第三十四話:『正解じゃなく、行きたい場所へ』
大昇降機が【反転の門】のある最深部から上昇するにつれ、聞き覚えのある音が少しずつ戻ってきた。
金属の擦れる音、人々の怒号、遠くで鳴り響く魔導車の警笛――。
【反転の門】の先にあった静かな街から一転、地下街特有の混沌とした喧騒に、ルエリアは少しだけ眉をひそめて耳を塞いだ。
「……うう、やっぱり地下街はちょっとうるさいわね」
「がはは! これが俺たちの街の活気ってやつだろ、天使!」
豪快に笑ったのはライガだ。
【反転の門】の先から共に戻ってきた彼は、大きく背伸びをした。
だが、豪快に笑うライガとは対照的に、旅の三人はそれぞれの沈黙を抱えていた。
ゼンは相変わらず、手にした煤汚れた人形を見つめたまま、ときおり、懐の中でぐったりとしているケンイチを気遣うように、衣服の上からそっと手を当てている。ケンイチの瞳はどんよりと曇り、小さな胸を忙しなく上下させていた。
ルエリアはきゅっと自らの手を握りしめ、それから隣に立つレグナスに視線を向けた。
レグナスはいつも通り、昇降機の隙間から見える外の構造を楽しそうに眺めている。だが、その横顔は、普段の底抜けの陽気さとはどこか違っていた。彼の端正な眉の間に、ごく微かな、けれど深く刻まれた陰影がある。
『無理をしないでね。小さな最強さん』
あの街の『あの人』がレグナスに投げかけた、胸の奥を見抜くような一言。レグナスはいつもの軽い仮面を貼り直して笑ってみせたが、彼の胸の奥に突き刺さった棘は、まだ抜けていない。それはルエリアにも、はっきりと伝わってきた。
やがて、ゴトン、と大きな衝撃と共に昇降機が停止した。
扉が開くと、そこは悪魔たちの喧騒が残る、闘技場最下層の旧区画だった。待ち構えていたのは、腕を組み、不敵な笑みを浮かべる悪魔たち。
そして、その傍らには退屈そうに髪を弄るルナと、静かに佇むブラッドの姿があった。
「本当にあの『お人』に会って、そのまま戻ってこれるなんてね……」
ルナが少し驚いたように、けれどすぐにいつもの不機嫌そうな顔を作って呟く。
大昇降機から一歩踏み出したライガが、背後を歩くルエリアたちを振り返り、地響きのような声で鼻を鳴らした。
「フン、観測者に面白い玩具として気に入られたってところか。おい天使、満足する答えはあったか?」
「玩具だなんて、失礼ね」
ルエリアはいつもの毅然とした調子で胸を張り、ライガの前に出た。
「探していたすべての答えがあったわけじゃないけれど、これからどう歩くかを、自分で考えるための道標はもらったわ」
「フン、そうかい」
ライガは鼻を鳴らし、それからゼンの前へと歩み寄った。ゼンは気怠げに視線を上げる。
別れの時間が近づいていた。
見送りに来たルナは腕を組みながら、どこか不機嫌そうに言った。
「本当に行くのね。別に引き止めるつもりはないけど」
ルナはルエリアの前まで歩み寄ると、懐から白い包帯を取り出した。
「……これ、あげる。怪我でもしたら使いなさいよ」
「えっ? 包帯……?」
「そう。次に会うときは、アタシ、あなたより絶対に強くなってるんだから。それまで他の奴に負けたりしないでよね」
「ふふ、ありがとうルナ。楽しみにしてるわ。またね!」
ルナは照れ隠しのようにぷいと顔を逸らし、少し顔を赤くしてライガの後ろへと下がっていった。その様子にレグナスが笑い、ライガが豪快に肩を揺らした。
ライガは改めてゼンの前に立つ。
「困ったことがあったら連絡しろ」
「……覚えてたらな」
「がははは! それでいい! 借りは返した、今度は友人としてだ」
ライガは突き出すように大きな拳を突き出した。
「俺もお前らと旅してぇ気持ちはあるが……あいにく、俺はここの王だからな。おいそれと街を空けるわけにゃいかねぇ。……地上でくたばるんじゃねぇぞ、規格外のイカれ野郎」
ゼンは少しだけ面倒くさそうに息を吐きながらも、その太い拳に、自分の拳を軽く、コツンと合わせた。
「テメェこそ、次やる時はもっとまともな肉を奢れよ。……じゃあな、ライガ」
「がははは! 言いやがる!」
ブラッドが静かに一礼した。
「これからの旅路に、境界の加護があらんことを」
「ええ、ありがとう。みんなも、元気でね!」
ルエリアは三人に背を向け、地上へと続く長い螺旋階段を上り始めた。
地下街の生暖かい空気と喧騒が、一段上るごとに遠ざかっていく。
振り返るとライガはまだ笑って手を振っていた。
――まばゆい光が、彼らの視界を焼き尽くすように降り注いだ。
「つ、強っ……光が強すぎるわよ……!」
ルエリアはたまらず手で顔を覆った。
指の隙間から差し込むのは、地下街の人工的な灯りでも、仮想空間の不自然な調和の光でもない。どこまでも青く、高く広がる本物の『空』。そして、大地のすべてを等しく照らす、暖かく、圧倒的な太陽の陽光だった。
地下街への入り口、そこから見渡す世界は、吹き抜ける乾いた風と共に、圧倒的な広がりを持って彼らを迎えていた。
「ぷはぁ! やっぱり、地上の空気は美味いな!」
レグナスが両手を広げ、太陽の光を全身に浴びて深呼吸する。いつもの底抜けに明るい調子が戻ってきたかのように、彼は楽しげに笑った。
「薄暗い悪魔の巣窟も悪くはなかったが、この広大さには敵わん。さて、ゼン、お前はどうだ?」
「……眩しい。目がチカチカする」
ゼンは手首で日光を遮りながら、眠たそうに目を細めていた。だが、その顔にはいつもの気怠さの他に、かすかな、けれど確かな生命力が戻っているようにも見えた。
彼の懐から、ケンイチがそろりと顔を出す。ケンイチは強烈な地上の光に驚いたように、小さな羽をパタパタと震わせ、それから嬉しそうに「きゅ、ぅ……」と小さく鳴いた。その濁った瞳が、陽光に反射して、ほんの一瞬だけ透明な輝きを取り戻す。
その声は、地下街で聞いた苦しげなものより、ほんの少しだけ力強かった。
「ふふ、ケンイチも、太陽が嬉しいのね」
ルエリアはケンイチの頭をそっと撫でた。その指先に伝わる体温は、確かに生きて、この境界の旅を共にしている温かさだった。
「さて、ルエリア」
レグナスが彼女を振り返り、腰の剣を軽く叩いた。
「あの『お人』に言われた通り、まずはクロードのところへ戻るかい?」
「ええ、もちろんよ。……私たちの旅の羅針盤を、もう一度合わせに行かなくちゃ」
ルエリアは、胸の奥にそっと手を当てた。
そこには、あの世界で女性から受け取った言葉が、消えない残り火のように暖かく灯っている。
地下街を後にした三人は、その足でクロードの家へ向かった。
「へぇ」
隣を歩いていたゼンが、感心したように言う。
「今日は迷子にならないんだな」
「えっ……そういえば」
「成長したな」
「失礼ね。当たり前でしょ」
そう言いながらも、ルエリアは少し嬉しかった。迷わず進む足取りは、自分で選んだ道そのもののようだった。
ルエリアが重厚な木製のドアを押し開けると、カランコロン、と澄んだ鈴の音が響いた。
部屋の中には、天井まで届く本棚、無数に広げられた古い羊皮紙の地図、そして砂時計。部屋の奥、山積みの古書に囲まれた机で、静かに珈琲を淹れていた一人の男が、三人を見るなり微笑んだ。
「お帰りなさい」
クロードは淹れたての珈琲をカップに注ぎ、穏やかな微笑みを湛えて立ち上がった。仕立ての良いシャツを着こなし、若々しくも、どこか数百年を生き抜いたかのような深い知性を漂わせる青年。
「地下街の凶暴な悪魔たちに気に入られて、そのまま地下の住人にでもなってしまうのではと心配していたよ。……全員、無事で何よりだ」
「心配してたなら、もう少しマシな案内をしておきなさいよね!」
ルエリアはツカツカと部屋に入り、空いている椅子にどさりと腰を下ろした。クロードはくすくすと笑い、ゼンとレグナス、そしてケンイチにも温かいハーブティーと、小さな木の実を差し出した。
「おや。ゼンさんの衣服はボロボロ、レグナスさんの剣の柄もひどく消耗している。……地下の最下層で、ずいぶんと激しい『交渉』があったようだね」
「まあな」
ゼンはソファに深く腰掛け、差し出されたハーブティーを無造作に口に運んだ。
「ふむ、ライガとの殴り合いは、余の武人の魂を大いに揺さぶった」
レグナスもまた、いつもの軽い口調で応じる。
クロードは彼らの様子を静かに観察していたが、やがて、その視線をまっすぐにルエリアへと向けた。彼の眼鏡の奥の、すべてを見透かすような瞳が、かすかに細められる。
「……少し、表情が変わりましたね。ルエリアさん」
「え……?」
「地下へ向かう前よりも、ずっと遠くを見ている」
ルエリアは少し照れくさそうに視線を逸らした。
「色々あったのよ。本当に、色々とね……ようやく、少しだけ分かった気がするの」
「それは素晴らしい」
クロードは嬉しそうに頷き、珈琲を一口含んだ。
「それで、あの『反転の門』の先にある、境界の観測者……には会えましたか?」
「ええ。彼女は言ったわ。……『戻ったら、クロードに会いなさい。そして近隣の街のことを聞き、あなたが向かいたいと思う街に行きなさい』って」
「……ほう」
クロードは驚いたように、眉を小さく跳ね上げた。
「あの気まぐれな観測者が、私の名前を出し、さらに君たちに選択を委ねたか。……なるほど。その存在もまた、君たちの旅がもたらす可能性を見届けたいのでしょう」
「ですが、誤解しないでください。私はその観測者に会ったことはありません」
クロードは静かにそう告げた。
「ただ、その存在なら知っています」
三人が顔を見合わせる。
「知っているの?」
「ええ」
クロードは少しだけ遠い目をした。
「境界を見守る者。あるいは、選択を見届ける者」
「……何者なの?」
「分かりません」
クロードは首を振る。
「ただ、古い記録にはこう残されています。境界の観測者は、答えを与えない。けれど、偽りも告げない、と」
クロードは立ち上がり、背後の巨大な壁に掛けられた、古びた世界地図の前に立った。彼が指先で地図の一部をなぞると、魔力の光が走り、近隣のいくつかの領域が浮かび上がった。
「君たちの次の旅の候補地として、この周辺には大きく分けていくつかの『異なる在り方』を持つ街が存在する」
クロードは世界地図のいくつかの領域を、指先で軽やかに示していった。
「同期技術が生活に溶け込んだ街」
「商人だけで巨大国家を築いた街」
「点数だけで個人の価値を決める街」
「ここよりもさらに悪魔だけが集う混沌の街……」
そして最後、クロードの指が、霧深い領域を優しく叩いた。
「――そして、流れ者が多く住む、特殊な同期能力を使う人間の街だ」
クロードは地図の前から一歩退き、優雅に手を広げた。
「さあ、ルエリア。どこへ向かうかは、君自身が決めるといい」
ルエリアは、地図に浮かび上がる光をじっと見つめていた。どれが正しいかなんて、誰にも決められない。けれど、今の自分には、はっきりと惹かれる光があった。
点数だけで価値を決めるという街にも、商人だけで築いた国にも興味はあった。けれど、それよりも、「人間」たちが、自分とは違う力でどのように生きているのか、それをこの目で確かめたかったのだ。
ルエリアは一度、ゼンとレグナスを振り返った。
「二人とも、どう思う?」
「お前が決めろ。俺はどこでもいい。ただ、飯が美味ければな」
ゼンはソファに深く沈み込み、ハーブティーを啜りながら即答した。
「余も同感だが、おぬしが心惹かれた街へ行くべきだと思う」
レグナスもまた、肩をすくめて笑う。
「おぬしが選ぶ道こそが、余たちの旅路だ。ルエリアの直感を信じよう」
「……うん。ありがとう」
ルエリアは深く息を吸い込み、迷いのない声で、その光を指差した。
「私は『特殊な同期能力を持つ人間の街』に行きたい。天使とも悪魔とも違う、人間だけの力を見てみたい」
クロードが微笑む。
「そこは、陰陽師たちが集う街。彼らは式神を従え、妖と共に生きています」
「余の知らぬ力か。胸が躍るな」
レグナスが口元を吊り上げる。
「飯だけは期待してる」
ゼンは欠伸を一つ。
クロードの指先が地図をなぞる。
霧に閉ざされていた東方の領域が、淡い光を放った。
ルエリアは、その光をまっすぐに見つめた。
「行きましょう」
行き先を決めたのは、誰でもない。
ルエリア自身だった。
式神と妖が息づく、東方の街へ。
──第三十四話・終。




