第三十一話:『正解なき境界の揺り籠』
地下街の最下層へ向かう大昇降機は、錆びついた鉄の擦れる不快な悲鳴を上げながら、ひたすらに奈落へと下降を続けていた。
狂乱の宴が終わり、夜の静寂が戻った頃、ゼン、ルエリア、レグナス、そして案内役を買って出たライガの四人は、闘技場の真下にある旧区画の最奥へと足を踏み入れていた。
「これより先は、俺たち悪魔ですら普段は決して近づかねぇ領域だ。心して来いよ」
ライガの低い声が、薄暗い昇降機の中に響く。その手には、ルナから受け取った禍々しい魔法陣の紋章が刻まれた、古びた鈍い輝きを放つ『鍵』が握られていた。
ルエリアは、隣に立つゼンの横顔を盗み見た。ゼンはいつも通り、どこか気怠げに、眠たそうな目で虚空を見つめている。
だが、その腕に抱えられたケンイチは、未だ微かな震えを残したまま、ゼンのジャケットの裾を小さな翼でぎゅっと握りしめていた。
ゼンの身に起きている異変。
胸を押さえ、小さく震えていたケンイチ。
二人の間に何が起きているのかは分からない。
それでも、あの力を使った瞬間から、何かが少しずつ壊れ始めている。
そんな拭えない違和感だけが、胸の奥に残り続けていた。
ガツン、と重い衝撃が走り、大昇降機が停止した。
眼前に現れたのは、岩盤を削り出して作られた、不気味なほどに静まり返る巨大な円形広場だった。その中央に鎮座しているのが、かつて地上の遺物が墜ちてきた場所とされる
【反転の門】
幾何学的で、地上や魔界の魔術のどれにも属さない、不気味な輝きを放つ超巨大な金属製のアーチ。
「よし、鍵を開けるぞ」
ライガが鍵をアーチの基部にある細い隙間に差し込み、ぐっと捻った。
瞬間、カチリと世界が噛み合うような、重苦しい音が響く。
アーチの内側が、まるで波立つ水面のように青白く歪み、光の幕が形成された。空間そのものがねじ切れるような圧迫感が、四人の全身を包み込む。
「門をくぐった先は、ただの暗闇じゃねぇと言ったはずだ。……行くぞ」
ライガが躊躇なくその光の幕へと足を踏み入れ、姿を消した。
レグナスが「ふむ、実に興味深い」と屈託のない笑みを浮かべてそれに続く。ゼンは何も言わず、ただ自然な足取りで光の中へと歩いていった。
ルエリアは一つ深く息を吸い込み、自分を鼓舞するように、その境界の光の中へと飛び込んだ。
――だが、光を抜けた先でルエリアを待っていたのは、想像していた「禍々しい奈落」でも「古代の廃墟」でもなかった。
「……え?」
ルエリアは思わず声を漏らし、周囲を見回した。
そこに広がっていたのは、薄暗く、厳かな静寂に包まれた『古びた教会』の内部だった。
祭壇には誰も祈る者はいない。ほこりの舞う聖堂、天井の割れたステンドグラスから差し込む柔らかな光、そして使い古された木製の礼拝席。あまりにも静かで、あまりにも神聖な空気に、ルエリアの心臓が不規則に脈打つ。
「おい、ボーッとしてるんじゃねぇ。出るぞ」
ライガの呼びかけに我に返り、ルエリアは慌てて彼の背中を追った。
教会の古びた木の扉を押し開けて外へ出ると、そこに広がっていたのは、さらに奇妙な光景だった。
「な、に……これ。街……?」
そこは、驚くほどに静かすぎる街だった。
中世の地上の都市を思わせるような美しい石畳と、整然と並ぶ白い壁の家々。空は青く澄み渡り、心地よい風が吹き抜けている。しかし、そこには『音』というものが致命的に欠落していた。
風の音も、雑踏の喧騒も、生活の匂いすらもしない。まるで精巧に作られたミニチュアの街に迷い込んでしまったかのような、不自然な静寂。
だが、街に人がいないわけではなかった。
石畳の通りを、買い物袋を提げた夫婦らしき男女が並んで歩いている。
「今日は良い天気ですね」
男が言う。
「はい。今日は良い天気ですね」
女が答える。
「昼食はパンにしましょう」
「はい。昼食はパンにしましょう」
二人は穏やかに微笑んでいた。仲が悪いようには見えない。
むしろ理想的な夫婦にすら見える。
だが。
どこか、おかしかった。
会話に抑揚がない。
声色も変わらない。
相手の言葉を受けて考えている気配がない。
まるで、あらかじめ用意された正しい受け答えを、互いに読み上げているだけのような。
不安を押し殺そうとした時、不意に故郷――ソディウスの街並みが脳裏をよぎった。
……同じ秩序ある街のはずなのに。
この街には、その迷いすら存在しなかった。
ルエリアは思わず足を止めた。
その横を、今度は二人の少女が通り過ぎていく。
「あなたは私の友達です」
「あなたも私の友達です」
「私はあなたが好きです」
「私もあなたが好きです」
二人は笑顔だった。
だが、その笑顔はどこか張り付いた仮面のようで。
楽しそうなのに。嬉しそうなのに。
なぜか胸の奥が冷える。
ルエリアは無意識に腕をさすった。
「……何なの、この街」
その呟きだけが、静かな通りにぽつりと落ちた。
「どうしたの、レグナス?」
ルエリアが尋ねる。
レグナスは通り過ぎる住人たちを見つめながら、珍しく眉をひそめていた。
「うむ……なんだか息苦しい街だな。皆、笑っているのに、誰も遊んでおらん」
教会の目の前には、こぢんまりとした美しい公園があった。
そこでは、数人の子供たちが机を並べ、同じ紙に、同じ文字を何度も何度も書き続けていた。
誰一人として顔を上げない。
誰一人として声を発しない。
彼らの表情には疲れも、不満もない。
ただ、誰一人として間違えないことだけが、この場の唯一の目的のようだった。
ルエリアはその異様な光景に目を奪われ、立ち止まった。
すると、子供たちの一人――黒髪の大人びた瞳をした少年が、ふっと動きを止め、ルエリアの方へと視線を向けた。
ルエリアと目が合う。
少年は、地面に落ちていた、何の変哲もないただの『木の棒』を拾い上げた。そしてそれを、自分の目の前で軽くなぞる。
瞬間、ふわりと音がして、その木の棒は、息を呑むほどに美しい『一輪の赤いバラ』へとその姿を変えた。
少年は無表情のままルエリアへと歩み寄り、そのバラをすっと差し出してきた。
「え……? あ、ありがとう……」
ルエリアは困惑しながらも受け取った。
少なくとも彼女には、本物のバラにしか見えなかった。
花びらは柔らかく、甘い香りまで漂っている。
「綺麗なバラね……。これは、どうやったの?」
ルエリアの問いかけに、少年はただ、底の知れない冷めた瞳で彼女を見つめ返し、静かに口を開いた。
「……やっぱり」
少年は少し微笑みながらルエリアを見た。
「おねえちゃんには、それがバラに見えてるの?」
「えっ……?」
ルエリアが聞き返した瞬間、少年の唇がかすかに弧を描いた。
まるで、ルエリアだけが何かを見間違えていることを知っているかのように。
(第三十一話 終)




