第三十七話 :『捨てられた翼と継がれた遺産』
冷たい宵闇の霧が、東方境界の街をゆっくりと包み込んでいた。
その霧さえも、空間同期によって描かれた仮想現象なのだろう。街角ではノイズ混じりのホログラムの桜が舞い、人々は何事もないように行き交っている。
しかしその裏側では、街全体が静かに軋んでいた。
「……ん、……っ」
微かな呻き声と共に、黒髪が揺れた。
黒い和服に身を包んだ少女は、ゆっくりと重い瞼を持ち上げた。
視界に飛び込んできたのは、見慣れた我が家の、薄暗い天井だった。
街の最果て、仮想空間の同期技術すら満足に届いていない、剥き出しの土壁と埃っぽい畳が広がる寂れた長屋。そこが彼女の隠れ家だった。
「気がついたか」
低く、抑揚のない声が室内に響く。
少女は弾かれたように上半身を起こした。
全身に残る同期解除ノイズの残滓と鈍い痛みに顔を顰めながら視線を巡らせると、部屋の隅、唯一の窓から差し込む薄い月光を背に、ゼンが壁に寄りかかって座っていた。
ゼンの足元では、衣服の影から虎柄のペンギン『ケンイチ』が、心配そうに少女を見つめて「キュー……」と鳴いている。
「あんた……どうしてここに」
「天狗の術でバラバラに吹き飛ばされた後、お前は気絶していた。死なれると仲間との合流方法が分からなくなる。お前が握りしめていた呪符の同期ログを追ったら、このボロ家に繋がっていただけだ」
ゼンは感情の失せた瞳で少女を見つめる。
その指先には、少女が大切に持っていた、中心に奇妙な幾何学模様が描かれた古びた呪符が挟まれていた。
「あっ、それを返しなさい……!」
少女がベッドから身を乗り出して必死に手を伸ばすと、ゼンは抵抗することなく、あっさりと呪符を彼女の元へ放り投げた。
愛おしそうに、そして崩れ落ちそうなほど安堵した様子で呪符を胸に抱きしめる少女の姿を見ながら、ゼンは核心を突くように、静かに口を開く。
「手首の同期拒絶反応。悪魔の肉体で同期術を使った痕だ。それに、陰陽術の符を使う歪さ。……お前、天狗の一族じゃねぇな。悪魔の出来損ないか?」
少女の身体が、ビクリと硬直した。
後頭部の黒い羽根飾りが警戒で逆立ち、屈辱にその顔が歪む。
「……だったら何よ。外来者のあんたには関係ないでしょ。私は『天狗の一族』よ。そう名乗ったはずだけど」
「名前も名乗れない奴の言葉に信用はない。街の情報くらいは置いていってもらう」
ゼンから放たれる、底の知れない圧倒的なプレッシャー。
天使と悪魔、二つの強大な気配を同時に内包する彼を前に、少女は小さく息を呑み、諦めたように自嘲気味な笑みを浮かべた。
「……角なしって、生まれたときはそう呼ばれてたわ。生まれた日から誰も名前なんて付けてくれなかった」
「無能。役立たず。失敗作。それが私だった」
「でも、今の私の名前は『ナユ』。あの人が、そう呼んでくれた」
「初めて名前を呼ばれた日、嬉しくて眠れなかった」
「だから、その名前と遺産だけは誰にも奪わせたくない」
ナユは細い膝を抱え、ぽつりぽつりと自らの境遇を語り始めた。
「私はね……悪魔よ。それも、生まれつき魔力も固有の属性も持たない、最底辺の落ちこぼれ。悪魔の里じゃ『無能』って罵られて、データのエラー品みたいに世界の境界へ捨てられたの」
それは、血統と才能が全てを決める世界での、残酷な現実。
行き場を失い、消滅を待つだけだった幼い彼女を拾ったのが、この街にいた『天狗の一族の長』――当時、街で最強と謳われた天才陰陽師だった。
「あの人は、悪魔の私を拒絶しなかった。『血筋なんて関係ない、お前はお前だ』って。そして、私に天狗の陰陽術を教えてくれたの」
悪魔の肉体で、人間の特別な同期技術を扱う。本来、激しい拒絶反応を伴う自殺行為に等しい。
ナユの手首にある黒い痣のような痕跡は、その拒絶反応の痛みに抗い続けた「爪痕」だった。
それでも、ナユは生きるために、そして自分を救ってくれた長に報いるために、必死に努力した。
他の天才天狗たちが1回で覚える基礎の結界を、1,000回、10,000回と繰り返し、爪が剥がれ、指先から血を流しながら、体内に呪力を馴染ませていったのだ。
「特別な才能なんて、私にはこれっぽっちもない。ただ普通に、人並みの術が使えるようになるまでに、何年もかかった。それでも……嬉しかったの。あの人の役に立てている気がしたから……っ」
だが、そんな幸福な時間は長くは続かなかった。
最強の陰陽師であった天狗の長が、数年前に突然、姿を消した。
「あの人が居なくなって、街のバランスは完全に崩れた。妖狐と神狼は、待ってましたとばかりに街の覇権を争い始めて……。天狗の一族も、長の息子が跡を継いだけど、あいつは血統主義の塊みたいな奴でね。長が私に遺してくれた『最強の式神のデータ』を奪うために、私を天狗の里から追い出して、今もこうして執拗に追っ手を差し向けてくるってわけ」
ナユは胸元の呪符を、強く握りしめる。
その瞳に、激しい怒りと悔し涙がせり上がってくる。
「あいつらはみんな、私のことを『血筋の汚れた無能』ってバカにする! 神狼も、妖狐も、今の天狗の奴らも……全員、先祖から受け継いだ血統の能力にあぐらをかいてるだけの癖に……ッ!」
ナユの壮絶な過去と、血の滲むような努力の告白。
だが、目の前に座るゼンは、眉一つ動かさなかった。
「……だったら、なぜまだそんなに弱い?」
ゼンの冷徹な一言が、静まり返った室内に突き刺さった。
「え……?」
ナユは耳を疑ったように目を見開く。
「お前がどれだけ努力したかは知らん。だが、結果としてさっき死にかけていた。俺たちが手を貸さなければ、今頃その遺産も、お前自身もあいつらの手の中だった」
「な、何よ……! あんたに何が分かるのよ!」
ナユはシーツを握り締めた。
「私は何年もやってきた! 爪が剥がれても、血が出ても、誰にも認められなくても……それでも続けてきたの!」
「それでも届かなかった」
ゼンは淡々と言い切る。
その一言に、ナユの顔が歪んだ。
「そうよ! 届かなかったわよ!」
ナユはベッドを強く叩いた。
「どれだけ呪符を書いても、血統持ちの一撃で簡単に破られる! 生まれた瞬間から全部持っていた奴らに、何年かけても追いつけない!」
大粒の涙が頬を伝い落ちる。
「あんたみたいに、最初から何でも持ってる奴に、その絶望が分かるの!?」
ゼンは小さく鼻で笑った。
「最初から、か。勝手に決めつけるな」
「え……?」
「俺の力が、何の代償もなく手に入ったと思っているなら、お前の目は節穴だ」
ゼンの脳裏に、力を使うたびに支払ってきた激痛と、失われた記憶がよぎる。
「努力を否定するつもりはない。だが、努力した事実だけで敵には勝てない」
ナユは涙を拭いながら、ゼンを睨みつけた。
「……それでも、私は諦めない」
「なら、それでいい」
「え?」
「足りないものを、才能のせいにして立ち止まるな。勝てないなら、別のものを使え」
ナユは眉を寄せた。
「別のものって、何よ」
ゼンは短く答えた。
「運だ」
「は? 運……?」
ナユは呆気に取られたように瞬きをした。
「何よ、それ。運でどうにかなるなら、私はとっくに救われてるわ。魔力もなく生まれて、里を捨てられて、今だって追われてる。どこが運がいいのよ」
「お前は捨てられた。だが、最高峰の陰陽師に拾われた」
ナユの表情がわずかに揺れる。
「それは……」
「今日も同じだ。追っ手に囲まれて死にかけたお前の前に、俺たちが現れた」
「でも、それは偶然で――」
「運なんて全部偶然だ」
ゼンは少女が握る呪符へ視線を落とした。
「ただし、何もせずに倒れていた奴には、その偶然は訪れない。お前が術を覚え、生き延び、今日まで逃げ続けたから、ここで俺たちに会った」
あの日、境界で消えるはずだった自分の手を、長が掴んでくれた。
そして今日、再び誰かがその手を掴んだ。
「……私、運が悪いだけじゃなかったの?」
「運がない奴は、そんな偶然を二度も引かない」
ゼンの言葉が、静かにナユの胸に落ちていく。
ナユは胸元の呪符を握り締めた。
ゼンはゆっくりと立ち上がり、窓の外を見つめた。
夜の闇に紛れる街の灯りを見つめながら、最後に一言だけ、部屋に残すように呟く。
「努力は才能には勝てない」
ゼンは振り返らなかった。
「だが、努力は運を引き寄せる」
ナユはその言葉を、ただじっと噛み締めていた。
(妖狐と神狼、そして天狗。……この街は、想像以上に歪んでいるな)
バラバラになったルエリアとレグナスは、今頃どうしているだろうか。
彼らもまた、この街の持つ歪みに、それぞれの場所で直面しようとしていることを、ゼンはまだ知る由もなかった。
──第三十七話・終。




