第十四話:『再会の約束』
鉄と錆の宿場町に、やわらかな朝日が差し込んでいた。
昨夜までの騒ぎが嘘のように、街には穏やかな活気が戻っている。市場には焼きたてのパンの香りが漂い、蒸気機関の白煙の向こうでは、実体のない広告灯が朝の空気に淡く明滅している。鉄と錆の現実に、仮想の光だけが重なっていた。
三人は宿屋の一階で、簡素な朝食を囲んでいた。
籠に盛られた焼きたてのパン。湯気を立てる薄い野菜のスープ。そして、なぜか朝からやたらと機嫌のいいレグナス。
ルエリアはスプーンを持ったまま、半眼で彼を見つめた。何かを期待しながらも、すでに半分は呆れているような目だった。
「……まず、一つ確認したいんだけど」
「うむ、なんだ?」
「あなたの財布、結局返ってこなかったのよね?」
レグナスの手がぴたりと止まった。昨日、少年ロイに鮮やかな手つきで盗まれた、全財産の入った財布のことだ。
「……ぐっ」
レグナスはわかりやすく胸を押さえ、苦悶の表情を浮かべた。
「た、確かに。物理的には、まだ余の手元には戻っておらぬ」
「でしょうね」
「だが、よいのだ!」
レグナスは勢いよく立ち上がった。椅子がガタリと音を立て、朝食を食べていた他の客たちが何事かと振り返る。彼はそんな視線など気にも留めず、誇らしげに胸を張った。
「あれは薬代になっていた。だが、あの少年は『必ず返す』と約束してきた! つまり余には、この街へ再び訪れる理由ができたということだ! ルエリア、旅とは目的地へ向かうだけではない。再会の約束によって、歩む道が鮮やかに彩られるものなのだ!」
ルエリアは深い溜息をついたが、その口元には隠しきれない笑みが浮かんでいた。
「本当に……。救いようのないお馬鹿さんね、あなたは」
その声には、冷徹な管理都市にいた頃にはなかった、春の日差しのような柔らかさがあった。
レグナスは得意げに腕を組み、横で黙々とスープをすすっているゼンへ視線を向けた。
「のう? ゼン。お主もそう思うだろう? あの寺院で子供らと『また会う』と約束してきたのだろう? 嬉しい約束というのは、それだけで足を軽くするものだな」
ゼンは面倒くさそうに目を細め、視線を落とした。
「……あー。まあ、そうかもな」
「よいものだな。嬉しい約束というものは」
ゼンは無意識に、胸元の古びた木彫りの人形に触れた。一瞬だけ、瞳の奥に何かが揺れた。だが、それが何だったのか、本人にも分からなかった。
「……まあ、悪くはねぇな。期待を裏切られるのは御免だが、期待するだけならタダだ」
それだけ答えると、彼は再び無愛想にスープをすすり始めた。
ルエリアがパチン、と手を叩いて話をまとめた。
「はいはい、感傷はそこまでよ。現実的な問題は、これからの旅費と次の目的地。食料も補充しなきゃいけないし、消耗品も整えたい」
彼女は机の上に簡単な地図を広げた。
「それじゃあ今日の役割分担を決めましょう」
レグナスが胸を張る。
「狩りなら余に任せよ!」
「じゃあ、私は街で聞き込みをして、次の旅の目的地を決めるわ」
ルエリアがそう言うと、レグナスはにっと笑った。
「うむ。お主の判断を信じる」
その言葉に、ルエリアは少し驚いたように一瞬言葉を詰まらせた。
「……いいの?」
「もちろんだ。お主は誰よりも真面目に考える。だから安心して任せられる。お主が選ぶ道ならば、どこへでもついていくぞ」
ルエリアはふいっと視線を地図に戻し、誤魔化すように髪を耳にかけた。
「……そういうこと、さらっと言うのよね」
ゼンはパンをかじりながらぼそっと呟いた。
「天然勇者、恐るべし」
レグナスは意味が分からず首を傾げた。
「何の話だ?」
「気にすんな」
「わかったわ。じゃあレグナスは食料の調達。私は街で聞き込みをして、次の目的地へのルートを精査するわ。ゼンはどうする?」
「……俺は、街の外れを見てくる。少し、気になる気配があった」
「オーケー。じゃあ、夕方にここで集合。各自、ちゃんと成果を持ち帰ること。いいわね?」
三人はそれぞれの目的を胸に、宿屋を後にした。
レグナスは鼻歌を歌いながら森に向かう。
街を抜けた先には、深い森が広がっていた。朝露に濡れた草を踏みしめ、レグナスは肩に担いだ弓を確かめる。ここは仮想のデータが自然のサイクルと高度に同期した区域だ。木々の緑はあまりに鮮やかで、風に揺れる葉の音さえも、何者かによって調律された旋律のように美しく響く。
「さて、今日は大猟といこうではないか」
意気揚々と踏み込んだレグナスだったが、しばらく歩き続けても、獲物の気配がさっぱり感じられない。
「む……。妙だな。森の息遣いはこれほど豊かなのに、獣の足跡一つ見つからぬとは」
立ち止まり、首を傾げたその時だった。
「鹿なら、この先の沢沿いにいますよ」
背後から、水が流れるような澄んだ声が響いた。
レグナスは驚愕して振り返った。剣の柄に手が伸びる。騎士として、鍛え上げた彼の感覚を、完璧に欺いて背後を取る者がいるとは。
そこに立っていたのは、一人の女性だった。
腰まで届く長い黒髪は夜のように深く、透き通るような白い肌は、森の木漏れ日を反射して淡く発光しているように見えた。彼女のまわりだけ、世界の解像度が一段高いかのような、浮世離れした美しさがあった。その瞳は深い藍色で、鏡のように静かだった。
「驚かせてしまいましたか?」
彼女は柔らかく微笑む。その姿は、あまりにも完璧だった。衣服のシワひとつない、肌の質感ひとつとっても、不完全な「生物」としての揺らぎが見当たらないほど美しかった。
「……いや、その。お主、いつからそこにいたのだ?」
レグナスは珍しく動揺しながら、咳払いで誤魔化した。
「先ほどからです。あなたが、獲物がいないと嘆いておられたので」
「沢沿いと言ったな?」
「ええ。風向きと草の倒れ方、それにこの地形から考えると、ここから南西に三百メートル行った湿地に集まっているはずです。今の時間なら、彼らは『朝のティータイム』をしているはずですから」
「てぃーたいむ……? 鹿が、茶を飲むのか?」
レグナスが真面目な顔で問い返すと、女性はパチパチと瞬きをした。
「違いましたか? 人間の書物には『水分を摂取して一息つく優雅な時間』をそう呼ぶとあったのですが」
どうやら、データとしての知識を少々不器用に適用しているらしい。少しだけ張り詰めた空気が緩む。
「……いや、意味としては合っているが。お主は狩人か?」
女性は小さく首を傾げた。
「いいえ。ただ、観察しているだけです。長い時間をかければ、たいていのことは法則として理解できます。……足音を消して、ゆっくり付いてきてください」
彼女はしなやかな動作で歩き出し、レグナスも慌ててその後に続いた。
木々の間をすり抜け、南西の湿地へと近づいていく。彼女の指示通り、そこには十数頭の立派な鹿が集まっていた。
レグナスは息を殺し、弓を構える。狙いを定め、弦を引く。その横顔を、女性は静かに見つめていた。
ひょう、と矢が風を裂き、見事に大物の鹿を仕留める。
「見事な腕前ですね」
「フッ、これくらいは騎士の嗜みだ。……しかしお主」
仕留めた獲物を回収しながら、レグナスは胸の奥で膨らんでいた違和感を口にした。
「お主……。普通の人間ではないな?」
女性は一瞬だけ、寂しそうに目を伏せた。その所作すらも計算されたプログラムのように洗練されていた。
「あなたの定義する『人間』ではないかもしれませんね」
風が吹き抜け、彼女の黒髪がふわりと舞った。
「やはり、仮想人間か。この森の管理者気取りか?」
レグナスの声に、隠しきれない嫌悪の色が混じる。
彼は、この世界が提供する「人工知能を搭載したアバター」が、どうしても生理的に受け付けなかった。食事を再現し、睡眠を模倣し、あたかも感情を持っているかのように振る舞う「偽物の魂」。彼にとって、命とは傷つき、老い、死にゆくからこそ価値があるものだった。
「人工の魂か。お主らを見ていると、どうも落ち着かぬ。余は、血の通わぬ人形に導かれる趣味はない」
露骨な嫌悪を突きつけられた彼女だったが、その表情は崩れなかった。
「それでも、今の私は、こうしてあなたと同じ森の空気を吸い、同じ景色を見ています。それだけでは、存在の証明として不十分でしょうか?」
「……不十分だ。お主の言葉も、その微笑みも、すべては計算の結果にすぎまい。そこに何の意味がある?」
「意味、ですか」
彼女は木漏れ日を見上げた。
「あなたには今日の空はどう見えていますか? たとえ同じ空を眺めていても、美しく感じたり、淀んでいると感じたりする……それが人間の揺らぎだと聞きました。それでも……」
彼女は再び、レグナスの瞳を真っ直ぐに射抜いた。
「それでも、誰かと認識を共有できたなら。その姿には、一瞬でも確かな意味が宿る。私はそう信じています」
レグナスは答えられなかった。
ただのプログラムだと切り捨てるには、彼女の声にはあまりに深い「響き」があった。それは、長い間、誰にも理解されずにここにいた者のような寂しさのように感じた。
「……変な奴だな、お主は」
「よく言われます。私を不気味だと感じる人は少なくありませんから」
「当然だ。理解できぬものを恐れるのは、生物としての本能だ」
「ええ。ですから、こうして言葉を交わしてくださるだけで、私は十分うれしいのです」
彼女は小さく微笑み、再び歩き出した。
「まだ野兎も狙えますよ。あなたの仲間たちを驚かせるくらいの成果を、お手伝いしましょう」
レグナスは一瞬、その場に立ち尽くした。嫌悪していたはずの存在。偽物の魂。
しかし、彼女の背中を追わなければ、何か大切な真実を見失うような気がして、彼は慌てて足を踏み出した。
「ま、待て! まだ余は、お主を認めたわけではないからな!」
森の案内をしながら、彼女はぽつりと呟いた。
「あなた方は、不思議ですね」
「何がだ?」
「昨日まで信じていた答えを、今日には変えられる。私たちには難しいことです」
「答えを変えるなど、単なる未熟さだろう」
「そうでしょうか。私はそれを、とても美しいと思います」
レグナスは返す言葉を失った。
偽物のはずだ。そう切り捨てればいい。
なのに、彼女の言葉だけが、胸の奥に刺さって抜けなかった。
狩りは、彼女の言う通り驚くほどの成果を上げた。鹿を一頭、野兎を数匹。夕暮れ時、レグナスが背負った獲物は、一人で運ぶには重すぎるほどだった。
「……お主、名前は?」
森の出口で、レグナスは不器用に尋ねた。
彼女は夕陽を受けて、美しく輝く髪を揺らした。
「私には、決まった名前はありません。ただ、観測者としてのIDがあるだけです」
「ですが……」
彼女は少しだけ頬を染め、いたずらっぽく笑った。
「あなたが次に会う時までに、私にふさわしい名前を考えておいてくれませんか? それが、私との新しい『約束』になれば嬉しいです」
レグナスは耳まで赤くして絶句した。
「な、何を……余にそのような大役を……」
「期待していますよ、騎士様」
彼女の姿は、夕暮れの霧に溶けるように、静かに薄れていった。後に残されたのは、森の静寂と、頬に残る熱い感覚だけ。レグナスは自分の心臓の音が異常に早く打っていることに気づき、しばらく困惑した。
レグナスが完全に森を出て、その足音が聞こえなくなった頃。
霧の立ち込める無人の空間に、先ほど消えたはずの彼女が再び、ノイズと共に姿を現した。
その瞳からは先ほどの柔らかい光は消え、鏡のような冷徹な藍色だけが鈍く光っている。
彼女の視界に、不可視のシステムウィンドウが展開される。
『――観測継続』
『――対象:不完全性による自己更新を確認』
『――未定義反応を検出』
彼女はそっと自分の胸元に触れ、無機質な声でぽつりと呟いた。
「……未定義、ですか」
そして、レグナスが去っていった方角を静かに見つめた。
「またお会いしましょう、騎士様」
この森での何気ない出会いが、やがて彼の価値観を激しく揺るがすことになる。
完璧な存在が、なぜ不完全な人間に憧れるのか。
そして、彼が偽物だと切り捨てていた存在こそ、誰よりも人間らしい孤独を抱えていたことを――まだ、この時のレグナスは知らない。
その頃、街の外れ。
崩れかけた礼拝堂の奥で、ゼンは静かに息を潜めていた。
薄暗い堂内には、数十体の仮想人間たちが膝をつき、機械仕掛けの天使像に向かって祈りを捧げている。
「同期の果てに、人は神に至る」
「不完全なる肉体を超え、完全なる存在へ」
感情の薄い声が、波のように重なっていた。
ゼンは眉をひそめる。
「……気味の悪い連中だ」
その時、背後から声がした。
その声は、透き通るほど澄んでいるのに、蛇のように全身へ絡みつき、肌をゆっくりと舐め回すような不快さを伴っていた。
──第十四話・終。




