第三十八話:『三つの真実、交わらぬ正義』
「――ちょっと!! なんで誰もいないのよ!?」
東方境界、襲撃のあった朱色の鳥居前。
ルエリアは霧が立ち込める街道で、怒りに肩を震わせていた。はぐれたらひとまず現場に戻る。それが旅の鉄則のはずだ。だが、どれだけ待ってもゼンもレグナスも姿を現さない。
「普通、真っ先に戻ってくるでしょ!? ゼンはともかく、あのバカ騎士までどこ行ったのよ……。あいつ、絶対に今頃、どっかで美味いものでも食べて遊んでるわね……!!」
ルエリアのその不吉な予感は、驚くほど正確に的中していた。
「うおおっ!? なんと見事な色彩、なんと犯罪的な香りなのだ!! そなた、余にそれをもっと寄越すのだ!」
ところ変わって、にぎやかな『妖狐区画』の大通り。
レグナスは、狐の耳と美しい尾を持った着物姿の美女たちに囲まれ、完全に鼻の下を伸ばしていた。
差し出された団子を口へ運んだ瞬間、濃厚な甘みと香ばしい香りが脳まで一気に突き抜ける。
「うまい!! ゼンは抜けておるしルエリアは忙しないからな! まずは余がこの街の視察をしてから合流せねばな!」
両手に山積みの三色団子を抱え、都合の良い言い訳を並べていた、その時だった。
「ひ、引っ張らないでぇ……!」
大通りの向こうで、小さな男の子が転び、その拍子に彼の身体がバグったように電子ノイズを上げて明滅した。周囲の町人たちが「同期エラーか、近寄るな」と冷たく避ける中、レグナスを案内していた妖狐の女性――コハクが、迷わず駆け出した。
「大丈夫!? 今、同期を安定させてあげるからね」
コハクが優しく手を握ると、男の子の身体のノイズがすっと収まり、元の姿に戻る。
男の子は「お姉ちゃん、ありがとう!」と笑顔で去っていった。
見回せば、妖狐の者たちは困っている人に温かい料理を配り、ホログラムの美しい桜を維持して街を豊かに彩っている。
だが、その賑やかな表通りとは対照的に、同期ノイズを起こした老人が、人目につかない路地へ静かに案内されていた。
「表通りでは休まないでくださいね。せっかくのお祭りですから」
妖狐の女性は笑顔のまま老人を支える。乱暴ではない。気遣っていることも本当だ。
しかし、その行き先は人々の視線が届かない裏路地だった。
コハクはその光景を見つめ、一瞬だけ寂しそうに目を伏せる。
(なんと……素晴らしい、善行の集う街ではないか!)
レグナスは胸を打たれた。妖狐の人々は誰もが優しく、この街を誰もが美しく楽しく暮らせる楽園にしようとしている。
そんなレグナスに、コハクは寂しげな瞳を向けて言った。
「聞いてください、騎士様。妖狐の人々は皆、この街を美しく、誰もが楽しく暮らせる楽園にしようとしているだけなのです。ですが神狼の一族は、同期から生まれたアバターたちを、壊れれば取り替えればいい道具としか考えていません」
「街を効率だけで満たし、役に立たないものは切り捨てる。そんな場所を、楽園と呼べるのでしょうか……」
その言葉を聞いた瞬間、レグナスの脳裏に、かつて自分へ笑いかけてくれたエナの姿が浮かんだ。
「何だと……? 言葉を交わし、笑うことのできる者を、物のように扱っているというのか!」
コハクが少し悲しそうな顔をする。
周囲の妖狐たちも俯く。
「そなたらの言葉だけで神狼を悪と断じるつもりはない。だが、困っている者を見捨てる気もない。余にできることがあるなら話せ」
レグナスは拳を握り、正義感に目を燃え上がらせた。
「少なくとも、ここにいる者たちの善意は本物のようだな」
一方、いらだちながら鳥居の前にいたルエリアの元には、一人の青年が近づいていた。
整った容姿、鋭い狼の耳。彼は『神狼の一族』の戦士、ロウだった。
「外来の天使様とお見受けする。夜の境界は危険だ、我が一族の屋敷へお招きしよう」
突然の誘いに、ルエリアは一歩後ずさった。
「はぁ? いきなり知らない人について行くほど、私、お人好しじゃないんだけど?」
ロウは表情一つ変えず、静かに頷く。
「当然です。警戒するのは正しい判断でしょう」
その落ち着いた返答に、ルエリアは少しだけ肩の力を抜いた。
「なら、どうして私なんかを助けるのよ?」
「あなたは外来者です。この街の事情も知らず、夜の境界を歩けば妖魔より先に同期異常へ巻き込まれる」
「同期異常?」
「この街は普通の街ではありません。知らぬまま歩けば、帰れなくなることもある」
ロウは淡々と説明するが、その声音には脅すような色はない。純粋に忠告しているだけなのだと分かった。
ルエリアは腕を組み、しばらく考え込む。
(ゼンもレグナスもいないし……ここで一人でうろつくよりは安全か。それに、街の情報も集められるしね)
そう判断すると、小さくため息をついた。
「……分かった。でも勘違いしないで。信用したわけじゃないから」
「承知しております」
ロウは礼儀正しく頭を下げ、そのまま神狼区画へ案内を始めた。ルエリアは少しだけ警戒を解き、その後に続く。
神狼区画に足を踏み入れて間もなく、通りの先から激しい破砕音が響いた。
「逃げろ! 作業用アバターが暴走したぞ!」
住民たちの悲鳴とともに、人波が一斉にこちらへ押し寄せてくる。
その向こうでは、灰色の装甲に覆われた巨大な神狼型アバターが、石畳を踏み砕きながら暴れ回っていた。
背中には資材運搬用の荷台。両腕には建築作業に使う巨大な金属爪が取り付けられている。
本来は神狼の一族が所有し、街の修復や物資の運搬に使っている作業用アバターなのだろう。
だが今、その両眼は赤く明滅し、関節からは青白い同期ノイズが火花のように噴き出していた。
『作業命令――継続』
『障害物――排除』
アバターが腕を振り回し、積み上げられていた荷車をまとめて吹き飛ばす。
「危ない!」
逃げ遅れた親子へ、巨大な金属爪が振り下ろされた。
ルエリアが光を放とうとした、その瞬間。
ロウが地面を強く蹴った。
ガァンッ!!
鋭い蹴りがアバターの腕を横から弾き、金属爪の軌道を逸らす。
石畳が大きく砕け、親子は間一髪でその場から逃げ出した。
「住民を退避させろ! 拘束班は両脚を止めろ!」
ロウの号令と同時に、神狼の戦士たちが一斉に動き出す。
誰一人として取り乱す者はいない。
数人が住民を安全な路地へ誘導し、別の戦士たちは青白い同期コードを鎖状に展開した。
光の鎖がアバターの四肢へ巻きつき、巨体を石畳へ縫い止めていく。
『作業妨害――確認』
『排除行動へ移行』
アバターが激しく身をよじり、拘束コードを引きちぎろうとする。
「出力を落とせ! 壊れても構わん、制御核だけは止めろ!」
ロウの指示に、ルエリアはわずかに目を見開いた。
まるで武器や機械を扱うような言葉だった。
神狼の戦士たちはためらうことなく、暴走アバターの脚部を切断する。
金属音とともに巨体が大きく傾き、石畳へ倒れ込んだ。
ロウはその懐へ飛び込むと、胸部装甲の隙間へ拳を叩き込む。
バチンッ、と乾いた音が響き、内部の制御核が砕けた。
アバターの赤い瞳から光が消える。
『作業……継続……』
掠れた機械音を最後に、その巨体は完全に動かなくなった。
通りに静寂が戻る。
「助かったよ……」
「ロウ様、ありがとうございます!」
住民たちは胸をなで下ろし、泣いていた子供も母親へ強くしがみついた。
ロウは倒れたアバターを一瞥しただけで、静かに告げる。
「残骸を回収しろ。使用可能な部品は次の機体へ回せ」
「修復はしないの?」
思わずルエリアが尋ねる。
ロウは不思議そうに彼女を見た。
「制御核まで破損しています。修復するより、新しい機体へ部品を移した方が効率的です」
「でも、今……最後に何か喋ってたじゃない」
「あれは破損した応答機能です。意思ではありません」
ロウはそれだけ答え、倒れたアバターから視線を外した。
そのとき、神狼の戦士が一人、慌ただしく駆け寄ってくる。
「報告します。西側居住区の作業用アバターにも、同様の同期異常が確認されました」
ロウの眉がわずかに動く。
「原因は?」
「妖狐区画からの同期出力が、許容値を大きく超えています。祭りの景観維持と、桜の再現処理に領域容量を奪われた可能性が高いかと」
「またか……」
ロウの声に、初めて明確な苛立ちが混じった。
「奴らは街を飾るためなら、どれほど無駄な同期を使っても構わないと思っている」
「西側居住区の住民は、まだ避難が完了しておりません」
ロウはわずかにも迷わなかった。
「今夜中に住民を退去させ、区画を閉鎖してください。配置されているアバターもすべて停止させます」
若い戦士が表情を曇らせる。
「ですが、あそこには移る場所のない年配の方々も……」
「安全維持が最優先です。例外を認めれば、暴走は街全体へ広がる」
「……承知しました」
戦士は敬礼すると、その場を走り去っていった。
「いつもありがとうございます」
「神狼様のおかげで安心して暮らせています」
周囲の住民たちは深く頭を下げる。
ロウは誇ることなく、負傷者の手当てと、アバターの残骸回収を淡々と指示していく。
(……この人たちは、本気で街を守ろうとしている)
ルエリアは、運ばれていくアバターの残骸へ視線を向けた。
つい先ほどまで動き、言葉を発していたものが、今では部品として荷車へ積まれている。
(でも……本当に、ただの物なの?)
そして、西側居住区から追い出されるという住民たち。
(言っていることは正しい。街全体を守るなら、危険な区画は閉じるしかない)
(でも、そこに住んでいた人たちは、どこへ行くの……?)
正しい判断だった。
合理的で、効率的で、間違ってはいない。
それでも、その正しさからこぼれ落ちるものがある。
ルエリアは、何の迷いもなく指示を出し続けるロウの背中を、複雑な表情で見つめていた。
「天使様」
ロウはルエリアに向き直ると、静かに語った。
「我々は、この街を合理的で効率的な、無駄のない街として維持したいだけなのです。感情や見た目の美しさに溺れれば、システムはすぐに崩壊する。ですが……『妖狐の一族』は同期技術を悪用して幻惑の街並みを作り、裏で勝手に領域を書き換えている。彼らの欺瞞を止めねばならないのです」
「妖狐が、そんなことを……」
(……ロウの言葉に、嘘や打算はない)
けれど、それだけで妖狐が悪だと決めつけていいのだろうか。
少女に聞いた話と、目の前の光景。どちらも嘘には見えなかった。
「でも……少なくとも、この人たちが街を守ろうとしているのは本当みたいね」
妖狐を悪と断じることはできない。
それでも、目の前で人々を救う神狼の正義に、ルエリアの心は少しずつ傾き始めていた。
その頃、街の中央に位置する中立地帯の視察館。
天界から遣わされた天使の調査官の男は、机の上に広げられた天界の報告書へ視線を落とした。
空中に展開された画面には、東方境界の街を構成する同期領域と、その崩壊予測が映し出されている。
『予測崩壊時刻――算出不能』
妖狐、神狼、天狗。
三つの一族が最高特権を奪い合い、互いの領域を書き換え続けている。それにもかかわらず、この街は未だ完全な崩壊には至っていなかった。
「予測よりも、随分と長く持ちこたえていますね」
調査官は不快そうに目を細めた。
天界が欲しているのは、単なる崩壊ではない。
異なる思想を持つ人間たちが一つの同期領域を共有したとき、何が争いを生み、どの選択がシステムを破綻させるのか。
その過程を観測し、解析し、次なる管理システムへ反映する。
この街そのものが、巨大な実験場だった。
「我々が直接介入して崩壊させたのでは、正確なデータは得られない」
天使の力が加われば、それは人間社会の自壊ではなく、天界による破壊になってしまう。
必要なのは、彼ら自身が正義を選び、互いを否定し、その果てに街を壊すことだった。
だが今、その実験に一つの不確定要素が紛れ込んでいる。
報告書の画面が切り替わり、『天使と悪魔、二つの力を操る少年・ゼン』の姿が映し出された。
「彼らが争いを止めれば、崩壊はさらに遅れる」
調査官はゼンの隣に、ルエリアとレグナスのデータを表示する。
これまで彼らは、対立する者同士の間に割って入り、天界の演算から外れた選択によって争いを終わらせてきた。
この街でも同じことをされれば、観測そのものが失敗する。
「排除すれば、外部からの介入データが混ざる。ならば――彼ら自身を、この街の争いへ組み込めばいい」
調査官は通信端末を起動した。
「妖狐には、神狼区画に高位天使が招き入れられたと伝えなさい。神狼には、妖狐が剣士を歓待していると」
通信の向こうで、部下がわずかに息を呑む。
『それだけでは、彼らが敵側についたとは断定できません』
「断定する必要はありません。疑う理由さえあれば、彼らは自ら答えを作ります」
妖狐の区画にはレグナスがいる。
神狼の区画にはルエリアがいる。
そして街の深部には、天狗の遺産を持つ少女とゼンが潜んでいる。
「さらに、天狗へはこう伝えなさい。先代の遺産を持つ少女が、危険な外来者と行動を共にしている」
『しかし、それでは三勢力が衝突する可能性が――』
「それでいいのです」
調査官の口元に、冷たい微笑が浮かんだ。
「我々は何も命じていない。ただ、事実を与えるだけ。争うかどうかを選ぶのは、あくまで彼ら自身です」
三つの一族が、それぞれの正義に従って外来者を利用し、あるいは排除しようとする。
ゼンたちもまた、仲間とナユを守るため、自らの意思で戦いへ踏み込む。
天界は直接手を下さない。
それでも街は、人間たち自身の選択によって崩壊へ向かう。
それこそが、天界の求める観測データだった。
「三日後の会談までに、彼らの対立を限界まで引き上げなさい」
調査官は、崩壊予測の表示を静かに見つめる。
「正義が三つもあれば、街を壊すには十分でしょう」
天使の冷徹な思惑が、静かに張り巡らされていく。
互いに異なる「正義」を信じ、別々の陣営へと足を踏み入れたルエリアとレグナス。
その裏では、天使の調査官が彼らも、ゼンも、三つの一族さえも駒として動かし始めていた。
三者会談まで、あと三日。
この街の崩壊へ向けたカウントダウンは、すでに始まっていた。
──第三十八話・終。




