第9話 幼馴染じゃ足りない
朝、目を覚まして最初に見たのは、開いたままのカーテンだった。
向かいにある玲奈の部屋には、まだ濃紺のカーテンが引かれている。
昨日のことを思い出す。
風見ヶ丘公園のベンチ。
涙をこぼしながら、寂しかったと伝えてくれた玲奈。
帰り道でつないだ、少し冷たい手。
喧嘩は終わった。
玲奈が私を嫌いになったわけではなかった。
そう分かっているのに、いつもの朝が本当に戻ってくるまでは、まだ少しだけ不安だった。
ベッドを降り、窓を開ける。
春の冷たい空気が部屋へ入り、寝起きの頬を撫でた。
そのとき、向かいのカーテンがゆっくり開いた。
窓の向こうに玲奈が立っている。
目が合った。
私は反射的に手を振った。
玲奈は一瞬だけ動きを止めたあと、控えめに右手を上げた。
昨日までなら、それだけのことだった。
けれど今朝は、胸の奥に残っていた固いものが、ようやくほどけていくような気がした。
「おはよう、玲奈」
窓越しでは声が届かないと分かっていても、口に出す。
玲奈も何かを言った。
唇の動きは短くて、たぶん同じ言葉だった。
それから玲奈は、自分の手首を指さし、時計を見る仕草をした。
「分かってる。今から準備する!」
今度は聞こえるように声を張ると、玲奈は呆れた顔でカーテンを半分閉めた。
完全には閉めなかった。
それが少しうれしくて、私は笑いながら制服へ着替えた。
◇
私がスカーフと格闘していると、部屋の扉が開いた。
「ひなた、入るわよ」
「もう入ってるよ」
「返事を待っていたら遅刻するでしょ」
聞き慣れた声だった。
見慣れた長い黒髪が、朝の光を受けて艶めいている。
玲奈は私の前まで来ると、曲がったスカーフへ手を伸ばした。
「昨日、家に着いたら直すって言ってたよね」
「昨日はもう学校が終わってたから、直さなくてもいいかなって」
「今日も曲げる理由にはならないでしょ」
「結び目が言うことを聞いてくれなくて」
「布に責任を押しつけないの」
玲奈の細い指が、結び目をほどく。
昨日まで何度もしてもらったことだった。
朝、寝癖を直してもらうことも、スカーフを結び直してもらうことも、私たちにとっては珍しくない。
それなのに、今日は玲奈の顔が妙に近く感じられた。
目にかからない位置で整えられた前髪。
伏せられた、黒に近い紺色の瞳。
真面目な顔で結び目を整える唇。
静かにしているだけで目を引く美少女だと、玲奈は昔から周囲に言われている。
私もそれを知っていた。
けれど、こんなに近くで玲奈の顔を見ることを、急に落ち着かないと思ったのは初めてだった。
「ひなた」
「な、何?」
「さっきから息を止めてる」
「止めてないよ」
「そう」
玲奈が顔を上げる。
視線が重なり、胸が一度だけ大きく鳴った。
私はとっさに一歩下がった。
「どうしたの?」
「ち、近かったから」
「スカーフを直すなら、これくらい普通でしょ」
「そうだよね。普通だよね」
「変なひなた」
玲奈は首を傾げた。
整え終えたスカーフは、今日もきれいに左右がそろっている。
「ありがとう」
「どういたしまして。鞄は?」
「机の横」
「教科書は?」
「たぶん入ってる」
「たぶん?」
玲奈が私の鞄へ手を伸ばす。
「待って。今日は自分で確認する」
「急にどうしたの」
「私も少しは努力しようと思って」
何でも玲奈に分かってもらい、何でも世話を焼いてもらうことを、当たり前にしたくなかった。
鞄を開けると、数学の教科書が入っていなかった。
「……玲奈」
「何?」
「やっぱり助けて」
「努力が終わるの、早すぎない?」
呆れながらも、玲奈は机の下に落ちていた教科書を見つけてくれた。
いつもの朝だった。
でも、完全に昨日までと同じではない。
玲奈の顔を見るたび、胸のどこかがくすぐったかった。
◇
教室へ入ると、何人かのクラスメイトが私たちを振り返った。
「今日は一緒なんだ」
「昨日、別々だったから珍しいと思ってた」
私は玲奈と顔を見合わせる。
「ちょっと喧嘩してたんだけど、仲直りしたよ」
「ひなた」
玲奈が止めようとしたけれど、もう遅い。
「二人も喧嘩するんだ」
「私もびっくりした」
「どうして、ひなたまで他人事なの」
玲奈の声には呆れが混じっていたが、昨日のような冷たさはない。
近くにいたクラスメイトが笑う。
私も笑った。
今度は、楽しい会話の途中で玲奈を探さなくてよかった。
すぐ隣にいる。
それだけで、昨日まで見慣れていた教室が少し明るく見えた。
授業中、分からない問題が出ると、私は隣の玲奈を見た。
玲奈は前を向いたまま、自分のノートの端へ小さく式を書いて、私から見える位置へずらしてくれる。
お礼の代わりに小さく笑うと、玲奈は一度だけこちらを見た。
すぐに前へ向き直った耳が、わずかに赤い。
昨日までなら、教室が暖かいせいだと思っていただろう。
今日はなぜか、その理由が気になった。
◇
昼休み、廊下へ出たところで結衣ちゃんに会った。
薄いベージュ色のカーディガンを着た小柄な姿が、窓際に立っている。
私を見つけると、結衣ちゃんは控えめに微笑んだ。
「朝倉さん」
「結衣ちゃん。昨日はありがとう」
「黒川さんとは、話せた?」
「うん。ちゃんと仲直りできたよ」
答えた瞬間、自分でも分かるくらい声が明るくなった。
結衣ちゃんの薄茶色の瞳が、私の隣へ向く。
玲奈は少し離れた教室の扉の前で、私を待っていた。
「そう。よかった」
結衣ちゃんは安心したように笑う。
けれど、その笑顔の奥に、ほんの少しだけ寂しさが見えた気がした。
「黒川さん、待ってるね」
「大丈夫。今日は一緒にお昼を食べる約束をしてるけど、まだ時間はあるよ」
「少し、話してもいい?」
「もちろん」
私たちは廊下の端へ寄った。
玲奈へ目を向けると、先に行かず、その場で本を開いている。
でも、ページはしばらくめくられなかった。
「昨日、黒川さんを探しに行ったでしょう」
「うん」
「見つけたあと、ずっと一緒にいたの?」
「公園で話して、そのまま手をつないで帰ったよ」
「手を」
結衣ちゃんが少しだけ目を見開く。
「子どもの頃からよくつないでるから」
「そうなんだ」
「昨日は、玲奈の手が冷たかったし」
「朝倉さんは、黒川さんのことになると本当に迷わないね」
「そうかな」
「うん。私には、ずいぶん迷ってから返事をしたのに」
責める口調ではなかった。
結衣ちゃんは柔らかく笑っていた。
だからこそ、私はすぐに言い返せなかった。
「ごめんね」
「謝ってほしいわけじゃないの。私が勝手に好きになって、自分で伝えたかったから伝えただけ」
結衣ちゃんは胸元で両手を重ねる。
「振られたことは、まだ少し苦しいけど」
「……うん」
「でも、朝倉さんに聞いてほしいことがあるの」
「何?」
結衣ちゃんは私から目をそらさなかった。
「もし、朝倉さんが私と付き合っていたら、黒川さんとは今までみたいにいられなくなっていたかもしれない」
「どうして?」
「毎朝一緒に学校へ行ったり、放課後ずっと同じ部屋で過ごしたり、同じベッドで眠ったり」
「最後のは、どうして知ってるの?」
「この前のお昼に、二人が話してたから」
「あ、そっか」
「私は朝倉さんの恋人になったら、たぶん寂しいと思う。好きな人が、私より誰かを優先していたら」
穏やかな声だった。
結衣ちゃんは私を困らせようとしているのではない。
ただ、私が今まで考えなかったことを、一つずつ言葉にしてくれていた。
「だから、今までとまったく同じではいられなかったと思う」
「でも、玲奈は幼馴染だよ」
「うん。そうだね」
結衣ちゃんは否定しなかった。
「それでも平気だった?」
答えようとして、声が出なかった。
結衣ちゃんと付き合っていたら。
朝、迎えに来る玲奈へ、もう部屋へ勝手に入らないでと言うのだろうか。
一緒に帰ろうとする玲奈へ、今日は結衣ちゃんと帰るからと断るのだろうか。
私のベッドで本を読む玲奈に、自分の家へ戻ってほしいと伝えるのだろうか。
雷の夜に玲奈が来ても、恋人が嫌がるから泊められないと言うのだろうか。
想像しただけで、胸の奥が締めつけられた。
「……嫌だ」
考えるより先に、言葉がこぼれた。
「玲奈に来ないでなんて、言いたくない」
結衣ちゃんは静かに私を見ている。
「じゃあ、黒川さんに恋人ができたら?」
「玲奈に?」
「うん。黒川さんが、その人を朝倉さんより大切にするようになったら」
玲奈の隣に、私ではない誰かが立っている。
朝、窓越しに手を振る相手も、一緒に学校へ行く相手も、放課後を過ごす相手も、私ではなくなる。
玲奈が誰かのスカーフを直し、その人にだけ柔らかく笑う。
雷が鳴る夜には、その人の手を握って眠る。
私の知らないところで、玲奈が誰かへ「寂しかった」と伝える。
息が苦しくなった。
胸の中心を細い糸で強く縛られたように、痛い。
「それは……もっと嫌」
「どうして?」
昨日、私が玲奈へ尋ねたのと同じ言葉だった。
玲奈は分からないと答えた。
私も今までなら、同じように答えていたと思う。
でも、結衣ちゃんは私の中にあるものから目をそらさせてくれなかった。
「家族みたいに大切だから」
口にすると、違うと思った。
家族のように大切なのは本当だ。
けれど、それだけなら、玲奈に恋人ができることを、こんなに嫌だとは思わない。
玲奈が幸せならよかったねと笑えるはずだ。
知らない誰かの隣で笑う玲奈を想像しただけで、その間へ割って入りたくなる理由にはならない。
結衣ちゃんは少し困ったように、でも優しく笑った。
「朝倉さんが本当に見ているのは、私じゃないんだね」
その言葉が、胸の奥へまっすぐ落ちた。
朝、玲奈の顔が近づいただけで、どうして息を止めたのか。
公園から帰るとき、どうして手を離したくなかったのか。
玲奈が結衣ちゃんの告白を気にしたと知って、どうして心のどこかでうれしいと思ったのか。
玲奈の隣に誰かが立つことを、どうして想像したくないのか。
ばらばらだったものが、一つの言葉へつながっていく。
私は、玲奈が好きだ。
幼馴染だからではない。
家が隣だからでも、長い間一緒にいたからでもない。
玲奈自身が好きだから、隣にいたい。
気づいた瞬間、顔が熱くなった。
さっきまで普通に見ていた玲奈の横顔を、もう同じようには見られない気がした。
「私……玲奈のこと」
最後まで言えなかった。
結衣ちゃんは、言葉の続きを求めなかった。
「やっぱり、そうなんだ」
小さな声だった。
その微笑みは優しかったけれど、少しだけ震えていた。
「結衣ちゃん」
「大丈夫、とはまだ言えないかな」
結衣ちゃんは正直に答えた。
「朝倉さんのこと、本当に好きだったから」
「うん」
「でも、聞けてよかった。振られた理由が、少し分かった気がする」
「あのときは、私も分かってなかった」
「分かってたら、もっと早く諦められたのに」
「ごめん」
「だから、謝らないで」
結衣ちゃんが笑う。
今度の笑顔にも寂しさは残っていた。
それでも、無理に明るく装った笑顔ではなかった。
「私、朝倉さんに声をかけてもらえて、本当によかったと思ってる」
「私も結衣ちゃんと友達になれてよかった」
「これからも?」
「もちろん」
すぐに答える。
結衣ちゃんは一度だけ目を伏せ、それから私をまっすぐ見た。
「それなら、今は十分」
十分という言葉が、すべて平気になったという意味ではないことは、私にも分かった。
だから、それ以上は何も言わなかった。
「黒川さん、ずっと待ってるよ」
結衣ちゃんの視線を追う。
玲奈はまだ本を開いていた。
けれど、さっきから一度もページが変わっていない。
「行ってあげて」
「うん。またね、結衣ちゃん」
「またね、朝倉さん」
結衣ちゃんへ手を振り、玲奈のもとへ戻る。
「お待たせ」
「長かった」
玲奈は本を閉じた。
「ごめん。結衣ちゃんと大事な話をしてたの」
「……そう」
わずかに眉が寄る。
昨日までなら、また機嫌が悪くなったと思っただろう。
今なら少しだけ分かる。
「何を話してたの?」
「まだ、うまく言えない」
玲奈は、閉じた本の表紙へ視線を落とした。
それでも、今度は問い詰めなかった。
「……言えるようになったら、教えて」
「うん。ちゃんと話す」
「玲奈」
「何?」
「待っててくれてありがとう」
「一緒に食べるって約束したから」
「うん」
私は玲奈の隣へ並んだ。
肩が触れそうになり、今度は自分から少し離れそうになる。
でも、離れたくなかった。
そのまま歩き出すと、玲奈が不思議そうに私を見る。
「ひなた、顔が赤い」
「廊下が暑いのかも」
「今日はそんなに暖かくないけど」
「じゃあ、走ってきたから」
「三歩くらいしか走ってないでしょ」
「細かいことは気にしないで」
「気になる」
玲奈の顔を見られないまま、私は少しだけ歩く速度を上げた。
それでも玲奈は、いつものように私の隣を歩いてくれた。
◇
恋だと気づいたからといって、すぐに何かが変わるわけではなかった。
変わったのは、私の見え方だけだった。
午後の授業中、私は何度も隣を見てしまった。
玲奈は背筋を伸ばし、黒板の文字を几帳面にノートへ写している。
頬へかかった長い黒髪を指で耳へかける仕草まで、なぜか目を離せなかった。
「ひなた」
前を向いたまま、玲奈が小声で呼ぶ。
「何?」
「さっきから、どうして私のことを見てるの」
「見てた?」
「見てた」
玲奈に指摘され、慌てて前を向く。
「……今は言えない」
「それ、私の台詞でしょ」
玲奈の声に、わずかな笑いが混じった。
私も笑いそうになり、口元を手で隠す。
同じ教室で、いつものように隣り合った席に座っている。
それなのに、玲奈の横顔は昨日までと少し違って見えた。
玲奈が私の消しゴムを拾ってくれる。
それだけで、指が触れそうになったことを意識する。
放課後、一緒に帰る。
それだけで、隣を歩けることがうれしくなる。
家の前で別れるとき、玲奈が「またあとで」と言う。
それだけで、本当に来てくれるのか何度も確かめたくなる。
今まで十年以上、どうして平気でいられたのだろう。
自分でも不思議だった。
夕食を終えて部屋へ戻ると、向かいの窓に玲奈の姿が見えた。
机に向かい、何かを書いている。
勉強だと思ったけれど、玲奈は一行ほど書くたびに手を止めていた。
しばらく考え、紙を丸める。
新しい紙を出し、また何かを書く。
それも途中で丸めた。
机の端には、白い紙の塊がいくつも並んでいる。
玲奈が勉強であれほど行き詰まるのは珍しい。
窓越しに手を振ろうとして、やめた。
今声をかけたら、玲奈の邪魔になるかもしれない。
それに、玲奈の姿を見ただけで、昼間に気づいたばかりの気持ちが胸の中で騒ぎ始める。
私はベッドへ仰向けに倒れた。
「好き、かあ」
声に出した途端、顔が熱くなる。
枕を抱え、そこへ顔を埋めた。
玲奈へ伝えたい。
でも、伝えたら今までと同じではいられなくなる。
結衣ちゃんが教えてくれたように、恋人になれば、幼馴染だった頃とは何かが変わる。
もし玲奈が、私を家族のようにしか思っていなかったら。
告白したことで、部屋へ来なくなったら。
スカーフを直してくれなくなったら。
隣を歩くことまで気まずくなったら。
考えるだけで怖かった。
昨日までの玲奈も、同じだったのだろうか。
どうして気にするのか説明できなくて、私へ確かめることもできなかった。
「話してって言ったの、私なのに」
玲奈へ、自分の気持ちを言葉にしてほしいと言った。
それなら、私も伝えなければいけない。
すぐには無理でも、分からないふりをしてはいけない。
枕から顔を上げたとき、机の上の端末が震えた。
画面には、玲奈の名前が表示されている。
『明日の放課後、時間ある?』
すぐに返事を打つ。
『あるよ。一緒に帰る?』
既読はついたが、返事が来るまで少し間があった。
『風見ヶ丘公園に来てほしい』
昨日、仲直りした場所。
子どもの頃に、離れないと約束した場所。
『分かった。二人で?』
『二人で』
短い文字を見ただけなのに、心臓が速くなる。
『何か話があるの?』
送ってから、少しだけ後悔した。
けれど玲奈から返ってきたのは、いつものような「何でもない」ではなかった。
『ある。でも、今は言えない』
第8話で交わした約束を思い出す。
今は言えなくても、いつか話す。
玲奈は、その「いつか」を明日に決めたのかもしれない。
『分かった。待ってる』
『待つのは私でしょ』
『じゃあ、玲奈が待たなくていいように早く行く』
『遅刻しないで』
『頑張る』
『頑張るじゃなくて、来て』
『絶対に行く』
今度はすぐに既読がついた。
窓の向こうを見る。
玲奈は端末を胸元へ抱え、俯いていた。
机の上には、書き直した紙が一枚だけ残っている。
顔を上げた玲奈と、窓越しに目が合った。
私が小さく手を振ると、玲奈も手を上げた。
その頬が赤く見えたのは、部屋の明かりのせいかもしれない。
玲奈が何を話そうとしているのかは分からない。
それでも私は、明日が早く来てほしいと思った。




