとの距離を二メートル維持してください』
『【警告】:不要な視線接触は効率低下を招きます』
ふと、歩行レーンを外れて道端に座り込んでいる老人が目に入った。
老人のアバターはところどころノイズが走り、ポリゴンが剥がれかけて灰色の粗末な現実の肌が覗いている。同期料金を支払えなくなった者。システム上では『余剰データ』に分類される人間だった。
街の防衛AIである白銀の機械天使たちが、音もなく老人の前に浮遊した。
『【検知】エラー。対象の同期権限を停止。これより下層セクターへ強制転送します』
機械的なワイヤーが老人の細い腕を絡めとる。周囲の歩行者たちは、誰一人として視線を向けない。アバターの瞳データは一様に前方を向いたまま、冷徹に、無感動に通り過ぎていく。
(可哀想なんかじゃない。)
(ルールに従えなかっただけ。)
(……そうよ。)
そう自分に言い聞かせた瞬間、視界の隅で評価値が小さく跳ね上がった。
『【承認】:正しい倫理観を検知しました。本日も市民ランクは安定しています』
脳内に、ご褒美のような微小な快楽物質のデータが注ぎ込まれる。
ああ、便利だ。何も考えなくていい。システムが全てを最適化し、何が正しく、何が幸せかを教えてくれる。この世界に不幸など存在しないはずだった。
ガシャ、と重苦しい音が響いた。
機械天使に拘束され、引きずられていく老人の手首から、小さな、不格好な木彫りの人形が床へ転がり落ちた。
それは何のデータも、同期コードも持たない、ただの古びた現実の物質。
老人の手が、必死に人形へ伸びる。
ルエリアは歩行レーンを進み続けた。
そのまま通り過ぎる。
二歩。
三歩。
……足が止まる。
「……」
振り返る。
空間同期された偽物の景色の中で、その不格好な本物の人形を、自分自身でも理由が分からないまま拾い上げた。
『人形をその場に置いてください』
ルエリアの手が止まった。
「これは……」
『【再警告】:処理対象への私物返還は禁止されています』
「それだけは……それだけは、死んだ孫が作ってくれたものなんです……!」
引きずられていく老人が、絶望に震える声を上げた。
『該当物を破棄してください』
ルエリアは、手の中の不格好な人形を見つめた。
正しい行動は、捨てること。
システムに従うなら、それ以外の選択肢は存在しない。
それでも――。
ルエリアは駆け出した。
機械天使の制止をすり抜け、老人の泥だらけの掌へ、人形を強く押し戻す。
「……返します」
老人が息を呑んだ。
「ありがとう……」
ルエリアの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
その瞬間。
『命令違反』
『精神同期率低下』
『監視対象へ移行』
視界の隅で、評価値が真っ赤に反転した。
それは小さな命令違反ではなかった。
生まれて初めて、天界の正解より、自分の心を選んだ瞬間だった。
99.4。
92.1。
81.7。
70.0。
69.9――【境界値突破:エラー】
数字が滝のように滑り落ちていく。
背後で、数機の機械天使が一斉に白銀の翼を開いた。
『【警告】:第一級保護対象ルエリア・セラフィナの精神同期率が規定値を下回りました』
「第一級保護対象……?」
『器の安定性に異常を検知』
『通常の幸福矯正を中止』
『対象を最優先回収対象へ移行します』
「器……? 回収……?」
これまで自分を守り、正しい道を教えてくれていた機械天使たちが、冷たく腕を掲げる。
銀色の捕縛ワイヤーが展開された。
『抵抗せず、回収処理を受けてください』
幸福矯正。
間違った人間の感情を整え、再び正しい市民へ戻すための、素晴らしい制度。
そう信じていた。
けれど、機械天使たちは今、自分を「矯正する」とは言わなかった。
――回収する、と言った。
まるで自分が、一人の天使ではなく、天界が所有する何かであるかのように。
ルエリアは一歩、後ずさった。
背後には、下層街区へ続く境界門が、警報音とともに閉じ始めている。
前方には、自分を正しい存在へ戻そうと迫る天使たち。
逃げることは、明確な規律違反だった。
間違った選択だった。
それでもルエリアは、人形を返した右手を胸元へ引き寄せた。
老人の泥だらけの手の温もりが、まだ掌に残っている。
「……ごめんなさい」
誰に謝ったのか、自分でも分からなかった。
ただ、それまで信じてきた世界へ、別れを告げた気がした。
次の瞬間、ルエリアの背中から、純白の光が弾けた。
普段は身体の奥に格納されている天使コードが展開され、一対の美しい翼となって広がっていく。
閉じかけた境界門をすり抜け、初めて見る灰色の世界へと飛び出した。
背後で、不吉な警報が鳴り響いた。
『逃亡を確認』
『追跡を開始します』
白銀の翼が一斉に空へ舞い上がる。
ルエリアは振り返らず、灰色の下層街区へ向かってどこまでも落下していった。
初めて自分で選んだ道は、システムが示す正解とは、正反対の方向へ続いていた。
──序章Ⅱ・終。




