第十三話:『正義の在り処』
旧市街を抜けた先。
重く垂れ込めていた灰色の空がようやく途切れ、遠くには別の街の灯が見え隠れしていた。
ルエリアが不安そうに周囲を見渡す。
「……見つからないわね。あの子、どこへ行ったのかしら」
レグナスはぬかるんだ地面に膝をつき、泥に残された小さな足跡を指差した。
「案ずるな。この足跡は街道へ続いている。おそらく、物資の集まる近くの宿場町へ向かったのだろう」
ゼンは右腕を走る鋭い痺れを悟られぬよう、無表情に、だがどこか気怠げに言葉を添えた。
「あいつも生きるのに必死だ。人の多いところでまた誰かを騙すつもりだろ」
ルエリアは唇を強く噛む。
「……止めなきゃ。これ以上、あの子が自分を汚す前に」
「そうだな。だがまずは追いつくことだ。……よし、行くぞ!」
レグナスが太ももを景気よく叩いて立ち上がる。
三人は灰色の廃墟を背にし、鉄と錆、そして活気の混じった匂いが漂う宿場町へと歩を進めた。
♢♢♢
その頃、ロイは市場の片隅で立ち尽くしていた。
腹の虫が鳴る。
「腹減ったなぁ……」
空を見上げ、ふと手元を見る。そこには、ゼンの温もりを感じる木彫りの人形と、レグナスの使い込まれた革の財布。
「……ごめん」
小さく呟いた声は、人混みの喧騒に消えた。
だが、すぐに強く首を振る。
「でも、あと少しで母さんの薬を買えるんだ。弟たちだって、もう三日もまともに食べてない……」
ふと通りの向こうに目をやると、綺麗な服を着た家族が笑い合っていた。
父親が子供を肩車し、子供は焼きたての白いパンを幸せそうに頬張っている。
ロイは足を止め、その光景を、手の届かない世界を見るような目で見つめた。
「……いいな。あんなふうに……」
その一言には、すべての願いが込められていた。
母さんにもあんな綺麗な服を。弟たちにも、腹の底からあんなふうに笑ってほしい。
ロイは汚れた拳をぎゅっと握り込んだ。
「さて……もう一仕事、頑張るか」
蒸気が立ち込め、華やかな噴水が踊る中央広場。
ロイは裕福そうな老夫婦に歩み寄る。
「奥さん、この薬草は『天上の癒やし』……。管理都市の役人も命がけで隠し持っているという逸品です。病気が治るだけじゃない、旅の守り草にもなるんですよ」
泥のついた手で、彼はまた「嘘」という名の罪を重ねていた。
夫婦は少年の必死な形相に押され、半信半疑ながらも数枚の銀貨を渡した。
老婦人は薬草を大切そうに包んだが、隣にいた老人だけは、立ち去ろうとするロイの痩せた手首をじっと見つめていた。
「坊主」
呼び止められ、ロイの肩がびくりと跳ねる。
「……なんですか」
「いや。随分と腹が減っている顔をしておると思ってな」
ロイはとっさに腹を押さえた。
「そ、そんなことありません。それより、その薬草は毎朝煎じて――」
言葉をまくし立てると、逃げるように頭を下げた。
「ありがとう……ありがとうございます!」
ロイは銀貨を握りしめ、振り返りもせず薬屋へ走った。
老人はその小さな背中を見送り、手元の薬草へ静かに目を落とした。
薬を買い、嬉しそうに店を出るロイ。
(よし! あとはパンを買って帰ろう。みんな喜ぶぞ)
少し微笑みながら歩み出すロイ。
しかし、その背後から怒号が飛ぶ。
「いたぞ! この前、偽物を売りつけたガキだ!」
運悪く、以前騙した商人がロイを見つけ出したのだ。
「逃がすか!」
瞬く間に市場の人々がロイを取り囲む。
「待って、これには事情が――!」
ロイの言い訳は、振り下ろされた拳にかき消された。
彼は路地裏へ引きずり込まれ、大人たちの執拗な暴行に晒される。
地面に叩きつけられる。腹を蹴られ、視界が赤く滲む。
それでもロイは、薬代を払って残ったわずかな銅貨と薬だけは、身を丸めて死守していた。
(痛い……。でも、これを離しちゃダメだ。持ち帰らなきゃ、弟たちは明日も飢える。母さんの病気も……治らなくなる……)
唇から血を流しながら、彼は途切れ途切れに呟く。
「母さんの……薬だけは……絶対に……」
だが、ロイの抵抗も虚しく、彼は警備兵たちに捕らえられた。
街に到着した三人が目にしたのは、異様な熱気に包まれた広場だった。
「何かしら、あの騒ぎ……」
三人が人混みをかき分けると、そこには無残な姿のロイがいた。
広場の中央には罪人を晒すための木の柱が立てられ、その前にロイが縄で縛り付けられている。
傍らでは、母親が泣き崩れ、幼い弟妹たちは状況も理解できぬまま、ただ兄の名を呼んで震えていた。
周囲を取り囲む村人たちの視線は、凍てつくほどに冷たい。
交易で成り立つこの宿場町では、詐欺は町の信用そのものを損なう重罪だった。再犯者には、見せしめとして死罪が科されることさえある。
「罪は罪だ。見逃せばこの街の商売が立ち行かなくなる」
「かわいそうだが、秩序を壊すわけにはいかない」
「誰かが責任を取らなきゃ、示しがつかないんだよ」
街の秩序を守る「正論」が、ナイフのようにロイの家族を切り刻む。
ルエリアは唇を噛んだ。
管理都市の「規則」と、目の前の「現実」のあまりの乖離に、彼女の心は激しく揺れる。
「……みんなの言っていることは、正しいはずなのに。どうして、こんなに胸が苦しいのかしら」
ルエリアが動けずにいる中、レグナスが堂々と前へ進み出た。
「待て」
その凛とした声に、広場が静まり返る。
村長が険しい顔でレグナスを睨みつけた。
「これは我々の町の問題だ。部外者は口を出すな」
「その通りだ。この町の決まりに口を出すほど無作法ではない」
レグナスは不敵に笑い、胸を張った。
「だが、余も彼の『被害者』の一人だ。盗まれた財布の持ち主として、犯人に話を聞く権利はあるだろう?」
住民たちは顔を見合わせ、渋々と道を開けた。
レグナスはロイの前に立ち、その瞳をじっと見つめる。
「お前は人を騙し、物を盗んだ。これは事実だな?」
ロイはうつむいたまま、蚊の鳴くような声で答えた。
「……うん」
「なぜだ? 理由を言え」
「……母さんを、助けたかった。弟たちに、一度でいいから……腹いっぱい、食べさせたかった……」
震える声が、静まり返った広場に響く。
「悪いことだって、わかってた……。でも、俺には……他に、何もなかったんだ!」
レグナスはしばらく沈黙を守った。
傷だらけの少年と、その家族を見つめ、ゆっくりと村人たちに向き直る。
「この者は確かに罪を犯した。法に照らせば、罰を受けるのも当然だろう。だが――罪だけで人を測るな!」
レグナスの声が、広場の隅々にまで響き渡った。
「彼には守りたいものがあった! 飢えの中で家族を生かそうとし、その果てに道を間違えたのだ!」
拳を強く握り、傷だらけのロイを見据える。
「その行いが正しいとは言わん! だが、間違えた者のすべてを『悪』と切り捨てる裁きもまた、正しいとは余は思わぬ!」
「綺麗事を言うな!!」
遮るように、怒号が飛んだ。騙された商人の一人が激昂して前に出る。
「事情があれば人を騙していいのか!? こいつは何度も詐欺と泥棒を繰り返してる常習犯だぞ! こいつのせいで、俺の店は潰れかけたんだ!」
「そうだ! 騙された側はどうなる! こいつを許したら、真面目にやってる俺たちが馬鹿を見るじゃないか!」
次々と上がる村人たちの現実的な反論。広場の熱気が再びロイへの敵意へと変わっていく。
だが、レグナスはその怒りを真正面から受け止め、さらに声を張った。
「だからこそ、ここで命を奪って終わらせるなと言っているのだ! 殺してしまえば、奪われた金は二度と戻らん! ならば、こいつを生かして、働いて、お前たちにそのすべてを返済させろ!」
「ふざけるな! 誰がそんな奴の面倒を見る!」
「働かせると言って、また逃げ出したらどうするんだ!?」
「泥棒の常習犯だぞ! 誰がそいつの責任を取るって言うんだ!」
住民たちの怒涛の追及がレグナスに浴びせられる。綺麗事だけでは押し返せない、現実の重みがそこにはあった。
広場の誰もが言葉を詰まらせたその時――
「――ならば、余が保証人になろう」
レグナスは一歩も引かず、自身の胸に拳を当てた。
「余の全財産と、この名誉を賭けて誓う。もし彼が再び罪を犯し、あるいは返済から逃れるようなことがあれば、このレグナス・ヴァル=オルディアがその全額を肩代わりし、首を差し出す。……これで文句はあるまい!」
「レ、レグナス!?」ルエリアが驚愕の声を上げる。
村人たちも、まさか見ず知らずの旅人が命がけの保証人になるとは思わず、言葉を失った。
そこへルエリアが一歩前に出た。その声は、自分自身の迷いを断ち切るように響く。
「……規則だけでは救えず、こぼれ落ちてしまう人がいます。だから私は、規則の向こう側にいるこの子を、見捨てたくありません」
村人たちの表情が、わずかに揺らぐ。
最後に、ゼンがゆっくりと歩み寄った。
彼は後頭部をかきながら、いつものように面倒くさそうに口を開く。
「……正しいってのはな」
全員の視線がゼンに集中する。
「たいてい、腹いっぱいの奴が決めるんだ」
その一言に、広場へ冷たい静寂が落ちた。
「腹が減って、家族が死にかけて、それでも同じ正しさを選べるかなんて、誰にも分からねぇ」
ゼンは村人たちを見渡し、それからロイへ視線を落とす。
「こいつは間違えた。騙された奴が怒るのも当然だ。だから、働かせて償わせろ」
そこで一度、言葉を切った。
「けど、一度間違えたからって、人生ごとゴミ箱に捨てる必要はねぇだろ」
その時、人混みの中から一人の老人が杖を突きながら前に出た。
先ほど、ロイから薬草を買った老人だった。
「わしは……この子に騙された一人じゃ。……今も、腹が立っておる」
老人はロイを見つめ、静かに、だが重みのある声で語った。
「だが、保証人まで現れたんじゃ。……処刑なんて後味の悪い真似、わしらもしたくはない。レグナス殿の言う通り、働いて返してもらおう。わしの家の荷運びが足りてない。こいつを丁稚として雇い、給金から少しずつ被害者に返済させる形にするなら、わしが面倒を見てもいい」
老人の言葉に、村人たちの間に沈黙が広がる。怒号は消え、互いに顔を見合わせる。
「……確かに、そこまで言うなら」
「死なせるよりは、金を返してもらった方がマシか……」
村長は長く、重いため息をつき、柱に縛られたロイを見据えた。
「勘違いするな、ロイ」
「許したわけではない。お前が償う機会を与えるだけだ」
「……処刑は取りやめだ。だがロイ、本当にやり直せるのか? 街での奉仕作業と返済の日々は過酷だぞ」
全員の視線が、今度はロイに集まる。
ロイは腫れ上がった顔を上げ、涙と血で汚れた顔のまま、村長を、そしてゼンたちを真っ直ぐに見つめ返した。
「……俺、返すよ。騙した人、全員に、何年かかっても絶対に全部返す……!」
声が震える。だが、その瞳には先ほどまでの怯えはなかった。
「もう盗まない。嘘で人から金を取ったりもしない。自分の手で働いて、全部返すから……だから、生きることを、許してください……!」
その必死な決意の宣言に、村長は静かに頷いた。
「……よかろう。老人のもとで働け。励めよ」
広場に、割れるような安堵の溜息が広がる。
「お兄ちゃん!」
弟たちが泣きながらロイに飛びつく。ロイの瞳から、それまで耐えていた大粒の涙が、堰を切ったように溢れ出した。
しばらくして、解放されたロイが三人の前に立った。
涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、彼は震える声で尋ねる。
「俺って……悪い奴なのかな?」
レグナスが口を開きかけたが、その前にゼンが答えた。
「知らねぇよ」
ロイが目を瞬かせる。ゼンは淡々と続けた。
「そんなもん、お前がこれから決めろ。他人に決めさせるな」
ロイは鼻をすすり、ゼンの木彫りの人形を差し出した。
「……ごめんなさい。これ、返します」
ゼンがそれを受け取り、指で表面をなぞる。
一瞬、脳裏に「誰かの笑顔」がノイズとして走るが、すぐさま霧散した。自分が今、何を思い出そうとしたのかすら、彼にはもう分からなかった。
「間違えたことを認めるのも、ここからどう生きるか決めるのも……全部、お前だ」
ロイは涙を拭い、力強くうなずいた。
「……うん。俺、全部返す。そして今度はちゃんと働いて、家族を守るよ」
「うむ! それでこそ真の勇者への第一歩だ!」
レグナスが満足げに笑い、ルエリアが呆れたようにため息をつく。
「すぐ勇者にするんだから……。でも、悪くないわね」
その夜。
三人は宿の屋根の上に座り、街の穏やかな灯りを見下ろしていた。
ゼンは手元の人形を見つめている。ルエリアがそっと尋ねた。
「ねぇ、ゼン。どうしてその人形をそんなに大切にするの? ……誰からの贈り物か、覚えている?」
「……さあな。なぜか、これを持ってなきゃいけない気がするだけだ。元々、大した理由なんてなかったのかもな」
ゼンは人形を軽く弄びながら、何でもないことのように夜空を見上げた。
その影の中で、トラ柄のペンギン・ケンイチが静かに目を光らせる。
トラ柄の一部が、一筋だけ、炭のように黒く染まっていた。
一瞬、ケンイチの瞳の奥を白い文字列が走る。
だが、ゼンが振り向くより早く、その光は消えた。
遠くで蒸気機関の煙が棚引く。
酒場の笑い声、風に乗る誰かの歌。
管理都市にはなかった、不完全で、残酷で、けれど愛おしい騒がしさ。
ルエリアはぽつりと呟いた。
「『正しい』って、本当に難しいわね」
レグナスは腕を組み、星の少ない夜空を見上げた。
「だからこそ、人は悩むのだ。悩み、足掻く姿こそが美しい」
ゼンは寝転がったまま目を閉じる。
「悩めるってことは、自分で決めようとしてるってことだ。誰かの人形じゃない証拠だ」
「……そうね。悪くないかも」
その時、レグナスが何かに気づいたように腰を浮かせた。
「む!? 財布! そういえば、余の財布がまだ返っていないぞ!! ロイの奴、返すのを忘れたか!?」
ゼンは片目だけを開け、ニヤリと笑う。
「……今さらかよ。勇者様」
「……あっはは! 『勇者の施し』だと思って諦めなさいよ! レグナスにはお似合いの結末だわ!」
ルエリアが吹き出す。レグナスは拳を握りしめ、屋根から飛び出した。
「ちょっと行ってくる」
「絶対騒ぎになるからやめなさいってば!」
慌てて追いかけるルエリア。
ゼンは声を殺して笑った。
「余は優しく『財布を返してくれ』と言いに行くだけだー!」
深夜。
皆が寝静まった宿の一室に、薄い月明かりが差し込んでいた。
木彫りの人形が、月明かりを受けて鈍く光っている。
その傍らで、ケンイチがぴくりと顔を上げた。
黒く染まった一筋の模様が、月光の下でかすかに揺らぐ。
『――照合不能』
誰にも聞こえない電子音が、一度だけ響いた。
ケンイチはしばらく人形を見つめていたが、やがて小さな翼を伸ばし、その表面へそっと触れた。
一瞬だけ、瞳の奥を白い文字列が駆け抜ける。
『処理継続』
それきり、表示は消えた。
ゼンは眠ったまま、何かを掴もうとするように指を動かす。
だが、その手は何にも届かず、静かに胸元へ落ちた。
ケンイチはその指先に身を寄せ、目を閉じる。
月明かりの下、木彫りの人形だけが、二人の間で静かに影を落としていた。
──第十三話・終。




