第7話 隣にいない
翌朝、目覚まし時計の音だけで目が覚めた。
手を伸ばして止める。
静かだった。
廊下を歩く音も、扉が開く音も、私を起こす玲奈の声もない。
分かっていた。
昨日、玲奈から「もう、私のところに来なくていい」と言われた。
私も、一人で帰ると答えた。
だから、今日だけ何事もなかったように玲奈が部屋へ来るはずはない。
それでも、布団の中で少し待ってしまった。
五分たっても、誰も来ない。
「起きないと」
自分に言い聞かせ、身体を起こす。
玲奈が来ないなら、寝坊しても起こしてくれる人はいない。
いつもより早く制服へ着替え、鏡の前に立った。
髪を整え、淡い青色のスカーフを結ぶ。
昨日よりはうまくできたと思ったのに、鏡を見ると少しだけ左へ傾いていた。
手を伸ばして直そうとする。
けれど、触るたびに別の場所が曲がっていく。
「もう、これでいいや」
いつもなら、玲奈が呆れながら直してくれる。
顔を近づけ、冷たい指先でスカーフの形を整える。ついでに寝癖を見つけて、「じっとして」と私の頭を押さえる。
昨日までは当たり前だった光景が、今朝はどこにもない。
鞄を持ち、階段を下りる。
台所では、お母さんが朝食を用意していた。
「おはよう。今日は玲奈ちゃん、一緒じゃないの?」
「まだ来てないだけだよ」
「もう出る時間じゃない?」
いつもなら、この時間には玲奈が私を起こし、そのまま一緒に下りてくる。
お母さんが二人分の飲み物を用意している日もあった。
「先に学校へ行ったんじゃないかな」
「珍しいわね」
「そういう日もあるよ」
なるべく普通に答え、椅子へ座る。
トーストを口へ運ぶけれど、なかなか減らない。
「ひなた、玲奈ちゃんと何かあった?」
「どうして?」
「分かりやすいから」
「何もないよ」
昨日、迷惑だと言われたことを話せば、お母さんはきっと心配する。
それに、玲奈とのことを誰かへ話してしまうと、本当に元へ戻れなくなるような気がした。
「行ってきます」
半分残ったトーストを急いで食べ、立ち上がる。
お母さんはそれ以上聞かず、「行ってらっしゃい」と送り出してくれた。
玄関を出る前に、窓から隣の家を見た。
玲奈の部屋のカーテンは開いている。
もう起きて、支度も終わっているのだろう。
門の外へ出る。
いつも玲奈が待っている場所には、誰もいなかった。
少し先の角まで見ても、長い黒髪は見えない。
「先に行ったんだ」
口に出すと、本当のことになってしまった気がした。
私は一人で学校へ向かった。
通学路の葉桜が、風に揺れている。
昨日までは隣を歩く玲奈の髪ばかり見ていたから、この道がこんなに広いとは知らなかった。
話す相手がいないと、学校までの十五分は長い。
途中で猫を見つけても、昨日見た夢を思い出しても、話す相手がいなければ、そのまま心の中を通り過ぎていく。
校門へ着いた頃には、ほとんど走っていないのに少し疲れていた。
◇
教室へ入る。
玲奈はもう自分の席に座っていた。
長い黒髪を背中へ流し、いつものように本を読んでいる。
私が来たことには気づいているはずだった。
扉の開く音に一度だけ顔を上げ、目が合ったからだ。
「おはよう」
反射的に言う。
玲奈の唇がわずかに動いた。
けれど、声になる前に視線が本へ戻る。
私もそれ以上は話しかけず、自分の席へ向かった。
「ひなた、おはよう」
「おはよう。今日は早いね」
「珍しいでしょ」
近くのクラスメイトたちが声をかけてくれる。
私はいつものように笑い、昨日見つけた新しいお菓子の話をした。
話題はすぐに広がった。
駅前の店へ行った子がいて、今度みんなで寄ろうという話になる。限定の商品は午前中に売り切れるらしい。連休なら朝から並べると誰かが言った。
私は相づちを打ち、笑う。
けれど、会話の内容が頭に残らない。
視線が、何度も玲奈の方へ向いてしまう。
玲奈は本を読んでいる。
私たちの会話が聞こえていないような顔で、同じ姿勢を保っている。
始業のチャイムが鳴り、クラスメイトたちが席へ戻った。
一時間目の準備をしながら、もう一度だけ玲奈を見る。
机の上の本は、私が教室へ入ったときと同じページで開かれていた。
◇
一時間目と二時間目の間の休み時間。
私は英語のノートを開き、次の小テストの範囲を確認していた。
前なら、分からない場所があればすぐに玲奈へ聞いていた。
けれど、今日は声をかけられない。
教科書とノートを何度も見比べる。
同じ単語を三回読んでも、意味が頭へ入ってこなかった。
「そこ、範囲じゃない」
小さな声が聞こえた。
顔を上げる。
玲奈は私を見ていない。
自分のノートへ視線を落としたまま、シャープペンシルを動かしている。
「え?」
「次のページから」
それだけ言って、玲奈は口を閉じた。
私の教科書を見ると、確かに一ページずれている。
「ありがとう」
返事はなかった。
それでも、私が間違えていることには気づいてくれた。
少しだけ胸が軽くなる。
話しかけてもいいのかもしれない。
そう思って玲奈の方を向く。
「玲奈、昨日のことなんだけど」
玲奈の手が止まった。
けれど、こちらを見ない。
「今は小テストの前でしょ」
「終わってからなら話せる?」
「知らない」
始業のチャイムが鳴った。
また、あと一歩届かなかった。
◇
三時間目の英語では、隣同士で短い会話文を読むことになった。
いつもなら、玲奈と組む。
どちらから誘うこともなく、机を少し寄せるだけで始まっていた。
今日も女性教師の指示を聞き、私は机の端へ手をかける。
玲奈も同じように手を伸ばした。
二人の指先が、机の角で触れそうになる。
同時に手を引いた。
「……動かす?」
「どっちでもいい」
「じゃあ、少しだけ」
机と机の間には、教科書一冊分の隙間が残った。
私が先に英文を読み、玲奈が次の台詞を返す。
発音はきれいで、間違いもない。
けれど、玲奈は教科書だけを見ている。
会話文には、相手の目を見て話しましょうと書かれていた。
「玲奈」
「授業中」
「うん」
分かっている。
今は英語を読む時間で、昨日のことを話す時間ではない。
それでも名前を呼べば、少しくらいこちらを見てくれると思っていた。
最後まで、玲奈の視線は教科書から上がらなかった。
練習時間が終わると、二人の机はすぐに元の位置へ戻された。
教科書一冊分しかなかった隙間が、さっきよりずっと広く見えた。
◇
昼休みになった。
私は弁当箱を机の上へ出す。
いつもの癖で持ち上げ、玲奈の前へ行こうとした。
けれど、昨日の言葉を思い出す。
もう、私のところに来なくていい。
立ち上がりかけたまま、動けなくなった。
「ひなた、今日はこっちで食べる?」
クラスメイトが隣の席を空けてくれる。
「うん。混ぜて」
いくつかの机を合わせ、その輪へ入った。
みんなで弁当を広げる。
授業のことや、連休の予定、最近読んだ漫画の話で盛り上がった。
私は笑った。
話を振られれば答えたし、誰かの冗談にもいつもどおり反応した。
楽しくないわけではない。
クラスメイトの一人が、小さな包みに入ったクッキーを配ってくれた。
「ありがとう」
受け取って、すぐには開けずに弁当箱の横へ置く。
「食べないの?」
「あとで玲奈と半分にしようかと思って」
答えてから、自分の言葉に気づいた。
机を囲んでいたみんなの視線が、私と玲奈の間を往復する。
「……今日は別々なんだ」
「そっか」
誰も理由を聞かなかった。
その気遣いが、かえって胸に痛かった。
クッキーを開ければいいのに、指が動かない。
結局、包みのまま鞄へしまった。
けれど、卵焼きを見るたび、玲奈の弁当箱を思い出す。
今日の玲奈の卵焼きは、どんな味なのだろう。
もしかしたら、いつものように二つ入っているかもしれない。
視線だけを向ける。
玲奈は自分の席で一人、弁当を食べていた。
開いた本を片手で押さえ、もう片方の手で箸を動かしている。
卵焼きが二つ見えた。
一つ目を食べたあと、二つ目へは手をつけない。
しばらくして弁当箱のふたが閉じられた。
私の弁当箱にも卵焼きが入っている。
いつもより、少しだけ甘すぎる気がした。
◇
昼休みが終わる少し前、私は一人で廊下へ出た。
飲み物を買うつもりだったけれど、階段の前で結衣ちゃんと会った。
「朝倉さん」
「結衣ちゃん」
結衣ちゃんが私の顔を見て、すぐに表情を曇らせる。
「どうかした?」
「ううん。ちょっと飲み物を買いに」
「そうじゃなくて」
結衣ちゃんは教室の方を見る。
「黒川さんと、喧嘩したの?」
どうして分かったのだろう。
そう思ってから、朝から一度も玲奈とまともに話していないのだから、見ていれば気づくかもしれないと思い直す。
「……うん」
「やっぱり」
「私たち、そんなに分かりやすい?」
「いつも一緒にいるから」
「今日は一緒じゃないもんね」
笑ってみたけれど、うまくできなかった。
「何があったの?」
「分からないの」
「分からない?」
「玲奈がずっと怒ってて、理由を聞いても教えてくれなくて。私も腹が立って、言い返しちゃった」
結衣ちゃんの瞳がわずかに揺れた。
「昨日のことが、関係してる?」
「昨日?」
「私と朝倉さんが話したこと」
「どうして?」
「黒川さん、昨日から私を見る目が少し違う気がするから」
結衣ちゃんにも、玲奈が怒っている理由は分からないようだった。
私たちは昨日の出来事を順番に思い返したけれど、玲奈の態度につながるような答えは見つからない。
二人で考えても、結局分からなかった。
「でも、昨日のことは結衣ちゃんのせいじゃないよ」
「うん。でも、私がきっかけかもしれない」
「玲奈は、結衣ちゃんと話したこともほとんどないのに」
「だから、朝倉さんがちゃんと聞いた方がいいと思う」
「聞こうとしたよ」
「一度で話せないこともあるよ」
結衣ちゃんの声は穏やかだった。
「私も、気持ちを伝えるまで一年かかったから」
その言葉に、何も返せなくなる。
結衣ちゃんは自分の痛みを隠すように、少しだけ笑った。
「黒川さんも、言いたくても言えないことがあるのかもしれない」
「でも、玲奈は私に来なくていいって言った」
「朝倉さんは、本当に行かなくて平気なの?」
「それは……」
答えられなかった。
今朝からずっと玲奈を見ている。
教室に入ったときも、小テストの前も、昼休みも。
来なくていいと言われたから近づかなかったのに、本当は近づく理由ばかり探していた。
「平気じゃない」
ようやく言葉にする。
「だったら、もう一度だけ話してみたら?」
「また迷惑だって言われるかもしれないよ」
「それでも行くかどうかは、朝倉さんが決めることだと思う」
結衣ちゃんはそれだけ言い、私の横を通り過ぎた。
「結衣ちゃん」
呼び止める。
「ありがとう」
「私は何もしてないよ」
振り返った結衣ちゃんは、少し寂しそうに笑った。
「朝倉さんが黒川さんのことになると、いつもと違うから、放っておけなかっただけ」
その意味を聞く前に、予鈴が鳴った。
◇
午後の授業中、私は何度も玲奈の方を見た。
玲奈も、ときどきこちらを見ている気がした。
けれど、目が合いそうになると、どちらかが先にそらしてしまう。
話さなければならない。
そう思うのに、昨日の言葉が頭から離れない。
迷惑。
来なくていい。
近づけば、また玲奈を困らせるかもしれない。
それでも、このまま離れている方が苦しかった。
帰りのホームルームが終わったら、もう一度話そう。
今度は腹を立てず、玲奈が話してくれるまで待とう。
そう決めて、最後の授業を終えた。
けれど、帰りのホームルームが終わったとき、玲奈の席はもう空いていた。
「玲奈は?」
近くのクラスメイトへ尋ねる。
「さっき先に帰ったよ。急いでたみたい」
「いつ?」
「ホームルームが終わってすぐ」
机の横にかけていた鞄がない。
本当に帰ってしまったのだ。
私は教科書を鞄へ入れ、教室を飛び出した。
廊下、階段、昇降口。
どこにも玲奈の姿はない。
校門へ向かいかけて、足を止める。
玲奈が一人で時間を過ごすなら、図書室かもしれない。
進む方向を変え、校舎の奥へ走った。
図書室の扉を静かに開ける。
放課後の室内には、数人の生徒が残っていた。
窓際の一番奥。
玲奈がよく座る席を見る。
椅子は机の下へ戻され、誰も座っていなかった。
本棚の間も一周したけれど、長い黒髪は見つからない。
いつも玲奈が借りる小説の棚の前で立ち止まる。
ここにもいない。
図書室を出てから、今度こそ昇降口へ向かった。
校門の外まで走ったけれど、いつもの帰り道にも長い黒髪は見つからなかった。
「先に家へ帰ったのかな」
そう思い、私も急いで家へ向かう。
昨日は長く感じた道を、今日はほとんど走って帰った。
自分の家へ入る前に、隣の家を見る。
玲奈の部屋のカーテンは開いている。
けれど、部屋の中に人影はなかった。
門の前から呼びかけようとして、やめる。
玲奈が家にいるかどうか、私が勝手に確かめていいのだろうか。
来なくていいと言われたばかりだ。
スマートフォンを取り出す。
『少し話したい』
そこまで入力して、送信できないまま消した。
もし既読がつかなかったら。
もし、もう話したくないと返ってきたら。
考えるだけで、指が動かなくなる。
私は生け垣の前で立ち尽くした。
昔から、玲奈が一人になりたいときに行く場所は多くない。
図書館。
学校の中庭。
それから、もう一つ。
住宅街の外れにある、風見ヶ丘公園。
子どもの頃、私たちはそこを風見公園と呼び、何度も一緒に遊んだ。
玲奈が悲しいことを言えないとき、一人で桜の木の下へ行くことがあった。
玲奈からは、もう来なくていいと言われた。
それでも、玲奈に会いたいのは私だった。
私は鞄を玄関へ置き、もう一度外へ出た。
◇
風見ヶ丘公園までは、家から歩いて十分ほどかかる。
今は歩いている場合ではない気がして、私は坂道を走った。
春の空気を吸うたび、胸の奥が痛む。
公園の入口には誰もいなかった。
遊具のそばにも、人影はない。
中央の緩やかな丘を見上げる。
頂上には、大きな桜の木が立っている。
花の季節はもう終わり、枝には柔らかな緑の葉が広がっていた。
その下に、古い二人掛けのベンチがある。
子どもの頃から変わらない場所。
丘を上る。
一歩ずつ進むたび、ベンチの輪郭がはっきりしていく。
右側に、誰かが座っていた。
私がいつも座っていた左側だけが、空いている。
風に揺れる、長い黒髪。
細い背中。
膝の上には、閉じたままの本が置かれている。
見つけた。
昔と同じ場所で、玲奈はまた一人になっていた。




