第三十三話:『神の戯言』
「待っていたわ。こっちにいらっしゃい」
四人が声に導かれるようにカーテンをくぐり、奥の部屋へと入った。
そこは、たくさんの古書や不思議なガラス瓶が並ぶ、書斎のような落ち着いた部屋だった。
部屋の中央に置かれた一脚の美しい椅子の前に、一人の『女性』が静かに佇んでいた。
その瞬間、ルエリアの心臓がドクンと跳ねた。
(なんて、綺麗な人……。まるで、すべてを包み込んでくれる、お母様のような……)
ルエリアの目に見えたのは、豊かな金髪を緩やかに結い、慈愛に満ちた聖女か、あるいは優しい母親のような微笑みを湛えた、温かく神秘的な女性の姿だった。彼女の存在そのものが、旅の疲れや、ゼンのことで張り詰めていた心のトゲを、一瞬で溶かしていくようだった。
だが、その瞬間に隣にいたレグナスが、ゴクリと唾を飲み込み、その身体を緊張で硬直させた。
レグナスの目に見えていたのは、ルエリアの見ているような優しい女性ではなかった。
彼が見つめていたのは、全身に数々の死線をくぐり抜けてきた無数の傷跡を持ち、圧倒的な威厳と、世界の覇者を思わせる強烈なオーラを放つ『伝説の武人』の姿だった。
その存在感の前に、レグナスの本能は「この者には、万に一つも勝てない」と恐怖し、同時に歓喜に震えていた。
さらに、ゼンの目に見えていたのは、そのどちらでもなかった。
ゼンは、その女性の姿を認めた瞬間、ほんの一瞬だけ冷めた瞳を大きく見開いた。
何かが、胸の奥で音もなく疼いた。
そしてライガだけは、以前にも経験しているのか、ただ所在なげに頭を掻き、そわそわとした態度で立っていた。
その存在が、この奇妙な空間の主なのだろう。
だが、そこに立つ者が本当は何者なのか、ルエリアには見当もつかなかった。
「ライガ」
女性は柔らかく笑った。
「ありがとう」
ライガは少しだけ困ったように笑う。
「……礼なんざ言われることはしてねぇ」
「そう思っているのは、あなただけよ」
ライガは返事をせず、視線を逸らした。
女性は、ゆっくりとルエリアの元へと歩み寄り、怯えるように固まっていた彼女の両手を、そっと優しく包み込んだ。
その手のひらは、驚くほど暖かかった。
「ようこそ、境界の旅人たち。……なんでも聞いていいのよ。あなたの心が求めていることを」
女性のあまりにも穏やかで、すべてを見透かすような眼差しに、ルエリアは思わず息を呑んだ。
ルエリアは、震える声で、ずっと胸の奥にくすぶっていた問いをぶつけた。
「私は……知りたいのです。自由とは、一体何なのか。旅を続ける中で、多くのものを見てきました。地下街の悪魔たちも、さっきの静かな街の人々も、みんなそれぞれ違う生き方をしていました。……何が、正しい選択なのか。私は、どう歩めばいいのか、分からなくなってしまったんです」
ルエリアの切実な訴えを、女性は静かに、深く受け止めるようにして聞いていた。
そして、その手を優しく包んだまま、語りかけるように言った。
「自由はね、人によって違うの」
「地下街の悪魔は自由だった?」
「……はい」
「じゃあ、この街の人は?」
「……分かりません」
女性は静かに笑った。
「なら、今は分からないままでいいのよ」
「え……?」
「自由に、誰にでも当てはまる形なんてない。あなたが選び、失敗し、それでも引き受けたいと思えた道を――いつか、あなた自身が自由と呼ぶのでしょうね」
「私の、自由……」
「あなたが、自分の選択を美しいと思えるのなら――少なくとも、その瞬間のあなたにとっては、それが自由なのかもしれないわね」
ルエリアは、闘技場で見たゼンとライガの、無意味で、非効率な、けれどどうしようもなく熱い殴り合いを思い出した。あの瞬間、自分はそれを「美しい」と感じたのだ。
女性の言葉が、ルエリアの凝り固まった心を、静かに、優しく解きほぐしていく。
女性はルエリアから手を離し、今度はその視線を、少し離れた場所に立つゼンへと向けた。
彼女の瞳に、ほんの少しだけ、寂しげで、愛おしそうな色が混ざる。
「……長い旅だったでしょう。ゼン?」
女性の問いかけに、ゼンは無言のまま、ただじっと彼女を見つめ返した。
その瞳に、いつもの「空白」ではない、かすかな、けれど確かな光の残滓が揺れているように見えた。二人の間には、ルエリアたちには決して立ち入ることのできない、遥か昔の、あるいは時空を超えた、深い「繋がり」の気配が漂っていた。
「おい、お前!」
その妙な沈黙を破るように、レグナスがいつもの陽気な調子で一歩前に出た。
「そこのお前さん! 俺にも何か一つ、素晴らしい助言をくれよ! この世界で、さらに強くなるための極意とかな!」
女性は、レグナスの方へとゆっくりと身体を向けた。
そして、その威厳に満ちた、あるいは慈愛に満ちた瞳でレグナスを静かに見つめ、一言だけ、ぽつりと呟いた。
「無理をしないでね。小さな最強さん」
「――ッ」
その言葉が響いた瞬間、レグナスの顔から、一切の笑みが完全に消失した。
彼は言葉を失い、まるで全身の動きを止められたかのように、無言のままその場に立ち尽くした。その瞳には、今までに見たこともないほどの驚愕と、深い沈黙が宿っていた。
ルエリアは、二人の間に流れる張り詰めた空気の正確な意味こそ分からなかったが、いつものようにレグナスの無茶を窘めるように、呆れた半分の声を上げた。
「……本当にそうよ。レグナス、あなたいつも無茶ばかりして、私の回復魔法を当てにしてるんだから。少しは自分の身を労りなさいよね」
その言葉に、レグナスは小さく息を吐き、「……はは、手厳しいな」と、いつもの陽気な仮面をどうにか戻すように、けれど少しだけ不自然な苦笑いを浮かべた。
「――もう、時間のようね」
女性が、名残惜しそうに周囲の空気をそっとなぞるように言った。
その言葉の通り、暖炉の火が微かに揺れ、ログハウスの木の壁が、まるで蜃気楼のように少しずつ揺らぎ始めていた。
「えっ、待って! まだ、何も聞いていません! 世界のことや、この先の旅のことだって……!」
ルエリアが慌てて手を伸ばすが、女性はただ、優しく首を振って微笑むだけだった。
「答えは、あなたたちがこれから歩む道の中にしかないの。……でも、一つだけアドバイスをしてあげるわ」
女性はルエリアの目をまっすぐに見つめ、その唇から、旅の次の指針を告げた。
「戻ったら、クロードに会いなさい。そして近隣の街のことを聞き、あなたが『向かいたい』と思う街に行きなさい」
「クロード……? 私たちが向かいたい街に……」
ルエリアがその名前とアドバイスを反芻している間に、空間の崩壊はさらに加速していく。ログハウスの窓の外の大自然が、ノイズのように歪み始めていた。
「世話になったな」
ライガはそう言って女性に軽く一礼すると、ログハウスの玄関の扉――元のコンクリートの屋上のドアへと繋がっているはずの扉――を開け、ためらうことなく中へと入っていった。
「レグナス、ゼン、行くわよ!」
ルエリアが二人に声をかけ、レグナスが「ふぅ、嵐のような時間だったな」と呟きながら、扉の向こうへと消えていく。
ルエリアが最後に扉をくぐろうとした時、後ろから、女性がゼンへと近づく気配がした。
「ゼン」
女性が、ゼンの耳元で、誰にも聞こえないほどの小さな、囁くような声で一言、何かを呟いた。
その言葉の内容は、風の音にかき消され、ルエリアの耳に届くことはなかった。
ゼンは。
その言葉を聞いた瞬間、ただ、短く一度だけ、目を閉じた。
そして何も言わず、ルエリアの横をすり抜けるようにして、いつも通りの気怠げな足取りで扉の中へ入っていった。
「待って、ゼン!」
ルエリアも、慌ててその扉の中へと飛び込んだ。
――瞬間、激しい光が視界を埋め尽くし、次の瞬間には、重力と「音」が彼らの全身に一気に戻ってきた。
「……っ!」
ルエリアが目を開けると、そこは先ほどの静かな街でも、ログハウスでもなかった。
冷たい石畳、薄暗い岩盤の天井、正面で静かに輝きを失っていく超巨大な金属のアーチ。
そこは、元の地下街の最下層、【反転の門】の前だった。
「戻って……きたの?」
ルエリアは自分の手を、それから隣に立つゼンの姿を見た。
ゼンは、何事もなかったかのように、足元でようやく震えを止めたケンイチを抱きかかえ、ぽつりと呟いた。
「……少し、腹が減ったな」
「もう、あなたって人は……!」
ルエリアは呆れながらも、心のどこかで深い安堵を覚えていた。
彼女は、女性から授かった最後のアドバイスを、頭の中で何度も繰り返した。
(クロードに会い、私たちが『向かいたい』と思う街に行く……)
地下街の最下層。
彼らの旅は、まだ終わらない。
ルエリアは静かに前を向いた。
もう「正しい道」を探そうとは思わなかった。
自分で選んだ道なら、
それを歩いてみたい。
そんな小さな決意が、
胸の奥で静かに芽吹いていた。
──第三十三話・終。




