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第三十二話:『正解のない道標』

「おねえちゃんには、それがバラに見えてるの?」


「えっ……?」

ルエリアが聞き返した瞬間、少年の唇がかすかに弧を描いた。


「バラじゃないよ。何もないんだ。でも、そこには確かにそれがある」


「何、を……言って――」


「だから、ここには答えもない。正解も、間違いもないんだよ」


その抽象的な言葉に、ルエリアは思わず手元の一輪のバラへと視線を落とした。

すると、ルエリアの視界の中で、バラがふっとかき消えた。

手のひらには、何もない。


――いや、違う。触覚はあるのだ。

確かに「何か」を握っている重みと感触はあるのに、目には何も見えない。 ルエリアが驚いてパチパチと瞬きをすると、次の瞬間には、再び赤い一輪のバラがそこに戻っていた。


「おい、ルエリア。こっちだ。置いていくぞ」

通りから、ライガの呼ぶ声が聞こえた。 ルエリアは混乱する頭をどうにか落ち着かせ、少年にそのバラをそっと返した。


「……ありがとう。じゃあ、ね」


少年は何も言わず、受け取ったバラを再びただの木の棒へと戻し、何事もなかったかのように他の子供たちとの「同期」の練習へと戻っていった。

ライガの背中を追いかけながら、四人は静かな街の通りを進んでいく。

歩き進むうちに、通りのあちこちに『住民』と思われる人々の姿が見え始めた。

彼らは一様に端正な顔立ちをしており、非の打ち所がないほど整った身なりをしていた。


しかし、その様子はやはりどこか、不気味なほどに無機質だった。

テラス席で向かい合って微笑み合う男女。だが、彼らの口元は笑っているものの、その瞳は一切動かず、互いの会話すらも一定のテンポで、まるで台本を読み合わせているかのように完璧すぎた。


母親が子供の頭を撫でている。その動きは滑らかだが、撫でる角度、スピード、全てが規則正しく繰り返されるルーティンのようだった。


無機質で、どこか人形染みた人々。それなのに、彼らは完璧に仲良く調和し、争いも不和もなく暮らしているように見える。


「……何かしら、この場所。気味が悪いくらい、みんな『仲良し』だけど……生きている感じがしないわ」


ルエリアが抱いた率直な不快感を口にすると、隣を歩くレグナスが、珍しく顎に手を当てて考え込むような素振りを見せた。


「確かに、妙な平穏だな。地上とも、天使の街とも違う。まるで、何者かの『意志』によってあらかじめ最適化された世界、とでも言うべきか。悪魔たちのあの混沌とした騒々しさが、少し恋しくなるな」


ルエリアは小さく溜息をつき、数歩先を歩くライガの大きな背中に声を張り上げた。

「ねぇ、ライガ! 私たちは一体、どこに向かっているの? その『主』って人はどこにいるのよ」


すると、ライガは足を止めることなく、肩をすくめてぶっきらぼうに応じた。

「知らねぇよ」


「……はぁ!?」

ルエリアは思わず大声を上げて立ち止まった。


「知らねぇってどういうことよ! あんた、案内してくれるんじゃなかったの!?」

「慌てるな、天使」


ライガは振り返り、獰猛な笑みを浮かべた。

「俺は『知らねぇ』と言ったが、『案内できない』とは言ってねぇ。この空間に入った時から、この空間そのものが道を示してきやがる。進むべき道が、本能で分かるんだよ。……だから、心配すんな」


「全然、心配しかないわよ……」

ルエリアがげんなりとした表情で、今度は自分の隣を歩くゼンを見た。

ゼンは、一連の会話に加わる風でもなく、ただ退屈そうに周囲の静かな建物を眺めていた。相変わらず、彼の考えていることは全く読み取れない。


ただ、その沈黙はいつも通りの「ゼン」そのもののようでもあり、少しだけルエリアの心を落ち着かせた。


やがて、ライガの足が完全に止まった。 四人がたどり着いたのは、街の静かな風景に不釣り合いなほど巨大な、全面ガラス張りの近代的な超高層ビルの前だった。


「……ここだな」

ライガがビルを見上げて呟く。


「どういうこと? ここが、その人のいる場所なの?」

ルエリアが尋ねると、ライガはビルの自動ドアをくぐりながら言った。


「最上階に行くぞ」


ビルのロビーは、やはり人の気配が全くなく、シーンと静まり返っていた。

ルエリアは広いロビーを見渡し、当然のように壁際に並ぶ『エレベーター』の前に進み、上昇ボタンを押そうとした。これほどの高層ビルだ、最上階に行くのならエレベーターを使うのが、最も効率的で「正しい選択」だ。

だが。

「……あれ?」

背後で、重い扉が開く音が聞こえた。 振り返ると、そこにはなぜか、エレベーターではなく、薄暗い『非常階段』のドアの前に立つライガ、レグナス、そしてゼンの姿があった。


ライガが階段のドアを大きく開け放ち、中へと足を踏み入れようとしている。


「ちょっと! あんたたち、何やってるのよ!?」

ルエリアは目を丸くして、非常階段の前に駆け寄った。

「エレベーターがあるでしょ、エレベーターが! なんでわざわざ階段を使うのよ! 非効率極まりないじゃない! あんたたちも、なんで当たり前みたいな顔してそこに立ってるのよ!?」


レグナスは「いや、なんとなくな」と頭を掻き、ライガは「俺の足がこっちに行けと言ってるんだよ」と不敵に笑うだけだった。 呆れて物も言えないルエリアが、最後にゼンに向かって「ゼン、あなたからも何か言ってよ!」と同意を求めた。


ゼンは、非常階段の薄暗い奥を見つめ、それからルエリアの目をまっすぐに見つめ返した。

「……まぁ、いいじゃねぇか」


「よくないわよ! 最上階まで何階あると思ってるの!?」


「効率とか、正しいとか。……そんなもん、ここじゃ大して意味ねぇよ。お前も、なんとなく分かってんだろ」

ゼンは穏やかな、けれど妙に説得力のある声でルエリアを諭すように言うと、彼女の肩を軽く叩いて、先に非常階段を上り始めた。


「あっ、ちょっと、ゼン……!」

ルエリアはエレベーターの方を振り返った。誰もいない、ただ静かにボタンが光るエレベーター。それが、今の自分にはなぜか、酷く無機質で冷たい「罠」のようにも見えた。


ルエリアは唇を噛み、渋々と非常階段へと足を踏み入れた。

「もう、しょうがないわね……! 後で足が痛くなっても知らないんだから!」


階段を上り続ける時間は、不思議と苦ではなかった。 どれほどの階数を上ったのか、時間感覚さえも曖昧になるような空間だったが、肉体的な疲労はほとんど感じられない。


やがて、四人は『最上階』と書かれた表示のある踊り場へとたどり着いた。 目の前には、最上階のフロアへと続く重厚なドアがある。ここを開ければ、主のいる部屋へと繋がっているはずだった。


しかし、ライガはそのドアを開けようとはしなかった。 彼は踊り場のさらに奥、壁に取り付けられた細い金属製の『避難用タラップ(ハシゴ)』を見上げ、それを迷わず上り始めたのだ。

「ちょっと、ライガ!? 部屋のドアはそっちじゃないわよ! なんで屋上に行こうとするの!?」

ルエリアが叫んだが、レグナスも「なるほど、上が正解か」と楽しそうにタラップを上り始め、ゼンもそれに続いた。

なぜ、みんなどうして最上階のドアを無視して、屋上なんて不便な場所へ向かうのか。 ルエリアは信じられない思いで、その場に立ち尽くした。


(普通に考えたら、最上階の部屋に主がいるはず。わざわざ屋上に行くなんて、間違った選択よ。意味が分からない……)


だが、その時。 ルエリアの脳裏に、先ほどの公園の少年の言葉が、鮮明に蘇った。


『バラじゃないよ。何もないんだ。でも、そこには確かにそれがある』

『だから、ここには答えもない。正解も、間違いもないんだよ』


ルエリアはハッとして、自分の手元を見た。 先ほどバラを握っていた感触。正解を求める自分の心が、世界を歪めて見ていたのではないか。 エレベーターを使うこと。


最上階の部屋に入ること。それが「正しい」と、誰が決めたのだろう。この奇妙な空間においては、その常識こそが『間違い』かもしれない。


「……正解も、間違いもない、か」

ルエリアは自嘲気味に微笑むと、迷いを振り払うようにタラップに手をかけ、一歩一歩、屋上へと上っていった。


タラップを上りきり、重い鉄格子を押し開けて、ルエリアはビルの屋上へと出た。

そこは、どこまでも平坦で、何もない灰色のコンクリートの広場だった。フェンスの向こうには、先ほどまで歩いていた静かな街並みが、はるか眼下にジオラマのように広がっている。


だが、その屋上の中央に、あまりにも異様なものがポツンと佇んでいた。


「……なに、あれ?」


何もないコンクリートの床の上に、ただ一つ、古びた木製の『ドア』だけが自立して立っていた。壁も柱も繋がっていない。ただ、空間の真ん中に、ぽつんとドアと、それを囲む薄い木枠だけが存在しているのだ。


「ほう。これはまた、風変わりな趣向だな」

レグナスが面白そうに目を細めて近寄る。 ライガはふん、と鼻を鳴らし、そのドアの前に立った。


「ここが、本当の『入り口』ってわけだ」

ライガがドアノブに手をかけ、手前に引いた。 ドアが開いた瞬間、そこから溢れ出したのは、先ほどまでの無機質なビルや街の空気とは正反対の、圧倒的な『生命の息吹』だった。 暖かな光、草木の匂い、そして遠くから聞こえる鳥のさえずり。


「行くぞ」

ライガがそのドアをくぐり、姿を消した。 続いてレグナス、ゼンがくぐる。 ルエリアも、もう迷わなかった。彼女はそのドアの向こうへと、ためらうことなく足を踏み入れた。

ドアをくぐり抜けた瞬間、ルエリアの視界は一変した。 そこはビルの屋上などではなく、木の温もりに満ちた、広々とした山小屋のような家の内部だった。天井からはドライフラワーが吊り下げられ、暖炉には優しく火が灯っている。


ルエリアが驚いて窓の外を見ると、そこには見たこともないほど雄大な、エメラルドグリーンの大自然が地平線の彼方まで広がっていた。

空には、美しい青い鳥が群れをなして優雅に羽ばたいている。


「ビルの中に……こんな大自然が……?」


あまりのスケールの違いに、ルエリアが言葉を失っていると、部屋の奥――カーテンで仕切られた、暖かな光が漏れる一角から、鈴の音のように澄んだ、穏やかな声が響いた。


「待っていたわ。こっちにいらっしゃい」


ルエリアがカーテンへ視線を向ける。


その瞬間、ゼンだけが小さく目を見開く。


(第三十二話 終)


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