第二十五話:『敗北する最強』
「随分と手こずってくれましたね、ルナ。やはり感情に溺れる者はあてにならない」
冷徹な眼差しを持つ長身の男ブラッドが、やれやれと首を振りながら前に出た。
その周囲には、ブラッドの殺気に呼応するように、血のように赤黒い魔力が鋭利なブレード状になって無数に浮かび、不気味に脈動している。
「おい、次は俺が――」
レグナスが髪を揺らし、大剣に手をかけて前に出ようとするのを、ゼンが横から片手で制した。
「待て、チビ。あいつは俺がやる」
「む? ゼン、お前がいきなりやる気を出すとは珍しいな」
「やる気じゃねぇよ。……あくびが出そうなほど温い戦いを見せられて、少し退屈してたところだ。さっさと片付ける」
ゼンは死んだ魚のような目で、実に面倒くさそうに歩き出す。
対面からは、血の悪魔ブラッドが品定めをするような冷徹な視線を向けていた。
「随分と余裕ですね。地上の人間特有の、無知ゆえの蛮勇でなければ良いのですが」
「お前こそ、その薄っぺらい余裕がいつまで持つかな」
ゼンは気怠そうに首を鳴らしながら、闘技場の中央でブラッドと対峙する。
自身の規格外の能力を悟らせぬよう、ゼンは数ある力の中から、ただ『火』だけを選んだ。
本来は双輪で形成される炎の武装。その片方だけを、ゼンは右の掌に呼び出した。
静かに回転を始める、紅蓮のチャクラム(輪刃)が一つ。
「炎、ですか。実に凡庸だ。私の『血』の洗練された切れ味に、ついてこられると思わないことです!」
ブラッドの嘲笑に、ゼンはただ肩を竦めた。
「勘違いすんな。火が弱いんじゃねぇ。――俺が強いんだ」
ブラッドが傲慢に指を鳴らす。
次の瞬間、音速を超える速度で、硬質化された血の弾丸と無数の刃がゼンへと殺到した。
常人なら一瞬で肉片に変わるほどの、視界を真っ赤に染め上げる血の嵐。
しかし、ゼンは動かない。
ブラッドの指先、魔力の流れ、血弾が描く軌道。
そのすべてを瞬時に読み切り、ゼンは最小限の動きだけで血の弾丸を紙一重ですり抜けていく。
(――浅い!)
ブラッドは即座に、ゼンが攻撃の軌道を読んでいることを察した。
弾け飛んだ自身の血を空中でもう一度鋭利な棘へと再構成し、ゼンの死角である背後から全方位一斉に収縮させる。チェスの先を読むような、冷徹で完璧な時間差波状攻撃。
「チッ……!」
ゼンの眉が初めてピクリと動いた。
ガキィィン!! と背後で火のチャクラムを盾のように回転させて防ぐが、防ぎきれなかった一条の血の刃が、ゼンの右腕の袖を鋭く切り裂いた。
パラパラと、切り裂かれた布切れが砂舞台に舞い落ちる。
「おおおお! 掠ったぞ!」
「あのブラッド様の初手を躱しきれねぇか!」
悪魔たちが沸き立つ。
ゼンは自身の裂けた袖を一瞥し、ふっと短く息を吐いた。
「……へぇ。今のは悪くなかった。時間差で軌道を変えたな」
「当然です。私の『血』をただの飛び道具と思わないことだ」
ブラッドの目が鋭く光る。完全に舐められていた空気が、その一撃で一気に引き締まった。
だが、ゼンが感心したのはそこまでだった。
「技術は綺麗だがな。綺麗に勝とうとしてる時点で浅い」
「黙れ……! 私の洗練された芸術を愚弄するな!」
ブラッドが自身の掌を裂き、より濃密な血液を解放する。
刃、槍、鎖。千の武器と化した血の濁流が、意思を持つ生き物のようにゼンへ肉薄した。
「お前の攻撃は、自分の芸術を見せるためのもんだ」
ゼンは迫る血の濁流を前に、一歩も退かない。
「本気で俺を殺すための形じゃねぇ」
手元のチャクラムが、唸りを上げて加速する。
ジュウウウウウウ!!!
空間を埋め尽くさんとした血の武器が、ゼンへ触れる直前、異常な高熱によって次々と白い蒸気へ変わっていった。
「な……っ!? 防いでいるのではない。私の血そのものを蒸発させているのか!?」
「お前が血を出せば出すほど、俺の火がお前の命を削る」
ゼンが冷たく告げる。
「このまま立ってるだけで、お前は勝手に出血多量で倒れる。わざわざ殴る価値もねぇ」
「なっ……あ、がはっ……!?」
ブラッドの顔が驚愕に染まる。攻撃しているのは自分なのに、自分の最大火力を維持すればするほど、体内のリソースが削られていく。
「調子に、乗るなァァァ!!」
ブラッドは自ら退路を断った。戦闘に回せる血液のほとんどを放出し、闘技場を真っ赤なレーザーのような細く鋭い血線で埋め尽くす。躱す隙間のない、全方位からの絶対の檻。
「消えろ」
ゼンがチャクラムを、横一線に軽く一振りした。
瞬間、爆発的な烈火が闘技場を白く染め上げ、迫る必殺の『血線』のすべてを文字通り根こそぎ蒸発させた。
「が、はあぁっ……!?」
大量の血液を失ったブラッドが、ガクガクと膝をつく。
「……まあ、慈悲だ。一発だけ、本当の『攻撃』ってやつをしてやるよ」
ゼンが、トン、と床を蹴った。
一瞬。本当に、一瞬だった。
観客たちの視界から、ゼンの姿が完全に消失する。
「な――」
ブラッドが驚愕の声を漏らすより早く、ゼンの拳が腹部へ深々とめり込んだ。
「が、はっ……!」
身体がくの字に折れた、その瞬間。
逆の拳が、ブラッドの顎を真下から打ち抜いた。
ドォン!!!
二撃の衝撃が、ほぼ同時にブラッドの全身を貫いた。
「強ぇ奴ってのはな」
ゼンは一切の感情を排した冷めた目で、崩れゆく悪魔を見下ろした。
「もっとシンプルに、殺しに来る」
ドォォォォン!!
壁に大きなクレーターを刻み、ブラッドは意識を失って崩れ落ちた。
誰も声を上げられなかった。技術も、執念も、策のすべても――届かなかった。
観客席の悪魔たちが、あまりの光景に絶句する。
「身体強化の同期反応がねぇ……! 素の肉体で、あの速度を出したのか!?」
そんな騒ぎの中、ゼンは首の骨を鳴らしながら、倒れたブラッドを一瞥した。
「……一発のつもりが二発になったか」
大きく欠伸をする。
「まあ、終わったならいいか」
「がっはっは! 実に見事だ、二人とも! では、最後は余の番だな!」
レグナスが満を持して、ドカドカと小さな足音を響かせながら前に進み出る。
少女と見紛うほど小柄な騎士は、ゆっくりと腰の剣の柄に手をかけた。
レグナスが歩くだけで、あれだけ騒がしかった観客が、水を打ったように静まり返る。誰も理由が分からない。ただ、目を離せない。その瞬間――闘技場全体の空気が、完全に変わった。
「おいおい……マジかよ……」
観客席の悪魔たちが、怯えたように一斉に後退し始める。
特設ステージの玉座から、地下街の王ライガが、ゆっくりと立ち上がったからだ。バチバチと、彼の周囲の空間が割れるような紫電が迸る。
ライガの瞳が、レグナスという小さな存在だけを捉えていた。
強い奴は腐るほど見てきた。だが、こいつは違う。そこに立つ姿だけで、戦場を支配している。
「来いよ、小さな騎士」
ライガが床を踏み鳴らす。だが、レグナスは恐れる風もなく、ただ不敵に微笑んだ。
「良い覇気だ! 悪魔の長よ!」
レグナスがゆっくりと剣を抜く。
キィン――……。
鼓膜に心地よく響く、澄み渡った金属音。その瞬間、さらに空気が一段階、変わった。
ただ、剣を抜いて立っているだけ。なのに、その姿はあまりにも美しく、神聖で、気高かった。
洗練され尽くした騎士の佇まい。無駄な殺気も、誇示するようなプレッシャーも一切ない。ただそこに、揺るぎない『騎士の信念』が静かに存在している。
ライガの眉が、ピクリと跳ね上がった。
(……強い。強ぇ、のか? 圧がねぇ、殺気もねぇ。なのに、本能だけが警鐘を鳴らしてやがる……!)
ライガは自身の動揺を振り払うように、獰猛に牙を剥き出しにした。
「おいおい、チビ。まさかビビって、ハナから戦意喪失ってわけじゃねぇよな?」
「ふっ、不遜な口を。いくぞ、悪魔の長よ」
レグナスが小さく微笑み、床を強く蹴った。
「開始」の合図など、誰も出さなかった。二人の距離が、一瞬でゼロになる。
ライガの背筋を、冷たい戦慄が駆け抜けた。
自分は挑まれる側だった。
誰もが自分に挑んできた。
それなのに今、自分は無意識のうちに、この小さな騎士へ“挑む側”に回っている。
「……最高じゃねぇか! いくぞチビ!! 全力でブッ潰しにいく!!」
「ルァァァァァッ!!」
雷が爆発した。
ライガが一歩踏み込む。巨大な大剣が、紫電を引きずりながら横薙ぎに振り抜かれた。
レグナスは真正面から剣を合わせる。
ガァァァン!!
「ぬおっ!? 想像以上の重さ――」
轟ッッッッ!!!
すさまじい爆風と粉塵が巻き起こり、次の瞬間、レグナスの小さな身体が視界から消えた。
砂煙が晴れた瞬間。
「…………は?」
観客席の誰かが、呆然と呟いた。
レグナスは――闘技場の遥か後方、崩壊した壁の瓦礫の中に、綺麗に頭から埋まっていた。
ライガが、大剣の柄を握り直しながら絶叫した。
「すまん!! 俺の全力が強すぎたわ!!」
闘技場全体が、一瞬の静寂に包まれる。
次の瞬間、どこかで噴き出した悪魔を皮切りに、地下闘技場全体が割れんばかりの爆笑に包まれた。
「ギャハハハハ! なんだあいつ!」
「佇まいだけはいっちょ前だったのに、一撃かよ!」
ライガは口元を引き攣らせながら、瓦礫に埋まったレグナスへ歩み寄る。
「……おい、チビ。お前、ハッタリか?」
レグナスは、顔だけを出したまま至って真顔だった。
「いや……余も驚いた。悪魔の長よ、貴様の初速、すこぶる速いな!」
「いや、驚いてんのはこっちだわ!! どんな名勝負が始まるかと思ったわ!!」
ライガが盛大にツッコミを入れる。
地下闘技場は、なおも割れんばかりの爆笑に包まれていた。
その中で、レグナスは至って真顔のまま、瓦礫に両手をついた。
「ふんっ!」
ガラガラと煉瓦を押し退け、小さな身体を瓦礫の中から引き抜く。
甲冑に付着した粉塵を払い、落ちていた剣を拾い上げた。
笑い声は止まらない。
だが、レグナスは恥じることも、怒ることもなかった。
静かに剣を鞘へ納め、ライガへ正面から向き直る。
「見事だ、悪魔の長よ」
「……あ?」
「余の剣は、貴様へ届かなかった」
レグナスは堂々と胸を張った。
「今の余では、貴様の初撃を越えられぬ。言い訳を重ねるのは、騎士のすることではない」
そして、迷いなく告げる。
「この勝負――余の負けだ」
笑い声が、一つ、また一つと消えていく。
「な……」
「自分から負けを認めやがった……」
悪魔たちには理解できなかった。
敗北を嘲笑されながら、なぜこの小さな騎士が、これほど堂々としていられるのか。
レグナスは敗北を恐れていなかった。
弱さを隠すことも、力の差から目を逸らすこともない。
負けを負けと認め、それでも己の誇りを失わない。
それこそが、騎士として生きてきたレグナスの矜持だった。
ライガはしばらく黙ってレグナスを見つめていた。
やがて、その口元がわずかに吊り上がる。
「……気に入ったぜ、チビ」
「余はチビではない。今は少々、身体が縮んでいるだけだ」
「同じだろうが」
「まったく違う!」
再び観客席から笑いが起こる。
だが先ほどの嘲笑とは、どこか違っていた。
悪魔の司会者が、興奮冷めやらぬ声で叫ぶ。
「第三戦――勝者、ライガァァァ!!」
空中モニターに結果が刻まれる。
【代表戦結果 外側組 二勝一敗】
本来なら、そこで勝負は終わりだった。
ライガは大剣を肩へ担ぎ直す。
黄金の瞳が、ゆっくりと闘技場の端へ向けられた。
「代表戦はてめぇらの勝ちだ。二勝一敗――文句はねぇ」
そこには、頭を抱えながらレグナスを見ていた黒髪の少年――ゼンがいる。
「小さな騎士も面白ぇ。だが――」
禍々しくも純粋な紫電が、ライガの身体から膨れ上がる。
「俺がやりてぇ勝負は、まだ終わってねぇ」
ライガの瞳が、獲物を射抜くようにゼンを捉えた。
「なぁ、外側の化け物」
大剣の切っ先が、真っ直ぐゼンへ向けられる。
「今度はルールなしで、俺と殺し合え」
ゼンはポケットに両手を突っ込んだまま、ゆっくりと口元を吊り上げた。
「……いいぜ。お前なら、少しは退屈しのぎになりそうだ」
──第二十五話・終。




