第二十六話:『落雷と底無しの闇』
「待ちなさい!」
地下闘技場に、ルエリアの鋭い声が響いた。
熱狂に包まれていた観客席が、一瞬だけ静まり返る。
「これで二勝! 私たちの勝ちでしょ! さあ、さっさと道を空けなさい!」
ルエリアは胸を張り、毅然とした態度で周囲の悪魔たちを指差した。
ルナを退け、ブラッドにも勝利した。客観的に見れば、この勝負は完全に決着している。
観客席がざわつく。
確かに、その理屈は正しい。
だが、闘技場の煉瓦の階段を、重い足音を響かせながらゆっくりと下りてくる巨躯――地下街の王、ライガは、凶悪な牙を覗かせて低く笑った。
「がははははっ!」
「何がおかしいのよ」
ルエリアが眉を吊り上げる。
ライガは涙を拭いながら肩を震わせた。
「おいおい、お嬢ちゃん。誰が決めたんだ?」
「は?」
「お前らが二勝した? それがどうした。ここにあるルールはたった一つ――俺の気まぐれだけだ。俺はまだ、負けを認めてねぇぞ」
「な、なんですって……!? そんなのただの難癖じゃない!」
ルエリアが眉を跳ね上げ、顔を真っ赤にして憤慨する。
その隣で、先ほど崩壊した壁の瓦礫からスポッと頭を抜き、何食わぬ顔で服に付いた煉瓦の粉を払っていたレグナスが、やれやれと肩をすくめた。
一瞬の静寂の後、地下街全体が沸き上がった。
「ライガ様ァァァ!!」
「そうだ!!」
「地下街最強!!」
「やれぇぇぇぇ!!」
地鳴りのような歓声。
「ルエリア、諦めよ。悪魔の長とは、往々にしてそういう身勝手な生き物だ。道理や契約が通じるなら、そもそも地下に王国など築きはせん」
「レグナス! あなた、さっき、あいつの一撃だけで壁まで吹き飛ばされておいて、なんでそんなに偉そうなのよ!?」
「フッ、敗北は認めた。だが、余の佇まいまで敗北したわけではないからな」
「もう、わけがわからないわ……!」
しかしレグナスは楽しそうだった。
「良いではないか。まだ戦いが見られるぞ」
「見たいのはあんただけよ!」
ルエリアが頭を抱える間にも、ライガの全身から迸る紫電は激しさを増していく。バチバチと空間を焦がす不穏な音が、闘技場全体の空気を肌がヒリつくほどに圧縮していった。
ライガが床を踏み締めるたび、その圧倒的な覇気に呼応するように、観客席の悪魔たちが地鳴りのような大歓声を上げる。
「おい、黒髪のガキ」
ライガの瞳が、闘技場の端に立つ黒髪の少年ゼンを完全にロックした。
「お前がこの中にいる連中で、一番ヤベェ化け物なのは分かってる。俺が直々に遊んでやるよ。上がってきな」
その時、ゼンの足元で、小さな影が動いた。
虎柄の羽毛を持つペンギンのケンイチが、ペタペタと小さな足音を響かせ、ゼンのズボンの裾をキュッと引っ張ったのだ。
ケンイチの短い翼が、小刻みに震えている。
その視線はライガではなく、ゼンだけを見ていた。
ゼンは、足元で必死に訴えかけるケンイチの丸い頭を、大きな手でぽんと優しく叩いた。
「心配すんな、ケンイチ。いつも通り、ただの退屈しのぎだ。お前はそこで大人しく見てろ」
ゼンはポケットに両手を突っ込んだまま、気怠そうに一歩を踏み出す。
「ちょっと、ゼン! 本気なの!?」
ルエリアが慌ててゼンの腕を掴もうとしたが、その手を空中で止めた。
「あいつは他の悪魔とは次元が違う。あれは本物の……この街の暴力の象徴よ! まともに戦うなんて非効率すぎるわ。ここは一度退いて、別の策を――」
「別の策なんてねぇよ。あいつがやる気満々なんだ、ここで叩き潰すのが一番効率がいい」
ゼンは振り返りもせず、面倒くさそうに首の骨を鳴らす。
「それに、さっきからあくびを噛み殺すのも限界なんだよ。さっさと終わらせて、静かなところで寝させてもらう」
「ゼン……!」
止めたい。けれど、自分の不安だけでゼンの選択を奪っていいのか。
つい先ほど、自分で選ぶ覚悟を口にしたばかりのルエリアには、その腕を無理に引き戻すことができなかった。ルエリアは伸ばしかけた手を強く握り締め、ゼンの背中を見つめることを選んだ。
闘技場の中央。ネオンサインの紫光と、ライガの紫電が交錯する円舞台の上で、二人の怪物が対峙した。
ゼンはライガを見た。
ライガも見ている。
二人の視線がぶつかる。
まるで獣同士の睨み合い。
「おい、地下の王様。さっさと始めようぜ。あんま勿体ぶられると、本当に寝ちまう」
「ハッ、底の割れねぇ生意気な口だ。気に入ったぜ、ガキ。……死ぬんじゃねぇぞ」
ドン、とライガの足が煉瓦の床を踏み抜いた。
その瞬間、闘技場の空気そのものが爆発した。
「開始」の合図など、誰も出していない。
ライガの『雷』の魔力が完全に解放された瞬間、先ほどレグナスを視認不可能な速度で吹き飛ばした、あの「初速」をさらに凌駕する速度でライガの巨体が完全に消失した。
バチバチバチバチツッッ!!!
落雷の光柱が、闘技場を一瞬で埋め尽くした。
あまりの超高速移動と連続突進により、空間そのものに雷の軌跡が静電気のように焼き付き、観客席からは、まるで闘技場全体に巨大な雷の檻が出現したかのようにしか見えない。視界のすべてが紫白の閃光で塗り潰される。
常人であれば、その速度を認識することすらできず、一瞬で消し炭にされていただろう。
だが、ゼンはその場から一歩も退かなかった。
ガギィン! ガギィン! ガガガガガギィィィン!!
激しい金属音と火花が、ゼンの周囲で全方位から爆発的に鳴り響く。
ゼンの手元には、いつの間にか『火』の魔力によって形成された二つの赤いチャクラム(双輪刃)が展開されていた。
ゼンは圧倒的な動体視力と先読みだけで、音速を超えて迫る斬撃と雷撃を、二つのチャクラムで捌き切っていた。
火炎が揺らめき、雷撃を文字通り「いなす」ように受け流していく。
「速ぇだけかよ。地下の王様が聞いて呆れるな」
激しい火花の中で、ゼンが冷たく言い放つ。
その言葉に、雷光の渦の中からライガの狂気的な笑い声が返ってきた。
「がはははは! これだよ! これを待ってたんだ!! 俺の速度についてこられる奴なんて、何年振りだぁ!?」
ライガの瞳が、興奮でさらに輝きを増す。
ここからが、地下街の頂点に君臨する男の真価――『自由の狂気』だった。
「ルァァァァァァッ!!」
ライガの咆哮と共に、彼の纏う紫電がさらに膨れ上がり、その色が禍々しい黒紫へと変色していく。
ドォンッ!!!
空気が急激に圧縮され、爆風だけで観客席の悪魔たちが数十人も吹き飛ぶ。闘技場の周囲の鉄骨がひしゃげ、ネオンサインが次々と破裂した。
スピード、パワー、そして殺気。そのすべてが、先ほどとは比較にならない次元へと跳ね上がる。
ガガガガガガガガガガガガガッッッ!!!
「くっ……」
初めて、ゼンの足が煉瓦の床を滑った。ライガの暴力的な覇気の奔流に押され、ゼンが数歩、後ろへと後退する。
防戦一方に見えるその激しい攻防に、観客席の悪魔たちは総立ちとなり、狂ったような大歓声を上げた。
「やっぱりライガ様が最強だ!」
「地上のクソガキを、そのまま消し炭にしちまえ!」
「ゼン……!」
ルエリアがハラハラしながら胸元で拳を握りしめる。心臓が張り裂けそうだ。
だが、その隣で、腕を組んだレグナスだけは、冷徹な騎士の目で闘技場の中心を見据えていた。
「いや……ルエリア、案ずるな。よく見るが良い。……ゼンは、まだ遊んでいるぞ」
「え……?」
レグナスの言葉の直後、ライガの肉体が跳ねた。
限界を超えて加速したライガが、大剣を上段に構え、闘技場の床をすべて融解させるほどの超巨大な雷撃を纏って振り下ろす。
「これで終わりだぁぁぁガキィィィッ!!」
轟ッッッッッッッッ!!!!
落雷の直撃。闘技場の中央が、紫白の閃光に呑み込まれた。煉瓦はドロドロに溶け、衝撃波で防壁が激しく軋む。
勝負あった。悪魔たちの誰もがそう確信し、勝ち鬨を上げようとした。
しかし――砂煙がゆっくりと晴れていく。
「……うそ……」
観客席のルエリアが、呆然と声を漏らした。
クレーターの中心。ゼンは、髪の毛一筋すら焦がすことなく、完全に無傷でそこに立っていた。
「……な、んだと……っ!?」
大剣を振り抜いた姿勢のまま、ライガの顔が驚愕に染まる。直撃したはずだ。いかにチャクラムで受け流そうと、あれほどの熱量と衝撃をゼロ距離で浴びて無傷など、絶対にあり得ない。
だが、ライガは気づく。
ゼンの手元で回っていたはずの、赤い『火』のチャクラムが消えていることに。
代わりに、ゼンの両手には、鈍い金属光沢を放つ『二丁の拳銃』が握られていた。
そしてゼンの足元からは、闘技場全体を侵食するような、底の知れない『黒い影』が生き物のように蠢きながら広がっている。
『闇』属性――解放。
ゼンは火で受けたのではない。
雷が落ちた、その瞬間。
足元に広がった黒い影が、紫白の閃光を丸ごと呑み込んだ。
爆発するはずだった雷が、音もなく沈んでいく。
まるで、底のない穴へ落ちていくように。
雷が、闇へ落ちた。
その瞬間、ゼンのこめかみに、一瞬だけ黒い筋が不気味に浮かび上がった。
それを見たケンイチの翼が、さらに強く震える。
「あり得ない……! 属性の切り替えには同期処理が必要なはずだ! 魔力回路の再構築も、補正のクールタイムもなしに、なぜ一瞬で……!」
観客席の後方で、気絶から目覚めていたブラッドが、絶望に満ちた声で愕然と呟く。
管理を拒絶した地下世界でさえ、能力の発現にはデータと同期システムの法則が付きまとう。だが、目の前の少年だけは、その法則の外側にいた。
「おい、地下の王様」
ゼンは二丁拳銃を指先で軽く弄びながら、冷たい黒い瞳でライガを見据えた。
「勘違いしてんな。俺が使えるのは、それだけじゃねぇんだよ。……テメェの自慢の雷も、この闇の中じゃただの光害だ」
ライガは自身の動揺を振り払うように、獰猛に牙を剥き出しにした。
「がはははは!! 面白ぇ!! 雷を吸うなら、そんなモンは全部捨てりゃいい!!」
雷を消す。
大剣を放る。
拳を握る。
「俺は元々、拳一つで王になった」
ライガは自身を覆う雷の魔力を完全に霧散させた。大剣すらも床へ投げ捨てる。純粋な肉体の質量と膂力、そして圧倒的な闘争本能だけで、ゼンとの距離をゼロに詰めた。
(――ッ!)
ゼンの両の目が、初めて鋭く細められた。
ライガは迷わなかった。
雷も剣も捨て、ただ拳だけを振り抜く。
剥き出しの拳が、ゼンの顔面へ迫る。
ゼンは二丁拳銃を交差させてガードするが、雷を失ってもなお衰えない純粋な怪力に、ゴオォン!! と凄まじい肉撃の音が闘技場に響き渡った。
ゼンが初めて、後方へ数十メートル弾き飛ばされる。
砂舞台に両足で深い溝を刻みながら、ゼンは辛うじて着地した。ガードした両腕が、微かに痺れている。
「がはは! どうした化け物! 闇に引きずり込むモンがねぇなら、ただの殴り合いだろォ!」
大剣を担ぎ直すこともなく、ただ拳を握り直して咆哮するライガ。その姿はまさに、地下街を力だけでねじ伏せてきた本物の「王」の風格だった。
「終わった……」
観客席の古参の悪魔が小さく呟く。
「ライガ様は素手が一番強ぇ」
ゼンは痺れる腕を軽く振り、不敵に口元を歪めた。
「……なるほどな。テメェ、ただのシステム頼りの雑魚とは脳みその出来が違うらしい」
二丁拳銃を構え直しながら、ゼンは冷たく言い放つ。
「好きに生きろ、好きに奪え、好きに壊せ……だっけか? それがテメェの言う『自由』なら、笑わせんなよ」
「……何だと?」
ライガの瞳が、不穏に細められる。
「違うな」
ゼンは死んだ魚のような目で、しかし絶対的な強者の威圧を放ちながら言った。
「そりゃ、ただの『欲望』だ。自由じゃねぇ」
ライガの笑みが、消えた。
地下街の頂点に君臨し、全ての悪魔から「自由の象徴」と恐れ崇められてきたライガ。その生き様を、ただの青二才に全面否定されたのだ。
王のプライドが、そして彼の魂の根幹が、初めて真の怒りによって燃え上がる。
攻撃のためではない。抑え切れない怒りそのものが、黒紫の雷となってライガの全身から噴き上がった。
「……テメェに、俺の何が分かるってんだよぉ、ガキがぁぁぁッッ!!」
狂い咲く暴圧の雷霆。
怪物同士の真の戦いは、ここから始まる。
──第二十六話・終。




