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幼馴染の機嫌が悪いのは、たぶん私のせい。  作者: situ725


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8/10

第8話 本当は寂しかった

 丘を上り切る。


 玲奈は、まだ私に気づいていない。


 膝の上に置いた本を見つめたまま、動かなかった。


 風が吹くたび、長い黒髪が肩から滑り落ちる。それを払おうともせず、閉じた表紙へ視線を落としている。


 本を読みに来たわけではないのだろう。


 私は息を整え、名前を呼んだ。


「玲奈」


 細い肩が大きく揺れた。


 玲奈が顔を上げる。


 深い紺色の瞳が私を捉え、すぐにそらされた。


「……どうしてここにいるの」


「玲奈を探してた」


「来なくていいって言ったでしょ」


「うん」


「なら、帰って」


 強い言葉だった。


 けれど、膝の上で重ねられた玲奈の指は、閉じた本の端をきつく握っている。


 私は帰らなかった。


 ベンチへ近づき、空いていた左側の前に立つ。


「座ってもいい?」


「……好きにすれば」


 拒まれなかったことに少しだけ安心し、腰を下ろした。


 二人掛けのベンチなのに、玲奈は右端へ寄っている。


 私も左端へ座ったので、間には一人分ほどの空きができた。


 昨日の帰り道と同じ距離だった。


 桜の葉が風に揺れる音だけが、頭上から降ってくる。


「学校から、ずっとここにいたの?」


「ひなたには関係ない」


「心配したよ。図書室にもいなかったし、家にも帰ってなかったから」


「……探したの?」


「探したって最初に言ったでしょ」


 玲奈が黙り込む。


 本を握っていた指の力が、ほんの少しだけ緩んだ。


「結衣ちゃんに言われたの」


 玲奈の指へ、また力が入る。


「水瀬さんに?」


「もう一度、ちゃんと話した方がいいって」


「それで来たの?」


「違う」


 今度は迷わず答えた。


「結衣ちゃんに言われたから場所を思い出したわけじゃないよ。玲奈がここにいるかもしれないって思ったのは私」


 玲奈が少しだけこちらを見る。


「玲奈からは、もう来なくていいって言われた。でも、私が玲奈に会いたかったから来た」


「どうして」


「昨日のままは嫌だから」


「私は」


 玲奈が言いかける。


 けれど、続きは出てこない。


「玲奈は嫌?」


「……分からない」


「じゃあ、分かるまで話そう」


「そういうところ、本当に強引」


「知ってる」


「褒めてない」


「それも知ってる」


 玲奈の口元が、ほんの少しだけ動いた。


 笑ったわけではない。


 それでも、昨日から初めて見た柔らかな変化だった。


     ◇


 このベンチへ二人で座ると、昔のことを思い出す。


 幼稚園に通っていた頃、私たちは何度もこの公園で遊んだ。


 今より低かった丘も、当時の私たちには大きな山のように見えた。


 ある日、私は丘の反対側にきれいな花が咲いているのを見つけた。


 玲奈へ声をかけることも忘れて、一人で走っていった。


 花を摘み、戻ってきたとき、ベンチに玲奈はいなかった。


 私は公園の中を探した。


 遊具の後ろ。


 桜の木の周り。


 丘を下りたところにある小さな水飲み場。


 どこにもいない。


 玲奈の名前を呼びながら丘を一周し、最後にもう一度ベンチへ戻った。


 そこに、玲奈は座っていた。


 今と同じ右側。


 小さな身体をもっと小さく丸め、声を抑えて泣いていた。


「玲奈!」


 私が駆け寄ると、玲奈は顔を上げた。


 泣いていたことを隠すように目元を拭い、怒った声で言った。


「ひなたが、勝手にいなくなった」


「ごめんね。お花を見つけて」


「知らない」


「玲奈にもあげようと思ったの」


「いらない」


 差し出した花は受け取ってもらえなかった。


 だから、代わりに玲奈の手を握った。


 小さな手は冷たく、指先が震えていた。


「ごめんね。もう勝手にいなくならないから」


「本当?」


「本当」


「絶対?」


「絶対」


 玲奈はしばらく私の顔を見ていた。


 それから、ようやく手を握り返してくれた。


 花は受け取ってくれなかったけれど、帰るまで一度も手を離さなかった。


     ◇


「昔も、ここで玲奈を見つけたよね」


 私が言うと、玲奈は膝の上の本へ目を落とした。


「覚えてたの」


「覚えてるよ。玲奈、すごく泣いてた」


「泣いてない」


「泣いてたよ」


「ひなたが戻ってくるのが遅かったから」


「ごめん」


「今さら謝られても困る」


 そう言いながら、玲奈の声は少しだけいつもの調子に戻っていた。


「あのとき約束したよね。勝手にいなくならないって」


「先にいなくなったのは、ひなたでしょ」


「今回は玲奈だよ」


「私は別に、いなくなってない」


「学校から急に帰って、家にもいなかった」


「ここにいただけ」


「私には同じだよ」


 玲奈が口を閉じる。


「朝も先に行って、学校でも話してくれなくて、帰る前にもいなくなった。今日一日、ずっと玲奈がいなかった」


「同じ教室にいたでしょ」


「隣にいなかった」


 その言葉が出た瞬間、胸の奥が苦しくなった。


 同じ教室にいても、姿が見えていても、玲奈が遠かった。


「私、今日全然楽しくなかった」


「クラスのみんなと笑ってた」


「話は楽しかったよ。でも、何を話してても玲奈のことが気になった」


 玲奈がこちらを向く。


「玲奈の本がずっと同じページだったことも、卵焼きを一つ残してたことも見てた」


「……見ないでよ」


「玲奈だって、私が小テストの範囲を間違えてたのを見てたでしょ」


「目に入っただけ」


「私も」


 言い返すと、玲奈は少しだけ眉を寄せた。


 その表情さえ、久しぶりに見た気がした。


「ねえ、玲奈」


 私は身体ごと玲奈へ向き直る。


「今度は、ちゃんと教えて」


「何を」


「どうして怒ってたのか」


 玲奈の顔から、わずかに戻っていた柔らかさが消えた。


「怒ってない」


「それはもう信じない」


「ひなたには関係ない」


「あるよ。私に無神経って言った。結衣ちゃんの名前を出して、私に構う必要がないって言った」


「……忘れて」


「忘れられないよ」


「どうして、そこまで聞くの」


「玲奈が大切だから」


 玲奈の瞳が揺れた。


「家族みたいに大切で、ずっと一緒にいたいから。分からないまま、また同じことになるのは嫌なの」


「家族」


 玲奈が小さく繰り返す。


 なぜか少し傷ついたように聞こえた。


「玲奈?」


「何でもない」


 玲奈は顔をそらし、長い黒髪で表情を隠す。


「私も、ひなたに聞きたいことがある」


「うん」


「水瀬さんと……どうなったの」


「どうなったって?」


「放課後、中庭で」


 心臓が一度、大きく鳴った。


「玲奈、やっぱりあそこにいたの?」


「……いた」


「あのとき走っていったの、玲奈だったんだ」


「見えてたの?」


「長い黒髪が少しだけ。でも、玲奈は図書室にいると思ってたから」


 玲奈は本の表紙を見つめたまま、唇を結んでいる。


「どこまで聞いたの?」


「水瀬さんが、ひなたに好きって言ったところまで」


「私の返事は?」


 玲奈が首を横へ振る。


「聞いてない。聞けなかった」


「どうして最後までいなかったの?」


「怖かったから」


「怖い?」


「ひなたが受け入れるところを、見たくなかった」


 ようやく、玲奈が私を見る。


 深い紺色の瞳には、今にもこぼれそうな涙が浮かんでいた。


「次の日、水瀬さんと話してた。二人とも笑ってたから、付き合ったんだと思った」


 私はしばらく言葉を失った。


 玲奈が怒っていた理由。


 結衣ちゃんの名前を何度も出した理由。


 私が誰かへ期待させていると言った理由。


 すべてが、ようやく一つにつながった。


「違うよ」


「え?」


「結衣ちゃんの告白は断った」


 玲奈の目が見開かれる。


「……断った?」


「うん。その場で」


「でも、次の日」


「これからも友達でいてほしいって言われたの。私も、これまでどおり話そうって答えた」


「じゃあ、二人は」


「付き合ってないよ」


 はっきり伝える。


「どうして、断ったの」


「結衣ちゃんは優しいし、大切な友達だよ。でも、恋人として一緒にいる自分は想像できなかった」


「好きな人がいるから?」


「そういうわけじゃないと思う」


 答えながら、なぜか少しだけ迷った。


 好きな人がいるかと聞かれても、今までの私ならすぐに「いない」と答えていたはずだ。


 それなのに、今日は言い切れなかった。


 理由を考える前に、玲奈が小さく息を吐く。


「……そう」


 玲奈は何も言わなかった。


 膝の上の本へ視線を落とし、表紙の端を指でなぞっている。


「どうして言ってくれなかったの」


「玲奈が見てたって知らなかったから」


「それでも」


「結衣ちゃんの気持ちを、勝手に誰かへ話していいと思わなかった」


「私にも?」


「玲奈に隠したかったわけじゃないよ。でも、告白を断ったのに、自分から報告することだとは思わなかった」


 玲奈の肩が小さく震えた。


「どうして、私に直接聞かなかったの?」


「聞けるわけないでしょ」


「どうして?」


「私は、ひなたの幼馴染なだけだから」


 玲奈が途切れそうな声で答える。


「ひなたが誰と付き合っても、私が口を出すことじゃない。水瀬さんと付き合ったのかなんて聞いたら、どうしてそんなに気にするのか説明しなきゃいけなくなる」


「説明したらよかったのに」


「できなかった」


「どうして?」


「私にも、分からなかったから」


 玲奈は胸元へ手を置いた。


「水瀬さんに好きって言われたのは、ひなたなのに。私の胸が苦しくなって、逃げたくなった。次の日、二人が笑ってるのを見たら、今度は腹が立った」


「それって、嫉妬してたの?」


「……たぶん」


 玲奈は自信がないように答えた。


「自分でも、どうしてあんなに嫌だったのか、まだうまく説明できない」


「それで、期待させてるって言ったの?」


「……うん」


「あれ、結衣ちゃんのことだったんだ」


「それだけじゃない」


「ほかにも誰かいるの?」


 玲奈が私を見る。


 何かを言いかけた唇が、すぐに閉じられた。


「何でもない」


「またそれ」


「今は、本当に言えない」


 今までなら、分からないままでも追及していたかもしれない。


 けれど、今日は待つと決めていた。


「分かった。今は聞かない」


 玲奈は驚いたように目を瞬いた。


「でも、いつか話して」


「……いつか」


「私、全部勘違いしてた」


「うん」


「ひなたは何も悪くなかったのに」


「何も悪くないとは思わないよ」


 玲奈が顔を上げる。


「玲奈の様子が変なのは分かってた。でも、いつものことだと思って、お菓子を渡したり、そばにいたりすれば直ると思ってた」


「いつも、それで直ってたから」


「玲奈も、言わなくても私なら分かると思ってた?」


 少し間があってから、玲奈がうなずく。


「ひなたなら、私が嫌なことも、寂しいことも分かってくれると思ってた」


「私も、玲奈のことなら何でも分かると思ってた」


「分かってなかった」


「うん。分かってなかった」


 認めると、胸が痛んだ。


 でも、否定してはいけないと思った。


 近くにいた時間が長いから、言葉にしなくても通じると思っていた。


 分からないことを認めるより、分かっているつもりでいる方が楽だった。


「ごめんね、玲奈」


「どうして、ひなたが謝るの」


「全部分かってあげられると思ってたから。玲奈が話せないことまで、勝手に分かったつもりになってた」


「悪いのは私」


 玲奈の声が震える。


「迷惑なんて、思ってない」


 瞳から涙が一粒こぼれた。


 玲奈はすぐに拭おうとしたけれど、その前にもう一粒落ちる。


「あのとき、ひなたに離れてほしくて言ったんじゃない」


「じゃあ、どうして?」


「離れないって言ってほしかった」


「私に?」


「うん。ひなたなら、迷惑って言っても、本気じゃないって分かってくれると思った」


「でも、私も傷ついてた」


「分かってる。ひなたが離れていったあと、すぐに追いかけたかった」


「追いかけてくれなかった」


「できなかったの」


 玲奈は涙を拭い、途切れながら言葉を続ける。


「自分から来なくていいって言ったのに、追いかけたら、全部嘘だったって分かるから」


「嘘だったんでしょ」


「……うん」


 玲奈が、消え入りそうな声で認めた。


「本当は、来てほしかった」


「うん」


「学校でも話しかけてほしかった。帰るときも、追いかけてほしかった」


「今日、追いかけたよ。図書室にも行った」


「……ごめん」


「じゃあ、待っててくれたらよかったのに」


「待てなかった」


 玲奈は俯いた。


「ひなたが水瀬さんと付き合ったと思ったら、私が隣にいる理由なんてなくなる気がした」


「なくならないよ」


「分からないでしょ」


「分からない。だから、これからは聞く」


 玲奈が涙の残る目で、私を見る。


「玲奈も言って。怒ってるだけじゃ、私には分からないから」


「……努力する」


「寂しいときは?」


「言えるように、努力する」


「今は?」


 玲奈が答えに詰まる。


 私は急かさずに待った。


 やがて、玲奈が小さな声で言う。


「寂しかった」


 初めて聞いた言葉だった。


 不機嫌な顔でも、強い口調でもない。


 玲奈が自分から伝えてくれた、本当の気持ち。


「私も寂しかった」


 そう答えると、玲奈の頬をまた涙が伝った。


 私は、一人分空いていた隙間を埋めるように、玲奈の方へ少しだけ腰をずらした。


 玲奈は逃げなかった。


 肩が触れるほどではない。それでも、手を伸ばせば届く距離まで戻ることができた。


「ひなたが誰かの特別になるのが、嫌だった」


「どうして?」


「分からない」


 玲奈は首を横へ振る。


「でも……私の隣からいなくなるのは嫌」


 その言葉の意味を、私はまだ深く考えなかった。


 私だって玲奈が隣からいなくなるのは嫌だったから、幼馴染ならきっと同じなのだと思った。


「いなくならないよ」


「子どもの頃にも、そう言った」


「今度も約束する」


「簡単に約束しないで」


「じゃあ、約束じゃなくて、私がそうしたいからそばにいる」


 玲奈の瞳が、もう一度揺れた。


 今度は、泣きながら少しだけ笑った。


     ◇


 空が少しずつ夕方の色へ変わっていた。


 風が冷たくなり、桜の葉が大きく揺れる。


「帰ろうか」


「……うん」


 私は立ち上がり、玲奈へ手を差し出した。


 玲奈はその手を見つめたまま、すぐには動かなかった。


「嫌?」


「そうじゃない」


「じゃあ、どうぞ」


「ひなたは、本当に強引」


「さっきも聞いた」


 玲奈は小さく息をつく。


 それから、本を片手で抱え、もう片方の手を私の手へ重ねた。


 指先は少し冷たかった。


 私が握ると、玲奈もゆっくり握り返してくれる。


 二人で丘を下りる。


 帰り道の途中、玲奈が私の胸元を見た。


「スカーフ、曲がってる」


「やっぱり?」


「朝から気になってた」


「じゃあ、言ってくれればよかったのに」


「話しかけられなかったから」


「今は?」


「今も曲がってる」


「そうじゃなくて、直してくれる?」


 玲奈はつないだ手を見た。


「手を離さないと直せない」


「じゃあ、家に着いてからでいいよ」


「それまで曲がったまま歩くの?」


「玲奈がいるから平気」


「意味が分からない」


 呆れた声だった。


 けれど、玲奈は手を離さなかった。


 私も離さなかった。


 子どもの頃から何度もつないできた手なのに、その日はなぜか、いつもより温かく感じられた。

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