第三十六話:『境界の古都、歪なる電子の八百八町』
世界の東の果て。
深く切り立った山々に囲まれたその境界には、日の光さえ届かぬ濃霧が立ち込めていた。
湿った土の匂いと、どこか電子の焦げたような奇妙な臭気が鼻を突く街道を、ゼン、ルエリア、レグナスの三人が進んでいく。
彼らの視界の先、濃霧を両側へ押し分けるようにして、それはそびえ立っていた。
天をも突くほどに巨大な『朱色の鳥居』。
太い柱は、まるで世界と世界を繋ぐ絶対的な門のように、ただ静かに佇んでいた。
その遥か上空。
街を見下ろす霊峰の頂、巨大な御神木に築かれた社の奥深くにて。
一匹の巨大な『白狐』が、薄暗い社の中で静かにその黄金の瞳を開いた。
「……ふむ。外から客が来たか」
白狐が、低く艶やかな声で呟く。
背後に直立し、影のように控えていた陰陽師たちが、一斉に深く頭を垂れた。
「当主様。処理いたしましょうか」
「いや」
白狐は、くつくつと喉を鳴らして妖しく笑う。
「好きにさせておけ。……それより、天狗の忘れ形見はどうしておる?」
「は。現在も一族の者が追跡中です」
「そうか」
白狐の黄金の瞳が、物理的な距離を無視して鳥居の向こうをじっと見つめる。
「天使、悪魔……そして人間か。これほど歪な組み合わせ、そうはおらぬ。……あの娘が、良い鍵になるやもしれんな」
不気味な予言だけを残し、山は再び深い静寂に包み込まれた。
――ザザッ。
鳥居を目前にしたその時、先頭を歩いていたゼンが不意に足を止めた。
衣服の奥、彼の影がわずかに波打つ。
「どうした、ゼン?」
レグナスが振り返り、腰の長剣の柄に手を当てた。
「美味い飯の匂いでもしたか?」
「違う。……来るぞ」
ゼンの冷めた視線は、街道の脇に広がる鬱蒼とした森へと向けられていた。
ガサリッ、と草木を激しくかき分ける音が響き、木々の隙間から一人の少女が飛び出してきた。
身にまとっているのは、夜の闇を溶かしたような黒い和服。激しい動きに躍る、見事な黒髪。
そして黒髪には、天狗の羽根を模した飾りが揺れていた。
少女は肩で激しく息を切り、必死の形相で走っている。
ゼンたちを見つけるなり、その端正な顔を驚愕に染めて叫んだ。
「どいて……っ! 巻き込まれたくなかったらそこをどきなさい!」
少女はそのまま三人の横を駆け抜けようとする。
だが、追っ手はすぐ後ろに迫っていた。
森から十数人の天狗族の術者が、凄まじい跳躍で姿を現した。
全員が黒い装束をまとい、その背には巨大な漆黒の翼が広がっている。
「いたぞ! 落ちこぼれが、大人しく長の遺産を返せ!」
「断るって言ってるでしょ……!」
少女は強がるように振り返り、悔しげに叫んだ。
追っ手の天狗たちは、行く手を阻むように立つゼンたちへ視線を向けた。
「チッ、外来者か」
「邪魔をするなら、まとめて消してしまえ!」
天狗たちが一斉に印を結び、漆黒の呪符を放つ。
瞬間、鋭利な刃と化した突風が渦を巻き、街道の木々をへし折りながら襲いかかってきた。
「ふむ、一人を相手に寄ってたかって無粋な奴らめ。下がっておれ!」
レグナスが咄嗟に少女の前へ飛び出し、長剣を構える。少女は目を丸くし、
「は!? あんた、貧弱そうで一番弱そうじゃ――」
言葉を言い終える前に、ルエリアが静かに腕を掲げた。
刹那、神聖な光が空を駆けた。
ルエリアが放った無数の光弾が、迫る風の刃と呪符を正確に撃ち抜き、爆発の光波が森を白く染め上げる。
「なっ……!? 天使の術だと!?」
天狗たちが怯んだその影から、今度はゼンが静かに歩き出した。
ゼンの足元から伸びた不気味な黒い影が、生き物のように地面を這い、天狗たちを瞬く間に飲み込んでいく。
「う、動かん!? 影が……っ!」
「馬鹿な、この禍々しい気配……悪魔の力か!?」
「こいつら……普通の旅人じゃない!」
「退け! 一旦退くぞ!」
影に絡め取られ、呪力を強制的に乱された天狗たちは、ゼンの放った衝撃波によって次々と吹き飛ばされ、這々の体で森の奥へと消えていった。
あとに残されたのは、静寂。
少女だけが、その場に呆然と立ち尽くしていた。
ルエリアの光、そしてゼンの圧倒的な闇の力を目の当たりにし、彼女の瞳には明らかな動揺が走っている。
「……何なのよ、あんたたち」
しばらく沈黙が続いた。やがて少女は、フンと顔を背ける。
「……別に、助けてなんて頼んでないし。余計なお世話よ」
「素直じゃないわねぇ。お礼くらい言ったらどうなの?」
ルエリアが呆れたように肩をすくめると、少女はぶっきらぼうに言い返す。
「うるさい。……借りを作るのが、性に合わないだけ」
少女は少しだけ視線を逸らした。
「ここはもう、あいつらの索敵範囲内よ。私は行く」
そう言い残し、少女は一人で歩き始めた。
「……行くぞ」
ゼンも何事もなかったかのように、その後ろを歩き始める。
「待て待て。余も行くぞ!」
レグナスも当然のようについていき、ルエリアも慌てて二人を追いかけた。
少女は数歩進んだところで気配に気づき、振り返る。
「……なんでついてくるのよ」
「街へ行くんだろ」
ゼンが短く答える。
「だからって私についてくる必要ないでしょ!」
「そなたが一番この街に詳しそうだからな!」
レグナスが悪びれもせず笑う。
少女は額に手を当て、大きくため息をついた。
「……ほんと外から来たのね」
少女は街並みへ視線を向けた。
「この街は広いの。区画も複雑だし、同期エラーが起きてる場所もある。何も知らずに歩けば、厄介事に巻き込まれるわよ」
三人は顔を見合わせた。
「じゃあ、どうすればいいの?」
少女は三人を見つめ、諦めたように肩を落とす。
「……はぁ。勝手についてきなさい。街の中心までだからね。それ以上は知らない」
ぶっきらぼうに言い捨てると、少女は先頭に立って歩き始めた。
レグナスが笑って言う。
「ならば、余らは友達ということでよいな!」
少女は顔を真っ赤にして振り返った。
「はぁ!? 違うわよ! 勝手に友達にしないで!」
「細かいことは気にするでない!」
「気にするわよ!」
少女はぷいっと顔を背ける。
「そういえば、そなたの名をまだ聞いておらぬな!」
その足が、わずかに止まった。
「……名前を教えるほど親しくないわ」
少女はそれだけ答えると、朱色の鳥居へ向かって再び歩き出す。
「私は天狗の一族の者……それで十分よ」
少女はぶっきらぼうに告げ、朱色の鳥居をくぐった。
鳥居をくぐり抜けた瞬間、世界の空気そのものが一変した。
三人の視界に飛び込んできたのは、見渡す限りの瓦屋根、木造の長屋、にぎやかな団子屋の暖簾。
まるで江戸時代に迷い込んだような街並みだった。
「すごい……! 何これ、綺麗!」
ルエリアが目を輝かせる。
しかし、よく見れば違和感だらけだった。
茶屋の看板は空中に浮かぶ半透明のホログラムとなっており、お茶の効能を流し続けている。
提灯は電子回路のような模様を淡く光らせ、行き交う町人たちの身体からは青白い光の粒子が零れ落ちていた。
「江戸と未来都市を無理やり混ぜたみたいね……」
ルエリアが呟く。
ゼンは町並みを眺めながら静かに言った。
「同期空間だ。街全体を仮想空間で補強している」
「つまり?」
「街の大半がデータだ」
「全然わからないわ」
「余もわからぬ!」
レグナスが胸を張る。
少女は呆れたようにため息をついた。
「ほんと外から来たのね。この街は同期技術で維持されてるの。だからシステムが壊れれば全部消える」
ルエリアは思わず周囲を見回した。
「じゃあ、この団子屋も?」
「消える」
「あの橋も?」
「消える」
「あのおじさんも?」
「消えないわよ。ただ住む場所がなくなるだけ」
「紛らわしい!」
少女は少しだけ口元を緩めた。
「ふふ……」
その笑顔は一瞬だけだった。
彼女は山の方角へ目を向け、小さく呟く。
「妖狐区画、神狼区画、天狗区画……今はどこも物騒だけどね」
その声だけは、どこか寂しそうだった。
少女に導かれ、三人は人通りの多い街の中心部へと入っていく。
その時だった。
前方の雑踏から歩いてくる、一人の男の姿があった。
白い髪に、美しい白磁の甲冑。
背中には、一切の穢れを知らない純白の翼。
ルエリアと同じ、ソディウスの『天使』だが、その男が纏うオーラは、周囲のホログラムを激しく明滅させるほどに鋭く、圧倒的だった。
歩くだけで、周囲の喧騒が引き潮のように静まり返っていく。
ルエリアの身体がぴくりと強張る。
「……天界の調査官」
その白い甲冑を見た瞬間、胸の奥が冷たく締めつけられた。
「しかも……三等星」
一等星や二等星ほどではない。
それでも、星位を与えられた天使は、一般の高位天使とは別格の存在だった。
「――おや」
天使の調査官は、ゼンたちの前で足を止めた。
最初にルエリアへ目を向け、次にゼンを見つめる。
その視線は、姿を見ているというより、内側にある何かを読み取ろうとしているようだった。
「なるほど。君たちが、外の区画で騒ぎを起こしていた旅人か」
男の目が、ゼンの足元に揺れる影へと落ちる。
「……いや。天使と悪魔、二つの力をその身に宿す男。君のことは、天界の報告書で詳しく読ませてもらっているよ」
ゼンの目がわずかに細められた。
「俺を調べて、どうするつもりだ」
「どうもしないさ」
調査官は穏やかに笑った。
「少なくとも、今はね」
その言葉に、ルエリアの表情が強張る。
「あなた……天界から来たのよね。何のためにこの街へ?」
「調査だよ。この東方境界で発生している、異常な同期干渉のね」
「同期干渉……?」
ルエリアが周囲の揺らぐホログラムへ視線を向ける。
「この街では今、『妖狐』と『神狼』が最高特権を奪い合っている」
調査官は、何でもないことのように告げた。
「互いに領域の座標を書き換え、相手の同期を上書きしている。このまま続けば、遠からず基盤そのものが崩壊するだろう」
「だったら、天界が止めればいいじゃない」
少女が鋭く言い放った。
調査官の視線が、ゆっくりと少女へ向けられる。
「なぜ?」
「なぜって……この街が消えるのよ!」
「それは、彼ら自身が選んだ結果だ」
男は淡々と答えた。
「我々の役目は、すべての争いを止めることではない。何が起き、何が残るのかを見届けることだ」
少女が悔しげに唇を噛む。
ルエリアは信じられないものを見るように男を睨んだ。
「人が大勢住んでいるのよ。それでも、見ているだけなの?」
「報告どおり、君は優しいね。ルエリア・セラフィナ」
「……どうして、私の名前を」
男は答えず、再びゼンへと視線を戻した。
「君も気をつけることだ。『二つの力を持つ者』」
「何にだ」
「この街では、異質な力ほどよく目立つ」
その視線が、ゼンの影から、隣に立つ少女へと滑っていく。
「そして――価値のあるものほど、誰かに利用される」
少女の肩が、わずかに揺れた。
ゼンが一歩前へ出る。
「こいつの何を知ってる」
「さて。君は、どこまで知ることになるのだろうね」
調査官は楽しげに目を細めた。
「また会おう。ゼン」
そのまま男はゼンたちの横を通り過ぎ、雑踏の奥へと消えていった。
空間を圧していた気配が遠ざかり、ようやく周囲の喧騒が戻り始める。
ルエリアは男が消えた方向を睨んだまま、低く呟いた。
「……三等星が、どうしてこんな辺境に」
その呟きは、不満というより困惑に近かった。
「……感じ悪い」
「同感だ」
ゼンが短く答える。
少女だけは何も言わず、何かに耐えるような表情で、調査官の背中が消えた場所を見つめ続けていた。
「うおっ!? なんだこの、罪深いほどに素晴らしい香りは!」
大通りをしばらく歩いていると、レグナスが鼻をクンクンと鳴らして突如として声を上げた。
彼の視線の先には、年季の入った木造の食堂があり、そこから出汁の利いた味噌汁と、香ばしい焼き魚の匂いが漂ってきている。
「おい、そなた! 余はここに入るぞ! 腹が減っては騎士の誇りも維持できぬ!」
「はぁ!? 私まで付き合うなんて言ってないけど」
少女の腹から、小さな音が鳴った。
一瞬の沈黙。
「……何よ」
「何も言っておらぬぞ!」
レグナスが口元を緩める。
「笑うな!」
少女が睨みつける。
「ちょっとレグナス、勝手に決めないでよ!」
「まあ良い。情報整理も兼ねて、一旦落ち着くべきだ」
ゼンの言葉もあり、四人はその食堂へと入った。
運ばれてきたのは、同期技術によって最適な温度と鮮度に保たれた、ほかほかの白米、肉厚の焼き魚、そして湯気を立てる味噌汁。
地下都市の合成ジャンクフードばかり食べていた彼らにとっては、新鮮極まりない料理だった。
「うまい! 美味すぎるぞ! 余は毎日これでよい!」
「安上がりな男ねぇ……。でも、確かに美味しいわ」
レグナスが豪快に白米を掻き込み、ルエリアも満足そうに箸を進める。
そんな中、少女は一人、黙々と米を口に運んでいた。
ルエリアは箸を止め、ふと思い出したように少女を見る。
「そういえば、さっきの天使が言ってた『妖狐』と『神狼』って……そんなに仲が悪いの?」
少女の箸が止まった。
しばらく黙ったあと、小さく息を吐く。
「……妖狐も神狼も、自分たちの血筋と能力が、この街で一番優れてると思ってる。だから互いを見下して、最高特権を奪い合ってる。街が壊れかけてるのにね」
「くだらぬな」
レグナスが即答した。
「強さとは己が決めるものだ。血筋がどうであれ、己の生き様で証明すればよいだけのこと」
少女はレグナスを見て、鼻で笑った。
「綺麗事ね。才能も血筋もない奴が、努力なんかでその最高峰に勝てると思ってるの?」
「思っておる」
「馬鹿ね」
「よく言われる」
レグナスのあまりに堂々とした態度に、ルエリアが思わず「ぷっ」と吹き出した。
「もう少し否定しなさいよ!」
「事実だから仕方ない」
少女も一瞬、釣られて少しだけ笑いそうになったが、すぐにフイッと真顔に戻り、寂しげに目を伏せる。
「……この街じゃ、血筋が全てよ。それが変えられない現実」
その声は、ひどく冷えていた。
ゼンは黙ってそのやり取りを見ながら、少女の和服の袖から覗く手首を見つめていた。
そこには、無理に特殊な同期能力を通したことによる、痛々しい『魔力拒絶反応』の爪痕が刻まれていた。
食事を終え、四人は店を出て大通りへと戻った。
少女は少し歩いたところで足を止め、三人に向き直る。
「……案内はここまでよ。街の構造と危険性は教えた。私はあっちの『天狗区画』に戻るから。じゃあね」
「え? 行きたくないって言ってたじゃない」
ルエリアが心配そうに聞き返すと、少女は首を振った。
「なんでもない。とにかく、外来者は目立つからさっさと――」
少女が言葉を紡ぎ終えるより早く、その瞬間が訪れた。
少女の視線が、鋭く頭上へと向けられた。
「……まずい」
「どうした?」
「黙って。上よ」
屋根の上を何かが走る音がした。
ゴォォォォォッ!!
突如として、街の空気が爆ぜるような巨大な突風が吹き抜けた。
ホログラムの桜が乱れ飛び、提灯の明かりが一斉に消灯する。
見上げれば、五階、六階と異様な高さまで積み上がった長屋の屋根の上に、十数人の天狗たちが立ち並び、眼下の四人を見下ろしていた。
先ほど森で退けた奴らよりも、遥かに格上のオーラを纏った暗殺部隊。
「見つけたぞ、落ちこぼれが! 長の遺産を大人しく返せ!!」
天狗たちが一斉に、特殊な漆黒の呪符を空へぶち撒けた。
それらは空中ではじけると、凄まじい電子ノイズを発生させ、周囲の空間そのものを激しく歪ませ始める。
街の環境を維持する仮想空間の『同期解除ノイズ(システム・エラー)』。
「しまっ……! 退避しろ!」
ゼンが叫ぶが、すでに遅かった。
視界が猛烈な煙幕と爆風に包まれ、電子ノイズの白い光が網膜を焼き尽くす。
空間の座標データが強制的に書き換えられ、足元の地面が消失していくような感覚。
「ルエリア! レグナス!」
「ゼン……っ!?」
互いを呼ぶ声が、激しいエラー音の中にかき消されていく。
爆風と光が収まった時、そこにはもう、誰の姿も残されていなかった。
キィィィィン……と、耳の奥で不快な高音が響く。
白いノイズに視界を奪われながらも、ゼンの意識だけは冷静だった。
自身の力を使えば、空間エラーごと天狗たちを吹き飛ばすこともできる。
だが、街の同期そのものが崩れかけている以上、下手に力をぶつければ被害がどこまで広がるか分からない。
ルエリアとレグナスが別々の方向へ弾き飛ばされる。
(あいつらなら、この程度では死なない)
ゼンは即座に少女の腕を掴んだ。
(今は、こいつを落とさないことが先だ)
ゼンは、意識を失いかけた少女の身体を片腕で抱き止めた。
空間の歪みに身を任せながら、落下先だけをわずかに逸らす。
たどり着いたのは、同期技術すら届かない荒れ果てたスラム街の路地裏。
ゼンは、腕の中の少女を地面に寝かせると、衣服の裾についた僅かな埃を払う。
影から這い出てきたケンイチが、ふんぞり返ってキューと鳴いた。
「……チッ。面倒なことになったな」
東方の古都、歪なる電子の八百八町。
バラバラになった仲間たちの行方も知らぬまま、この街を揺るがす騒乱の幕が、今ゆっくりと開こうとしていた。
──第三十六話・終。




