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幼馴染の機嫌が悪いのは、たぶん私のせい。  作者: situ725


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7/10

第7話 隣にいない

 翌朝、目覚まし時計の音だけで目が覚めた。


 手を伸ばして止める。


 静かだった。


 廊下を歩く音も、扉が開く音も、私を起こす玲奈の声もない。


 分かっていた。


 昨日、玲奈から「もう、私のところに来なくていい」と言われた。


 私も、一人で帰ると答えた。


 だから、今日だけ何事もなかったように玲奈が部屋へ来るはずはない。


 それでも、布団の中で少し待ってしまった。


 五分たっても、誰も来ない。


「起きないと」


 自分に言い聞かせ、身体を起こす。


 玲奈が来ないなら、寝坊しても起こしてくれる人はいない。


 いつもより早く制服へ着替え、鏡の前に立った。


 髪を整え、淡い青色のスカーフを結ぶ。


 昨日よりはうまくできたと思ったのに、鏡を見ると少しだけ左へ傾いていた。


 手を伸ばして直そうとする。


 けれど、触るたびに別の場所が曲がっていく。


「もう、これでいいや」


 いつもなら、玲奈が呆れながら直してくれる。


 顔を近づけ、冷たい指先でスカーフの形を整える。ついでに寝癖を見つけて、「じっとして」と私の頭を押さえる。


 昨日までは当たり前だった光景が、今朝はどこにもない。


 鞄を持ち、階段を下りる。


 台所では、お母さんが朝食を用意していた。


「おはよう。今日は玲奈ちゃん、一緒じゃないの?」


「まだ来てないだけだよ」


「もう出る時間じゃない?」


 いつもなら、この時間には玲奈が私を起こし、そのまま一緒に下りてくる。


 お母さんが二人分の飲み物を用意している日もあった。


「先に学校へ行ったんじゃないかな」


「珍しいわね」


「そういう日もあるよ」


 なるべく普通に答え、椅子へ座る。


 トーストを口へ運ぶけれど、なかなか減らない。


「ひなた、玲奈ちゃんと何かあった?」


「どうして?」


「分かりやすいから」


「何もないよ」


 昨日、迷惑だと言われたことを話せば、お母さんはきっと心配する。


 それに、玲奈とのことを誰かへ話してしまうと、本当に元へ戻れなくなるような気がした。


「行ってきます」


 半分残ったトーストを急いで食べ、立ち上がる。


 お母さんはそれ以上聞かず、「行ってらっしゃい」と送り出してくれた。


 玄関を出る前に、窓から隣の家を見た。


 玲奈の部屋のカーテンは開いている。


 もう起きて、支度も終わっているのだろう。


 門の外へ出る。


 いつも玲奈が待っている場所には、誰もいなかった。


 少し先の角まで見ても、長い黒髪は見えない。


「先に行ったんだ」


 口に出すと、本当のことになってしまった気がした。


 私は一人で学校へ向かった。


 通学路の葉桜が、風に揺れている。


 昨日までは隣を歩く玲奈の髪ばかり見ていたから、この道がこんなに広いとは知らなかった。


 話す相手がいないと、学校までの十五分は長い。


 途中で猫を見つけても、昨日見た夢を思い出しても、話す相手がいなければ、そのまま心の中を通り過ぎていく。


 校門へ着いた頃には、ほとんど走っていないのに少し疲れていた。


     ◇


 教室へ入る。


 玲奈はもう自分の席に座っていた。


 長い黒髪を背中へ流し、いつものように本を読んでいる。


 私が来たことには気づいているはずだった。


 扉の開く音に一度だけ顔を上げ、目が合ったからだ。


「おはよう」


 反射的に言う。


 玲奈の唇がわずかに動いた。


 けれど、声になる前に視線が本へ戻る。


 私もそれ以上は話しかけず、自分の席へ向かった。


「ひなた、おはよう」


「おはよう。今日は早いね」


「珍しいでしょ」


 近くのクラスメイトたちが声をかけてくれる。


 私はいつものように笑い、昨日見つけた新しいお菓子の話をした。


 話題はすぐに広がった。


 駅前の店へ行った子がいて、今度みんなで寄ろうという話になる。限定の商品は午前中に売り切れるらしい。連休なら朝から並べると誰かが言った。


 私は相づちを打ち、笑う。


 けれど、会話の内容が頭に残らない。


 視線が、何度も玲奈の方へ向いてしまう。


 玲奈は本を読んでいる。


 私たちの会話が聞こえていないような顔で、同じ姿勢を保っている。


 始業のチャイムが鳴り、クラスメイトたちが席へ戻った。


 一時間目の準備をしながら、もう一度だけ玲奈を見る。


 机の上の本は、私が教室へ入ったときと同じページで開かれていた。


     ◇


 一時間目と二時間目の間の休み時間。


 私は英語のノートを開き、次の小テストの範囲を確認していた。


 前なら、分からない場所があればすぐに玲奈へ聞いていた。


 けれど、今日は声をかけられない。


 教科書とノートを何度も見比べる。


 同じ単語を三回読んでも、意味が頭へ入ってこなかった。


「そこ、範囲じゃない」


 小さな声が聞こえた。


 顔を上げる。


 玲奈は私を見ていない。


 自分のノートへ視線を落としたまま、シャープペンシルを動かしている。


「え?」


「次のページから」


 それだけ言って、玲奈は口を閉じた。


 私の教科書を見ると、確かに一ページずれている。


「ありがとう」


 返事はなかった。


 それでも、私が間違えていることには気づいてくれた。


 少しだけ胸が軽くなる。


 話しかけてもいいのかもしれない。


 そう思って玲奈の方を向く。


「玲奈、昨日のことなんだけど」


 玲奈の手が止まった。


 けれど、こちらを見ない。


「今は小テストの前でしょ」


「終わってからなら話せる?」


「知らない」


 始業のチャイムが鳴った。


 また、あと一歩届かなかった。


     ◇


 三時間目の英語では、隣同士で短い会話文を読むことになった。


 いつもなら、玲奈と組む。


 どちらから誘うこともなく、机を少し寄せるだけで始まっていた。


 今日も女性教師の指示を聞き、私は机の端へ手をかける。


 玲奈も同じように手を伸ばした。


 二人の指先が、机の角で触れそうになる。


 同時に手を引いた。


「……動かす?」


「どっちでもいい」


「じゃあ、少しだけ」


 机と机の間には、教科書一冊分の隙間が残った。


 私が先に英文を読み、玲奈が次の台詞を返す。


 発音はきれいで、間違いもない。


 けれど、玲奈は教科書だけを見ている。


 会話文には、相手の目を見て話しましょうと書かれていた。


「玲奈」


「授業中」


「うん」


 分かっている。


 今は英語を読む時間で、昨日のことを話す時間ではない。


 それでも名前を呼べば、少しくらいこちらを見てくれると思っていた。


 最後まで、玲奈の視線は教科書から上がらなかった。


 練習時間が終わると、二人の机はすぐに元の位置へ戻された。


 教科書一冊分しかなかった隙間が、さっきよりずっと広く見えた。


     ◇


 昼休みになった。


 私は弁当箱を机の上へ出す。


 いつもの癖で持ち上げ、玲奈の前へ行こうとした。


 けれど、昨日の言葉を思い出す。


 もう、私のところに来なくていい。


 立ち上がりかけたまま、動けなくなった。


「ひなた、今日はこっちで食べる?」


 クラスメイトが隣の席を空けてくれる。


「うん。混ぜて」


 いくつかの机を合わせ、その輪へ入った。


 みんなで弁当を広げる。


 授業のことや、連休の予定、最近読んだ漫画の話で盛り上がった。


 私は笑った。


 話を振られれば答えたし、誰かの冗談にもいつもどおり反応した。


 楽しくないわけではない。


 クラスメイトの一人が、小さな包みに入ったクッキーを配ってくれた。


「ありがとう」


 受け取って、すぐには開けずに弁当箱の横へ置く。


「食べないの?」


「あとで玲奈と半分にしようかと思って」


 答えてから、自分の言葉に気づいた。


 机を囲んでいたみんなの視線が、私と玲奈の間を往復する。


「……今日は別々なんだ」


「そっか」


 誰も理由を聞かなかった。


 その気遣いが、かえって胸に痛かった。


 クッキーを開ければいいのに、指が動かない。


 結局、包みのまま鞄へしまった。


 けれど、卵焼きを見るたび、玲奈の弁当箱を思い出す。


 今日の玲奈の卵焼きは、どんな味なのだろう。


 もしかしたら、いつものように二つ入っているかもしれない。


 視線だけを向ける。


 玲奈は自分の席で一人、弁当を食べていた。


 開いた本を片手で押さえ、もう片方の手で箸を動かしている。


 卵焼きが二つ見えた。


 一つ目を食べたあと、二つ目へは手をつけない。


 しばらくして弁当箱のふたが閉じられた。


 私の弁当箱にも卵焼きが入っている。


 いつもより、少しだけ甘すぎる気がした。


     ◇


 昼休みが終わる少し前、私は一人で廊下へ出た。


 飲み物を買うつもりだったけれど、階段の前で結衣ちゃんと会った。


「朝倉さん」


「結衣ちゃん」


 結衣ちゃんが私の顔を見て、すぐに表情を曇らせる。


「どうかした?」


「ううん。ちょっと飲み物を買いに」


「そうじゃなくて」


 結衣ちゃんは教室の方を見る。


「黒川さんと、喧嘩したの?」


 どうして分かったのだろう。


 そう思ってから、朝から一度も玲奈とまともに話していないのだから、見ていれば気づくかもしれないと思い直す。


「……うん」


「やっぱり」


「私たち、そんなに分かりやすい?」


「いつも一緒にいるから」


「今日は一緒じゃないもんね」


 笑ってみたけれど、うまくできなかった。


「何があったの?」


「分からないの」


「分からない?」


「玲奈がずっと怒ってて、理由を聞いても教えてくれなくて。私も腹が立って、言い返しちゃった」


 結衣ちゃんの瞳がわずかに揺れた。


「昨日のことが、関係してる?」


「昨日?」


「私と朝倉さんが話したこと」


「どうして?」


「黒川さん、昨日から私を見る目が少し違う気がするから」


 結衣ちゃんにも、玲奈が怒っている理由は分からないようだった。


 私たちは昨日の出来事を順番に思い返したけれど、玲奈の態度につながるような答えは見つからない。


 二人で考えても、結局分からなかった。


「でも、昨日のことは結衣ちゃんのせいじゃないよ」


「うん。でも、私がきっかけかもしれない」


「玲奈は、結衣ちゃんと話したこともほとんどないのに」


「だから、朝倉さんがちゃんと聞いた方がいいと思う」


「聞こうとしたよ」


「一度で話せないこともあるよ」


 結衣ちゃんの声は穏やかだった。


「私も、気持ちを伝えるまで一年かかったから」


 その言葉に、何も返せなくなる。


 結衣ちゃんは自分の痛みを隠すように、少しだけ笑った。


「黒川さんも、言いたくても言えないことがあるのかもしれない」


「でも、玲奈は私に来なくていいって言った」


「朝倉さんは、本当に行かなくて平気なの?」


「それは……」


 答えられなかった。


 今朝からずっと玲奈を見ている。


 教室に入ったときも、小テストの前も、昼休みも。


 来なくていいと言われたから近づかなかったのに、本当は近づく理由ばかり探していた。


「平気じゃない」


 ようやく言葉にする。


「だったら、もう一度だけ話してみたら?」


「また迷惑だって言われるかもしれないよ」


「それでも行くかどうかは、朝倉さんが決めることだと思う」


 結衣ちゃんはそれだけ言い、私の横を通り過ぎた。


「結衣ちゃん」


 呼び止める。


「ありがとう」


「私は何もしてないよ」


 振り返った結衣ちゃんは、少し寂しそうに笑った。


「朝倉さんが黒川さんのことになると、いつもと違うから、放っておけなかっただけ」


 その意味を聞く前に、予鈴が鳴った。


     ◇


 午後の授業中、私は何度も玲奈の方を見た。


 玲奈も、ときどきこちらを見ている気がした。


 けれど、目が合いそうになると、どちらかが先にそらしてしまう。


 話さなければならない。


 そう思うのに、昨日の言葉が頭から離れない。


 迷惑。


 来なくていい。


 近づけば、また玲奈を困らせるかもしれない。


 それでも、このまま離れている方が苦しかった。


 帰りのホームルームが終わったら、もう一度話そう。


 今度は腹を立てず、玲奈が話してくれるまで待とう。


 そう決めて、最後の授業を終えた。


 けれど、帰りのホームルームが終わったとき、玲奈の席はもう空いていた。


「玲奈は?」


 近くのクラスメイトへ尋ねる。


「さっき先に帰ったよ。急いでたみたい」


「いつ?」


「ホームルームが終わってすぐ」


 机の横にかけていた鞄がない。


 本当に帰ってしまったのだ。


 私は教科書を鞄へ入れ、教室を飛び出した。


 廊下、階段、昇降口。


 どこにも玲奈の姿はない。


 校門へ向かいかけて、足を止める。


 玲奈が一人で時間を過ごすなら、図書室かもしれない。


 進む方向を変え、校舎の奥へ走った。


 図書室の扉を静かに開ける。


 放課後の室内には、数人の生徒が残っていた。


 窓際の一番奥。


 玲奈がよく座る席を見る。


 椅子は机の下へ戻され、誰も座っていなかった。


 本棚の間も一周したけれど、長い黒髪は見つからない。


 いつも玲奈が借りる小説の棚の前で立ち止まる。


 ここにもいない。


 図書室を出てから、今度こそ昇降口へ向かった。


 校門の外まで走ったけれど、いつもの帰り道にも長い黒髪は見つからなかった。


「先に家へ帰ったのかな」


 そう思い、私も急いで家へ向かう。


 昨日は長く感じた道を、今日はほとんど走って帰った。


 自分の家へ入る前に、隣の家を見る。


 玲奈の部屋のカーテンは開いている。


 けれど、部屋の中に人影はなかった。


 門の前から呼びかけようとして、やめる。


 玲奈が家にいるかどうか、私が勝手に確かめていいのだろうか。


 来なくていいと言われたばかりだ。


 スマートフォンを取り出す。


『少し話したい』


 そこまで入力して、送信できないまま消した。


 もし既読がつかなかったら。


 もし、もう話したくないと返ってきたら。


 考えるだけで、指が動かなくなる。


 私は生け垣の前で立ち尽くした。


 昔から、玲奈が一人になりたいときに行く場所は多くない。


 図書館。


 学校の中庭。


 それから、もう一つ。


 住宅街の外れにある、風見ヶ丘公園。


 子どもの頃、私たちはそこを風見公園と呼び、何度も一緒に遊んだ。


 玲奈が悲しいことを言えないとき、一人で桜の木の下へ行くことがあった。


 玲奈からは、もう来なくていいと言われた。


 それでも、玲奈に会いたいのは私だった。


 私は鞄を玄関へ置き、もう一度外へ出た。


     ◇


 風見ヶ丘公園までは、家から歩いて十分ほどかかる。


 今は歩いている場合ではない気がして、私は坂道を走った。


 春の空気を吸うたび、胸の奥が痛む。


 公園の入口には誰もいなかった。


 遊具のそばにも、人影はない。


 中央の緩やかな丘を見上げる。


 頂上には、大きな桜の木が立っている。


 花の季節はもう終わり、枝には柔らかな緑の葉が広がっていた。


 その下に、古い二人掛けのベンチがある。


 子どもの頃から変わらない場所。


 丘を上る。


 一歩ずつ進むたび、ベンチの輪郭がはっきりしていく。


 右側に、誰かが座っていた。


 私がいつも座っていた左側だけが、空いている。


 風に揺れる、長い黒髪。


 細い背中。


 膝の上には、閉じたままの本が置かれている。


 見つけた。


 昔と同じ場所で、玲奈はまた一人になっていた。

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