第6話 どうして怒ってるの?
翌朝、玲奈は私の部屋へ来なかった。
目覚まし時計を止めてから、しばらく扉の方を見て待ってみる。
いつものように勝手に入ってきて、二度寝しようとする私から布団を剥がす。そんな玲奈を想像していたけれど、廊下から足音は聞こえない。
自分で起きられたのだから、わざわざ来る必要はない。
昨日も一人で勉強したいと言っていた。
分かっているのに、何となく落ち着かなかった。
制服へ着替え、鏡を見る。
淡い青色のスカーフが、少しだけ右に曲がっている。
結び直してみても、今度は左が長くなった。
「これくらいなら大丈夫かな」
鏡の中の自分へ言い聞かせ、鞄を持って玄関へ向かう。
扉を開けると、玲奈は門の前に立っていた。
背筋を伸ばし、いつもと同じようにきれいに制服を着ている。けれど、私を見ても「遅い」とは言わなかった。
「おはよう、玲奈」
「おはよう」
「今日は起こしに来なかったね」
「自分で起きられるなら、必要ないでしょ」
「必要ないことはないよ」
玲奈の視線が、私の胸元で止まる。
曲がったスカーフに気づいたのだと思う。
いつもなら、呆れながら手を伸ばしてくる。
けれど今日は何もせず、先に歩き出してしまった。
「待って、玲奈」
慌てて隣へ並ぶ。
春の朝は明るいのに、私たちの間だけ空気が重かった。
「昨日の夜、ちゃんと眠れた?」
「眠れた」
「メッセージ、送らなかったんだけど」
「そう」
「玲奈が返せないって言ったから」
「別に、送ればよかったのに」
「どっち?」
「知らない」
返事は短い。
それでも玲奈は、私が少し遅れれば歩幅を緩めた。
完全に置いていくことはしない。
そのことに安心している自分が、少しおかしかった。
◇
二時間目が終わると、教室の入口から私を呼ぶ声がした。
「朝倉さん」
顔を上げる。
結衣ちゃんが、開いた扉のそばに立っていた。
薄いベージュ色のカーディガンの前で、両手を重ねている。昨日泣いていたことを感じさせない、いつもの落ち着いた表情だった。
けれど、目元はほんの少しだけ赤い。
「結衣ちゃん」
席を立って近づく。
「昨日は、ちゃんと帰れた?」
「うん。心配かけてごめんね」
「心配するよ」
「少し、話せる?」
「もちろん」
結衣ちゃんと一緒に廊下へ出る。
教室の前ではほかの生徒の邪魔になるので、少し離れた階段の近くまで歩いた。
「昨日のことなんだけど」
結衣ちゃんが先に切り出す。
「うん」
「ちゃんと答えてくれて、ありがとう」
「私は何も」
「曖昧にされるより、ずっとよかったから」
穏やかに笑っているけれど、その声にはまだ少しだけ痛みが残っていた。
昨日の出来事を、もう何とも思っていないはずがない。
それでも結衣ちゃんは、逃げずに私の前へ来てくれた。
「それでね」
結衣ちゃんは胸元で重ねた指に、一度だけ力を込めた。
「振られたからって、このまま話せなくなるのは嫌なの」
私は黙って続きを待つ。
「すぐに今までどおりにはできないかもしれない。少しだけ、苦しくなることもあると思う」
「うん」
「でも、朝倉さんと本の話をしたり、廊下で会ったときに挨拶したりすることまで、なくしたくない」
結衣ちゃんが顔を上げる。
薄茶色の瞳が、まっすぐ私を見ていた。
「これからも、友達でいてくれる?」
「もちろん」
考える必要もなかった。
「これからも普通に話そう。結衣ちゃんが嫌じゃなければ、おすすめの本も教えてほしい」
「……うん」
結衣ちゃんの顔に、ほっとしたような笑みが浮かぶ。
「ありがとう、朝倉さん」
「私の方こそ、言いに来てくれてありがとう」
予鈴までには、まだ少し時間がある。
昨日返した小説の結末について話していると、結衣ちゃんの表情が少しずついつもの柔らかさへ戻っていった。
廊下の向こうで、誰かが立ち止まったような気がした。
視線を向ける。
曲がり角に、長い黒髪が見えた。
「玲奈?」
呼びかけたときには、その姿はもう教室の方へ消えていた。
「黒川さん、いたの?」
「たぶん。教室に戻ってみる」
「うん。またね、朝倉さん」
「またね、結衣ちゃん」
教室へ戻ると、玲奈は自分の席に座っていた。
本を開き、こちらを見ようとしない。
「玲奈、さっき廊下にいた?」
「いたけど」
「呼んだのに」
「聞こえなかった」
「すぐ近くだったよ?」
「自分が大声だから、誰にでも聞こえてると思わないで」
ページをめくる指が、紙の端を強く押さえている。
「どうしたの?」
「何が?」
「また機嫌が悪くなってる」
「別に」
「結衣ちゃんと話してたから?」
玲奈がようやく顔を上げた。
深い紺色の瞳は、驚いたように少しだけ見開かれている。
「どうしてそう思うの?」
「昨日から、結衣ちゃんの話をすると変だから」
「自意識過剰じゃない?」
「私のことじゃなくて、結衣ちゃんのことだよ」
「同じでしょ」
「同じかな?」
玲奈は答えず、本へ視線を戻した。
そのまま、授業が始まるまで一度もページをめくらなかった。
◇
昼休みになる。
私は弁当を持ち、いつものように玲奈の前へ座った。
けれど、玲奈は席を立とうとした。
「どこに行くの?」
「図書室」
「お昼は?」
「あとで食べる」
「じゃあ、私も行く」
「来なくていい」
「どうして?」
「水瀬さんと食べればいいでしょ」
玲奈の口から、また水瀬さんの名前が出る。
やっぱり、結衣ちゃんと話していたことが原因らしい。
「結衣ちゃんは自分のクラスで食べると思うよ」
「聞いてみれば?」
「玲奈と食べるから、聞かない」
「私は一人でいい」
「私はよくない」
玲奈は鞄へ手を伸ばしたまま動きを止めた。
「どうして、いつも私のところに来るの?」
「どうしてって……いつも一緒に食べてるから」
「それだけ?」
「ほかに理由がいる?」
玲奈は何か言いかけ、唇を閉じた。
「もういい」
結局、図書室へは行かず、椅子へ座り直す。
私は少し安心して弁当箱を開いた。
「今日、卵焼きある?」
「ない」
「昨日もそれで、あったよ」
「今日は本当にない」
ふたを開けた玲奈の弁当箱には、卵焼きが二つ入っていた。
「あるよ」
「ひなたの分はない」
「玲奈が二つとも食べるの?」
「そう」
玲奈は本当に一つ目を食べた。
私の弁当箱へ移してくれる気配はない。
いつもなら笑えるやり取りなのに、今日は少しだけ寂しい。
「ねえ、玲奈」
「なに?」
「結衣ちゃんと、何かあった?」
「私が水瀬さんと話したことなんて、ほとんどないでしょ」
「じゃあ、どうして怒ってるの?」
「怒ってない」
「ずっと冷たいよ」
「ひなたが気にしすぎてるだけ」
「気にするよ。玲奈のことだもん」
玲奈の箸が止まった。
けれど、その顔は上がらない。
「……そういうこと、簡単に言わないで」
「どういうこと?」
「……何でもない」
また同じだ。
玲奈は何も教えてくれないまま、私が分からないことに腹を立てる。
胸の奥へ小さな棘が刺さったような気がした。
けれど、昼休みの教室にはクラスメイトがいる。
ここで言い合いをしたくなくて、私は口を閉じた。
その日の昼食は、いつもよりずっと味が薄かった。
玲奈の機嫌が悪いときは、だいたい私に原因がある。
今回も、たぶん私のせいなのだと思う。
けれど、何をしてしまったのかだけが、どうしても分からなかった。
◇
午後になっても、玲奈の態度は変わらなかった。
私が消しゴムを落としても拾ってくれない。
次の授業で使うプリントを一枚取り忘れていても、何も言わない。
自分で気づいて取りに行けば済むことなのに、いつも玲奈がしてくれていたことがなくなるだけで、こんなに落ち着かない。
五時間目と六時間目の間の休み時間、私は鞄から小さな袋を取り出した。
玲奈が好きな、薄い塩味のクラッカーだ。
この前は、チョコレートを一緒に食べたら機嫌が直った。甘いものではないけれど、今回も同じように隣へ座れば、少しは話してくれるかもしれない。
「玲奈、これ食べる?」
袋を差し出す。
「いらない」
「お腹いっぱい?」
「そういう気分じゃないだけ」
「一枚だけでも」
「ひなたが食べれば」
玲奈は袋を見ようともしなかった。
「玲奈が好きだから持ってきたのに」
「水瀬さんにも、そうやって何かあげてるの?」
「結衣ちゃん?」
聞き返した途端、玲奈の眉が寄る。
「……もういい」
「待って。何が聞きたかったの?」
「何も」
玲奈は本を開き、顔の前へ持ち上げた。
ページに隠れて、表情が見えなくなる。
クラッカーの袋を自分の机へ戻したけれど、一人で食べる気にはなれなかった。
私も意地になって、玲奈へ話しかける回数を減らした。
そうすると、玲奈は本当に何も言わなくなった。
隣にいるのに、間に透明な壁ができたみたいだった。
◇
放課後の清掃では、私と玲奈が教室の後ろを担当することになった。
いつもなら、私が机を動かし、玲奈がほうきで集めたごみを取る。
どちらが何をするか、相談したことはない。
私が机へ手をかければ、玲奈は自然に椅子を引く。玲奈がちりとりを置けば、私はそこへ向かってごみを掃く。
長い間一緒にいるうちに、言わなくても分かるようになっていた。
けれど、今日は違った。
私が机を持ち上げても、玲奈は反対側を支えない。
一人で動かそうとして、机の脚が床に引っかかった。
大きな音が教室に響く。
「危ないでしょ」
玲奈が反射的に机の端をつかんだ。
「ありがとう」
「床に傷がつくから」
言いながら、すぐに手を離してしまう。
私は机を少しずつ引き、何とか場所を空けた。
今度はほうきを持つ。
玲奈はちりとりを手にしていたけれど、私とは反対側の列へ行こうとした。
「玲奈、こっちを先にやらない?」
「一人でできるでしょ」
「できるけど、いつも一緒にやってるから」
「いつもと同じじゃないと困るの?」
その言葉に、すぐには答えられなかった。
清掃くらい、一人でできる。
朝だって自分で起きられるし、スカーフも少しくらい曲がっていて構わない。お昼も、玲奈がいなくても食べられる。
困ることなんて、本当は何もないはずだ。
「……困らないよ」
意地になって答える。
「そう」
玲奈は反対側を向いた。
それだけなのに、正しい答えを間違えたような気がした。
清掃が終わるまで、私たちは一度も同じ場所へ立たなかった。
◇
帰りのホームルームが終わる。
私が鞄を持つより早く、玲奈は教室を出ていった。
「玲奈!」
呼んでも振り返らない。
慌てて教科書を鞄へ押し込み、あとを追う。
廊下には帰宅する生徒が多く、長い黒髪を見失いそうになる。
階段を下り、昇降口で靴を履き替える。
校門を出たところで、ようやく玲奈に追いついた。
「待って」
腕へ触れようとすると、玲奈は半歩横へ避けた。
伸ばした手が、何にも触れないまま止まる。
「一人で帰る」
「どうして?」
「そうしたいから」
「私は玲奈と帰りたい」
「今日は水瀬さんと帰れば?」
「どうして結衣ちゃんが出てくるの?」
「水瀬さんじゃなくて、結衣ちゃん、でしょ」
「前からそう呼んでるけど?」
「知ってる」
玲奈は前を向いたまま歩き出す。
私も隣へ並ぶ。
「じゃあ、何が嫌なの?」
「何も嫌じゃない」
「嘘。朝からずっと怒ってる」
「だから、怒ってないって言ってるでしょ」
「だったら、ちゃんとこっちを見てよ」
玲奈が足を止める。
通学路から少し外れた、住宅街の細い道だった。
近くには誰もいない。
風が吹き、玲奈の長い黒髪が頬へかかる。
玲奈はそれを払おうともせず、私を見た。
「ひなたには、もう私に構う必要なんてないでしょ」
「どうして?」
「ほかに大切な人ができたなら、その人のところへ行けばいい」
「結衣ちゃんも大切だよ。でも、それと玲奈に構うことは関係ないでしょ」
「大切」
玲奈が、その言葉を小さく繰り返す。
「そうだよ」
「……誰にでも優しくして、期待させて。ひなたは本当に無神経」
胸の奥を強く押されたような気がした。
「期待って、どういうこと?」
「自分で考えれば」
「分からないから聞いてるんだよ」
「分からないなら、もういい」
「よくないよ。玲奈が怒ってるのに、何も分からないままなんて嫌」
「なら、放っておいて」
「できない」
「どうして?」
「玲奈だからだよ」
私にとって、それで十分な理由だった。
幼稚園の頃から一緒にいて、毎朝迎えに来てくれて、同じ道を歩いてきた。
機嫌が悪ければ気になる。
一人でいたら隣へ行きたくなる。
それが当たり前だった。
「玲奈が一人でいたくても、私がそばにいるのは昔からでしょ」
「それが迷惑だって言ってるの」
言葉の意味を理解するまで、少し時間がかかった。
「……迷惑?」
「そう」
玲奈の声が、かすかに震えている。
けれど、そのときの私は、自分が傷ついたことで精いっぱいだった。
「じゃあ、今までずっと迷惑だったの?」
「そういう意味じゃ」
「玲奈はいつもそうだよ」
今度は私が、玲奈の言葉を遮った。
「何も言わないのに、私が分かってくれないと怒る」
「怒ってない」
「怒ってるよ。何回聞いても理由を教えてくれないで、私が近づいたら逃げて」
「ひなたには分からない」
「分からないよ。玲奈が何も話してくれないんだから」
玲奈の瞳が揺れる。
それでも、私は止まれなかった。
「私、玲奈のことなら大体分かると思ってた。でも、本当は何も分かってなかったのかもしれない」
「……そうね」
小さな声だった。
「ひなたに私の気持ちなんて分からない」
「だから、話してよ」
「言えるわけないでしょ!」
玲奈の声が、静かな道へ響いた。
すぐに玲奈自身が驚いたように口元を押さえる。
深い紺色の瞳が潤んで見えた。
「玲奈?」
さっきまでの怒りが揺らぐ。
手を伸ばそうとする。
けれど、玲奈は一歩後ろへ下がった。
「もう、私のところに来なくていい」
その言葉だけは、はっきり聞こえた。
「……本気で言ってる?」
玲奈は答えない。
ただ、鞄の持ち手を強く握っている。
いつもの玲奈なら、私が離れようとすると袖をつかむ。
寂しそうな顔をして、引き止める代わりに少しだけ近づいてくる。
だから私は、今回もそうしてくれると思っていた。
「分かった」
返事をして、一歩下がる。
玲奈の指が、わずかに動いた。
けれど、私の袖には触れなかった。
「玲奈がそうしたいなら、今日は一人で帰る」
背を向ける。
足を前へ出すたび、玲奈との距離が広がっていく。
呼び止める声は聞こえない。
振り返ったら、また私から近づいてしまう。
だから前だけを見て歩いた。
いつもなら隣から聞こえるローファーの音がない。
くだらない話へ呆れる声も、曲がったスカーフを注意する声もない。
家までの道は何度も歩いてきたはずなのに、今日は知らない場所のように見えた。
玲奈のいない帰り道が、こんなに長いなんて知らなかった。




