第二十四話:『自由の獣たち』
地下闘技場。
違法配信のカメラドローンが蜂の群れのように空中を飛び回り、無数の歓声と罵声が、すり鉢状の巨大な円形闘技場を埋め尽くしていた。
『ライガ様ァァァ!!』
『殺せぇぇ!!』
『地上の生ぬるい連中をブチ潰せ!!』
ドス黒いネオンが激しく脈打つたび、観客席の悪魔たちが興奮に狂ったように揺れる。
鉄、汗、血、安酒、そして剥き出しの欲望。
地下世界そのものが、巨大な飢えた獣みたいに重低音の唸りを上げていた。
「さあ遊ぼうぜ、外側の連中」
特設ステージの玉座から立ち上がったライガが、肩に担いだバカデカい大剣をガツンと砂舞台へと突き立てる。バチバチと火花を散らす紫電が、彼が従える二人の高位悪魔の影を長く不気味に伸ばした。
「ルールは簡単だ! 三対三の代表戦、一人ずつ前へ出ろ! 降参するか、動けなくなった方が負けだ。相手を殺そうが半殺しで止めようが、そこは好きにしろ!」
ライガの言葉に応じるように、背後の二人が動く。
包帯だらけの少女ルナが、ねっとりとした視線でルエリアを見た。
長身の血の悪魔ブラッドが、冷徹な双眸でゼンを射抜く。
そして、ライガ自身が、不敵な笑みを浮かべてレグナスへと視線を向けた。
ライガの咆哮を合図に、地下街の熱気が臨界点を突破する。
六人の視線が交差し、観客席の喧騒が地鳴りのように膨れ上がった。
それぞれの思想、生き方、そして『自由』への答えを賭けた、壮絶な激突の幕が上がろうとしていた。
その喧騒の中、第一戦の舞台へと静かに歩み出たのは、包帯だらけの小柄な悪魔の少女――ルナだった。
彼女は歪んだ笑みを浮かべ、ずるずると引きずる包帯の隙間から、ドス黒い『呪い』の魔力を陽炎のように溢れさせている。
「うふふ……ねえ、お姉ちゃん。綺麗な髪。むしり取って、私のお人形にしてあげよっか?」
「……狂ってるわね」
ルエリアは小さく呟いた。背筋を走る寒気に唇を噛みながらも、彼女はそっと愛用の鞭へ視線を落とし、強く握りしめる。
「しょうがないわ。ご指名みたいだし――彼女は私が相手する」
観客席がざわつく。
「おいおい、マジかよ」
「最初は天使の嬢ちゃんか?」
「ルナ相手に女を出すとか正気か?」
「賭け倍率見ろ!」
空中モニターに映し出されたオッズが激しく変動する。
【ルナ 1.08】
【ルエリア 17.3】
圧倒的不利。誰もがそう考えていた。
「勝ちは確定だろ」
「天使が泣く姿は高く売れるぞ」
「生きて帰れるかなぁ?」
嘲笑が飛ぶ。
ルエリアは聞こえないふりをした。
だが。
胸の奥が少しだけ重くなる。
その時。
背後からレグナスが言った。
「余は貴様に賭けるぞ」
「……え?」
「余が賭けたのだ。勝てる」
根拠など何もない。
だがその言葉だけで、少し肩の力が抜けた。
ルエリアは「大丈夫。安心して見てなさい」と告げると、ゼンの顔を見ることなく舞台への階段を上がっていった。
その張り詰めた背中を見送りながら、ゼンがぼそりと言った。
「あいつ、何か余計なこと考えてやがんな」
「え?」
「集中できてねぇ。あの様子じゃ、相手につけこまれるぞ」
ゼンの冷ややかな指摘に、レグナスは腕を組んでガハハと笑った。
「問題ない! 迷いなど、己の力で解き放てばよいだけのものだ。ルエリアを信じようではないか」
「……お前は、迷いがなさすぎて逆に迷ったりしねぇのかよ」
「当然だ! もしも何を食べたいか迷ったのなら、メニューのすべてを注文して食べるのが最強というものだ!」
「……迷えよ、バカ」
ゼンが呆れて額を押さえる間にも、ルエリアは砂が舞う舞台の中央へと立ち至っていた。
待ち受けていたルナが、首を人形のように傾げて笑う。
「お姉さん、ご指名を受けてくれるなんて優しいのね」
「意地悪に見えた? 大丈夫よ。あなたが痛くて泣き出したら、すぐにやめてあげるから」
「すぐにおもちゃを取り上げるなんて、ひどいお姉さん。――いっぱい遊ぼうね!」
ルナの身体から、どろりとした悪意が膨れ上がる。
ルエリアは(……強い。でも、引くわけにはいかない)と己に言い聞かせ、ふと暗い天井を見上げた。(この子も、本当は……自由の代償に壊れかけているの?)
「開始ィィ!!」
悪魔の司会者の鋭い声が響き渡った瞬間、ルナの身体から無数の包帯が、まるで意志を持つ大蛇のようにルエリアへと一斉に襲いかかった。ただの布ではない。触れた者の精神を汚染し、狂わせる呪いの弾幕だ。
(――しまっ!?)
一瞬、思考が逸れていたルエリアの反応が遅れる。
迫り来る黒い包帯が視界を埋め尽くした。
「くっ……『風よ』!」
ルエリアは鋭く叫び、自身の周囲に猛烈な突風の障壁を展開した。暴風の刃が包帯を切り刻み、辛うじて直撃をいなしていく。
「お、やるねぇ!」
ルナが少し驚いたように声を上げるが、ルエリアは立ち止まらない。風の能力で迫り来る包帯を払いながら、ルナの死角へと高速で回り込んだ。鞭が鋭くしなり、大気を引き裂く。
「ハァッ!!」
完璧な一撃がルナの細い胴体を捉えた。凄まじい衝撃波と共に、ルナの身体が闘技場の分厚い外壁へと激しく叩きつけられる。コンクリートが砕け、もうもうと土煙が舞い上がった。
(いける――!)
観客席からどよめきが起こる。「おおっ!?」「一撃でやったか!?」
ルエリアは着地し、ふぅと息を吐いた。
だが、歓声はすぐに凍りついた。
「あはは……痛い、痛いなぁ、お姉ちゃん」
土煙の向こうから、不気味な笑い声が響く。
現れたルナの身体は、明らかに異常だった。右腕は不自然な方向に折れ曲がり、脇腹の骨は砕けている。しかし、その傷口から溢れ出たドス黒い包帯が、ギチギチと音を立てて折れた骨を無理やり繋ぎ合わせ、固定していく。痛覚を完全に放棄した、呪いによる傀儡の肉体。
「でもね、身体の痛みなんて、心の痛みに比べたら全然大したことないんだよ?」
もう一撃を叩き込もうとしたその瞬間。ルエリアの脳裏に、再び戦いとは無関係の『余計な雑音』がフラッシュバックした。
『誰も縛られてないのに、みんな余裕がない』
(私の信じる管理は間違っているの? それとも、この街の自由が正しいの……?)
一瞬の心の隙間。その精神のブレは、ダイレクトに未熟な『風操作』の制御を狂わせた。空中での挙動にわずかな、しかし致命的なラグが生まれる。
それを見逃すほど、上級悪魔は甘くなかった。
「あはは! 見ぃつけた、お姉ちゃんの『弱点』!」
ルナの目が爛々と狂気に輝く。次の瞬間、ルナの足元の影が爆発的に膨れ上がり、闘技場の舞台全体を真っ黒な泥のような領域で染め上げた。
「――っ!?」
ルエリアが跳躍して逃れようとしたが、遅い。影から無数に伸びた呪いの包帯が、まるで生き物のように彼女の四肢に絡みつき、地面へと引きずり落とした。
「あ……がっ……、は……っ!」
ただの布ではない。触れた瞬間、氷を直接脳内に突き刺されたような、ドロリとした悪意がルエリアの精神へ直接流れ込んできた。視界が急速にセピア色に染まり、頭痛が彼女を襲う。
「ねえ、迷ってるでしょ? 自分で決めるのって、しんどいよねぇ」
「だったら全部諦めて、私のお人形になっちゃいなよ。楽になれるよ?」
ルナが楽しそうに笑う。
『私はねぇ、お姉ちゃん』
『考えるのをやめたの』
『正しいとか間違いとか』
『自由とか管理とか』
『そんなの全部疲れちゃった』
ルエリアの呼吸が止まる。
ルナは続ける。
『だってさぁ』
『自分で決めたら失敗するじゃない』
『責任取らなきゃいけないじゃない』
『誰かのせいにできないじゃない』
包帯がさらに締め付ける。
『だから私は人形になった』
『楽だよ?』
『何も考えなくていい』
『誰かが決めてくれる』
『失敗しても私のせいじゃない』
ルナは心から幸福そうだった。
それが何より恐ろしかった。
身体が痺れ、意識が深い闇へと呑まれかける。
考えることそのものが、ひどく重たく感じられた。
ルナが首を傾げながら嗤う。
その瞬間、ルエリアの空間認識が歪んだ。呪いによる『精神侵食』が、彼女の脳内に“最悪の未来”の幻覚を流し込んでいく。
崩壊した、かつての管理都市。
炎に包まれ、泣き叫ぶ無数の人々。
『お前は間違っている』
『お前たちが自由を奪っているんだ』
『お前は誰も救えていない――』
「っ……、は、ぁ……!」
強烈なノイズが耳の奥を侵食し、ルエリアは舞台へ膝をついた。涙がボロボロと溢れ出す。 これがルナの呪い。
精神を内側から腐らせる、悪魔の悪意。
ルナは包帯の隙間から覗く瞳で、冷たくルエリアを見つめた。
「あなた、迷えるなんて幸せね。管理が正しいのか、自由が正しいのか、贅沢に悩んじゃってさぁ」
ルエリアの足が完全に止まる。
脳裏に、さっき地下街で見た光景が蘇る。自由に溺れ、自己定義を失って壊れていった人々。誰も助けず、誰も責任を取らない荒んだ世界。
だが、同時に思い出す。地上の管理都市で、割り振られた幸福の中に押し込められ、感情を押し殺して生きていた人々の無機質な姿を。
(……もう、いいかもしれない。誰かの人形になって、思考を放棄して、与えられた命令にだけ従っていれば……こんな苦しみを味わうこともない。間違える恐怖に怯えることも、ないのに……)
諦めが脳裏をよぎり、ルエリアの手から力が抜けた。観客席のレグナスが「ルエリア!!」と叫ぶ声すら、水の中にいるように遠く霞んで聞こえない。完全に、心が折れかけていた。
だが。
その深い闇の底に、あの少年の、ぶっきらぼうで、けれど酷く冷徹で確かな言葉が、杭のように突き刺さった。
――『自由そのものが悪いんじゃねぇ。自分で選ぶ覚悟がねぇ奴が壊れてるだけだ』――
(……そうだわ)
ルエリアの指先が、ピクリと動いた。
(私は……間違えるのが怖いんじゃない。選んだ結果の責任から、逃げようとしていただけだわ。今のルナと同じように……!)
自由に溺れて壊れた地下の人々。管理に縛られて心を殺した地上の人々。
どちらが正しいかなんて、まだ分からない。でも、だからこそ――。
その時、闘技場に冷たい風が吹いた。
ルエリアの髪が美しく揺れる。
私は――
「――私は、まだ答えなんて分からないわ!」
「残念。おもちゃにならないなら、壊しちゃうね」
ルナの冷酷な言葉と共に、数千の呪符と黒い杭が一斉に、身動きの取れないルエリアの心臓を貫こうと殺到する。
だが、ルエリアはもう、目を背けなかった。
「でも――!!」
彼女の瞳が、真っ直ぐに前を向く。
「分からないからこそ、考え続けるのよ!!」
ドン、と空気が爆発した。
縛り付ける包帯を強引に押し広げ、ルエリアの身体から暴風が吹き荒れる。
次の瞬間、烈風を纏ったルエリアの鋭い蹴りが、ルナの腹部へと完璧にめり込んでいた。
「がはっ……!?」
轟音。包帯の少女の身体が、まるで砲弾のように舞台の後方へと吹き飛ぶ。
観客席の悪魔たちが一斉にどよめいた。
「な、天使が押してるぞ!?」
「マジかよ、ルナの呪いを弾き返したのか!?」
ルナは口元から黒い血を吐きながらも、不気味に笑う。
「うふふ……あはは! でも、怖いんでしょう!? 自分で選んだ未来が間違ってたらどうしようって、怖くてたまらないんでしょう!?」
再び、どす黒い呪いの波動がルエリアの精神へ滑り込んでくる。
恐怖が胸を締め付けかける。しかし、そのときルエリアの耳に、あのぶっきらぼうで、けれど確かな重さを持った青年の声が届いた気がした。
「……私は」
ルエリアは迫り来る呪いを見据え、カッと青い目を見開いた。
「私は、確かに迷っているわ! どちらが正しい答えなのか、まだ分からない! でも……!」
ルエリアの全身から、これまでにない澄んだ魔力が爆発的に弾ける。
「迷うこと、それ自体を私は自分で選ぶ! 考えるのをやめて、あなたの都合の良い人形になることだけは――絶対に拒絶する!!」
覚悟が定まった瞬間、これまで不安定だったギフトの制御が、初めて彼女自身の意思と噛み合った。
ルエリアの周囲で、空間が水面のように大きく歪む。
「私を縛る重さは――私が決める」
彼女は天へ向けて掌を掲げ、力の名を告げた。
「秤に従え」
「ギフト――【天秤の支配者】!」
目に見えない重力の鎖が、甲高い音を立てて弾け飛ぶ。
ルエリアは、自身へ働く重力を限りなくゼロへ近づけると同時に、包帯の接触点だけに逆方向の重力を生み出した。
包帯そのものへ局所的な重力差を与え、拘束に一瞬の緩みを作る。自重から解放された身体は、風にさらわれる羽毛のように拘束のわずかな隙間を滑り抜け、上空へ弾け飛んだ。
「え……!? 消え――っ」
ルナが驚愕に目を見開く。自重から解放されたルエリアは、風の推進力だけで一瞬にしてルナの遥か上空へと跳躍していた。
「これで、終わりよ!」
上空からルナを見下ろすルエリア。
「まだ負けない……!」と叫ぶルナが、執念で無数の包帯を上空の彼女へと伸ばす。
「逃げ場はないわ、覚悟してお姉ちゃん!」
「無駄よ」
ルエリアが静かに呟く。
ルエリアは、自身に働く重力を極限まで増大させた。同時に、伸びてくる包帯とルナの周囲だけへ局所的な超重力を叩き込む。
重力場が歪み、ルナの身体が、まるで巨大な見えない手で潰されるように床へと激しく沈み込んだ。
ルエリアは落下の加速と超重力を、右の掌へ集中させる。
――才能開花。
ギフト保持者が、自らの思想と選択、そして覚悟を、能力の本質と完全に一致させたときにのみ発現する固有奥義。
今、ルエリアの覚悟と、彼女が操る超重力は一つに重なった。
「私の空は、私が選ぶ」
「――才能開花【自由への代償】!」
超重力を宿した右の掌を構え、ルエリアは上空から光の彗星となって急降下する。
その掌底が、ルナの腹部へ真っ直ぐに叩き込まれた。
ドォォォォォン!!!
闘技場全体を揺るがす凄まじい衝撃波が走り、レンガの床が蜘蛛の巣状に陥没する。
ルナの身体は陥没した床へ深くめり込み、包帯の隙間からかすかな呼吸だけを残して動かなくなった。
静寂。
一瞬の静まり返りの後……
「う、うおおおおおおおおおお!!」
「天使の勝ちだぁぁぁ!!」
割れんばかりの歓声が、爆発的にコロッセオを満たした。
「はぁ……、はぁ……」
もうもうと立ち込める砂煙の中、ルエリアは着地し、そっと自分の手を見つめた。
まだ正しい答えなんて出ない。けれど、自分の足で立って、自分の意志で拳を振るったという確かな感覚が、そこにはあった。
ルエリアは、堂々とその拳を天に向けて突き上げる。
悪魔の司会者が、興奮で声を枯らしながら勝者を告げた。
「勝者――! 天使、ルエリアぁぁぁ!!」
観客席が揺れていた。
「マジで勝ちやがった」
「包帯姫が負けるなんて」
「天使やるじゃねぇか」
「賭け金全部飛んだぞクソが!」
歓声と罵声が入り混じる。
だが最初に向けられていた嘲笑はもう無かった。
地下の悪魔たちは強者を嫌わない。
強い者を認める。
ただそれだけだ。
ルエリアは観客席を見上げる。
先ほどまで敵意を向けていた者たちが、
今は純粋な興奮で彼女を見ていた。
ほんの少しだけ。
この地下世界が分かった気がした。
大歓声の渦を背に受けながら、ルエリアは舞台を降り、待っていた二人のもとへと戻っていく。レグナスが「素晴らしいぞルエリア! 実に見事な一撃だった!」と拳を握りしめて興奮していた。
その横で、ゼンがいつも通りの気怠げな視線を向けてくる。
「……いい顔してるな」
ルエリアは少し照れくさそうに、けれど不敵に微笑んで見せた。
「見惚れないでね」
「はっ」
ゼンは小さく鼻で笑うと、視線をステージへと戻した。
ルエリアは小さく息を吐き、自嘲気味につぶやく。
「私の探し物は、まだ簡単には見つからなそうね」
「それでいいんじゃねぇの。簡単に手に入る答えなんて、大体ロクなもんじゃねぇよ」
ゼンがそう言った瞬間、第二戦のブザーが鳴り響いた。長身の血の悪魔、ブラッドが静かに舞台へと歩を進める。
「さて……次は俺の番だな」
ゼンが冷たく目を細め、一歩前に踏み出した――。
観客の熱狂など意にも介さず、ライガは玉座に深く腰掛けたまま、静かにゼンを見つめていた。
「面白ぇ」
ライガの瞳が細くなり、その獰猛な視線が、静かにゼンを射抜く。
「次はお前か」
その視線を受け止め、ゼンはポケットに手を突っ込んだまま、不敵に口角を上げた。
──第二十四話・終。




