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第二十九話:『美しき怪物と対価の足音』

ドカドカドカドカッ!!!


至近距離での終わりのない暴力の往復。

足を縛り付けた超局所空間で、ライガの剛拳がゼンの肉体を激しく打ち据え続けていた。


本来なら肉体を破壊しているはずの衝撃は、『時』の呪いによって五分後へと先送りされ、巨大な砂時計の内部へ蓄積され続けていた。


すでに砂時計の内側では、二人が生み出した暴力の奔流が、周囲の空間を歪ませるほどの熱量へ膨れ上がっている。

手数、そして単純な一撃の質量。

そのどちらを見ても、悪魔の王たるライガが完全にゼンを圧倒しているように見えた。


(俺の勝ちだ……! このまま押し切る……!)


ライガの胸の内で確信が膨らむ。

どれほど奇妙な術理を使おうとも、強靭な肉体をした純粋な悪魔の膂力には敵わない。

残る時間はあと数十秒。ゼンへ刻んだ蓄積ダメージは、確実に自分の方が多いはずだった。


だが――その歓喜の真っ只中で、ライガの脳裏にふと、冷や水のような疑問が過った。


(……いや、何故だ? 何故、こいつを『押し切れている』感覚がしねぇんだ……!?)


どれだけ重い拳を叩き込んでも、ゼンの身体はミリ単位すら後ろにブレない。


それどころか、ゼンのガントレット(籠手)は、ライガの猛攻のわずかな隙間を縫うようにして、恐ろしいほど一定のテンポで、ライガの顎、脇腹、心臓の直上へと正確に突き刺さり続けている。


その時、ライガは正面から、ゼンの『瞳』と視線が真っ向から交錯した。


「――ッ!?」


ライガが、恐怖で一瞬ひるんだ。


ゼンの瞳の奥。そこには、殴り合いの熱狂など微塵も存在していなかった。

底の知れない、冷徹極まりない『闇』。


ゼンは、ただ感情を排した精密機械のように、ライガの筋肉の収縮、視線の動き、空気の振動のすべてを『先読み』していた。


ライガが十発殴る間に、ゼンは最も効果的なタイミングで、最も急所となる一点へ、確実にカウンターを合わせ続けていたのだ。


(こいつ……俺の攻撃を誘って、わざと受けながら、自分のダメージ量をミリ単位でコントロールしてやがるのか……!?)


その化け物じみた戦闘センスに気づいた瞬間、ライガの背筋に冷たい戦慄が走る。


カチ、カチ、カチ――。


ゼンの懐中時計が、無情にもラスト五秒のカウントダウンを刻み始めた。


「ガァァァァァッ!!」


思考を放棄し、ライガは本能のままに最後の力を振り絞った。


これまでのどんな拳よりも速く、重い、渾身の『頭突き』。

自らの頑強な角ごとゼンの頭蓋を粉砕せんとする、文字通りの肉弾特攻。


だが、ゼンは不敵に、どこまでも残酷に笑った。


「終わりだ」


ゼンが放ったのは――右手の親指と中指を交差させただけの『デコピン』だった。


それは力任せの一撃ではない。

ライガの全体重と突進力が額の一点へ集まる、その瞬間。ゼンは指先を、寸分違わず弾いた。


パチン、と。


闘技場全体に、あまりにも不釣り合いな、けれど綺麗な音が響き渡る。


ドォンッ!!!


「が、はっ……!?」


ライガの巨体が大きく仰け反った。


それでも倒れるまいと踏ん張り――本能的に、右足を後方へ踏み出してしまう。


ズンッ。


その一歩が、敗北寸前までライガを追い込んだ。


二人の左足を繋ぐ包帯が、ギチギチと悲鳴を上げる。

中央のナイフが白い繊維へ深く食い込んだ。


だが、切れない。


あと一本。

わずか一本の繊維だけが、二人を繋ぎ止めていた。


ライガの身体が特設ステージの縁を越え、奈落へ傾いていく。


その太い手首を、ゼンの右手がガシッと掴み取った。


「……ッ、ガキ……?」


「時間はまだ残ってる。……最後の一秒まで、全部吐き出してみろ」


ゼンはライガを引き戻し、無防備な肉体へ怒濤のラッシュを叩き込んだ。


一秒間に数十発。

もはや残像すら残らない、文字通りの暴風雨。


ピッ――。


砂時計から、無機質な音声が響いた。


『五分経過。総蓄積ダメージの判定を開始』


一瞬の沈黙。


『判定完了――ライガの勝利』


プチンッ。


同時に、最後の一本だけ残っていた包帯の繊維が、ナイフの刃に断ち切られた。

ゼンが手を離す。

ライガの巨体は、「……はは」と満足そうな笑みを浮かべたまま、下層の砂舞台へとゆっくり落下していった。


『ペナルティ発動。蓄積全ダメージを一括還元』


ドォォォォンッッッッ!!!!


玉座の前で、空間そのものが消滅したかのような、今日一番の大爆発が巻き起こった。

黒紫の雷霆と呪詛の霧が、ゼンの肉体を爆心地として狂ったように吹き荒れる。


「ゼン―――ッッ!!!」


ルエリアが、喉が潰れるほどの悲鳴を上げて叫んだ。

手すりを乗り越え、今にも闘技場へ飛び降りようとする彼女を、レグナスが必死に片腕で組み伏せて止める。


「放して! レグナス、放しなさいよ! ゼンが、あいつが死んじゃう……!!」


だが、猛烈な爆煙が、ゆっくりと風に流されていく。


爆煙の中に、一つだけ黒い人影が立っていた。


「……え?」


ルエリアの瞳が、涙に濡れたまま凝固した。


玉座の前。煉瓦の床が完全に消失したクレーターの中心。


ゼンは、全身の皮膚からドクドクと鮮血を流し、衣服をボロボロに引き裂かれながらも、一歩も動かず――ただ冷たい黒い瞳で、真っ直ぐにライガを見下ろしていた。


二人が五分間で生み出した全暴力を一括で受けてなお、倒れることすらしない。


その姿は、地上の人間などではなく、本物の『怪物』にしか見えなかった。


下層の舞台から、満身創痍のライガが、膝をガクガクと震わせながらもゆっくりと立ち上がった。


ライガは理解した。


負けた。


力ではない。能力でもない。

生き様で。心で。完全に。


彼は血塗れの身体のまま、一歩一歩、煉瓦の階段を上っていく。


そして、玉座の前に立つゼンの正面へと再び歩み寄った。


「強い奴は山ほど見た。狂った奴も、化け物もな。だが、お前みたいな奴は初めてだ」


ライガは血に濡れた拳を握った。


「悪魔は勝つためなら何でもする。だが、お前は、勝てる戦いを捨ててまで俺の土俵へ降りてきやがった。効率もねぇ。意味もねぇ。馬鹿だ」


ゼンも笑う。


「知ってる」


「……後ろに引かねぇその生き様、不器用で、泥臭くて、美しいとすら思う。……俺の完敗だ」


ゼンが露骨に嫌そうな顔をした。


「気持ち悪いこと言うな」


ライガは「もうお前とは戦いたくねぇよ」と苦笑し、その場にどさりとあぐらをかいて座り込んだ。


ゼンが首を鳴らし、「またやろうぜ」と不敵に笑いかけると、ライガは両手を挙げた。


「勘弁してくれ、完全にお手上げだ。……俺の降参だ。この勝負、お前の勝ちだ」


一瞬の静寂。

次いで、実況の震える声が闘技場を貫いた。


『ライガ選手、自ら勝利を返上! 降参を宣言――! 試合終了――! 勝者、最後まで一歩も退かなかった男、ゼン――ッ!!』


ワァァァァァァァァァッッッ!!!


地下街が揺れる。


歓声。


怒号。


笑い声。


拍手。


酒瓶の割れる音。


誰かの野次。


誰かの泣き声。


誰かの歌声。


その瞬間――


ルエリアの視界が揺れた。


――違う。


歓声のはずだった。


だが耳に届いたのは。


ドン。


ドン。


ドン。


祭囃子だった。


白黒の地下街が、一瞬だけ色づく。


藍色の法被。


赤い提灯。


火の粉。


汗。


熱気。


人々が笑っている。


人々がぶつかり合っている。


人々が叫んでいる。


非効率で。


騒々しくて。


無秩序で。


それでも――


どうしようもなく、生きている。


(……なに、これ)


気づけば景色は元に戻っていた。


そこにいるのは祭りの群衆ではない。


熱狂する悪魔たちだった。


「マジかよ!!」「ライガ様が認めた!!」「新しい王だ!!」「いや王じゃねぇ!!」


「やった……。やったわ、ゼン……!」

ルエリアは腰が抜けたようにその場にへたり込み、何度も何度も涙を拭った。


「ルエリアよ。無意味なものも、少しは美しいと思っただろう?」


「ふ、フン! ただの野蛮な殴り合いよ! ……まあ、退屈だけはしなかったけれどね」


ルエリアはぷいと顔を背け、いつものツンとした態度を取り戻そうとする。レグナスはその様子が可笑しくてたまらないといった風に、ハハハと声を上げて笑った。


闘技場から、ゼンが気怠そうな足取りで戻ってきた。


「このバカ! 本当に心配させないでよ!」


ルエリアが駆け寄り、怒鳴りながらも、その両手から淡い緑色の回復魔法の光を放ち、ゼンの全身の傷を癒やしていく。


「少し、疲れたな……」


ゼンが珍しく、弱音を吐くようにぽつりと呟いた。


「……ん?」


回復魔法を唱えていたルエリアの指先が、ピクリと止まった。


回復魔法を通して伝わってくる、あの独特の『喪失感』。


ゼンは、ルエリアの光によって塞がっていく我が手のひらを、どこか遠い目で見つめながら、ぼんやりと呟いた。


「……なぁ。なんか……変な感じだ」


「え……?」


ゼンは、自分の手のひらをぼんやりと見つめていた。

「いや……何でもない」


その横顔には、ほんの一瞬だけ、言いようのない違和感が浮かんでいた。

何かを探しているような。


だが、その表情もすぐに消え、いつもの気怠げな顔へ戻ってしまう。


ルエリアの胸が、小さくざわついた。


複合能力を使った直後ほど、ゼンの異変は大きくなる。

それが偶然ではないことだけは、もう疑いようがなかった。

ルエリアの視線が、ゼンの足元へ向かう。


そこでは、ケンイチの虎柄の一筋が、墨を流したように黒く染まり始めていた。


小さな身体は激しく震え、瞳からぽろぽろと透明な雫がこぼれ落ちている。

「がはははは! 見事な戦いだった、地上人ども!」


後ろから、満身創痍のライガたちが豪快な足音を響かせながら近づいてきた。


「俺の負けだ! 地下街の最高の酒と、とびきりの飯を用意させる! 今夜は朝まで宴を開こうじゃねぇか!」


「おお、それはありがたい! 地下街の王の奢りとあれば、遠慮なく食い尽くしてくれよう!」


レグナスが屈託のない笑顔で応じる。

ルエリアは、胸の奥に芽生えた不穏な違和感を、今はただ、ぎゅっと心の奥底へと仕舞い込むしかなかった。


「……もう、しょうがないわね。ご馳走になるわ」


ルエリアは無理に作った笑顔で微笑み、ゼンを振り返る。


ゼンは、足元でようやく震えを収めたケンイチをそっと抱き上げ、懐に仕舞い込みながら、短く応じた。


「飯なら、食う」


激闘の夜は、地下街の喧騒と宴の明かりの中へ消えていく。


誰もまだ気づいていない。

その歓声に紛れて、ゼンの大切な記憶を奪う『対価』の足音が、また一歩だけ近づいていたことに――。


──第二十九話・終。

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