第二十話:『悩める自由』
アインドルフを発ち、悪魔と人間が共生する街へと続く過酷な荒野。
夜の帳が下り、三人は岩陰で野営をしていた。
パチパチと、燃え盛る焚き火が三人の顔を照らす。
ルエリアは膝を抱え、火の粉が夜空へ消えていくのをじっと見つめていた。
指先で火の粉を追いながら、その不規則な軌道を脳内端末でトレースしようとするが、自然の揺らぎは管理都市の数式では完璧に予測できない。
「……ねえ。エドガーさんの言っていたこと、少し分かってきた気がする」
ルエリアが静かに口を開く。
「天使や悪魔は決められた力を使う。でも人間は……不完全だからこそ、自分のイメージ次第で、力そのものを新しい形に変えられる。システムから見ればただのバグだけど、それって本当に『自由』ってことなのかもしれないって」
──誰も、すぐには返さなかった。
ただ、夜の荒野を吹き抜ける冷たい風の音と、薪が爆ぜる音だけが、三人の間に長く響き渡る。
ゼンは岩壁に背を預けたまま目を閉じ、レグナスは黙って自分の錆びついた鉄の剣を、じっと見つめていた。
静寂を引き裂いたのは、ゼンの低く冷めた声だった。
「……自由ね。聞こえはいいが、その不完全さのせいで、人間は簡単に壊れる。天使の作ったルールの中で大人しく歯車になってる方が、よっぽど長生きできるさ」
「ゼン……、あなたはいつもそうやって──」
ルエリアが言いかけた、その瞬間だった。
ガルルル、と闇の奥から、無数の不気味な駆動音が響いた。
暗闇の中に浮かび上がる、血のように赤い無数の電子の瞳。
荒野の野良アバター──集団で旅人を狩る『狂狼』の群れだった。その数、優に30体を超える。
「ルエリア、余の背後に隠れよ!」
レグナスが瞬時に立ち上がり、剣を構えてルエリアの前に立ちはだかる。
しかし、狼アバターたちの動きは速い。統率された動きで、全方位から一斉に跳躍し、鋭い牙を剥いて襲いかかってきた。
「おおおおおッ!」
レグナスが叫び、一体の首を激しく斬り飛ばす。
しかし、二体、三体と影が重なり、圧倒的な物量が彼を襲う。
ガシュッ! と狂狼の鋭い牙がレグナスの肩を深く抉った。
「くっ……あぁぁッ!」
「レグナス!?」
ルエリアが悲鳴を上げる。
「下がっていろと言ったはずだ! 余は、最強の、騎士──!」
レグナスは血を流しながら、がむしゃらに剣を振り回した。
まだだ、余は負けぬ、もう一度、と心の中で叫びながら、肉体に鞭打って跳躍する。
しかし、錆びついた鉄の剣は狼の硬質な装甲に弾かれ、火花を散らすだけだった。
限界だった。
背後から飛びかかった大型の狂狼に、レグナスはまともに押しつぶされ、地面に叩きつけられる。
剣が手から滑り落ち、硬い岩肌に高い音を立てて転がった。
「しまっ──」
レグナスを完全に組み伏せると、残る狂狼たちがその脇をすり抜け、ルエリアへと一斉に牙を剥く。
鋭い爪が、恐怖に身をすくませたルエリアの目の前に迫った。
「下がってろ、バカ騎士」
その絶望を切り裂くように、だるそうな声が響いた。
ゼンが、静かに一歩前へ踏み出す。
その瞬間、ゼンの瞳に、冷徹な黄金の光が灯った。
【律】
「我に足枷と法を刻め」
キィィィン! と、脳を突き刺すような絶対的なシステム音が響き渡る。
ゼンを中心に、巨大な幾何学紋章が地面を覆った。
【裁定領域】
この範囲では、ゼンの定めた法が現実となる。
襲いかかろうとした数十体の狼たちの首に、光り輝く法輪がガチリ、と嵌め込まれる。
ルエリアの鼻先数センチで、狂狼の動きが完全に停止した。
「これより、この領域に第一法案を定義する」
ゼンは感情の消えた声で、淡々と告げた。
「『敵意を持って、一歩でも動くこと』を禁ずる。破った者には、等しく法槌を」
一瞬、すべての狼の動きが止まった。
しかし、野生のバグアバターに理性が通じるはずもない。
飢えた本能のままに、数体の狼がルールを無視して、ゼンに向かって地面を蹴った。
──第一法案違反を確認。裁定を執行します。
ゴオォォォン!!!
空間の割れ目から、教会の巨大な鐘の音のような、重苦しい衝撃音が響いた。
ルールを破って跳躍した狼たちの頭上へ、白銀の巨大な【法槌】が出現する。
逃げ場を塞がれ、地面へ叩き潰された狼たちは、悲鳴を上げる暇さえなく、一瞬で電子の塵へと変わった。
「……嘘。領域内のシステムコードを、完全に書き換えて支配した……!?」
ルエリアがその圧倒的な『法の力』に息を呑む。
残された狼たちは、首のリングに縛られたまま、恐怖に震えていた。
だが、飢えた本能は止まらない。一体がリングへ逆らうように前脚を踏み出す。
それを合図に、残る狼たちも牙を剥き、次々と地面を蹴った。
──第一法案違反を確認。裁定を執行します。
再び、厳かな鐘の音が響いた。
狼アバターたちの頭上へ一斉に法槌が振り下ろされ、数十体の群れは、わずか数秒で荒野の塵へと還っていった。
静寂が戻った荒野。
ゼンは何事もなかったかのように瞳の色を戻し、再び岩壁に背を預けて目を閉じた。
ルエリアは無事だった。怪我一つない。
だが、そのルエリアの前に立ちはだかっていたレグナスは、地面に倒れたまま、ガタガタと震えていた。
恐怖からではない。自分への、圧倒的な『苛立ち』と『絶望』からだった。
「……クソ」
レグナスから、いつもの芝居がかった口調が完全に消えていた。
起き上がり、泥と血にまみれた拳を地面の岩に叩きつける。革の手袋が破れ、血がにじむ。
自分はルエリアを守るどころか、前に立つだけで精一杯で、挙句の果てに足手まといになった。
ゼンの超常的な力を見せつけられ、己の無力さが、ひび割れたプライドを容赦なく抉る。
「レグナス……」
ルエリアがそっと歩み寄り、彼の前にしゃがみ込んだ。
「……笑うがいい、ルエリア」
レグナスは顔を伏せたまま、自嘲気味に呟いた。
「最強の騎士などと大口を叩いておきながら、余は、何一つまともにできん」
長く、重い沈黙が、二人の間に流れる。
焚き火の炎が、レグナスの悔しげな横顔を静かに照らし出していた。
ルエリアはしばらく無言で彼を見つめていたが、やがて、はぁ、といつもの呆れたような溜息を一つ漏らした。
「そうね。私は最初から、あなたのことシステムエラーのバグだと思ってるわ」
レグナスがビクリと肩を揺らす。しかし、ルエリアの言葉はそこで終わらなかった。
彼女はレグナスの傷ついた拳を、そっと自分のハンカチで包み込む。
「でも、あなたの頭の悪さと無鉄砲さは、管理都市のどんなスーパーコンピュータにも計算不能よ。普通なら立ち止まる場面でも、あなたは自分を疑わずに前へ出る。そこだけは、本物だと思う」
レグナスが驚いたように顔を上げる。
ルエリアは少しだけ誇らしげに、自分の胸に手を当てた。
「あなたの力がどれほどのものかは知らない。だったら、私が隣であなたの『取扱説明書』を、これから作ってあげる。あなたなりの同期の仕方を、一緒に探してあげる。だから──そんな頼りない顔、二度としないで。バカ騎士」
「ルエリア……」
レグナスは呆然と少女を見つめ、それから──フッ、と、いつもの不敵な笑みをその唇に戻した。
「がっはっは! なるほど、余の専属軍師になりたいというわけだな! よかろう、その殊勝な心がけに免じて、余の背中を預けてやる!」
「あ、調子に乗った。やっぱり今のナシ。ハンカチ返しなさい」
「待て待て待て! 冗談だ! 感謝している、ルエリア!」
ルエリアが怒ったふりをして焚き火の片付けに戻っていく。
再び、焚き火の周りに静けさが戻った。
レグナスはしばらく、自分の血のにじんだ拳を見つめていたが、意を決したように立ち上がると、岩壁に背を預けているゼンの前へと歩み寄った。
ゼンは目を閉じたままだ。
レグナスはその場にドサリとあぐらをかき、ふんぞり返ることもなく、まっすぐにゼンを見据えた。
「……ゼン」
夜風が通り抜ける音だけが響く。レグナスは構わず、少し声を落として続けた。
「余には、貴様が何を考えているのかさっぱり分からん。だが……先ほどの『力』は見事だった。余の錆びついた感覚が、あれを見て微かに跳ね上がったのだ。……今の余の身体は、本来の余の魂と『同期』していない。どうすれば、強くなれる?」
プライドの高いレグナスが、他人に対して明確に教えを請うた瞬間だった。
長い沈黙が落ちた。
ゼンはゆっくりと目を開け、光の残滓を宿した瞳で、レグナスをじっと見つめた。
そして大きくため息をつき、だるそうに頭を後ろの岩に打ち付けた。
「……知るかよ。俺はお前みたいに、『本来の自分』なんてもんに囚われちゃいない」
ゼンは視線を焚き火の炎へと移す。
「だが、エドガーのじいさんが言ってただろ。理屈を知るほど『できない理由』が増えるってな」
「……どういう意味だ?」
「お前は『本来の自分ならできるはずだ』って理屈に囚われすぎてんだよ。昔の自分のデータなんざ捨てろ。今ある身体と、その安物の鉄の剣で何ができるかだけを考えろ」
ゼンは焚き火からレグナスへ視線を戻した。
「自分を疑わない奴が最強なんだろ。だったら、昔のお前じゃなく、今のお前を信じろ」
レグナスは目を見開いた。
ゼンの言葉は乱暴で、具体的な技術の解説など何一つない。
しかしそれは、過去の栄光ではなく、今の自分で騎士としての誇りを築き直せという、何よりの助言だった。
レグナスは静かに拳を握り込み、やがて、その口元に、獰猛な笑みを浮かべた。
「がっはっは! なるほどな! 貴様、口の悪さに反して、なかなかに良い師の素質があるではないか!」
レグナスはゼンの肩をバシバシと豪快に叩いた。
「よかろう! 今日から貴様を、余の『筆頭指南役』に任命してやる! 誇りに思うがよいぞ、ゼン!」
「……おい、叩くな。鬱陶しい。あと誰が指南役だ」
ゼンは本気で嫌そうな顔をして、レグナスの手を叩き落とした。
「照れるな照れるな! さあ、我が友よ、明日の行軍に備えて肉をもう一枚──」
「話を聞けバカ騎士。あと肉はもうねえよ」
遠くでルエリアが「もう、二人ともうるさい! さっさと寝なさい!」と怒鳴り声を上げる。
騒がしくなった焚き火の横で、ゼンはやれやれと首を振りながら、今度こそ本当に眠りにつくように目を閉じた。
しかし、その口元だけは、居心地の悪さをごまかすように、ほんの少し緩んでいた。
──第二十話・終。




