第十七話:『永遠に残るノイズ』
旅立ちの前夜。レグナスが宿の広間を落ち着きなく歩き回り始める、少し前のこと。
ゼンとルエリアの二人は、街のデータアーカイブの薄暗い片隅にいた。
「……やっぱりおかしいわ」
ルエリアが端末の画面を凝視したまま、細い眉を深くひそめる。
画面に並ぶのは、“棄てられた場所(廃棄エリア)”のログ。だが、その大半に不自然な隠蔽コードが何重にもかけられていた。街のシステムが、意図的にこの場所の記憶を消去しようとしているのは明白だった。
「待って、プロテクトが1枚剥がれた……これ、当時の実験記録?」
ルエリアの指先がカタカタと動き、画面にいくつかの隠しファイルが展開される。そこに並んでいたのは、おぞましいリストだった。
『被験体No.01:脳内属性同期テスト――失敗(個体崩壊)』
『被験体No.02:脳内属性同期テスト――失敗(精神融解)』
「何これ……。人間の脳に直接、属性コードを書き込もうとしてる? こんなの、ただの虐殺じゃない……!」
ルエリアの顔から血の気が引いていく。それでも指を止めず、最下層のファイルを開いた。
『――例外個体確認』
『被験体No.999:二大相反属性の同時同期に成功。適合率――計測不能』
画面の端、ノイズに塗れた「黒髪の少年の横顔」がゆっくりと出力されかける。
「被験体、999……? 何、これ……」
ルエリアが息を呑み、その画面に手を伸ばそうとした瞬間だった。
バンッ!
鼓膜を打つ強い衝撃音と共に、端末の画面が乱暴に叩き閉じられた。
「……っ!?」
ルエリアが驚いて見上げると、そこにはいつになく冷徹な、凍りつくような瞳をしたゼンが立っていた。
「何でもねぇ。ただの都市伝説の類だ。これ以上調べるのは時間の無駄だ、行くぞ」
「でも、ゼン! 今のデータは明らかに――」
「……いいから、見るな」
地を這うような低い声だった。
ゼンはポケットに手を突っ込むと、ルエリアに背を向け、一度も振り返ることなく部屋を出ていってしまった。
一人残されたルエリアの胸の奥に、冷たい棘のような不安が突き刺さっていた。
二人が重苦しい沈黙を身にまとったまま宿のロビーへと戻ると、そこには妙な先客がいた。
小さな体を揺らしながら、宿の絨毯の上をあっちへウロウロ、こっちへウロウロ。
レグナスが、強敵を前にした時よりも落ち着かない様子で歩き回っている。
「……む、二人とも戻ったか」
ゼンたちの気配に気づいたレグナスが、ビクッと肩を跳ね上げて立ち止まる。そして、なぜか視線を泳がせながら、生真面目に二人に向かって頭を下げた。
「あの、その……余は今夜、少し外で食事をしてきてもよいだろうか?」
わざわざ仲間に外出の許可を取ろうとするレグナスの様子に、ルエリアは一瞬で全ての事情を察した。その唇が、見る見るうちに意地の悪い形へと歪んでいく。
「いいよ、いいよ! 行ってきなよレグナス! 遅くなっても鍵は開けといてあげるからさ!」
「な、何をにやついているのだルエリア! 誤解するな! 余はただ、街の調査の一環として、現地のアバターの動向をだな……!」
「はいはい、調査ね、調査。じゃあ、しっかり『調査』してきてね、レグナス『様』?」
「くっ……お、お主というやつは……!」
いたたまれなくなったレグナスは、耳まで真っ赤に染め上げたまま、大股でそそくさと宿を飛び出していった。
嵐のようにレグナスが去り、再び静まり返ったロビー。
ゼンは相変わらず黙ったままソファの端に深く腰掛け、自分の右腕をじっと見つめていた。
ルエリアはそんなゼンの隣に静かに腰を下ろすと、彼の顔を覗き込むようにして、わざと明るい声を出す。
「……怒ってないよ。ゼンが話したくないなら、今は聞かない」
「でも、いつか話せるようになったら、その時はちゃんと聞かせて。勝手に一人で全部抱え込むのだけは、なしだから」
「あ?」
「それにさ、ゼンがどんな過去を持ってたって、何を隠してたって、ゼンは私の仲間だしね。今のゼンが、今のままのゼンでいてくれれば、私はそれでいい」
真っ直ぐに自分を見つめる、曇りのない藍色の瞳。ゼンは面食らったようにルエリアを見つめ返し、少しの沈黙の後、ぽつりと声を漏らした。
「……過去が怖ぇわけじゃねぇ」
「じゃあ、何?」
ゼンは視線を落とし、忌々しそうに拳を握りしめる。
「……もし俺が、本当に化け物だったらどうする」
ルエリアは一瞬だけ目を見開いたが、すぐにいつもの、えへへという悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「なーんだ、そんなこと? じゃあ、もしゼンが本当に化け物になっちゃったら、私も化け物になってあげる!」
「……は?」
「一人で化け物やってるの、寂しいでしょ? だから私も一緒に化け物になって、二人で世界中を困らせてあげるわ。だから、心配しないで!」
ゼンは呆気にとられたようにルエリアの顔を見つめ、やがて、ふっと肩の力を抜いて、いつもの温かさを帯びた苦笑を漏らす。
「……お前、本当に能天気だな」
「能天気じゃないもん! ほら、暗い顔してないで元気出しなさい!」
バシィィン!
ルエリアの細い手のひらが、ゼンの背中に容赦なく叩きつけられた。
「ってぇな! 力加減考えろ、この筋肉ゴリラ!」
「誰がゴリラよ! 乙女に向かって失礼ね!」
ギャアギャアと騒ぎ立てるルエリアの声に、ゼンの右腕の震えは、いつの間にかわずかに収まっていた。
♢♢♢
その頃、森の外れにある小さな食堂。扉を開けたレグナスは、困惑の渦中にいた。
「来てくれたんですね、レグナス様!」
エナは満面の笑みで迎えてくれたが、そこは薄暗く、埃をかぶった「閉店済みの空き店舗」だった。
「……エナ。ここは一体……?」
「え? 人間の『でーと』を研究した結果、静かで他人に邪魔されない空間がベストだと。なので、一番人気のなさそうな場所を予約しました!」
「いや、これはただの不法侵入だろ!」
エナはハッと両手で口元を抑え、みるみるうちに顔を真っ赤に染め上げた。
「し、失敗しました……! 完璧なデートプランのはずだったのに……」
昼間に「世界は物語と意味でできている」と高らかに語った、あの聡明で達観した彼女からは想像もつかない、あまりのポンコツぶり。レグナスは思わず吹き出してしまった。
「くっ……ははは! いや、お主らしい。良い、ここで飯にしよう。余が買ってきたものがある」
二人は冷たい床に腰掛け、レグナスの持っていた食事を分かち合った。
「ここも、誰かにとっては失敗の跡なのでしょうね」
エナはほこりをかぶった店内を見回した。
「でも私には、レグナス様と初めて食事をした場所になります。同じ出来事でも、悲しいと思う人もいれば、美しいと思う人もいる」
「レグナス様と同じ景色を分かち合えたことが、私は今、とても嬉しいのです」
エナは少し照れくさそうに、けれど名残惜しそうに笑った。
食事を終えた後、二人は夜の街を並んで歩いた。蒸気灯の下、影が二つ、寄り添うように伸びていく。
しばらく沈黙が続いたあと、エナが立ち止まった。
「レグナス様。私、あなたと過ごす時間が好きです」
エナは静かに、けれど慈しむようにレグナスを見つめる。
「あなたは不器用で、頑固で、少し偏見もあります。でも、それを隠さずに、真正面から悩み続けている。そんなあなたの『不完全さ』を、私はとても尊いと思いました」
彼女は一歩近づき、レグナスの目を覗き込んだ。
「あの……もし、私が人間だったら、あなたはどう思いましたか?」
不意の問いに、レグナスは言葉を失った。
人間ならば違ったのか。機械だから、この感情を認められないのか。
そもそも自分が彼女へ抱いているものが何なのか、それすらまだ分からない。
「余は……余には……」
「ふふ、答えなくていいわ。分かっていたことだもの」
エナは静かに首を横に振った。
「あなたに出会えたこと。名前をもらえたこと。それだけで、私はとても幸せです」
レグナスの胸が締めつけられる。
目の前の存在が機械だろうと何だろうと、今、この瞬間に胸を締めつける感情まで偽物だとは、もう思えなかった。
レグナスはゆっくりと手を伸ばし、震える指先でエナの手を取った。柔らかく、温かい、確かな存在の重み。
「……余は、まだこの感情の名を知らぬ」
レグナスはまっすぐ彼女を見つめた。
「だが、お主と過ごす時間は心地よい。お主の声を聞くと安心する。……そして、お主と別れることを思うと、どうしようもなく寂しい。だから――必ず戻ってくる」
愛の告白よりも不器用で、誓いの言葉よりも素朴な、レグナスができる最も真剣な約束。
エナは両手で口元を押さえ、小さく息を呑んだ。そして、今にも涙がこぼれそうなほど優しい笑みを浮かべた。
「……はい。待っています」
やがてエナは、そっと手を離した。
「また会いましょう、レグナス様」
エナは一瞬だけ躊躇った。
そして勇気を振り絞るように唇をかみ、彼の頬へそっと唇を寄せた。
「……これは、プログラムにはない、私の勝手な『ノイズ』よ」
「またね。私の、完璧に不完全なレグナス様」
そう言って、エナは夜の街の雑踏へと溶け込むように歩き出した。
出発の朝。
空はどこまでも高く、青く澄み渡っていた。宿の前には、旅支度を整えた三人の姿があった。
宿屋の主人、そしてロイと家族たちが、三人のもとへ駆け寄ってくる。
「これ、持って行ってくれ! 旅に役立つ『仮想圧縮袋』だ!」
「こっちは、旅の安全を願った『お守り』だよ!」
ルエリアは新しい鞄を抱え、目を輝かせながらも、レグナスの反応を伺った。
「……レグナス、これ、嫌じゃない? こういう仮想技術、苦手だったでしょ」
だが、レグナスはそれらを大切そうに鞄に詰め、笑った。
「いや、ありがたく頂こう。形がどうあれ、そこに込められた『想い』は本物だと……余も少しは学んだのだ」
ルエリアは驚いたように、けれど嬉しそうに笑った。
「……あなた、少し変わったわね」
ゼンが、その様子を見てぽつりと呟いた。
「……戻ってくる理由が、また一つ増えたな」
三人は街道へ向かって歩き出す。旅は続く。まだ見ぬ景色へ。自分たちだけの「生きる意味」を探して。
――三人が去り、賑やかだった街の喧騒が遠ざかっていく。
静寂が戻った森。
薄い霧が漂う木漏れ日の中、主を失ったいつもの切り株に、エナは一人静かに腰掛けていた。
永遠を生きる彼女にとって、たった一週間の出来事。データとして処理してしまえば、ほんの一瞬のノイズに過ぎない記憶。
それでもエナはそっと、自分の胸に手を当てた。
「……戻ってきてくれますよね」
問いかけても、返る声はない。ただ、静かに風だけが吹き抜ける。
それでも、彼女の唇は、世界で一番優しい弧を描いた。
「待っていますよ。レグナス様」
彼女の藍色の瞳は、いつまでも、彼らが去っていった街道の先を見つめ続けていた。
──第十七話・終。
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