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序章:『バグ』

暗闇。

何も存在しないはずの漆黒の空間に、突如として無数の白い数式が走り、世界を構築していく。


『SYSTEM SCAN』

『世界同期率:99.99998%』

『市民幸福指数:99.4%』

『犯罪発生率:0.001%』

『秩序:正常』

『……』

『……』

『ERROR』

『対象カテゴリー照合:該当なし』

『対象:解析不能』


──視界が反転する。


仮想空間のデータが現実と見分けがつかないほどの質感で重ね合わされた、美しい同期街区。現実には、雨に濡れた古い街並みが広がっている。


だが、システムが空間を同期シンクロさせた瞬間、ボロボロの土壁はガラス張りの高層ビルへと変わり、澱んだ空にはデジタルの青空と、満開の桜のホログラムが鮮やかに広がる。人々は、その二つの世界を区別することなく日常を生きていた。


街を行き交う者たちは、完璧な美男美女のアバターを身に纏い、表示された歩行レーンを迷いなく進んでいた。


レーンの端で、一人の女性が躓いて激しく転倒した。

すかさず、彼女の網膜UIが優しく明滅する。


『転倒を検知しました。脳内へ微小な痛み軽減シグナルを送信します』


瞬時に救急ドローンが舞い降り、女性を優しく抱き起こした。


『お怪我はありませんか? 推奨行動に従うことで幸福が保証されます』


「ありがとう」


女性が微笑むと、ドローンは無機質に応じた。


『どういたしまして。お大事になさってください』


その完璧な大通りから一本外れた、ホログラムの桜がバグで剥がれかけた薄暗い路地裏。


視界には青空が広がっている。それでも、頬を打つ冷たい雨だけは本物だった。


その路地裏の木陰に、一人の黒髪の青年――ゼンが、雨に濡れた芝生の上に寝そべっていた。ボロボロの服。ただ眠そうに片目を開ける。

彼の肩の上には、トラ柄の模様を持つペンギン――ケンイチがちょこんと乗っていた。


ケンイチは喋らない。ただ、ゼンを見つめて「キュ」と短く鳴いた。

ゼンは言葉を返さず、ただ指先でその小さな頭を軽く小突いた。


路地の向かいには、古い木造のパン屋があった。

店主の老人が、少し焦げ目のついた本物のパンを不器用に並べている。

その前に、白銀の維持AI――機械天使が音もなく浮遊してきた。


『警告:該当エリアの効率低下を検知』

『対象:パン屋の営業停止を推奨』

『理由:味覚データの非効率性』


「なぜじゃ……」


『同期食を配布すれば、市民全員へ三秒で提供できます』


『あなたのパンは一時間に二十六個』


『同期食は一時間に百二十万個』


『あなたは非効率です』


老人は少し笑った。


「そうかもしれんな」


そう言って焦げたパンを撫でる。


「でものう」


「この焦げ具合は、わしにも二度と焼けんのじゃ」


機械天使は沈黙した。


『……理解不能』


機械天使の頭上から、完璧な形状と栄養の「同期パン」のデータが数式と共にその場へ配布される。

誰も老人のパンには近づかない。

だが、不思議なことに、完璧な同期パンにも誰一人として手を伸ばさなかった。


『……理解不能。需要予測との齟齬を検知』


網膜に浮かぶ『不要な接触は評価低下の要因』という警告文に従い、人々は目を逸らして一歩もレーンを外れずに歩き去っていく。

老人は焦げたパンを見つめ、寂しそうに少しだけ笑い、それから、小さく涙を流した。


木陰では、ゼンが片目だけを開け、その光景をぼんやりと眺めていた。

ケンイチが小さく「キュ」と鳴くが、ゼンは何も言わない。


少し離れた無人工場の前では、工場の制服を泥だらけの手で握りしめた男が、機械だらけの建物を見上げていた。


入口には白銀の機械天使が静かに浮かんでいる。


「頼む……!」


男は必死に声を張り上げた。


「俺は十五年ここで働いてきた! まだ働ける! 同期設備の点検だって、機械じゃできねぇ仕事があるはずだ!」


機械天使は一瞬の間もなく答える。


『却下』


『設備保守、製造、品質管理、搬送、修繕。すべてAIによる自動演算へ移行しました』


「そんな……」


『あなたの労働は現在の世界において必要ありません』


男は拳を震わせる。


「じゃあ俺は……これから何をすればいい……」


『推奨行動を表示します』


男の網膜に白い文字が浮かぶ。


『アバターランク維持のため、一日六時間の演算資源提供を推奨』


『幸福プログラムを受信してください』


男は笑った。

乾いた、壊れたような笑いだった。


「……仕事じゃなくて、電池になれってか」


手から古びた作業用ヘルメットが転がり落ちた。

カラン、と乾いた音だけが響く。


機械天使の赤色センサーが、項垂れる男を冷徹に走査する。


『ノイズデータを検出。規律に基づき、効率の最適化を実行します』


木陰でそれを見ていたゼンが、ゆっくりと立ち上がった。

歩く。雨に濡れた芝生が静かに軋む。

立ち止まり、深く、心底面倒そうにため息をつく。

角を曲がり、無機質な機械天使の前へと歩み出た。


ケンイチが「キュ」と小さく袖を引く。

ゼンは構わず、死んだ目のまま機械天使の正面に立った。


『警告:未登録のアバターを検知。レーンに戻ってください』


ゼンは静かに街を見渡した。


高層ビル。


青空。


走る車。


笑う人々。


「何でも作れるんだな。全部お前らは綺麗に同期できる」


機械天使は答える。


『はい』


『それが神の同期による絶対秩序です』


ゼンは老人を見る。


焦げたパン。


男を見る。


泥だらけの制服を握り締める手。


そして静かに言う。


「でも」


「後悔は?」


沈黙。


「愛情は?」


沈黙。


「思い出は?」


沈黙。


「誰かを失った痛みは?」


機械天使は答えない。


「……だから人間は面倒なんだ」


ゼンは少しだけ笑う。


「結局、人間だけは同期できねぇ」


『発言の論理性を喪失しています』


「完璧ってのは本当に不便だな」


黒い何かが、ゼンの右腕からドロリと滲み出た。影。泥。呪い。世界の論理そのものを汚染する漆黒のバグコード。

ゼンが右手を軽く掲げた瞬間、機械天使の赤色センサーが狂ったように明滅を始める。


『【警告】:未知の権限を検知』

『【エラー】:論理整合性を喪失――』


衝撃音すらしない。

ただ、機械天使の白い装甲が内側からボロボロと腐食するように剥がれ落ち、次の瞬間には静かな鉄屑の山へと変わっていた。


「あ……」


老人が手を伸ばす。

だが、ゼンは振り返ることもなく、雨の雑踏の中へと消えていった。


「ママ! 虹!」


小さな女の子が足を止め、指を差す。

母親も思わず立ち止まりかけたが、すぐに網膜UIが冷たく警告を発した。


『推奨行動から逸脱しています』


母親は前を向き、何事もなかったかのように機械的に歩き出す。

少女だけが、名残惜しそうに何度も空を振り返っていた。


その場で空を見上げていたのは、ゼンだけだった。


同期された虹。


少しノイズが走っている。


ゼンは小さく呟いた。


「……偽物でも、綺麗なもんは綺麗か」


誰もいなくなった路地裏の木陰。

静まり返った暗闇の中に残された、鉄屑の山。

その残骸の上で、天界のシステムログだけが超高速で演算を繰り返している。


『検索中……』

『検索中……』

『検索中……』


『ERROR』

『対象を削除できません』

『原因:不明』

『……』

『……』


『定義不能』


画面全体が真っ赤なノイズで埋め尽くされ、一瞬で消える。

最後に、たった一行だけが冷酷に浮かび上がった。


『バグ』


──その瞬間。


遥か遠く、白銀の境界線がそびえ立つ上位街区『ソディウス・ゴモラス』の時計塔の上。

一人の純白の天使の少女――ルエリアが、下層から響いた微かなノイズに気づいて視線を落とした。


視界の白い文字が、一瞬だけ乱れる。


【緊急警告】

下層セクターに規律異常を検知。

修正対象を更新します。

対象――『バグ』


「……バグ?」


少女は小さく眉をひそめた。


完璧な世界で。


その言葉を見るのは初めてだった。


天使の少女は瞳を見開き、小さく息を呑んだ。


──序章・終。

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― 新着の感想 ―
応援できればと思い来ました(^ ^) システムログで完璧な管理社会を構築する冒頭が鮮烈で、映像的な世界観に引き込まれます。書き手として感心したのは、焦げたパンや泥だらけの制服という「非効率」を、人間…
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