第十五話:『不協和音の残響』
崩れかけた礼拝堂の奥。感情の薄いアバターたちの祈りが波のように重なる中、ゼンは激しい吐き気と右腕の疼きに耐えていた。
その時、背後から声がした。
その声は、透き通るほど澄んでいるのに、蛇のように全身へ絡みつき、肌をゆっくりと舐め回すような不快さを伴っていた。
「……またそんな顔をして。相変わらず、君の瞳には世界が醜く映っているようだね」
純白のスーツに身を包んだ男が、暗がりに立っていた。完璧すぎる容姿、生物としての揺らぎが一切ない冷徹な存在。
ゼンは振り返らない。
「消えろ」
男は低く笑った。
「そう警戒するなよ。君を壊したのは私じゃない」
「違うな」
ゼンの声が、地を這うように低くなる。
「お前たち全員だ」
男は、やれやれと大げさに肩を竦めてみせた。
「随分な言われようだ。私たちは人類の可能性を広げただけだよ。現実と仮想を融合し、高位のコードを身に宿す……神の領域の技術だ」
「可能性だと?」
ゼンの右腕が、悲鳴を上げるようにみしりと軋む。
「その実験のせいで、何百人死んだ?」
男の唇の端が、愉快に歪んだ。
「へえ、覚えているのか。君以外の被験者の数は、確か……」
「忘れるかよ。どいつもこいつも脳を灼かれて物言わぬ肉塊になった」
礼拝堂の空気が、凍りつくように重く沈んでいく。
「一人に一つ。それが限界だ」
ゼンは疼く右腕を押さえた。
「天使も悪魔も、それだけで人間の脳には重すぎる。なのにお前たちは、両方を押し込んだ」
「結果として、君は生き残ったじゃないか」
「化け物が出来上がっただけだ」
「だが、面白いじゃないか」
男は足音もなく、ゼンへと近づく。その瞳には狂気的な好奇心がぎらついていた。
「誰よりもシステムを憎み、誰よりも実験組織を憎みながら、誰よりもその力に適合してしまった」
「……」
「天使のコードを拒絶しながら、天使の力を使う」
「……」
「悪魔のコードを憎みながら、悪魔の力を使う」
「……」
「自由な意志で選んだつもりでも、その二つのバグがなければ、君は生きることすらできない身体だ」
ゼンの握り締めた拳に爪が食い込み、血がにじむ。
男はその絶望を味わうように、さらに声を甘くした。
「ところで……今の仲間たちは知っているのかな?」
「……何をだ」
「君がその力を使うたびに、君自身が少しずつ壊れていることを」
ゼンの瞳が、大きく揺れた。男はその一瞬の動揺を、絶対に見逃さない。
「おや、知らないか」
「黙れ」
「知られたらどうなるだろうね」
男はゼンの耳元で囁くように微笑む。
「優しい天使は、自分を責めて君を止めるかもしれない」
「……」
「高潔な騎士様は、我が身を挺して君を救おうとするかもしれない」
「……」
「だがどちらにせよ、君は彼らを巻き込み、最終的には失う」
男は一歩下がり、楽しそうに両手を広げた。
「だから私は楽しみにしているんだ。君がどこまで壊れて、それでも『自分』でいられるのかを」
「黙れぇッ!!」
ゼンの右腕から、ドス黒い魔力の光が爆発的に漏れ出た。
暴圧的な不協和音。礼拝堂のステンドグラスが一斉に激しく震え、数枚がパリンと音を立てて砕け散る。祈りを捧げていたアバターたちが、機械的な動きで一斉にゼンへ首を向けた。
男は、その破滅的な光景に満足そうに笑う。
「その顔だ。また会おう、クオン」
次の瞬間、男の姿は霧のように崩れ、初めからそこにいなかったかのように消え去った。
「ガハッ……、ハァ、ハァ……ッ」
ゼンは右腕を押さえて膝をつく。脈打つ痛みが脳を直接侵食してくるようだ。胸元の古い木彫りの人形を、ゼンは狂ったように強く握りしめた。
夕暮れの街。
獲物をどっさりと抱え、どこか浮足立った様子のレグナスと、ゼンは広場で合流した。
「どうしたゼン、顔色が悪いぞ。街の外れで何があった?」
レグナスの問いに、ゼンは昏い瞳のまま、無愛想に言い捨てた。
「……何でもねぇ。ただ、アバター共の集団入信を見せつけられただけだ。反吐が出る」
宿屋に戻ると、持ち帰った大量の獲物にルエリアが目を丸くした。レグナスが「森で出会ったアバターの娘に助言をもらった」と誇らしげに報告すると、ルエリアは少し驚いたような顔を見せつつも、素直に彼の手柄を称えた。
ルエリアは空気を変えるように言った。
「……実は一週間、この宿の特等室に格安で泊まれることになったの。昼間、宿の主人に絡んでいた酔っ払いを捕まえたお礼。それに、東の街道は同期障害で封鎖中。復旧まで一週間ほどかかるそうよ」
案内された部屋は、驚くほど豪華だった。
「このベッド、見た目だけじゃないのよ。実際はただの弾力体なのに、脳が『最高級の寝具』だって感じるように同期してるの。ねえ。偽物でも、気持ちいいなら価値はあるんじゃない?」
レグナスが腰を下ろすと、粗末な弾力体のはずの寝台が、羽毛のように身体を受け止めた。
その完璧すぎる心地よさに、彼はかえって眉をひそめる。
「……これも、あの女と同じか。触れた感覚まで計算で作られている」
レグナスは寝台を見つめたまま、小さく息を吐いた。
「……理解できん。あやつらには感情まであるというのか。この世界の人間よりも、どこか……出来すぎている。余には、どうしてもその言葉の奥に『作られた答え』があるように思えてしまうのだ」
ルエリアは苦笑しながら肩をすくめた。
「そこまで警戒しなくても、このベッドは噛みついたりしないわよ?」
「そういう問題ではない」
レグナスは真顔で返す。
ゼンは、高級な寝具にはしゃぐルエリアを横目に、レグナスをベランダへ連れ出した。
「……レグナス、ちょっと来い」
ベランダへ出ると、夕風が二人の間を吹き抜けた。
「……気に食わねぇのは分かる。だが、その感情はしまっておけ。この世界の住人にとっては、それが『現実』なんだ」
ゼンの言葉は、どこか自分自身にも言い聞かせているようだった。
翌朝。一階のテーブルで、ルエリアは険しい表情で地図を広げていた。
「ニュースがあるわ。最近、街のシステムの干渉が外の世界にまで染み出し始めているの。ロボ天使の巡回ルートも広がっているわ。……人間の思考や感情を、もっと強引に『正解』の枠へ引きずり込もうとしているみたい」
「……で、次はどこへ行くのだ?」
レグナスが首を傾げ、ルエリアの持つ端末を覗き込む。
「それが……決まってないのよ」
ルエリアは端末を消し、ふっと息を吐いた。かつての彼女なら、最適解が決まらないなどパニックの一因でしかなかったはずだ。けれど今の彼女の目は、どこか澄んでいる。
「外の世界を調べてみたら、システムに管理されていない人間のコミュニティが、あちこちに点在していることが分かったわ。お互いにぶつかったり、失敗したり、それでも自分たちなりに暮らしている人たちがたくさんいる。私は……そういう人たちに、会ってみたい。どんな風に息をしているのか、この目で見てみたいの」
ルエリアは遠く、地平線の先を見つめた。
「確かめたいの。“その自由ってやつ”。本当に存在するのか」
「ははっ! 良いではないか!」
レグナスは胸を張り、腰の剣を軽く叩いた。
「目的地がない旅など、最強の余にはおあつらえ向きよ。行く先々で美味いものを食い、様々な人間と出会う。これぞ騎士の旅というものだ!」
ゼンは二人を見つめ、静かに息を吐き出した。
(自由、か……。俺には、一番似合わねぇ言葉だな)
「じゃあ、レグナスは引き続き狩りをお願い。ゼンは私と情報収集。行くわよ」
再び、あの森。
レグナスは、彼女と再会した。
「……私の名前、考えてくれましたか?」
森の入り口で待っていた彼女は、再会するなり少しいたずらっぽく尋ねた。
レグナスは露骨に視線を泳がせ、背負った弓の弦を無意味に弾く。
「……決まっておらぬ。そもそも、出会って間もない他人に名前を決めさせるなど、お門違いも甚だしいだろう」
「ふふ、そうですか。期待しすぎましたね」
彼女は困ったように、けれどどこか嬉しそうに微笑んだ。
「……ところで」
彼女は話題を変えるように、森の奥へと続く細い獣道を指さした。
「今日も獲物を捕まえたいのでしょう? でしたら、こちらへ。昨日より、あなたの仲間を驚かせる成果を、お約束いたします」
彼女の足取りは驚くほど軽やかだった。その足跡は確かに草木を踏みしめ、揺れる髪は風を孕んでいる。たとえ身体の仕組みが「計算」でできていたとしても。今、この瞬間、彼女は確かに同じ時間を生きているのだと、レグナスは認めざるを得なかった。
狩りの合間、沢のほとりで足を止めた際、彼女がふと問いかけた。
「人はみな、違う世界を見ているのかもしれません。あなたに見えている私と、他の誰かに見えている私は、まったく違う姿かもしれない。それでも、誰かに見つけてもらえたなら……その姿には意味があるのでしょうね」
レグナスは答えに窮し、手の中の弓をじっと見つめた。
「……お主の言葉には、ただ知識を並べただけではない重みがある。長い間、この森を見続けてきた者の言葉だ」
彼女は小さく首を傾げ、言葉の先を待つ。
「……見た目も身体も作り物。ならば、そこに宿る想いまで作り物なのか」
レグナスは弓を握り直した。
「余には、まだ分からぬ」
「……あなたは完璧な不完全だからこそ、美しいのですね」
彼女は静かに言った。
「完成された私は、答えを変えることができません。何百年、この森を見続けても、私は同じ私のままでした」
彼女はレグナスを見る。
「でも、あなたは昨日の答えを、今日には疑い始めている。その揺らぎが、私には光のように見えるのです」
森の奥から、鹿の鋭い鳴き声が響く。
レグナスは弓を構え直し、無言で獲物を追った。しかし、その頭から彼女の言葉が離れることはなかった。
「……お主は、本当に妙な奴だ」
ぽつりとこぼしたレグナスの言葉に、彼女はただ、やわらかく微笑むだけだった。
やがて空が茜色に染まり、別れの時が来る。
「また明日、ここで」
「ええ……」
二人は、夕闇へと消えていく互いの背中を見送った。レグナスは、自分の足取りが朝よりもずっと重く、胸の奥に、名付けようのない違和感が残っていることに気づいていた。
その帰り道。
森の出口でゼンたちと合流し、宿へ戻る道すがら。
森を抜ける風はやわらかく、夕暮れの空には、錆びた鉄のような赤がゆっくりと溶けていた。
レグナスは大きな獲物を肩に担ぎながらも、どこか上の空だった。
「……どうしたの? 今日はずいぶん静かね」
隣を歩くルエリアが首をかしげる。
「いや……少し、考え事をしておっただけだ」
「珍しいわね。いつもなら『余の華麗なる狩猟術を見よ!』って騒いでるのに」
「むっ、余を何だと思っておる」
そう言い返しながらも、レグナスの意識は、まだ森の中に残されていた。
彼女は人間ではないのかもしれない。姿すら、本当のものではないのかもしれない。
それでも、あの微笑みを忘れたくないと思っている自分だけは、否定できなかった。
──第十五話・終。




