第十九話:『生きた証』
湯気と共に、野菜の甘い香りが部屋いっぱいに広がっていた。
エドガーの自宅の食卓には、村で採れたばかりの野菜をふんだんに使ったシチュー、香ばしく焼き上げられた厚切りのパン、そして香草をまとった肉料理が並んでいる。
管理都市で口にしてきた、味も栄養も最適化された食事とは違う。
そこには、人の手で作られた不揃いな温もりがあった。
「なんだろう……すごく綺麗。食べるのがもったいないくらい」
ルエリアの瞳が輝く。スプーンでシチューを口に運ぶと、その濃厚な旨味に頬が緩んだ。
「美味しい……! 優しいのに、身体の芯から力が湧いてくるみたい」
「がっはっは! この肉も素晴らしい歯ごたえだ! 旅の疲れが一気に吹き飛ぶな!」
レグナスは大きな肉を豪快に頬張り、声を弾ませる。
そんな旅人たちの姿を見て、レオは嬉しそうに身を乗り出した。
「ねえねえ、レグナスお兄ちゃん! さっき言ってた『最強騎士』の話、もっと聞かせてよ! 本当に強かったの?」
「おお、よくぞ聞いてくれた、少年! 余はだな、一振りで地平線を割り、敵の軍勢を一人で消滅させたのだ!」
「すっげえええ!!」
目を輝かせるレオに、レグナスはすっかり上機嫌になり、身振り手振りを交えて大げさな武勇伝を語り出す。ルエリアは「また始まったわ」と呆れ顔でシチューを口に運んでいた。
一方、ゼンは一人、静かにパンをスープに浸して口に運んでいた。
その無駄のない、しかしどこか気だるげな様子を見て、エドガーがそっと語りかける。
「ゼン殿、お口に合いますかな?」
「……いや、美味いよ。十分だ」
ゼンは短く答え、窓の外の静まり返った村の夜景に目を向けた。
ルエリアはシチューの温かさを噛み締めながら、ずっと気になっていた疑問を口にした。
「でも、エドガーさん。これだけの同期率を持つ人たちが隠れ住んでいるなんて……天使の目をごまかすのは、大変だったでしょう?」
その言葉が落ちた瞬間、エドガーの表情からわずかに笑みが消えた。
「この村は、かつて大戦の時代にシステム構築を担った『旧政府の科学者連合』が、戦火を逃れて作った場所なのです。私たちは戦うためではなく、人間がこの仮想世界で真に『自由』に生きるための研究を続けてきた。……ですが、一部の天使はそれを許さない」
エドガーが「旧政府」の名を口にした瞬間。
カツン、と小さな音が響いた。
ゼンのスプーンを持つ手が、止まっていた。
湯気に隠れたその瞳が、一瞬だけ鋭く、そして耐えがたい痛みを堪えるように細められる。
しかし彼は何も言わず、ただ静かにスープを飲み干した。
エドガーはゼンの様子に気づかないフリをして、静かに続けた。
「天使たちは、この世界に『完璧な調和と完全管理』を求めているようです。彼らにとって、システムの手が届かない場所で、独自のコード同期を行う私たちのような存在は、世界を脅かす『バグ(エラー個体)』でしかないのです」
「近いうち、私たちは何らかの警告を受けるかもしれません……」
部屋に一瞬、重苦しい沈黙が流れた。
パチパチと、暖炉の薪が爆ぜる音だけが響いた。
しかし、少年が「大丈夫だよ、おじいちゃん!」とエドガーの手を握った。
「僕がもっと強くなって、村を、おじいちゃんを守るから!」
小さな手をぎゅっと握りしめるレオの純粋な瞳。エドガーは「ありがとう」と愛おしそうにその頭を撫でた。
その温かくも切ない光景を、レグナスは自らの剣の柄に手を置きながら、厳かな表情で見つめていた。
ルエリアもまた、何も言えず、胸の痛みに耐えるように俯く。
ゼンだけは、感情の読めない虚ろな瞳で、静かに食後の紅茶をすするだけだった。
♢♢♢
夕食のあと。
リビングでは、レグナスがレオに懐かれ、楽しそうに身振り手振りを交えて「最強騎士の心得」とやらを熱弁している。少年は目を輝かせてそれに聞き入っていた。
そんな二人を、エドガーは愛おしそうに見つめていた。だが、その視線がルエリアとゼンに移ったとき、老科学者の目に、どこか決意を秘めた光が宿った。
昼間、世界のシステムを正確に紐解いてみせた少女と、その横で、すべてを見通しているような冷めた目をした青年。
エドガーは「さて」と静かに腰を上げた。
「ゼン殿、ルエリアお嬢さん。もしよければ、私の仕事場を見ていかれませんか? なぜだか……お二方には、これを見せておきたいと思ったのです」
二人が頷くと、エドガーは地下の書斎へと案内した。
階段を下りるにつれ、地上の賑やかさが遠ざかり、ひんやりとした空気が肌を刺す。そこはレンガの壁が見えないほど、古びた書籍やホログラムのデータモニターで埋め尽くされた研究室だった。
エドガーが古い端末を起動すると、空中へ複雑な幾何学コードの立体モデルが浮かび上がる。青い光が、薄暗い地下室を静かに照らした。
「これは……仮想空間と現実の、独自の同期理論……?」
ルエリアが息を呑む。管理都市の最先端の知識を持つ彼女から見ても、それは驚くほど緻密で、見たこともないアプローチの研究だった。
「……これ、全部あなた一人で?」
「ほとんどは昔の仲間たちの遺産ですよ」
エドガーは穏やかに笑った。
「仮想空間と現実が同期する仕組みは、未だ完全には解き明かされておりません。人間の脳がなぜ“想像”を現実へ干渉できるのか。なぜ強く信じた者ほど世界を書き換えられるのか……理論はあっても、その核心はまだ闇の中です」
「素晴らしい研究だわ……。でも、まだ未完成? 謎の空白が多すぎる。数式としては成立しているのに、核心の部分がブラックボックスになっているみたい」
「ハハ、その通りです。世界が今のような形になる前からずっと、私はこの謎を解き明かしたいと思って研究を続けてきましたがね。……結局、まだ入り口に立ったばかりですよ」
エドガーの言葉に、ルエリアはもどかしそうに一歩前に出た。
「だったらなおさら、こんな辺境に隠れていないで、もっと世界の科学者たちと共同で研究すべきよ! こんな誰も知らない場所で一人でやっていては、それこそ何のためにやっているのか分からないじゃない」
その言葉に、エドガーは少しだけ黙り込んだ。
「……何のため、ですか」
その声音には、研究者というより、ただの老人としての疲れが滲んでいた。
「若い頃は、人々のためだと思っておりました。人間をもっと自由にしたい。誰もが可能性を引き出せる世界を作りたい、と」
エドガーは苦笑し、引き出しから一枚の古びた写真を手に取った。そこには、幼い子供を抱いた若い頃のエドガーが写っていた。
「結婚し、子供ができ、今ではレオという孫も生まれた。私の『生物としての遺伝子』は未来へと繋がった。……だがね、それとは別に、エドガーという一人の人間が確かにこの世界に生きて、何かを成し遂げようとしたのだという『証』を、ただこの世界に残したいだけなのかもしれん」
──誰も、すぐには返さなかった。
地下室の古い端末の駆動音だけが、ブーーンと低く響いている。
ゼンは一歩歩み寄り、エドガーの手元にある古びた写真をじっと見つめた。
遠く、地上の居間の方から、レオの無邪気な笑い声がかすかに聞こえてくる。
沈黙を引き裂いたのは、ゼンの低く冷たい声だった。
「……ずいぶん面倒くさい自己満足だな」
ルエリアが「ちょっと、ゼン!」と鋭い声を上げて睨む。
しかし、エドガーは怒るどころか、逆に声を上げて愉快そうに笑った。
「ハハハ! まさにその通りだ、ゼン殿。否定はせんよ。……では、あなたはどうかな?」
「……何が」
「あなたは、何を残したいのですかな」
エドガーは写真を机に置き、ゼンの瞳をまっすぐに見つめ返した。
「……」
長い、重い沈黙。
ゼンは答えなかった。
ただ、何かを確かめるように、自分の手のひらへ視線を落とした。
ルエリアは、ゼンの横顔に宿ったあまりにも暗い影から目を逸らすように、強引に端末の光へと視線を戻した。気まずさを振り払うような声で、彼女は呟く。
「でも皮肉ね。科学を学べば学ぶほど、“理屈”が想像を邪魔するなんて」
「ええ」
エドガーは静かに頷く。
「知識は、人間へ“できない理由”を教えてしまう。だから同期率は落ちる。理論を知るほど、子供のように世界を信じられなくなるのです」
「矛盾してるわ……」
ルエリアの言葉のあと、再び地下室に静寂が戻る。
エドガーは浮遊する幾何学コードを見つめたまま、しばらく無言だった。
やがて、穏やかに微笑んだ。
「ですが、悲観はしておりません。……我々にできなくとも、次の世代がいる」
タイミングを見計らったように、居間の方から、レオとレグナスの騒がしい笑い声が聞こえてくる。
「人は、一人で完成する必要はないのです。知識も、技術も、想いも……未来へ託せる。それができるのが、人間の強みです」
ルエリアは静かに目を見開いた。
彼女の知る管理都市では、人間はシステムを維持するための歯車であり、託すものは「効率」だけだったからだ。
「……人間って、不器用な生き物ね」
「ははは。否定はできませんな」
「ルエリアお嬢さん。人間は不完全ですが、だからこそ多様です。この世界にはね、戦闘での剣術を同期させて戦う者、神話の魔法のような力を顕現させる者だけではなく……科学や、芸術、あるいはただの日常生活の技術に特化して、仮想空間のコードを引き出している人間たちがたくさんいるのですよ」
「戦うためだけじゃなく……生きるために、それぞれの同期を……?」
ルエリアの瞳に、明確な好奇心の光が灯る。管理都市の『正解』しか知らなかった彼女にとって、人間のその泥臭くも自由な生き方は、あまりにも新鮮で、魅力的に映った。
「もし、そういう人間の多様性に興味があるなら、一つ頼みを聞いてはくれませんかね」
エドガーは机から、厳重に梱包された小さなデータチップを取り出した。
「ここから一週間ほど荒野を歩いた場所に、悪魔と人間が共生している一回り大きなコミュニティ(街)があります。そこへ、私のこの研究データの一部を届けてほしいのです。向こうにいる古い友人にね」
「通信で送れば、天使の監視網に捕捉されます。記録媒体は、直接運ぶしかないのです」
ルエリアは一瞬驚いたが、すぐに隣のゼンを見た。
ゼンは、やれやれと肩をすくめる。
「一週間分の飯を保証してくれるならな」
ルエリアは差し出されたデータチップを見つめ、それから、少しだけ微笑んだ。
「……目的地は決まってなかったけど」
彼女はチップをそっと受け取り、しっかりと胸に抱きしめた。
「そういう場所、ちょっと見てみたいかも……喜んで、引き受けるわ」
目的地のない旅だった。けれど今、彼女の目の前には、確かに新しい世界の道標が示されていた。
♢♢♢
──翌朝。
アインドルフの村の入り口には、旅立ちの準備を終え朝日に照らされる三人の姿があった。
「お兄ちゃんたち、もう行っちゃうの?」
レオが寂しそうにレグナスの服の裾を引っ張る。
レグナスはしゃがみ込み、少年の頭を豪快に撫で回した。
「ハハハ、寂しがるな少年! 余は世界を救う最強の騎士だからな。だが忘れるな、お前が昨日見せたあの水の球、見事だったぞ。次に会う時は、爆発させずに余の剣を受け止めてみせよ!」
「うん! 僕、おじいちゃんの研究をいっぱい手伝って、もっとすごくなる!」
エドガーはそんな子供たちの姿を見守り、三人に深く頭を下げた。
「エドガーの生きた証、未来へのバトンを、どうかよろしく頼みます。旅の御仁、どうか道中お気をつけて」
「じゃあね、エドガーさん、レオ。ご飯、本当に美味しかったわ。ありがとう」
ルエリアが晴れやかな笑顔で手を振る。
ゼンは相変わらずだるそうに背負い袋を担ぎ、最後に一度だけエドガーと視線を交わして、短く「じゃあな」とだけ残して歩き出した。
朝日に照らされる荒野へと歩みを進める三人。
ルエリアの手の中には、名もなき老科学者の「生きた証」が、確かに握られていた。
──第十九話・終。




