第二十七話:『泥泥の誇りと野獣の牙』
「テメェに、俺の何が解るってんだよぉ、ガキがぁぁぁッッ!!」
ライガの地を震わせる咆哮とともに、闘技場の空気が爆発的に膨れ上がった。
対峙する二人の間に流れる空気は、すでに生身のタイマンで収まるレベルを超えていた。
圧倒的な存在感を前にして、プライドが、その魂の飢えが敗北を拒絶した。
自ら雷も、大剣も、すべてを捨てたライガ。
それでも闘技場を支配する圧力だけは、むしろ増していく。
王としての誇りが、魂の奥底に眠る獣を呼び覚ました。
「ギフト――解放」
闘技場に爆発的な黒紫の雷が狂い咲いた。その怒りは、地下街の王としての絶対的なプライドを汚されたがゆえ。空間を割るほどの圧力が、防壁の障壁をバチバチと激しく明滅させる。
「喰らい尽くせ――『哮る雷獣』!!」
ライガが虚空を掴むように腕を突き上げると、黒紫の電光が彼に収束した。
「能力は捨てた。だがこれは違う。俺自身を解き放つだけだ」
ライガの肉体に異変が起こる。身の丈をゆうに超える巨躯がさらに一回り膨れ上がり、鋭利な刃物のような爪と口元からは鋭く長い獣の牙が突き出した。全身の毛髪が逆立ち、瞳が爛々と狂気的な光を放つ。それはまさに、神話の時代に地下に封じられたという『野獣』そのものの姿だった。
対するゼンは、指先で弄んでいた二丁拳銃を、実体のない霧のように消散させる。
代わりに両手に纏わせたのは、底の知れない澱んだ黒紫の霧。
『呪』属性――解放。
ゼンの両手を覆うように、重厚な金属の質感を持つ禍々しいガントレット(籠手)が出現する。その表面からは、常に不吉な呪詛の霧が立ち上っていた。
「格好ばっか一丁前で、中身が伴ってねぇんだよ。……テメェのこれまでの戦い方の話だ、地下の王様」
ゼンは冷たい黒い瞳でライガを見据え、構える。
「ガァァァァァッ!!」
獣と化したライガが床を蹴った。ドォォォン!! と闘技場の半分が陥没するほどの踏み込み。一瞬でゼンの眼前に肉薄したライガは、雷を纏った両手の爪を容赦なく振り下ろした。
ライガの『ギフト』は、単なる遠距離攻撃の電撃ではない。
自身の肉体に超高電圧の負荷をかけることで、脳と筋肉の限界を強制的に解除する、命を削る自傷型の超絶自己強化。 空間ごと叩き割るような、一撃必殺の猛攻。
だが、ゼンは踏み込まない。ただ、わずかに半身をずらし、拳の軌道から数センチだけ身をかわした。
轟ッッッ!!!
空振った拳が床を砕き、凄まじい衝撃波がゼンの黒髪を激しく揺らす。その刹那、すれ違いざまにゼンの右拳が、ライガの右脇腹へと正確に突き刺さった。
ドン。
鈍い音が響く。しかし、ライガの肉体に傷はつかない。ゼンの放った拳は、肉体的なダメージを一切与えない。
「ハッ! なんだその貧弱な拳は! 痒くもねぇぞ!」
ライガは鋭い爪を強引に横一線に振り回す。ゼンはそれを低くしゃがんで回避し、再びライガの同じ右脇腹へと、寸分違わぬ精度で左の拳を叩き込んだ。
――二撃。
「……ッ!?」
ライガの動きが、ほんの一瞬だけ強張った。
肉体的な痛みはない。だが、拳が触れた箇所から、冷たい『何か』が急速に血管を伝って全身へと広がっていく。
不快感を払拭するように、ライガはさらに速度を上げて拳を連打する。猛烈な拳の嵐がゼンを襲うが、ゼンは流れるような体捌きでそのすべてを紙一重で躱し続けた。
そして、躱すたびに、ゼンの黒いガントレットが、ライガの『同じ箇所』へと確実にヒットしていく。
三撃。四撃。五撃。
「が、は……っ!? なんだ、これは……!?」
ライガの巨体が、にわかにガクリとよろめいた。
「お前……何をしやがった……!」
どうにか踏み止まるライガの瞳に、初めて明確な『恐怖』の色が映った。殴られるたびに、自分の肉体の自由が、絶対的な強者としての力が、内側からボロボロと崩れ落ちていく。
打撃によるダメージはゼロ。しかし、同じ箇所へ複数ヒットするたび、刻まれた状態異常の深度が『倍々』で跳ね上がっていく。
ライガの巨体が、にわかにガクリとよろめいた。息が詰まる。視界が急速に狭まり、全身の筋肉が言うことを聞かなくなっていく。
猛毒、麻痺、石化、凍傷、睡魔――あらゆるバッドステータスが、同時に、そして限界突破した深度でライガの肉体を侵食していた。皮膚が青白く凍りつき、一部が石のように硬化し始める。
どうにか踏み止まるライガ。力でねじ伏せられるはずの地上の人間に、殴られるたびに、自分の肉体の自由が、絶対的な強者としての力が、内側からボロボロと崩れ落ちていく。その未知の絶望に、ライガの魂が凍りついていく。
体の自由が奪われていく暗闇の中で、ライガの脳裏に、ふと、大昔の記憶が鮮明に蘇ってきた。
――陽の光すら届かない、地下街の最下層。ゴミ溜めのような煉瓦の路地裏。
まだ小さく、角もろくに生えていなかった頃のライガは、毎日、飢えと寒さに震えていた。
泥水をすする。
見つけたわずかなパンの切れ端。
大人の悪魔たちに殴られ、笑われながら、簡単に奪われる。
地上の人間のように『法』に守られることもなく、ただ暴力だけが肯定される檻。
踏みつけられ、泥に塗れ、何もかもを奪われ続けた日々。
倒れた地面の冷たさの中で、幼いライガは泥を噛み締めながら、ただ一言だけ、心に呪いを刻むように呟いた。
『――強くなる』
だが、そんなライガの魂の決意すらも、ゼンは冷酷な言葉で切り捨てた。
「強くなりたかった理由は知らねぇが、今のテメェの戦い方は、ただ力に振り回されてるだけだ。結局のところさ――」
ゼンはガントレットを構えたまま、冷たい黒い瞳でライガを見下ろす。
「テメェは怯えてんだよ。誰かにすべてを奪われるんじゃないかってな。だから肥大化した力で身を固めて、安全圏から威張ってる。そんな奴のどこが『自由』なんだ? 笑わせんな」
「ガ……、ア、アァァァッ……!!」
ライガの口から、言葉にならない悲鳴のような咆哮が漏れた。
すべてを見透かされていた。自分が最も隠したかった、力の裏側にある『恐怖』を、この少年は正確に射抜いていた。
「凄い……」
観客席の最前列で、ルエリアは両手を胸の前で強く握りしめたまま、微動だにできず闘技場を見つめていた。
あの圧倒的な地下街の支配者を、ゼンが、ただの『呪い』のガントレット一つで完全にコントロールし、精神的にも肉体的にも追い詰めている。ルエリアの心臓はドクドクと激しく脈打っていた。
「レグナス……ゼンって、一体何者なの……? どうして、あんなに強くて、あんなに冷たい眼ができるのよ……」
ルエリアの声は微かに震えていた。隣に立つレグナスは、腕を組んだまま、静かに息を吐いた。
「フッ、言っただろう。あれは『怪物』だ。だが、強さとは肉体だけではない」
レグナスはゼンを見つめる。
「あやつは、人の歪みを見る目を持っておる。……おそらく、自分の中にも同じものがあるからな」
「ゼンの……歪み?」
ルエリアがその言葉の先を促そうとした、その時だった。
ゼンの足元で、ケンイチが静かに闘技場を見つめていた。その小さな翼の震えは止まらない。ただじっと、これから訪れる「何か」を黙って見つめるように。
闘技場の中央。
幾重もの呪いに侵され、完全に膝をつきかけていたライガが、突如として不敵な笑みを浮かべた。
「……がは、は……。なるほどな。恐怖、か。確かに、そうかも知れねぇ。俺は、奪われるのが怖くて、必死に力を求めた……」
ライガは、ゆっくりと立ち上がった。全身の石化や凍傷の節々から、メリメリと不穏な音が響く。呪いの負荷によって、彼の肉体はすでに限界を迎えているはずだった。
だが、ライガは自身の胸をはだけさせ、完全に無防備な姿でゼンを正面から見据えた。その顔には、先ほどまでの怯えや怒りは一切なく、ただ純粋な、戦う者としての獰猛な笑みだけが浮かんでいた。
「小細工も、防御も、能力も、全部終わりだ。これ以上、チマチマした呪いの数合わせに付き合うのは退屈だ、ガキ。……ここからは、ただの殴り合い(タイマン)だ」
ライガの肉体から、最後の、しかし最も純粋な紫電がバチバチと立ち上がる。
「チャンスよ、ゼン! 完全に無防備よ、一気に押し切りなさい!!」
観客席からルエリアが、身を乗り出すようにして必死の声を張り上げる。
だが、ライガはゼンの目を真っ直ぐに見つめたまま、凶悪に、そしてどこまでも楽しそうに笑った。
「お前の言葉は気に入らねぇ」
ライガが拳を握る。
「だから、拳でもう一度聞いてやる」
ニヤリと牙を剥いた。
「やるか?」
ゼンは数秒、黙った。
そして、口元だけで笑う。
「いいぜ」
──第二十七話・終。




