第3話 一緒に眠る理由
昼休みを知らせるチャイムが鳴ると同時に、教室の扉から顔をのぞかせた生徒がいた。
柔らかな焦げ茶色のボブヘアに、薄いベージュ色のカーディガン。
結衣ちゃんだ。
私と目が合うと、少し緊張していた表情が柔らかくなる。
「朝倉さん、今、いい?」
「うん。どうしたの?」
私が席を立つと、結衣ちゃんは胸元で両手を重ねた。
「昨日話していた本のことなんだけど……よかったら、お昼を食べながら話さない?」
「いいよ。中庭に行く?」
「うん」
一年前、私たちが初めて話した場所だ。
あの頃と違い、今の結衣ちゃんは自分から教室まで誘いに来てくれた。それが何となくうれしい。
「じゃあ、玲奈も呼んでくるね」
「黒川さんも?」
「いつも一緒に食べてるから。結衣ちゃんもいい?」
「もちろん」
結衣ちゃんは迷わずうなずいた。
私は玲奈の席へ向かう。
玲奈はすでに弁当箱を机へ出し、膝の上に本を開いていた。
「玲奈、今日は中庭で食べない?」
「どうして?」
「結衣ちゃんに誘われたの。本の話をするんだって」
ページを押さえていた玲奈の指が止まる。
「そう。行ってくれば」
「玲奈は?」
「私はここで食べる」
「結衣ちゃんも、玲奈が来ていいって」
「別に、私が行く必要はないでしょ」
玲奈は本から顔を上げない。
昨日、チョコレートを一緒に食べてからは普段どおりだったのに、また返事が短くなっている。
「そっか。じゃあ、結衣ちゃんと二人で行ってくるね」
「……そうすれば」
玲奈がページをめくった。
けれど、さっきから本を上下逆さまに持っている。
「玲奈」
「なに?」
「その本、読みづらくない?」
玲奈は手元を見た。
一瞬だけ固まり、何も言わずに本を回転させる。
「今日は、こういう気分なの」
「逆さまに読む気分?」
「早く行けば?」
顔を上げた玲奈は、明らかに不機嫌だった。
来なくていいと言っているのに、私が本当に行こうとすると怒る。いつものこととはいえ、今日も理由が分からない。
「朝倉さん」
後ろから、結衣ちゃんの声がした。
振り向くと、結衣ちゃんが私たちの少し手前に立っている。
「黒川さん。もし迷惑じゃなかったら、一緒に来てくれない?」
「私は、本の話に興味がないから」
「ほかの話でも大丈夫。三人で食べてみたいの」
結衣ちゃんは玲奈の冷たい返事にも目をそらさなかった。
無理に距離を縮めようとしているのではなく、自分の気持ちをきちんと言葉にしている。
玲奈はしばらく結衣ちゃんを見つめ、それから私へ視線を移した。
「ひなたは、私が来た方がいいの?」
「うん。一緒に食べたい」
「……そこまで言うなら行く」
玲奈は本を閉じ、弁当箱と鞄を持って立ち上がった。
来る必要はないと言っていたのに、私が誘うと来てくれる。
「玲奈、ありがとう」
「お礼を言われるようなことじゃない」
声はまだ素っ気ないけれど、眉間に寄っていたしわは少しだけ薄くなっていた。
◇
中庭には、春の柔らかな日差しが降り注いでいた。
桜はほとんど葉へ変わり、枝の間から落ちた光が地面に揺れている。
私たちは一年前と同じベンチの周りで昼食を取ることにした。
私と玲奈がベンチに座り、結衣ちゃんは向かい側の椅子へ腰を下ろす。
「ここ、懐かしいね」
「うん」
結衣ちゃんはベンチを見て、控えめに笑った。
「朝倉さん、あの日も同じ場所に座ってた」
「そうだっけ?」
「私が右側で、朝倉さんが左側」
「よく覚えてるね」
「大切な日だから」
結衣ちゃんの声は小さかったけれど、隣の玲奈にも聞こえたらしい。
玲奈が弁当箱を開けながら、結衣ちゃんへ視線を向ける。
「大切な日?」
「私が朝倉さんと初めて話した日なの」
「ひなたはいろいろな人に声をかけるから、覚えてないこともあると思うけど」
「玲奈、どうしてそんな言い方するの」
「事実でしょ」
結衣ちゃんは少し驚いたあと、困ったように笑った。
「そうかもしれない。でも、私は覚えていたかったから」
穏やかな返事だった。
玲奈はそれ以上何も言わず、お弁当のおかずを口へ運ぶ。
空気が少し硬くなった気がして、私は鞄から昨日話題にした小説を取り出した。
「結衣ちゃん、どこが一番好きだった?」
「最後に二人が駅で話すところ。離れていた時間も、無駄じゃなかったって分かるから」
「分かる。あそこ、よかったよね」
「朝倉さんは?」
「私は途中のお祭りかな。食べ物が全部おいしそうだった」
「物語じゃなくて食べ物なんだ」
「大事だよ。焼きそばの描写、すごかったでしょ?」
結衣ちゃんが笑う。
「玲奈も読んだことある?」
「ある」
「やっぱり。玲奈、うちの部屋で読んでたよね」
「ひなたが貸してきたから」
「黒川さんは、どの場面が好き?」
結衣ちゃんに尋ねられ、玲奈は少し考えた。
「主人公が、言葉にしなければ伝わらないって気づくところ」
「玲奈らしいね」
「どういう意味?」
「言葉を大切にしてる感じがする」
玲奈は納得できないような顔をした。
結衣ちゃんは、そんな玲奈を見て少しだけ目を細める。
最初は硬かった空気も、本の話をしているうちに和らいでいった。
私は弁当箱を開ける。
今日のおかずは、昨夜の残りをお母さんが詰めてくれたものだ。
玲奈の弁当箱には、いつもの甘い卵焼きが入っている。
「玲奈、卵焼き」
「昨日も食べたでしょ」
「今日の分はまだ」
「毎日取るつもり?」
「だめ?」
「自分のおかずを食べなさい」
そう言いながら、玲奈は卵焼きを一つ、私の弁当箱へ入れた。
「ありがとう」
「どうせ断っても、ずっと見てくるから」
「ひなた、じっとして」
「なに?」
玲奈が私の頬へ手を伸ばし、指先で何かを取った。
「ご飯粒」
「ついてた?」
「高校生なんだから、もう少しきれいに食べて」
「ありがとう」
いつものことなので気にしなかったけれど、向かいに座る結衣ちゃんは少し驚いた顔をしていた。
「黒川さん、朝倉さんの好きなものをよく知ってるんだね」
結衣ちゃんの言葉に、玲奈が箸を止める。
「家が隣だから。これくらい普通よ」
「そうなんだ」
「玲奈は私がピーマンを苦手なのも知ってるよ」
「ひなた。余計なことを言わないで」
「どうして?」
私の弁当箱には、いつの間にか玲奈の弁当から移された小さなピーマンのおかずが入っていた。
代わりに、私の弁当箱にあった煮物が一つ減っている。
「あれ? 交換した?」
「ひなたが野菜を残すから」
「ピーマンだけだよ」
「好き嫌いに数は関係ない」
「でも、玲奈もこの煮物が好きでしょ」
「……偶然よ」
何が偶然なのかは分からない。
喉が渇き、私は鞄の中を探した。
「あれ、水筒がない」
「ひなた、水筒を忘れたでしょ」
玲奈が自分の鞄から、まだ開けていない小さな紙パックのお茶を取り出した。
「どうして分かったの?」
「朝、ひなたの鞄に入ってなかったから」
「見てたの?」
「スカーフを直すときに、鞄が開いてたから見えただけ」
「さすが玲奈。ありがとう」
お茶を受け取る私たちを、結衣ちゃんが静かに見つめていた。
「二人は、言わなくても相手のことが分かるんだね」
「うん。玲奈のことなら、だいたい分かるよ」
「ひなたの考えてることが、分かりやすすぎるだけ」
「玲奈のことだって分かるよ。機嫌が悪いときとか」
「理由は分かってないでしょ」
「理由まで分からなくても、そばにいれば直るから」
玲奈は何か言いかけたけれど、結局何も言わずにお弁当へ視線を戻した。
結衣ちゃんは私たちの弁当箱を見比べていた。
「二人は、いつもこうなの?」
「こうって?」
「お互いのおかずを交換したり、好きなものを覚えていたり」
「うん。昔から」
玲奈も否定しなかった。
私にとっては、いつもの昼食だ。
けれど結衣ちゃんには、少し珍しく見えるらしい。
「本当に、仲がいいんだね」
結衣ちゃんは柔らかく笑った。
その笑顔が、ほんの少しだけ寂しそうに見えたのは、気のせいだろうか。
「今度は結衣ちゃんの好きなおかずも教えて」
「私の?」
「三人で食べたら、交換できるでしょ」
「……うん。今度、教える」
結衣ちゃんはうなずいた。
隣では、玲奈がまた少しだけ眉を寄せている。
「玲奈もね」
「どうして私まで」
「玲奈のは大体知ってるけど、増えてるかもしれないから」
「増えてない」
「じゃあ、今度も卵焼きもらうね」
「それは別の話」
不満そうな声なのに、玲奈は私の弁当箱から卵焼きを取り戻そうとはしなかった。
◇
その日の夕方から、空は急に暗くなった。
学校を出たときには遠くに灰色の雲が見えるだけだったのに、家へ着く頃には風が強くなっていた。
窓の外で、庭の木が大きく揺れている。
「雨、降りそう」
私は自分の部屋の窓を閉め、向かいに見える玲奈の部屋を眺めた。
二階にある私たちの部屋は、窓同士が向かい合っている。
間には二軒の庭と低い生け垣があり、距離は四メートルほど。窓から行き来することはできないけれど、カーテンが開いていれば、相手の部屋の様子が何となく分かる。
玲奈の部屋には、すでに明かりがついていた。
机に向かっている細い後ろ姿が見える。
手を振ろうとした瞬間、空が白く光った。
少し遅れて、低い音が響く。
「雷かあ」
まだ遠い。
私はカーテンを半分閉め、机の上に教科書を広げた。
今日の宿題は英語だ。
一人でやると玲奈に言った手前、少しくらいは進めておきたい。
けれど、一問目を読んでいる間に雨が降り始めた。
窓を打つ音が気になって、同じ文章を三回読んでも頭に入らない。
机に頬杖をつき、もう一度窓の方を見る。
向かいの部屋のカーテンは、いつの間にか閉まっていた。
空が再び光る。
今度の雷鳴は、さっきより近かった。
その直後、部屋の扉が二回たたかれた。
「ひなた、玲奈ちゃんが来てるわよ」
お母さんの声だ。
「玲奈が?」
返事をするより先に扉が開き、玲奈が部屋へ入ってきた。
濃紺の鞄を肩にかけ、胸には英語の参考書を抱えている。
制服から部屋着に着替えていたけれど、長い黒髪はいつものように整っていた。
「どうしたの?」
「勉強を教えに来た」
「頼んでないよ?」
「一人でできるって言っていたから、確認しに来たの」
「それなら、窓からメッセージでもよかったんじゃない?」
「直接見ないと、本当にやっているか分からないでしょ」
玲奈は鞄を置き、私の机の上を確認した。
開いたままの教科書と、一文字も書かれていないノート。
「やっぱり進んでない」
「今からやろうと思ってた」
「教科書を開いただけで十分やった顔をしてたけど」
「どうして分かるの?」
「窓から見えたから」
見られていたらしい。
玲奈は椅子の横へ立ち、参考書を開く。
「まず、一問目から」
「はい」
言われたとおり、私は問題を読み直した。
そのとき、窓の外が真っ白に光った。
ほとんど間を置かず、大きな雷鳴が響く。
肩が跳ねた。
私ではなく、玲奈の。
玲奈の指は、参考書の端を強くつかんでいた。
「玲奈、もしかして――」
「なに?」
「雷、苦手だったよね」
「別に」
「今、びっくりしてた」
「急に鳴れば誰でも驚くでしょ」
「私より驚いてたよ」
「ひなたが鈍いだけ」
玲奈は何事もなかったように参考書へ視線を戻した。
けれど、次の雷が鳴るたび、説明の声が少しだけ途切れる。
玲奈は昔から雷が苦手だ。
小さい頃、雷が鳴った夜に私の家へ来て、毛布へくるまりながら帰らないと言ったことがある。
翌朝には「ひなたが怖がると思ったから来ただけ」と言っていた。
今とあまり変わっていない。
「今日、泊まっていけば?」
「どうして?」
「雨もひどくなってきたし」
「家は隣よ」
「でも、庭を通ったら濡れるよ」
「傘を差せばいいでしょ」
「雷が鳴ってるのに?」
「関係ない」
玲奈はそう言い切った。
その直後、また大きな音がして、今度は私の袖をつかんだ。
視線を落とすと、玲奈も自分の手に気づいた。
昨日と同じように、すぐに離そうとする。
私はその前に、玲奈の手首を軽くつかんだ。
「泊まっていこう」
「……ひなたが、そこまで言うなら」
「うん。私がお願いしたことにしていいよ」
「最初から、そのつもりだったみたいに言わないで」
「違うの?」
「違う」
玲奈の鞄から、きれいに畳まれた明日用の制服と教科書が少しだけ見えていた。
泊まる準備はしてきたらしい。
気づかないふりをして、私はお母さんへ声をかけに行った。
「お母さん、玲奈が今日――」
「泊まるんでしょう?」
最後まで言う前に、お母さんが答えた。
「どうして知ってるの?」
「夕方、静香さんから連絡をもらったの。明日の朝も一緒に学校へ行くって」
振り返ると、部屋の扉から玲奈がこちらを見ていた。
「最初から泊まるつもりだったんだ」
「……雨が強くなるかもしれないと思っただけ」
「雷じゃなくて?」
「雨よ」
空が光り、少し遅れて雷鳴が響く。
玲奈は何も言わず、私の部屋へ戻っていった。
お母さんと顔を見合わせる。
「玲奈ちゃんの着替え、ひなたの部屋に置いてあるわよね?」
「うん。でも、明日の制服まで持ってきてる」
「用意がいいわね」
「勉強を教えに来ただけらしいよ」
お母さんは笑ったけれど、それ以上は何も言わなかった。
◇
夜十一時を過ぎても、雷はまだ遠くで鳴っていた。
宿題を終え、お風呂も済ませた私たちは、同じベッドへ入っていた。
小型のセミダブルなので、二人で眠れないほど狭くはない。
玲奈が壁側で、私が部屋側。昔から決まっている位置だ。
「狭い」
「玲奈が壁に寄れば、もう少し空くよ」
「これ以上寄ったら壁になる」
「じゃあ、私の方に寄る?」
「どうしてそうなるの?」
玲奈は顔を壁へ向け、掛け布団を胸元まで引き上げた。
「こっち向かないの?」
「寝るときに、どこを向いても同じでしょ」
「話しにくいよ」
「もう寝る時間」
「まだ眠くない」
「昨日、一人で起きられたくらいで夜更かししないで」
「昨日は偶然じゃなく、自分で起きたんだよ」
「自分で、たまたま起きただけでしょ」
「同じ意味じゃない?」
「分かってるなら寝なさい」
玲奈の声は、いつもの調子に戻っていた。
部屋の明かりを消す。
カーテンの隙間から、ときどき白い光が差し込んだ。
雷鳴は遠ざかっているけれど、完全には聞こえなくなっていない。
しばらく黙っていると、隣で布団が動いた。
「玲奈?」
「なに?」
「こっち向いた?」
「寝返りを打っただけ」
「そう」
暗くて顔はよく見えない。
けれど、さっきより玲奈が近くにいることは分かった。
私は部屋側へ顔を向けるように寝返りを打った。
次の雷が鳴ったあと、背中に玲奈の指先が触れた。
寝返りだと思っていると、さらに少しだけ布団が沈む。
「玲奈、近くない?」
「狭いベッドなんだから仕方ないでしょ」
「さっきは壁にくっついてたのに」
「寝ている間に動いただけ」
「まだ寝てないよね?」
「ひなたが話しかけるから」
私はもう一度寝返りを打ち、玲奈の方を向いた。
暗闇に目が慣れると、思っていたより近い場所に玲奈の顔がある。
「これなら雷が鳴っても大丈夫だね」
「ひなたが怖がらないように、近くにいるだけ」
「私は怖くないよ」
「知ってる」
玲奈は諦めたように小さく答えた。
目を閉じる。
一緒のベッドで眠るのは、初めてではない。
小さい頃は、どちらかの家へ泊まるたびに同じ布団へ入った。高校生になった今でも、映画を見ながら眠ってしまったり、話しているうちに帰るのが面倒になったりして、そのまま朝を迎えることがある。
だから、特別なことではない。
玲奈が隣にいる夜は、いつもより早く眠くなる。
ページをめくる音と同じで、すぐそばに玲奈の気配があると落ち着くのだ。
眠りに落ちかけた頃、指先に温かいものが触れた。
玲奈の手だった。
最初は確かめるように触れ、それから私の指をそっと握る。
私は目を開けようとしたけれど、まぶたが重くて動かなかった。
「……ひなたは、ずっとここにいるよね」
かすかな声が聞こえた。
夢の中の声だったのかもしれない。
「いるよ……」
きちんと答えられたかは分からない。
握られた手が少しだけ強くなる。
もう一度、遠くで雷が鳴った。
それでも玲奈の手は温かくて、怖い音には聞こえなかった。
翌朝、目を覚ましたときには、玲奈はもう私の手を離していた。
昨夜、眠る前に何か話したような気がする。
けれど、何を話したのかは思い出せなかった。
ただ、雷の夜なのに、いつもよりよく眠れたことだけは覚えていた。




