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幼馴染の機嫌が悪いのは、たぶん私のせい。  作者: situ725


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第4話 放課後の約束

朝、目を覚ますと、隣にいたはずの玲奈はもう制服へ着替えていた。


 鏡の前に立ち、長い黒髪を丁寧にとかしている。


「おはよう、玲奈」


「遅い」


「今日は玲奈がいるから、起こしてくれると思って」


「私がいない日も起きなさい」


 身体を起こすと、掛け布団から手が出た。


 指先に、誰かの手の温かさが残っているような気がする。


 昨夜、玲奈と何か話しただろうか。


 眠る前のことを思い出そうとしたけれど、雷の音と、玲奈がすぐ近くにいたことしか浮かばない。


「どうしたの?」


「ううん。よく眠れたなって」


「そう」


 玲奈は短く答え、鏡へ視線を戻した。


 長い髪に隠れて表情は見えない。


「玲奈も眠れた?」


「普通」


「雷、ずっと鳴ってたのに?」


「途中で止んだでしょ」


「そうだっけ?」


「ひなたは、一度寝たら起きないから」


 確かに、いつ雷が止んだのか覚えていない。


 私はもう一度枕へ頭を戻した。


「じゃあ、あと五分」


「起きたんじゃなかったの?」


 玲奈に布団をはがされ、いつもの朝が始まった。


 着替えて一階へ下りると、お母さんが朝食を並べていた。


「玲奈ちゃん、昨日はよく眠れた?」


「はい。遅くまでお邪魔しました」


「お邪魔って、いつもいるじゃない」


「ひなたは少し黙ってて」


 玲奈は澄ました顔で椅子へ座った。


「雷も途中で遠くなってよかったわね」


「私は雷が理由で泊まったわけではありません」


「そうだったわね。勉強を教えに来てくれたのよね」


 お母さんは笑いをこらえているように見える。


 玲奈は黙ってトーストを一口かじった。


「玲奈、顔が赤いよ」


「熱い紅茶を飲んだから」


「まだ飲んでないけど」


「ひなた」


「はい」


 これ以上言うと本当に怒られそうなので、私は自分の朝食へ手を伸ばした。


 向かいに座る玲奈の機嫌は悪そうだったけれど、昨夜よりも表情は柔らかかった。


     ◇


 その日は金曜日だった。


 四時間目は体育だった。


 私たちのクラスと、結衣ちゃんのクラスが合同で授業を受けることになっている。


 校庭へ出ると、昨日の雨が嘘のように空が晴れていた。風は涼しいけれど、日差しは少し強い。


 授業の内容は千二百メートル走。


 女性教師から説明された瞬間、隣にいた玲奈が小さく息をついた。


「玲奈、走る前から疲れてる?」


「気持ちを整えてるの」


「走り終わってから整えた方がよくない?」


「走り終わったら、整える気力も残ってないから」


 玲奈は体育のときだけ、長い黒髪を低い位置で一つに結んでいる。


 普段より軽そうに見えるのに、本人の足取りはいつもより重い。


「最初から飛ばさなければ大丈夫だよ」


「ひなたは簡単に言うけど」


「私も速くはないから、一緒に走ろう」


「先に行っていい」


「途中で倒れられたら困るし」


「倒れない」


 言い切った玲奈の顔には、すでに不安が浮かんでいた。


 スタート位置へ並ぶ。


 少し離れた列には結衣ちゃんがいた。


 目が合うと、結衣ちゃんが控えめに手を振る。


 私も手を振り返した。


 その直後、玲奈が私と結衣ちゃんの間へ半歩ずれた。


「玲奈、そこだと走りにくくない?」


「こっちの方が線に近いだけ」


「そう?」


 白線は私たちの足元にまっすぐ引かれている。どちら側でも変わらないように見えたけれど、玲奈がそう言うなら、その場所がいいのだろう。


 笛の音とともに走り出す。


 最初の一周は、玲奈も周りについていた。


 二周目に入ると、少しずつ呼吸が荒くなる。


 三周目には、前を走る集団との距離が大きく開いた。


「ひなた、先に行って」


「大丈夫。これくらいなら」


「私に合わせたら、ひなたまで遅くなる」


「今日は記録を取らないって言ってたでしょ」


「そういう問題じゃない」


「じゃあ、どういう問題?」


 玲奈は答えなかった。


 答える余裕がないのかもしれない。


「腕をもう少し振ると楽になるよ」


「振ってる」


「気持ちの上だけじゃなくて?」


「……あとで覚えてなさい」


 怒る元気は残っているらしい。


 私は玲奈の横から離れず、少しだけ速度を落とした。


 追い越していく生徒の中に、結衣ちゃんの姿があった。


 結衣ちゃんは私たちを振り返ったけれど、そのまま前へ進んでいった。


 最後の一周に入る。


「玲奈、あと少し」


「その言葉、さっきも聞いた」


「今度は本当にあと少し」


「信用できない」


「ゴールが見えてるでしょ」


 玲奈は顔を上げた。


 白い線まで、あと半周。


「少しだけ速くするよ」


「無理」


「じゃあ、このままでいい。一緒に行こう」


 玲奈の歩幅に合わせ、最後まで隣を走った。


 ゴールを越えた瞬間、玲奈の足が止まる。


「急に止まったら危ないよ」


「もう走れない」


「少し歩かないと――」


 言い終わる前に、玲奈の身体がこちらへ傾いた。


 慌てて肩を支える。


「ほら、やっぱり」


「倒れてない」


「私が支えたからでしょ」


「少しよろけただけ」


 玲奈は私の肩へ手を置いたまま、苦しそうに呼吸を整えている。


 無理に離す必要もないので、そのまま日陰まで歩いた。


「朝倉さん、黒川さん」


 先に走り終えていた結衣ちゃんが、タオルを手に近づいてきた。


「黒川さん、大丈夫?」


「大丈夫。少し疲れただけ」


「少しには見えないけど」


「ひなたは黙ってて」


 結衣ちゃんは心配そうに玲奈を見たあと、私へ視線を移した。


「朝倉さん、もっと速く走れたよね?」


「少しは。でも、今日は記録を取らないから」


「黒川さんのために?」


「一人より一緒の方が走りやすいでしょ」


「私は一人でも走れた」


「最後、倒れそうだったよ」


「倒れてない」


 玲奈が身体を起こす。


 その拍子に、髪を結んでいた紺色のゴムがほどけた。


 長い黒髪が肩から背中へ広がる。


「玲奈、動かないで」


 拾ったゴムを手首へ通し、乱れた髪をまとめる。


「自分でできる」


「今、腕を上げたらまた疲れるでしょ」


「そこまで弱くない」


「じっとしてた方が早いよ」


 汗で髪が絡まないよう、指で整えてから低い位置で結び直した。


「きつくない?」


「……大丈夫」


「はい、できた」


 玲奈の肩を軽くたたく。


 顔を上げると、結衣ちゃんが私たちを見ていた。


 驚いているというより、何かを確かめるような静かな目だった。


「どうしたの?」


「ううん。本当に、いつも一緒なんだと思って」


「家でも学校でも一緒だからね」


「そうだね」


 結衣ちゃんは微笑んだ。


 けれど、握っているタオルには少しだけ力が入っていた。


 女性教師から、走り終えた生徒はゆっくり歩くよう声がかかった。


「玲奈、もう少し歩けそう?」


「一人で大丈夫」


「本当に?」


「ひなたに支えられている方が目立つから」


 玲奈は私の肩から手を離し、ゆっくり歩き始めた。


 足取りを確かめていると、隣に残った結衣ちゃんが口を開く。


「朝倉さんは、黒川さんを置いていかないんだね」


「置いていく?」


「さっきの持久走。朝倉さんなら、もっと前へ行けたのに」


「でも、玲奈は一人だと無理するから」


「黒川さんが、そう言ったの?」


「言わないよ。玲奈は大丈夫じゃなくても、大丈夫って言うから」


 さっきも倒れていないと言い張っていた。


「だから、私が見てないと」


「朝倉さんは、黒川さんのことをよく見てるんだね」


「幼馴染だからね」


 結衣ちゃんは玲奈の背中へ視線を向けた。


 低い位置で結んだ黒髪が、歩くたびに静かに揺れている。


「……幼馴染だから」


 私の言葉を確かめるように、結衣ちゃんが小さく繰り返した。


「結衣ちゃん?」


「ううん。何でもない」


 結衣ちゃんは一度だけ息を整え、何かを決めたように顔を上げた。


     ◇


 体育が終わり、着替えて教室へ戻る途中だった。


「朝倉さん」


 階段の前で、結衣ちゃんに呼び止められた。


 玲奈も隣にいる。


「どうしたの?」


「少し、話したいことがあるの」


 結衣ちゃんは胸元で両手を重ね、一度だけ指先に力を込めた。


 それから、顔を上げて私をまっすぐ見る。


「月曜日の放課後、時間をもらってもいい?」


「週明け?」


「うん。中庭で待ってる」


「いいよ。本の話?」


 昨日、三人で話した小説の続きだろうか。


 そう思って尋ねたけれど、結衣ちゃんはすぐには答えなかった。


「それも少しあるけど……もっと大切な話」


「大切な話?」


「今は、まだ言えないの」


 結衣ちゃんの声は小さい。


 それでも視線はそらさず、返事を待っている。


「分かった。月曜日の放課後に中庭だね」


「ありがとう」


 結衣ちゃんはほっとしたように笑った。


「急に呼び止めてごめんなさい。それじゃあ、また月曜日」


「うん。また月曜日」


 結衣ちゃんが自分の教室へ向かう。


 私はその背中を見送り、隣の玲奈へ顔を向けた。


「何の話だろうね」


「私に聞かれても知らない」


「本の感想じゃないみたい」


「本人に聞けばよかったでしょ」


「今は言えないって」


「だったら、月曜日まで待つしかないんじゃない」


 玲奈は先に階段を上り始めた。


 私は後を追う。


「玲奈、待って」


「待ってる」


「歩くの速いよ」


「ひなたが遅いだけ」


 体育で疲れていたはずなのに、今度は追いつくのが大変だった。


     ◇


 午後の授業中、玲奈はいつもより静かだった。


 普段から授業中に話すわけではないけれど、休み時間になっても本を開いたまま、ほとんど顔を上げない。


 同じページが長く開かれているので、読んでいないことは分かった。


「玲奈」


「なに?」


「髪、痛くない? きつく結びすぎた?」


 体育のあとでほどいた黒髪は、いつものように背中へ流れている。


「大丈夫」


「じゃあ、疲れた?」


「少し」


「帰ったら、うちで休む?」


「……そうする」


 返事までに、少し間があった。


「水瀬さんとの約束」


「うん?」


「月曜日の放課後、二人で話すの?」


「そのつもりだけど」


「そう」


「玲奈も気になる?」


「別に。水瀬さんとは、普段からよく連絡を取ってるの?」


「毎日じゃないよ。本の話をしたり、面白いものを見つけたら送ったりするくらい」


「どちらから?」


「どっちからも」


「そう」


「玲奈、やっぱり結衣ちゃんと話してみたいの?」


「どうしてそうなるの?」


「いろいろ聞くから」


「ひなたが約束を忘れないか確認してるだけ」


「週明けのことなら、さすがに覚えてるよ」


「どうだか」


 玲奈はそれ以上聞かなかった。


 けれど、本を持つ指に少しだけ力が入っている。


「玲奈も来る?」


「私が呼ばれたわけじゃないでしょ」


「三人で話せることかもしれないよ」


「大切な話なら、二人で聞けば」


 冷たい声だった。


 けれど、怒っているというより、不安そうに聞こえる。


「大丈夫だよ。終わったら、一緒に帰ろう」


「……好きにすれば」


 玲奈は本へ視線を戻した。


 また同じページのままだった。


     ◇


 放課後、玲奈はいつものように私の部屋へ来た。


 私は制服の袖を軽くまくり、机で宿題を始める。


 玲奈はベッドの壁側に座り、本を開いていた。


 いつもと同じ光景だ。


 ただ、ページをめくる音だけが、今日はなかなか聞こえない。


「玲奈、さっきから読んでないよね」


「読んでる」


「ページが変わってないよ」


「じっくり読んでるの」


「小説の同じページを十分も?」


「ひなたは宿題に集中して」


 返事がいつもより少し強い。


 私は素直にノートへ視線を戻した。


 英語の問題を二問解いたところで、ベッドの上に置いていたスマートフォンが震える。


 画面が明るくなった。


 私より近くにいた玲奈が、音に反応してそちらを見る。


「ひなた、メッセージ」


「誰から?」


 椅子から立ち、スマートフォンを手に取る。


 画面には、結衣ちゃんの名前が表示されていた。


『月曜日の放課後、中庭で待っています。急にごめんなさい。大切な話なので、二人だけで話せたらうれしいです』


「結衣ちゃんだ」


「……そう」


「月曜日の確認だって。忘れないようにしないと」


「二人だけで、って書いてある」


「うん。ほかの人には聞かれたくない話なのかも」


「そこまで大切な話を、どうしてひなたにするの?」


「分からない。何か相談かな」


「ひなたに?」


「玲奈、その言い方はひどくない?」


「事実でしょ。ひなたは相談されても、すぐ顔に出るから」


「秘密にしてって言われたら、ちゃんと守るよ」


「……そう」


 玲奈は本の表紙を押さえたまま、画面から目を離した。


 私は短く返信する。


『分かった。放課後に行くね』


 送信したあと、玲奈を見る。


 玲奈は本を閉じ、鞄へ入れようとしていた。


「もう帰るの?」


「帰る」


「来たばかりだよ?」


「今日は家でやることがあるから」


「宿題なら、ここで一緒にやればいいのに」


「一人でできる」


「玲奈ができるのは知ってるけど」


 長い黒髪が揺れる。


 玲奈は立ち上がり、鞄を肩へかけた。


「玲奈」


「なに?」


「本当にどうしたの?」


「何もない」


「でも、結衣ちゃんとの約束を聞いてから変だよ」


「疲れてるだけ」


「体育のせい?」


「そう。だから、今日は帰る」


 説明は通っているようで、どこか違う気がした。


 それでも、無理に引き止めるほどの理由を私は持っていない。


「分かった。またあとでメッセージするね」


「しなくていい」


「どうして?」


「今日は早く寝たいから」


「じゃあ、おやすみだけ送る」


「……好きにすれば」


 玲奈は私と目を合わせないまま、部屋を出ていった。


 階段を下りる音。


 玄関が開き、少しして閉まる音が聞こえた。


 私は部屋に一人で残された。


 いつもなら、玲奈が帰るときには庭側の道を通る姿が窓から見える。


 窓辺へ近づくと、低い生け垣の向こうを歩く黒髪が見えた。


 玲奈は一度もこちらを振り返らず、隣の家へ入っていった。


 しばらくして、向かいにある玲奈の部屋の明かりがついた。


 窓の向こうに、玲奈の細い影が見える。


 私は窓越しに手を振った。


 玲奈も私に気づいたはずだった。


 けれど、手を振り返すことなく、濃紺のカーテンを閉めてしまう。


「玲奈……?」


 呼んでも、窓を隔てた向こう側へ声は届かなかった。


     ◇


 夜になってから、玲奈へ約束どおりメッセージを送った。


『おやすみ』


 既読はすぐについた。


 けれど、返事は来なかった。


 机に向かっていても落ち着かず、私は窓の方を見る。


 普段なら、向かいにある玲奈の部屋の明かりが見える。


 目が合えば手を振ることもあるし、カーテン越しの影だけで、玲奈が本を読んでいるのか、机に向かっているのか分かることもあった。


 今夜も部屋の明かりはついている。


 けれど、窓は濃紺のカーテンで隙間なく閉ざされていた。


『怒ってる?』


 もう一通送ろうとして、指を止める。


 玲奈は早く寝たいと言っていた。


 何もないとも言っていた。


 だから、きっと疲れているだけだ。


 そう思うのに、胸の奥に小さな引っかかりが残る。


 いつもなら見えるはずの玲奈の部屋が、その夜はやけに遠く感じられた。

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