第5話 放課後の告白
週明けの朝、目を覚まして最初に見たのは、向かいの窓を覆う濃紺のカーテンだった。
玲奈の部屋は、今朝も閉じたままだ。
金曜日の夜に送った『おやすみ』には、結局返事が来なかった。
週末にも何度かメッセージを送ったけれど、返ってくるのは短い言葉ばかりだった。玲奈は一度も私の部屋へ来ず、向かいのカーテンもほとんど閉じたままだった。
私はベッドの上で身体を起こし、スマートフォンを確認する。
新しい通知はない。
「まだ寝てるのかな」
そう口にしてから、玲奈が私より遅くまで寝ているはずはないと思い直した。
身支度を済ませて玄関へ下りると、呼び鈴が鳴った。
扉を開ける。
そこには、いつもと変わらない制服姿の玲奈が立っていた。
長い黒髪は毛先まできれいに整えられ、淡い青色のスカーフにも少しの乱れもない。
ただ、その顔はいつもより少し眠そうに見えた。
「おはよう、玲奈」
「おはよう」
「迎えに来てくれたんだ」
「いつものことでしょ」
「週末、ちゃんと眠れた?」
「眠れたけど」
「本当?」
「どうしてそんなことを聞くの?」
「ちょっと疲れてそうだから」
「普通よ」
玲奈は私の顔を見ないまま答えた。
外へ出ると、春の風が頬をなでる。
並んで歩き始めても、玲奈はいつもより口数が少なかった。
私が今朝見た夢の話をしても、「そう」としか返ってこない。道端で丸くなっていた猫の話をしても、「遅刻するわよ」と歩く速度を上げてしまう。
それでも、私が靴ひもを結び直すために立ち止まれば、少し先で待っていてくれた。
先に行くことはしない。
だから、たぶん本当に疲れているだけなのだろう。
「玲奈」
「なに?」
「今日、帰ったら一緒に宿題する?」
玲奈の肩が、ほんの少し揺れた。
「今日は無理」
「何かあるの?」
「別に。ただ、一人で勉強したいだけ」
「そっか」
返事をすると、玲奈がこちらを見る。
何か言ってほしそうな顔だった。
けれど、何を待っているのか分からない。
「じゃあ、明日は?」
「……知らない」
「予定を確認してから?」
「そういうことにしておいて」
やっぱり、少し機嫌が悪いらしい。
けれど、学校へ着く前に理由を聞き出すことはできなかった。
◇
午前中の玲奈は、落ち着かなかった。
授業中に女性教師から当てられれば、いつもどおり正しい答えを返す。ノートの文字もきれいで、板書を写す速さも変わらない。
それなのに、休み時間になるたび、玲奈は教室の時計を見た。
三時間目が終わったあとには、閉じたばかりの教科書をもう一度開き、すぐに閉じた。
「玲奈、次は現代文だよ」
「分かってる」
「それ、英語の教科書」
玲奈が手元を見る。
「……片づけようとしただけ」
「今、開いてたよ?」
「見間違いでしょ」
玲奈が教科書を机の中へしまう。
その動きが普段より少しだけ速い。
「本当に大丈夫?」
「何が?」
「金曜日から変だよ」
「ひなたに言われたくない」
「私は今日は何も間違えてないよ」
「そういうところ」
玲奈は小さく息をつき、窓の外へ顔を向けた。
視線の先には、中庭がある。
一年前、結衣ちゃんと初めて話した場所。
そして今日の放課後、結衣ちゃんと待ち合わせている場所だ。
大切な話とは何だろう。
週末の間も考えていたけれど、まだ思い当たらない。
「今日の放課後」
私が言うと、玲奈の指先が止まった。
「結衣ちゃんの話が終わったら、連絡するね」
「しなくていい」
「でも、一緒に帰れるかもしれないよ」
「待たないから」
「話はそんなに長くならないと思うけど」
「二人でゆっくり話せばいいでしょ」
強い声に、近くで話していたクラスメイトが一瞬だけこちらを見る。
玲奈もそれに気づいたのか、口を閉じた。
「玲奈?」
「……授業、始まるから」
ちょうど始業のチャイムが鳴る。
玲奈は前を向き、それ以上は何も言わなかった。
◇
昼休み、私は玲奈の前の席へ座った。
いつものように一緒に食べようと思ったのに、玲奈はまだ弁当箱を出していなかった。
「お昼、食べないの?」
「食べる」
「じゃあ、早く出さないと休み時間が終わるよ」
「分かってる」
玲奈は鞄を開き、きれいに包まれた弁当箱を取り出す。
ふたを開けても、なかなか箸を動かさない。
「食欲ない?」
「ある」
「卵焼き、もらってあげようか?」
「それはいつもでしょ」
玲奈は卵焼きを一つつまみ、私の弁当箱へ入れた。
「ありがとう」
「見つめられると食べにくいだけ」
金曜日とほとんど同じやり取りに、少し安心する。
「今日の放課後なんだけど」
「またその話?」
「終わったら、昇降口で待っててくれない?」
「どうして?」
「一緒に帰りたいから」
「水瀬さんと帰ればいいでしょ」
「結衣ちゃんは別のクラスだし、帰る方向も違うよ」
「そう」
「玲奈と帰りたいの」
そう言うと、玲奈は箸を止めた。
深い紺色の瞳が、ようやく私を見る。
「……何時まで?」
「分からないけど、そんなに遅くならないと思う」
「五時まで」
「待っててくれるの?」
「図書室に用事があるから。そのついで」
「うん。ありがとう」
玲奈は私から目をそらし、残っていた卵焼きを自分の口へ運んだ。
わずかに緩んだ口元を見て、今度こそ機嫌が直ったと思った。
◇
けれど、放課後が近づくにつれて、玲奈はまた落ち着かなくなった。
帰りのホームルームが終わる。
教室のあちこちで椅子を引く音が重なり、クラスメイトたちが帰り支度を始めた。
私は机の中を確認し、結衣ちゃんから借りていた小説を鞄へ入れる。
この前読み終わったので、今日返そうと思って持ってきたものだ。
「玲奈、図書室に行くんだよね?」
「そのつもりだけど」
「じゃあ、あとで昇降口で」
「……ひなた」
「なに?」
玲奈は何かを言いかけた。
そのまま数秒、私を見つめる。
「玲奈?」
「やっぱり、何でもない」
「そう?」
「早く行けば。待たせてるんでしょ」
「うん。行ってくるね」
教室を出る直前に振り返る。
玲奈は自分の席に座ったまま、鞄へ手を伸ばそうともしていなかった。
目が合う。
けれど、玲奈はすぐに窓の外へ視線をそらしてしまった。
◇
中庭へ続く廊下は静かだった。
放課後になったばかりで、校舎にはまだ多くの生徒が残っている。それでも、教室や昇降口から離れたこの場所まで来る人は少ない。
開いた窓から、暖かな風が入ってくる。
中庭では、結衣ちゃんがあの日と同じベンチの前に立っていた。
薄いベージュ色のカーディガンを着て、濃紺の通学鞄を両手で持っている。鞄についた淡いピンク色の花のキーホルダーが、風に揺れていた。
「結衣ちゃん」
声をかけると、結衣ちゃんが振り向いた。
「朝倉さん」
「待たせた?」
「ううん。私も今来たところ」
「よかった」
結衣ちゃんの前まで歩き、鞄から借りていた小説を取り出す。
「これ、ありがとう。すごく面白かった」
「もう読んでくれたんだ」
「週末、続きが気になって少し夜更かししちゃった」
「寝坊しなかった?」
「今日は玲奈が迎えに来る前に起きたよ」
「黒川さん、毎朝迎えに来るの?」
「うん。私が寝坊するから」
「……そうなんだ」
結衣ちゃんは本を受け取り、大切そうに胸元へ抱えた。
それから私の顔を見て、視線を落とす。
いつもなら本の感想を尋ねてくれるのに、今日は何も言わない。
「結衣ちゃん?」
「ごめん。少し、緊張してて」
「大切な話って、何か困ってること?」
「困っているというか……ずっと言いたかったことなの」
結衣ちゃんはベンチへ視線を向けた。
「入学したばかりの頃、私に声をかけてくれたこと、覚えてる?」
「うん。ここに座ってたよね」
「覚えてくれてたんだ」
「もちろん。結衣ちゃん、ずっと一人だったから。迷惑じゃなかった?」
「ううん」
結衣ちゃんはすぐに首を横へ振った。
「あの頃の私、教室で誰に話しかければいいのか分からなかったの。みんなはもう仲のいい子を見つけているように見えて、今さら会話に入ったら迷惑かなって」
私は黙って聞く。
「だから、お昼を食べたあと、いつもここへ逃げてた」
「逃げてたの?」
「うん。教室に一人でいるより、最初から一人になるために来た方が平気だと思って」
そんなふうに考えていたことを、私は知らなかった。
ただ、中庭に一人でいる結衣ちゃんを見つけて、隣に座っただけだ。
「朝倉さんが来たときも、最初は心配して声をかけてくれたんだと思った」
「心配というより、ここで一緒に話したかっただけだよ」
「うん。朝倉さんは、そういう顔をしてた」
「どういう顔?」
「自分がここに座りたいから来たっていう顔」
「そんな顔だったかな」
「そうだったよ。だから、うれしかった」
結衣ちゃんが小さく笑う。
けれど、その笑顔はすぐに消えた。
「次の日も来てくれた。雨の日は、私が中庭にいないからって、校内を探してくれた」
「渡り廊下にいたよね」
「廊下ですれ違うたびに話しかけてくれて、本を読んだら感想を送ってくれて。朝倉さんにとっては、何でもないことだったかもしれないけど」
結衣ちゃんが、胸元の本を抱く腕に力を込める。
「私にとっては、何でもないことじゃなかった」
声が震えていた。
私はようやく、これは悩みを相談される場面ではないのかもしれないと思った。
けれど、それが何なのかを考えるより先に、結衣ちゃんが本を抱く腕を緩めた。
結衣ちゃんの指先が、鞄についた花のキーホルダーへ触れる。
小さく息を吸ってから、結衣ちゃんは顔を上げた。
穏やかな薄茶色の瞳が、まっすぐ私を見ていた。
「朝倉さんが好き」
風が吹いた。
頭上で葉が重なり、さらさらと音を立てる。
「友達としてじゃなくて、一人の女の子として好きです」
胸の奥で、心臓が一度大きく鳴った。
「よかったら、私と付き合ってください」
回廊の方から、靴音が聞こえた。
誰かが走り去るような、短く乱れた足音。
そちらへ目を向けると、白い柱の向こうで長い黒髪のようなものが一瞬だけ揺れた。
けれど、すぐに見えなくなる。
「朝倉さん?」
結衣ちゃんの声に呼ばれ、私は正面へ向き直った。
「ごめん。誰かいたのかと思って」
「……聞かれたかな」
「分からない。でも、もう行ったみたい」
結衣ちゃんの頬が赤くなる。
私はもう一度、今聞いた言葉を頭の中で繰り返した。
結衣ちゃんが、私を好き。
友達ではなく、恋人になりたいと思っている。
驚いた。
けれど、嫌ではなかった。
結衣ちゃんが勇気を出して伝えてくれたことが、素直にうれしい。
だからこそ、曖昧な返事をしてはいけないと思った。
もし、結衣ちゃんと付き合ったら。
一緒に本を読んだり、休日に出かけたりするのだろう。今よりたくさん話して、今まで知らなかった結衣ちゃんのことも知っていくのかもしれない。
穏やかで、優しくて、一緒にいると落ち着く。
それでも、その想像の中の私は、今ここにいる私からどこか遠かった。
胸が高鳴るのではなく、申し訳ない気持ちばかりが大きくなる。
私は結衣ちゃんのことを大切に思っている。
でも、それは結衣ちゃんが望んでいる「好き」とは違う。
「ありがとう」
結衣ちゃんが、両手に力を込める。
「すごくうれしい。でも、ごめんなさい」
薄茶色の瞳が、わずかに揺れた。
それでも、結衣ちゃんは目をそらさなかった。
「結衣ちゃんのことは友達として大切だけど、恋人としては考えられない」
「……うん」
返事は小さかった。
「本当にごめん」
「謝らないで。私が伝えたかったから、伝えただけなの」
結衣ちゃんは笑おうとした。
けれど、唇が少し震えている。
「困らせたよね」
「困ってないよ。ただ、ちゃんと答えなきゃって思って」
「朝倉さんらしいね」
「そうかな」
「うん。優しいけど、こういうときは変に期待させないんだね」
その言葉に、何と返せばいいのか分からなかった。
結衣ちゃんは胸元に抱いていた本を鞄へしまう。
その指が、かすかに震えていた。
「少しだけ、一人にしてもらってもいい?」
「でも」
「大丈夫。ちゃんと帰るから」
結衣ちゃんが顔を上げる。
目の端に、透明な涙が浮かんでいた。
私は思わず手を伸ばしかける。
けれど、今の私が触れることで、かえって結衣ちゃんを傷つけるかもしれない。
行き場をなくした手を、ゆっくり下ろした。
「分かった」
「ごめんね」
「結衣ちゃんが謝ることじゃないよ」
「……ありがとう」
私は一度だけ振り返り、中庭をあとにした。
ベンチの前に立つ小さな背中が、春の光の中でかすかに震えていた。
◇
昇降口へ向かいながら、さっきの足音を思い出す。
一瞬見えた長い黒髪。
玲奈に似ていた気がする。
けれど、玲奈は図書室にいるはずだ。
それに、もし玲奈なら、声をかけずに行ってしまうだろうか。
考えても分からないまま靴を履き替え、外へ出る。
玲奈は校門の近くに立っていた。
長い黒髪が風に揺れている。
「玲奈」
呼びかける。
玲奈はこちらを見た。
よく見ると、玲奈の呼吸がわずかに乱れていた。
「玲奈、走った?」
「……図書室を出るのが遅くなっただけ」
「まだ五時前だよ?」
「待たせるよりはいいでしょ」
いつもは本を読んで待っているのに、今日は鞄を両手で強く持っていた。
その顔は、ひどく冷たく見えた。
「待っててくれたんだ」
「五時までって言ったから」
時計を見ると、まだ五時には少し時間がある。
「ありがとう。帰ろう」
「……話、終わったの?」
「うん」
玲奈は次の言葉を待つように、黙ったまま私を見る。
私は結衣ちゃんの涙を思い出した。
告白されたことは、私だけの話ではない。
結衣ちゃんが勇気を出して伝えてくれた、大切な気持ちだ。
本人の許可もなく、誰かに話していいことではないと思った。
「少し長くなっちゃった」
「……そう」
玲奈の指が、鞄の持ち手へ食い込む。
「何の話だったの?」
聞かれて、私は迷った。
相談ではなかった。
けれど、本当のことも言えない。
「ごめん。結衣ちゃんのことだから、勝手には話せない」
「私にも?」
「うん」
玲奈の表情が固まった。
「そっか」
「玲奈に隠したいわけじゃないよ」
「分かってる」
声は静かだった。
静かすぎて、何を考えているのか分からない。
「帰ろう」
「……そうね」
私たちは並んで歩き出した。
いつもと同じ帰り道。
それなのに、玲奈は少し離れたところを歩いている。
肩が触れそうだった先週までの距離に、今日は一人分の隙間があった。
「玲奈、もう少しこっち歩かない?」
「どうして?」
「自転車が来たら危ないから」
「この道、自転車なんてほとんど通らないでしょ」
「そうだけど」
私が距離を詰めると、玲奈は同じだけ端へ寄った。
避けられたように感じて、胸の奥が少し痛む。
「玲奈」
「なに?」
「やっぱり、怒ってる?」
「怒ってない」
「でも」
「疲れただけ」
金曜日と同じ答えだった。
今度は、それをそのまま信じることができなかった。
玲奈は、結衣ちゃんと何を話したのか、それ以上尋ねなかった。
それでも私は、玲奈が結衣ちゃんの告白を聞いていたとは思わなかった。
だから、互いに口にしないまま、帰り道だけが過ぎていく。
やがて、隣り合った二軒の家が見えてきた。
いつもなら玲奈は、低い生け垣の間から私の家へついてくる。
けれど今日は、自分の家の前で足を止めた。
「玲奈、うちに来ないの?」
「今日は行かない」
「朝もそう言ってたけど……本当に?」
「一人で勉強したいから」
「分かった。じゃあ、あとでメッセージする」
「しなくていい」
「また?」
「今日は返せないと思う」
玲奈は一度だけ私を見た。
深い紺色の瞳が、何かを尋ねているように見える。
けれど、次の瞬間には顔をそらしてしまった。
「また明日」
「うん。また明日」
玲奈は自分の家へ入っていく。
私は隣の玄関へ向かいながら、何度も振り返った。
今日、玲奈が隣に来ない理由を、私はまだ知らなかった。




