第二十八話:『五分間の死線』
「いいぜ」
ゼンのその一言が合図だった。
張り詰めた沈黙の中、ゼンは構えていたガントレットをゆっくりと下ろした。
そして喉の奥で不敵な笑みを漏らす。
「ハハ……ハハハハ!」
ゼンの目に、初めて鮮烈な『愉悦』の光が灯った。
気怠げながらも確かな足取りで、ライガがかつて腰掛けていた玉座の前へと歩き始める。
「いいぜ、地下の王様。そこまで言うなら、テメェのその安いハッタリ、正面から買ってやるよ。……おい、そこじゃ広すぎる。こっちへ上がってきな」
玉座の前で振り返ったゼンが、顎でライガを呼び寄せる。
防御を捨て、胸元をさらしたライガの挑発。その全身に刻まれた『呪い』の凍傷と石化に血を滲ませながらも、その瞳はかつてないほど純粋な輝きを放っていた。
ライガは獰猛に口元を吊り上げ、ズシン、ズシンと煉瓦の階段を上り、ゼンの真正面へと至った。
玉座の前は、二人が向かい合えば逃げ場もないほど狭い。
背後には、闘技場へ続く切り立った落差が口を開けていた。
二人の距離は、互いの息遣いが届くほどの至近距離。
「おい、テメェ。さっきルールは嫌いだって言ったよな」
ゼンが懐から、アンティーク調の古い懐中時計を取り出した。
カチ、とリューズを押し込む。
『呪・解』
「なんだ……? 呪いが、消えた……?」
ライガが目を見開く。
先ほどまで自身の肉体を苛んでいた石化や凍傷が、嘘のように鳴りを潜めていた。
ゼンは特設ステージの袖で怯えていたルナを冷たい一瞥で射抜いた。
「おい、そこの女。包帯を持ってこい。さっさとしろ、毟り取るぞ」
「ひっ、はいぃっ!」
ルナが涙目で慌てて持ってきた白い包帯を、ゼンはひらりと受け取る。
そして驚くライガの目の前で、自身の左足首と、ライガの左足首を、何重にも、硬く硬く結びつけた。
さらに、ゼンはその包帯の「内側」――互いのふくらはぎの隙間に、一本の剥き出しのナイフを垂直に挟み込む。
「ああ?……何だ、こりゃあ?」
ライガが獰猛に眉をひそめる。
ゼンはガントレットを構えたまま、不敵に口元を歪めた。
「混ざれ――『呪』、並びに『時』」
二つの元素武装が、ひとつの術式へと組み替わる。
「刻まれし痛みよ、時の檻に沈み、終わりの鐘とともにすべてを返せ」
『総身返呪――フルカウント・カース』
次の瞬間、黒紫の霧が爆発するように二人の足元から噴き上がった。
霧は蠢きながら闘技場全体へ広がり、やがて二人を包み込む巨大な『砂時計』の形を成していく。
サラサラと、黒紫の砂が静かに落ち始めた。
ゼンは狂気的な笑みを浮かべる。
「説明してやるよ。今から五分間、俺もお前も壊れねぇ」
「……あ?」
「殴られても痛くねぇ。傷も残らねぇ。この五分で本来相手へ与えるはずだったダメージは、全部あの砂時計に蓄積される」
ゼンが冷たく、そして狂おしく笑う。
「五分後、より多くのダメージを刻まれていた方が負けだ。勝った方には何も返らねぇ。負けた方だけが、二人に蓄積された全ダメージを一撃で喰らう」
ゼンは足元のナイフを冷たく見下ろした。
「一歩でも退けば、中央のナイフが包帯を断つ。包帯が切れた方は、その瞬間に敗北扱いだ。ビビって下に落ちたらその時点で負け。……これなら、チマチマしてなくて分かりやすいだろ?」
ダメージが無効化される五分間。
それは、どれほど殴ろうと肉体は壊れず、限界という名のブレーキが消え去る時間。
そして最後に待つのは、五分間で積み重ねたすべての暴力を、負けた者だけが一撃に変えて叩きつけられる結末。
これ以上ないほどに狂った、デスゲーム。
一瞬の静寂。
ライガは唖然とした表情を浮かべたが、次の瞬間には、その巨体を弾けさせてゼンの顔面へ拳を叩き込んでいた。
ガゴォォォンッ!!!
闘技場が激しく揺れるほどの衝撃。ゼンの顔面にまともに拳がめり込んでいる。
だが、繋がれたゼンは一歩も後ろへ下がらず、ただ冷たい目でライガを見返していた。
確かな手応えはある。衝撃も伝わる。それなのに、ゼンの肉体には痛みも損傷も生じていない。
「……そういうことか」
ライガの顔に、にわかに鳥肌が立つような戦慄が走り――直後、それは爆発的な歓喜へと変わった。
「がはははははは!! 面白ぇ! 面白ぇなぁ、ガキぃ!! ダメージの先送りか! 痛みがねぇなら、防御なんて一切いらねぇなぁ!?」
「そ。殴り合うだけだ」
「いいぜ……いいぜ、黒髪のガキ!! テメェが本当の化け物だ! いくぞぉぉぉっ!!」
「ルァァァァァッ!!」
「オラァッ!!」
二人の怪物の拳が、同時に炸裂した。
ドゴオォン! バキィィン! ゴガガガガガッッ!!
互いの足を包帯で縛られた二人に、避けるためのステップなど存在しない。
二人とも肉体が壊れない。痛みがない。血が出ない。
ただの『原始的な暴力』の応酬。
だからこそ、手加減という概念が消え失せる。
互いの命を削るはずの拳を、百パーセントの出力で叩き込み合う。
「ちょっと、何よこれ……!? 二人とも頭がおかしいわ!!」
観客席の最前列で、ルエリアが防壁に身を乗り出し、叫んでいた。
「ゼン! あなた、本当に頭がおかしいの!? せっかく有利だったのに、自分から同じ条件に並ぶなんて、ただの自殺行為よ!」
「ルエリアよ。そう怒るな。時に、人というものは、理屈では測れぬ光景にこそ、魂を揺さぶられるものだ。 ……お前とて、そうだろう?」
「な、何言ってるのよ、このバカ騎士……! 私はただ、あいつの非効率的な行動に呆れてるだけで――」
「フッ、本当に呆れているだけか? お前のその視線、赤くなった頬。……意味のない無茶に命を燃やすゼンに、どうしようもなく惹かれているのではないか?」
「はあぁぁぁっ!? 誰がこんな変人に――!」
反論の途中で、再び猛烈な爆音と衝撃波がすべてを掻き消した。
ゼンの足元では、虎柄のペンギン、ケンイチも、翼でペチペチと己の額を叩き、深いため息を吐くように首を横に振っていた。
『(また悪い癖が始まったよ……)』とでも言いたげな、完全に呆れ果てた態度だった。
バチバチバチバチッ!!
ライガの豪雨のような連打が、ゼンへ叩き込まれる。
ガガガガガガッ!!
ゼンの拳が、ライガの顎を容赦なく跳ね上げる。
後ろへ下がれば、中央のナイフが包帯を断つ。
退けば負ける。
前へ出て、殴る。
それ以外の選択肢を、ゼンの狂気が許さない。
そこは、純粋な暴力だけが超高速で往復する、逃げ場のない拳の処刑場だった。
それでも、二人は笑っていた。
互いの拳が触れるたび、魂の奥底にある「歪み」が共鳴していくのを感じていた。
「がははは! ガキィ! テメェ、やっぱり俺と同類じゃねぇか! 自由だの欲望だの偉そうに語るくせに、テメェの拳、死ぬほど飢えてやがるぞ!!」
「うるせぇよ、脳筋。テメェと一緒にすんな」
ゼンは冷たく突き放しながらも、その拳の速度をさらに加速させる。
痛まない肉体。壊れない骨。ただ、互いの存在を証明するように、純粋な質量が交錯し続ける。
(あぁ……楽しい……ッ!!)
ライガの脳内を、狂ったような歓喜が駆け巡っていた。
拳を叩き込むたびに、拳を叩き込まれるたびに、魂が震える。
記憶の向こうの、あのゴミ溜めの裏路地。
冷たい泥水をすすり、誰かに奪われるのを恐れて怯えていた小さな自分。
「見ろよ、俺」
ライガは、心の中で幼い自分に語りかける。
「俺は今、こんなに強い奴と、何にも縛られず、ただ剥き出しの命で笑い合ってる。奪われる恐怖も、王としての責任も、全部忘れて、ただ、戦ってるんだ――!」
ドガガガガガガガガガガガガガッッッ!!!
二人の怪物の凄絶な殴り合いに、闘技場全体の悪魔たちが、もはや恐怖を忘れて総立ちになっていた。
地鳴りのような大歓声が、闘技場を激しく揺らす。
「ライガ!」「ライガ!」「ガキ!」「ぶっ殺せ!」
誰もが、この無意味で、無茶苦茶で、けれど最高に美しい命の激突に、魂を奪われていた。
「ゼン―――ッッ!! 負けたら絶対に許さないんだからァァァァッッ!!」
気づけば、観客席の最前列で、ルエリアが手すりから身を乗り出し、喉が張り裂けんばかりの大声で叫んでいた。
上品な天使としてのプライドも、非効率だという理屈も、すべて投げ捨てて、ただゼンの名を叫び、彼を応援していた。
「……おや」
隣でそれを見たレグナスが、驚いたように目を丸くする。
ルエリアはそんなレグナスの視線にすら気づかない。
ただひたすらに、玉座の前で衝撃の火花を散らす、黒髪の背中を見つめ、祈るように、叫び続けていた。
「殴り倒しなさい、ゼン!! 地上の、人間の意地を見せてよぉぉぉっ!!」
サラサラと、黒紫の砂が落ち続ける。
あれほどの暴力を交わしてなお、落ちた砂はまだ全体の五分の一。
残された時間は、あと四分。
誰もまだ知らない。
五分後、最後まで立っているのが人間か、悪魔か。
地下街最強と、地上から来た黒髪の怪物。
二人の命は、一粒ずつ確実に死へ近づいていた。
──第二十八話・終。




