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幼馴染の機嫌が悪いのは、たぶん私のせい。  作者: situ725


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6/10

第6話 どうして怒ってるの?

 翌朝、玲奈は私の部屋へ来なかった。


 目覚まし時計を止めてから、しばらく扉の方を見て待ってみる。


 いつものように勝手に入ってきて、二度寝しようとする私から布団を剥がす。そんな玲奈を想像していたけれど、廊下から足音は聞こえない。


 自分で起きられたのだから、わざわざ来る必要はない。


 昨日も一人で勉強したいと言っていた。


 分かっているのに、何となく落ち着かなかった。


 制服へ着替え、鏡を見る。


 淡い青色のスカーフが、少しだけ右に曲がっている。


 結び直してみても、今度は左が長くなった。


「これくらいなら大丈夫かな」


 鏡の中の自分へ言い聞かせ、鞄を持って玄関へ向かう。


 扉を開けると、玲奈は門の前に立っていた。


 背筋を伸ばし、いつもと同じようにきれいに制服を着ている。けれど、私を見ても「遅い」とは言わなかった。


「おはよう、玲奈」


「おはよう」


「今日は起こしに来なかったね」


「自分で起きられるなら、必要ないでしょ」


「必要ないことはないよ」


 玲奈の視線が、私の胸元で止まる。


 曲がったスカーフに気づいたのだと思う。


 いつもなら、呆れながら手を伸ばしてくる。


 けれど今日は何もせず、先に歩き出してしまった。


「待って、玲奈」


 慌てて隣へ並ぶ。


 春の朝は明るいのに、私たちの間だけ空気が重かった。


「昨日の夜、ちゃんと眠れた?」


「眠れた」


「メッセージ、送らなかったんだけど」


「そう」


「玲奈が返せないって言ったから」


「別に、送ればよかったのに」


「どっち?」


「知らない」


 返事は短い。


 それでも玲奈は、私が少し遅れれば歩幅を緩めた。


 完全に置いていくことはしない。


 そのことに安心している自分が、少しおかしかった。


     ◇


 二時間目が終わると、教室の入口から私を呼ぶ声がした。


「朝倉さん」


 顔を上げる。


 結衣ちゃんが、開いた扉のそばに立っていた。


 薄いベージュ色のカーディガンの前で、両手を重ねている。昨日泣いていたことを感じさせない、いつもの落ち着いた表情だった。


 けれど、目元はほんの少しだけ赤い。


「結衣ちゃん」


 席を立って近づく。


「昨日は、ちゃんと帰れた?」


「うん。心配かけてごめんね」


「心配するよ」


「少し、話せる?」


「もちろん」


 結衣ちゃんと一緒に廊下へ出る。


 教室の前ではほかの生徒の邪魔になるので、少し離れた階段の近くまで歩いた。


「昨日のことなんだけど」


 結衣ちゃんが先に切り出す。


「うん」


「ちゃんと答えてくれて、ありがとう」


「私は何も」


「曖昧にされるより、ずっとよかったから」


 穏やかに笑っているけれど、その声にはまだ少しだけ痛みが残っていた。


 昨日の出来事を、もう何とも思っていないはずがない。


 それでも結衣ちゃんは、逃げずに私の前へ来てくれた。


「それでね」


 結衣ちゃんは胸元で重ねた指に、一度だけ力を込めた。


「振られたからって、このまま話せなくなるのは嫌なの」


 私は黙って続きを待つ。


「すぐに今までどおりにはできないかもしれない。少しだけ、苦しくなることもあると思う」


「うん」


「でも、朝倉さんと本の話をしたり、廊下で会ったときに挨拶したりすることまで、なくしたくない」


 結衣ちゃんが顔を上げる。


 薄茶色の瞳が、まっすぐ私を見ていた。


「これからも、友達でいてくれる?」


「もちろん」


 考える必要もなかった。


「これからも普通に話そう。結衣ちゃんが嫌じゃなければ、おすすめの本も教えてほしい」


「……うん」


 結衣ちゃんの顔に、ほっとしたような笑みが浮かぶ。


「ありがとう、朝倉さん」


「私の方こそ、言いに来てくれてありがとう」


 予鈴までには、まだ少し時間がある。


 昨日返した小説の結末について話していると、結衣ちゃんの表情が少しずついつもの柔らかさへ戻っていった。


 廊下の向こうで、誰かが立ち止まったような気がした。


 視線を向ける。


 曲がり角に、長い黒髪が見えた。


「玲奈?」


 呼びかけたときには、その姿はもう教室の方へ消えていた。


「黒川さん、いたの?」


「たぶん。教室に戻ってみる」


「うん。またね、朝倉さん」


「またね、結衣ちゃん」


 教室へ戻ると、玲奈は自分の席に座っていた。


 本を開き、こちらを見ようとしない。


「玲奈、さっき廊下にいた?」


「いたけど」


「呼んだのに」


「聞こえなかった」


「すぐ近くだったよ?」


「自分が大声だから、誰にでも聞こえてると思わないで」


 ページをめくる指が、紙の端を強く押さえている。


「どうしたの?」


「何が?」


「また機嫌が悪くなってる」


「別に」


「結衣ちゃんと話してたから?」


 玲奈がようやく顔を上げた。


 深い紺色の瞳は、驚いたように少しだけ見開かれている。


「どうしてそう思うの?」


「昨日から、結衣ちゃんの話をすると変だから」


「自意識過剰じゃない?」


「私のことじゃなくて、結衣ちゃんのことだよ」


「同じでしょ」


「同じかな?」


 玲奈は答えず、本へ視線を戻した。


 そのまま、授業が始まるまで一度もページをめくらなかった。


     ◇


 昼休みになる。


 私は弁当を持ち、いつものように玲奈の前へ座った。


 けれど、玲奈は席を立とうとした。


「どこに行くの?」


「図書室」


「お昼は?」


「あとで食べる」


「じゃあ、私も行く」


「来なくていい」


「どうして?」


「水瀬さんと食べればいいでしょ」


 玲奈の口から、また水瀬さんの名前が出る。


 やっぱり、結衣ちゃんと話していたことが原因らしい。


「結衣ちゃんは自分のクラスで食べると思うよ」


「聞いてみれば?」


「玲奈と食べるから、聞かない」


「私は一人でいい」


「私はよくない」


 玲奈は鞄へ手を伸ばしたまま動きを止めた。


「どうして、いつも私のところに来るの?」


「どうしてって……いつも一緒に食べてるから」


「それだけ?」


「ほかに理由がいる?」


 玲奈は何か言いかけ、唇を閉じた。


「もういい」


 結局、図書室へは行かず、椅子へ座り直す。


 私は少し安心して弁当箱を開いた。


「今日、卵焼きある?」


「ない」


「昨日もそれで、あったよ」


「今日は本当にない」


 ふたを開けた玲奈の弁当箱には、卵焼きが二つ入っていた。


「あるよ」


「ひなたの分はない」


「玲奈が二つとも食べるの?」


「そう」


 玲奈は本当に一つ目を食べた。


 私の弁当箱へ移してくれる気配はない。


 いつもなら笑えるやり取りなのに、今日は少しだけ寂しい。


「ねえ、玲奈」


「なに?」


「結衣ちゃんと、何かあった?」


「私が水瀬さんと話したことなんて、ほとんどないでしょ」


「じゃあ、どうして怒ってるの?」


「怒ってない」


「ずっと冷たいよ」


「ひなたが気にしすぎてるだけ」


「気にするよ。玲奈のことだもん」


 玲奈の箸が止まった。


 けれど、その顔は上がらない。


「……そういうこと、簡単に言わないで」


「どういうこと?」


「……何でもない」


 また同じだ。


 玲奈は何も教えてくれないまま、私が分からないことに腹を立てる。


 胸の奥へ小さな棘が刺さったような気がした。


 けれど、昼休みの教室にはクラスメイトがいる。


 ここで言い合いをしたくなくて、私は口を閉じた。


 その日の昼食は、いつもよりずっと味が薄かった。


 玲奈の機嫌が悪いときは、だいたい私に原因がある。


 今回も、たぶん私のせいなのだと思う。


 けれど、何をしてしまったのかだけが、どうしても分からなかった。


     ◇


 午後になっても、玲奈の態度は変わらなかった。


 私が消しゴムを落としても拾ってくれない。


 次の授業で使うプリントを一枚取り忘れていても、何も言わない。


 自分で気づいて取りに行けば済むことなのに、いつも玲奈がしてくれていたことがなくなるだけで、こんなに落ち着かない。


 五時間目と六時間目の間の休み時間、私は鞄から小さな袋を取り出した。


 玲奈が好きな、薄い塩味のクラッカーだ。


 この前は、チョコレートを一緒に食べたら機嫌が直った。甘いものではないけれど、今回も同じように隣へ座れば、少しは話してくれるかもしれない。


「玲奈、これ食べる?」


 袋を差し出す。


「いらない」


「お腹いっぱい?」


「そういう気分じゃないだけ」


「一枚だけでも」


「ひなたが食べれば」


 玲奈は袋を見ようともしなかった。


「玲奈が好きだから持ってきたのに」


「水瀬さんにも、そうやって何かあげてるの?」


「結衣ちゃん?」


 聞き返した途端、玲奈の眉が寄る。


「……もういい」


「待って。何が聞きたかったの?」


「何も」


 玲奈は本を開き、顔の前へ持ち上げた。


 ページに隠れて、表情が見えなくなる。


 クラッカーの袋を自分の机へ戻したけれど、一人で食べる気にはなれなかった。


 私も意地になって、玲奈へ話しかける回数を減らした。


 そうすると、玲奈は本当に何も言わなくなった。


 隣にいるのに、間に透明な壁ができたみたいだった。


     ◇


 放課後の清掃では、私と玲奈が教室の後ろを担当することになった。


 いつもなら、私が机を動かし、玲奈がほうきで集めたごみを取る。


 どちらが何をするか、相談したことはない。


 私が机へ手をかければ、玲奈は自然に椅子を引く。玲奈がちりとりを置けば、私はそこへ向かってごみを掃く。


 長い間一緒にいるうちに、言わなくても分かるようになっていた。


 けれど、今日は違った。


 私が机を持ち上げても、玲奈は反対側を支えない。


 一人で動かそうとして、机の脚が床に引っかかった。


 大きな音が教室に響く。


「危ないでしょ」


 玲奈が反射的に机の端をつかんだ。


「ありがとう」


「床に傷がつくから」


 言いながら、すぐに手を離してしまう。


 私は机を少しずつ引き、何とか場所を空けた。


 今度はほうきを持つ。


 玲奈はちりとりを手にしていたけれど、私とは反対側の列へ行こうとした。


「玲奈、こっちを先にやらない?」


「一人でできるでしょ」


「できるけど、いつも一緒にやってるから」


「いつもと同じじゃないと困るの?」


 その言葉に、すぐには答えられなかった。


 清掃くらい、一人でできる。


 朝だって自分で起きられるし、スカーフも少しくらい曲がっていて構わない。お昼も、玲奈がいなくても食べられる。


 困ることなんて、本当は何もないはずだ。


「……困らないよ」


 意地になって答える。


「そう」


 玲奈は反対側を向いた。


 それだけなのに、正しい答えを間違えたような気がした。


 清掃が終わるまで、私たちは一度も同じ場所へ立たなかった。


     ◇


 帰りのホームルームが終わる。


 私が鞄を持つより早く、玲奈は教室を出ていった。


「玲奈!」


 呼んでも振り返らない。


 慌てて教科書を鞄へ押し込み、あとを追う。


 廊下には帰宅する生徒が多く、長い黒髪を見失いそうになる。


 階段を下り、昇降口で靴を履き替える。


 校門を出たところで、ようやく玲奈に追いついた。


「待って」


 腕へ触れようとすると、玲奈は半歩横へ避けた。


 伸ばした手が、何にも触れないまま止まる。


「一人で帰る」


「どうして?」


「そうしたいから」


「私は玲奈と帰りたい」


「今日は水瀬さんと帰れば?」


「どうして結衣ちゃんが出てくるの?」


「水瀬さんじゃなくて、結衣ちゃん、でしょ」


「前からそう呼んでるけど?」


「知ってる」


 玲奈は前を向いたまま歩き出す。


 私も隣へ並ぶ。


「じゃあ、何が嫌なの?」


「何も嫌じゃない」


「嘘。朝からずっと怒ってる」


「だから、怒ってないって言ってるでしょ」


「だったら、ちゃんとこっちを見てよ」


 玲奈が足を止める。


 通学路から少し外れた、住宅街の細い道だった。


 近くには誰もいない。


 風が吹き、玲奈の長い黒髪が頬へかかる。


 玲奈はそれを払おうともせず、私を見た。


「ひなたには、もう私に構う必要なんてないでしょ」


「どうして?」


「ほかに大切な人ができたなら、その人のところへ行けばいい」


「結衣ちゃんも大切だよ。でも、それと玲奈に構うことは関係ないでしょ」


「大切」


 玲奈が、その言葉を小さく繰り返す。


「そうだよ」


「……誰にでも優しくして、期待させて。ひなたは本当に無神経」


 胸の奥を強く押されたような気がした。


「期待って、どういうこと?」


「自分で考えれば」


「分からないから聞いてるんだよ」


「分からないなら、もういい」


「よくないよ。玲奈が怒ってるのに、何も分からないままなんて嫌」


「なら、放っておいて」


「できない」


「どうして?」


「玲奈だからだよ」


 私にとって、それで十分な理由だった。


 幼稚園の頃から一緒にいて、毎朝迎えに来てくれて、同じ道を歩いてきた。


 機嫌が悪ければ気になる。


 一人でいたら隣へ行きたくなる。


 それが当たり前だった。


「玲奈が一人でいたくても、私がそばにいるのは昔からでしょ」


「それが迷惑だって言ってるの」


 言葉の意味を理解するまで、少し時間がかかった。


「……迷惑?」


「そう」


 玲奈の声が、かすかに震えている。


 けれど、そのときの私は、自分が傷ついたことで精いっぱいだった。


「じゃあ、今までずっと迷惑だったの?」


「そういう意味じゃ」


「玲奈はいつもそうだよ」


 今度は私が、玲奈の言葉を遮った。


「何も言わないのに、私が分かってくれないと怒る」


「怒ってない」


「怒ってるよ。何回聞いても理由を教えてくれないで、私が近づいたら逃げて」


「ひなたには分からない」


「分からないよ。玲奈が何も話してくれないんだから」


 玲奈の瞳が揺れる。


 それでも、私は止まれなかった。


「私、玲奈のことなら大体分かると思ってた。でも、本当は何も分かってなかったのかもしれない」


「……そうね」


 小さな声だった。


「ひなたに私の気持ちなんて分からない」


「だから、話してよ」


「言えるわけないでしょ!」


 玲奈の声が、静かな道へ響いた。


 すぐに玲奈自身が驚いたように口元を押さえる。


 深い紺色の瞳が潤んで見えた。


「玲奈?」


 さっきまでの怒りが揺らぐ。


 手を伸ばそうとする。


 けれど、玲奈は一歩後ろへ下がった。


「もう、私のところに来なくていい」


 その言葉だけは、はっきり聞こえた。


「……本気で言ってる?」


 玲奈は答えない。


 ただ、鞄の持ち手を強く握っている。


 いつもの玲奈なら、私が離れようとすると袖をつかむ。


 寂しそうな顔をして、引き止める代わりに少しだけ近づいてくる。


 だから私は、今回もそうしてくれると思っていた。


「分かった」


 返事をして、一歩下がる。


 玲奈の指が、わずかに動いた。


 けれど、私の袖には触れなかった。


「玲奈がそうしたいなら、今日は一人で帰る」


 背を向ける。


 足を前へ出すたび、玲奈との距離が広がっていく。


 呼び止める声は聞こえない。


 振り返ったら、また私から近づいてしまう。


 だから前だけを見て歩いた。


 いつもなら隣から聞こえるローファーの音がない。


 くだらない話へ呆れる声も、曲がったスカーフを注意する声もない。


 家までの道は何度も歩いてきたはずなのに、今日は知らない場所のように見えた。


 玲奈のいない帰り道が、こんなに長いなんて知らなかった。

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