第三十話:『宴の影、忘却の底』
地下街の夜は、悪魔たちの爆音のような笑い声と、肉の焼ける匂いに包まれていた。
ドラム缶で豪快に焼かれる巨大な魔獣の肉。
溢れんばかりに注がれる、毒々しい紫色の美酒。
敗者であるはずのライガが、誰よりも大声で笑いながら、ゼンの背中をバシバシと叩いている。
「おい、ガキ! もっと飲め! 俺の拳をあれだけ受けて立ってたんだ。胃袋の頑丈さもケタ違いだろ!?」
「……うるさい。静かに食わせろ」
ゼンは煤けた肉の塊を口に運びながら、相変わらずのローテンションで応じる。
レグナスは悪魔たちに囲まれながら、豪快に杯を交わしている。
「いやあ、あの最後のデコピンは傑作だったな! まさかライガの頑強な頭を、あんな指先一つで弾き飛ばすとは!」
「全くだ! あのガキ、本当に人間かよ!?」
悪魔たちと肩を組み、上機嫌で笑うレグナスの声が響く。
一見すれば、死線を乗り越えた後の幸福な大団円だった。
だが、その喧騒から少し離れた薄暗い柱の影で、ルエリアはしゃがみ込み、一匹の小さな影と向き合っていた。
虎柄のペンギン――ケンイチ。
彼は隅っこで丸くなり、酷く怯えたように身体を震わせていた。
「ねぇ……」
ルエリアは心配そうに声をかけた。
「どうしたの? どこか痛むの?」
ケンイチはビクリと身体を震わせ、小さな翼で自分の胸をぎゅっと押さえた。
まるですでに、自分ではない誰かの重すぎる痛みに耐えているかのように、その呼吸は浅く、苦しげだ。
「ケンイチ……?」
ルエリアが手を伸ばしかけた、その瞬間だった。
ケンイチの小さな瞳から、ぽたり、と涙が零れ落ちた。
冷たい床に、雫が落ちる。
なぜ泣いているのか、何に怯えているのか、彼は何も語らない。ただ、その姿を見ているだけで、ルエリアの胸には言葉にならない不穏な予感が突き刺さる。
(ゼンの、あの桁違いの力……)
肉体の崩壊ではない。だが、あの力を振るうたびに、ゼンは何か恐ろしい代償を支払っているのではないか。そして、この小さな相棒は、その代償の重みに圧し潰されそうになっているのではないか――。
「おい、天使」
冷たい静寂を破ったのは、低く不機嫌そうなルナの声だった。
ルエリアが慌てて立ち上がり、振り向くとそこには右腕に白い包帯を巻いたルナが立っていた。背後には、同じくボロボロのブラッドが、気まずそうに腕を組んで佇んでいる。
「……何の用よ。まだ戦い足りないの?」
ルエリアはケンイチを背に庇い、冷たい声を向けた。
だが、ルナは小さく溜息をつくと、不意に懐から鈍い輝きを放つ古びた鍵を取り出し、テーブルの上に放り投げた。
カラン、と乾いた音が響く。
「ライガ様からの伝言だ。『お前らの目的は、この街の最下層にある【反転の門】だろ』って。……この鍵があれば、そこへ通じる大昇降機が動く」
ルエリアは目を見開いた。
「これ……本当にいいの?」
「勘違いしないでよね!」
ルナはぷいと顔を背け、苛立たしげに髪を払った。
「アタシは反対だったんだから。でも、ライガ様が『あれほどの覚悟を見せられて、ただで帰すのは悪魔の恥だ』ってきかないのよ。……それに、あんな頭のおかしい化け物、さっさと目的を果たして地上に帰ってもらった方が、この街のためだわ」
ブラッドが横から、静かに言葉を添える。
「……大昇降機は、この闘技場のさらに真下、旧区画の最奥にある。その先にある【反転の門】は、かつて地上の遺物がこの地下へと墜ちてきた場所だ。お前たちの探している『答え』がそこにあるかは分からんが、門を起動すれば、求めている境界へ辿り着けるはずだ」
鍵には、複雑で禍々しい魔法陣の紋章が刻まれていた。
地下街の誰もが恐れ、封印してきた最下層への道。それが今、彼らに開かれたのだ。
「……ありがとう、二人とも」
ルエリアが真摯に礼を言うと、ルナは「フン」と鼻を鳴らし、ブラッドを促して背を向けた。
「さっさと行きなさいよ。今夜の宴が終わったら、アタシたちの気が変わらないうちにね」
二人の背中が喧騒の中へと消えていく。
ルエリアはテーブルの上の鍵を、痛いほど強く握りしめた。
次の目的地。地下最下層、【反転の門】。これで、彼らの旅は次の目的地へと向かう。
「おい、天使。何をしみったれた顔をしてやがる」
不意に、背後から地響きのような声が聞こえた。
見上げると、ジョッキを片手にしたライガが、巨体を揺らしながら近づいてくるところだった。いつの間にかレグナスも、その横で肉を頬張りながらついてきている。
ルエリアはハッとして、慌てて鍵を隠すように握りしめた。
「ライガ……。別に、しみったれてなんかいないわ」
「そうかよ」
ライガは豪快に笑い、闘技場の床を指さした。
「鍵は受け取ったな。その鍵を使って大昇降機を降下させれば、【反転の門】に辿り着く。……だが、お前たちの旅は、門をくぐってからが本番だぜ」
レグナスが興味深そうに目を細め、骨付き肉を噛み砕きながら尋ねる。
「ほう? ただの境界の門ではないということか。その先に、一体何があるのだ?」
ライガは笑みを消し、少しだけ真剣な、妙に濁った目で二人を見下ろした。
「門の先は、ただの暗闇や廃墟じゃねぇ。そこは……奇妙な『空間』に繋がっている。この地下が生まれるよりもずっと昔からそこにある、不可思議な領域だ。そこに行けば、お前たちの求める答えを持つ『あるお人』に会えるだろうよ」
「ある人……?」
ルエリアは眉をひそめた。
「その人は誰なの? 何者なの?」
「さぁな」
ライガは肩をすくめた。
「この街を支配する俺たち悪魔ですら、そいつの正体は知らねぇ。何せ、そいつは神出鬼没で、捉えどころがねぇからな。……ただ一つ、警告しておく」
ライガはジョッキの酒を一気に飲み干し、喉を鳴らした。
「そこの主はな、自分から『招いた客』以外には、絶対に会おうとしねぇ。もし向こうが招いてくれなきゃ、門の先に入ることも、その姿を拝むことも叶わねぇぞ」
「招かれないと会えない……」
ルエリアはゴクリと唾を飲み込んだ。
「……俺はな、お前らがその空間の主に『喰われる』か、あるいは『主をブチのめす』か、特等席で見物したいだけさ。悪魔の退屈しのぎにゃ、最高の上等品だろ?」
「……悪趣味ね」
ルエリアが睨みつけると、ライガは「がはは!」と愉快そうに笑い、ゼンを親指で指した。
「ま、心配すんな。あの頭のおかしいイカれたガキを連れてりゃ、退屈しのぎに招いてくれるかもしれねぇよ。……向こうも、ああいう『規格外』のオモチャは大好物だろうからな」
その言葉を聞きながら、ルエリアは遠くに佇むゼンの姿を再び見つめた。
ゼンは悪魔たちから差し出されたジョッキを気怠げに受け取り、相変わらずのローテンションで肉を口に運んでいる。
ルエリアはそんなゼンに歩み寄り、声をかけた。
「ゼン。ライガのやつ、相変わらず一言余計というか……。でも、これでようやく次の場所へ進めるわ。クロードに言われてこの地下街を目指した時はどうなるかと思ったけど、なんとかなったわね」
ゼンは肉を咀嚼しながら、ふと動きを止め、不思議そうに首を傾げた。
「……次の場所?」
「え?」
ルエリアは一瞬、動きを止めた。
「……だから、数日前に私たちに地上で助言をくれた、あのクロードよ。彼に『地下街に行けば門の手がかりがある』って言われたから、私たちはここに来たんでしょ?」
「……」
ゼンは手元に残った肉の塊を見つめ、それからルエリアの顔をじっと見つめて、ぽつりと言った。
「……門の手がかり?」
ゼンは眉間に皺を寄せる。
「それが、俺たちと何の関係があるんだ?」
「ちょっと、冗談はやめてよ」
ルエリアは苦笑交じりに言ったが、ゼンの瞳を見た瞬間、言葉が喉に張り付いた。
「おい、ゼン。話を聞いていたのか?」
レグナスも、呆れたように笑う。
「……いや」
ゼンは頭を少し乱暴に掻きむしり、酷く鬱陶しそうに呟いた。
「……まあいい。ライガとも戦ったし、もう用はないだろ」
「え……?」
ルエリアの背筋を、微かな、しかし酷く冷たい汗が伝い落ちた。
ルエリアの心臓が、どくん、と大きく脈打つ。
違う。
ゼンは戦うために地下街へ来たわけじゃない。
そのはずなのに――
先ほどの戦闘で、ゼンが能力を解放した瞬間の、あの異様な力。
あの瞬間から、何かがおかしくなった気がする。
遠くでは、ケンイチが胸を押さえたまま、小さく身体を震わせていた。
誰にも気づかれないまま。
ゼンの内側では、名もない異変が、静かに根を広げ始めていた。
(第三十話 終)




