第2話 玲奈の機嫌
次の日の朝、私は目覚まし時計が鳴るより少しだけ早く目を覚ました。
昨日、玲奈とお母さんから散々言われたからではない。
たまたまだ。
本当に、たまたま目が覚めただけなのだけれど、この貴重な出来事を誰かに知らせなければ損をする気がした。
私は枕元のスマートフォンを手に取り、玲奈へメッセージを送る。
『起きた』
すぐに既読がついた。
『本当に?』
『信用がない』
『昨日の今日だから』
短い返事と一緒に、疑うような顔のスタンプが届く。
私は証拠として、時計と自分の顔が一緒に写るように写真を撮った。寝起きの髪は鳥の巣のようだったけれど、今は気にしない。
写真を送ると、しばらく返事がなかった。
『寝癖がひどい』
「見るところ、そこ?」
思わず声に出してしまった。
結局、家を出る前に玲奈がやって来て、昨日と同じように寝癖とスカーフを直された。
自分で起きても、そこは変わらないらしい。
◇
二時間目の授業が終わったあと、私は玲奈と一緒に廊下を歩いていた。
教室の後ろに積まれていたプリントを、隣のクラスまで届けるよう女性教師に頼まれたのだ。
「私だけでも持てたのに」
私は腕の中の紙束を抱え直した。
半分は玲奈が持っている。
「階段で転びそうだから」
「隣のクラスに行くだけだよ?」
「何もないところでも転びそうになる人が言っても、説得力がない」
「昨日の体育では転ばなかったよ」
「ボールを顔に当ててたでしょ」
「あれは転んでないから、私の勝ち」
「何と戦ってるの?」
玲奈は呆れた顔をしながらも、私が持っていた束の上から、さらに半分ほど持っていった。
「ありがとう」
「床にばらまかれると困るだけ」
こういうとき、玲奈は絶対に「手伝う」とは言わない。
けれど、私が一人で運んでいたら、何も言わずに半分持ってくれることを知っている。
隣の教室へプリントを届け、廊下へ戻る。
ちょうど休み時間で、開いた扉から何人もの生徒が出入りしていた。
その中に、柔らかな焦げ茶色のボブヘアを見つける。
顎の下で内側へ丸く収まった髪に、薄いベージュ色のカーディガン。私より少し小柄で、廊下を行き交う生徒の中では目立たないけれど、柔らかく落ち着いた雰囲気があった。
「結衣ちゃん」
声をかけると、その子は足を止めた。
私を見つけた薄茶色の瞳が、少しだけ大きくなる。
「朝倉さん」
「おはよう。今から移動教室?」
「うん。次は音楽室だから」
水瀬結衣ちゃんは、私たちとは別のクラスだ。
同じ学年だけれど、今年も一緒のクラスにはならなかった。廊下ですれ違えば話すし、たまにメッセージも送るけれど、教室が違うと会う機会はそれほど多くない。
「二年生のクラスには、もう慣れた?」
「少しずつ。去年よりは大丈夫」
「よかった。結衣ちゃん、最初はすごく静かだったもんね」
「……朝倉さんが、何度も話しかけてくれたから」
「私は話したかっただけだよ」
「うん。だから、うれしかった」
結衣ちゃんは、まっすぐ私を見てそう言った。
穏やかなその瞳は優しそうに見えるのに、こういうときは決して目をそらさない。
声は控えめだったけれど、ただのお礼よりも大切なことを伝えようとしているように聞こえた。
「今も、朝倉さんほど話せないけど」
「私ほど話したら、授業が始まる前に疲れちゃうよ」
結衣ちゃんが小さく笑った。
口を閉じた控えめな笑い方は、一年前から変わっていない。けれど、あの頃よりも表情がずっと柔らかくなった気がする。
「そうだ。朝倉さん、この前教えてくれた小説、読んだよ」
「本当? どうだった?」
「面白かった。最後のところは少し泣いたけど」
「分かる。私も電車で読んで大変だった」
「朝倉さん、泣いたの?」
「泣いてないよ。ちょっと目にごみが入っただけ」
「両目に?」
「両目に」
結衣ちゃんはまた笑った。
「今度、感想を話してもいい?」
「もちろん。結衣ちゃんのおすすめも教えて」
「うん。探しておく」
そこで予鈴が鳴った。
廊下に出ていた生徒たちが、それぞれの教室や移動先へ向かい始める。
「あ、急がないと。またね、結衣ちゃん」
「うん。またね、朝倉さん」
結衣ちゃんは私に軽く手を振ると、音楽室の方へ歩いていった。
私も自分の教室へ戻ろうとして、玲奈が少し後ろに立ったままだったことを思い出す。
「玲奈、行こう」
「……そうね」
返事が短い。
並んで歩き出した玲奈は、さっきまでより少しだけ歩くのが速かった。
「どうしたの?」
「別に」
「急がなくても間に合うよ」
「急いでない」
そう言いながら、玲奈は私より半歩前を歩いている。
何か気に障ることをしただろうか。
今朝は自分で起きたし、スカーフを直してもらっている間も動かなかった。プリントも一枚も落としていない。
心当たりが見つからないまま教室へ戻る。
自分の席へ向かおうとすると、玲奈が不意に言った。
「結衣ちゃんって呼んでるんだ」
「うん」
「いつから?」
「いつからだろう。一年生の夏くらいかな」
最初は水瀬さんと呼んでいたけれど、いつの間にか結衣ちゃんになっていた。
「玲奈、結衣ちゃんのこと知ってるよね?」
「同じ学年だから、顔くらいは」
「去年、中庭で話してたときにも会ったことなかった?」
「ひなたは、いろいろな人と話してるから。いちいち覚えてない」
「そっか」
玲奈はそれだけ言って席に着いた。
本を開いたものの、ページをめくる手は止まっている。
どうやら、やっぱり機嫌が悪いらしい。
◇
結衣ちゃんと初めてきちんと話したのは、一年前の春だった。
私たちが花守女子高校へ入学して、まだ二週間ほどしかたっていない頃だ。
入学式のあとの合同オリエンテーションで、同じ学年の生徒が順番に自己紹介をした。
大勢の名前を一度に覚えるのは無理だったけれど、結衣ちゃんのことは何となく記憶に残っていた。
小さな声でも、最後まで前を向いて名前を言っていたからだ。
当時の私は新しい校舎が珍しくて、昼休みになると目的もなく校内を歩き回っていた。
その日も購買で飲み物を買ったあと、教室へ戻るつもりだった。
けれど、廊下の窓から中庭を見下ろしたとき、ベンチに一人で座る女の子が目に入った。
昼休みなのに、お弁当も広げず、誰かを待っている様子もない。
焦げ茶色のボブヘアに縁取られた小さな横顔と、膝の上で重ねられた両手。
合同オリエンテーションで見た水瀬結衣さんだった。
気づけば私は、中庭へ続く階段を下りていた。
声をかけようと思ったのは、一人でいるのがかわいそうだったからではない。
少なくとも、そのときの私は、そんなに深く考えていなかった。
春の中庭が気持ちよさそうで、あのベンチに座ってみたくなった。ただ、そこに知っている人がいたから、一緒に話せたら楽しいと思った。
それだけだった。
「水瀬さん、ここ座ってもいい?」
私が声をかけると、結衣ちゃんは驚いたように顔を上げた。
「……私?」
「うん。ほかに水瀬さんはいないから」
「そうだけど……朝倉さん、だよね?」
「覚えててくれたんだ」
「自己紹介で、前に立ってたから」
「私も水瀬さんのこと覚えてたよ」
「どうして?」
「声がきれいだったから」
結衣ちゃんは目を瞬いた。
それから少しだけ頬を赤くして、ベンチの端へ寄った。
「……どうぞ」
「ありがとう」
私は隣に腰を下ろし、買ってきた紙パックの飲み物へストローを刺した。
中庭には、桜の花びらがまだ少し残っていた。風が吹くたび、足元を薄いピンク色が滑っていく。
「水瀬さんは、ここでお昼?」
「ううん。お弁当は、さっき教室で食べたの」
「じゃあ、休憩中?」
「……そんな感じ」
答えは短く、会話はすぐに途切れた。
結衣ちゃんは迷惑だっただろうか。
そう思ったけれど、立ち去ってほしそうには見えなかった。
「私、まだ校内で迷うんだよね」
「朝倉さんも?」
「もしかして、水瀬さんも迷う?」
「昨日、図書室へ行こうとして、同じ廊下を二回通った」
「私は三回」
「三回も?」
「三回目で、さすがに同じ場所だって気づいた」
結衣ちゃんの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
それがうれしくて、私は入学式の日にスカーフを裏返しにつけて玲奈に直されたことや、初日の教室を間違えかけたことまで話した。
結衣ちゃんは自分からたくさん話すわけではなかったけれど、相づちを打ちながら聞いてくれた。
ときどき、小さく笑ってくれた。
昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴る。
「もう戻らなきゃ」
立ち上がると、結衣ちゃんもベンチから腰を上げた。
「水瀬さん、明日もここに来る?」
「たぶん」
「じゃあ、私も来ていい?」
結衣ちゃんは、すぐには答えなかった。
断られるかもしれないと思い始めた頃、ようやく小さくうなずく。
「……うん」
「また明日ね」
「また、明日」
次の日も、私は中庭へ行った。
その次の日は雨だったので、渡り廊下の窓辺で話した。
毎日ではなくなってからも、廊下で見かければ声をかけた。購買で新しいパンを見つけたときや、読んで面白かった本があったときには、結衣ちゃんへメッセージを送った。
それを続けているうちに、結衣ちゃんは少しずつ学校で笑うようになった。
私にとっては、話したいときに話しかけていただけだ。
けれど、一年たった今でも結衣ちゃんは、ときどきあの日のことを覚えていると言ってくれる。
◇
昼休みになっても、玲奈の返事は短いままだった。
「玲奈、一緒に食べよう」
「いつも一緒でしょ」
「今日は確認した方がいいかと思って」
「どうして?」
「機嫌が悪そうだから」
「悪くない」
昨日も聞いた言葉だ。
私は弁当を持って、いつものように玲奈の前の席へ座った。
「今日の卵焼きは?」
「ない」
「本当に?」
「ひなたに取られるから入れなかった」
玲奈が弁当箱のふたを開ける。
隅には、見覚えのある黄色いものが入っていた。
「あるよ」
「これは違う」
「どこから見ても卵焼きだけど」
「……食べないの?」
「食べる」
お箸を伸ばすと、その前に玲奈が卵焼きを私の弁当箱へ移した。
「ありがとう」
「ひなたがずっと見てるから、食べにくいだけ」
やっぱり玲奈は優しい。
だからこそ、機嫌が悪い理由が分からない。
「ねえ、玲奈」
「なに?」
「結衣ちゃんのこと、気になる?」
玲奈の箸が止まった。
「どうして私が?」
「名前で呼んでることを聞いたから」
「聞いただけ。興味はない」
「結衣ちゃん、いい子だよ」
「そう」
「本が好きで、おすすめを教えてくれるの。話してみたら玲奈とも合うと思う」
「別に。誰と話そうが、ひなたの勝手でしょ」
声が、また少しだけ冷たくなった。
私は首をかしげる。
誰と話してもいいと言っているのに、どうして玲奈は不満そうなのだろう。
「じゃあ、怒ってない?」
「怒ってない」
「よかった」
「……ひなたは、本当にそれで納得するのね」
「玲奈がそう言ったから」
玲奈は何か言いかけて、やめた。
代わりに卵焼きを口へ運び、私から顔をそらしてしまう。
これはまだ直っていない。
私は鞄の中を探った。
昨日、玲奈にいらない物を抜かれたので、今日は目当ての物がすぐに見つかった。
「はい、玲奈」
取り出したのは、小さな箱に入ったミルクチョコレートだ。
玲奈がよく食べている種類で、今朝、家を出る前に鞄へ入れてきた。
「どうしたの、これ」
「あげる」
「どうして?」
「玲奈が好きだから」
玲奈が固まった。
「……そういう言い方、誰にでもしてるの?」
「チョコをあげるとき?」
「もういい」
玲奈は箱を受け取ったものの、すぐには開けようとしなかった。
「食べないの?」
「あとで食べる」
「もしかして、好きじゃなくなった?」
「好きだけど」
「じゃあ、一つちょうだい」
「ひなたがくれたんでしょ」
「一緒に食べた方がおいしいよ」
「最初から自分も食べるつもりだったんじゃない?」
呆れた声に、ようやくいつもの調子が少し戻った。
玲奈が箱を開け、銀色の包みに入ったチョコレートを一つ渡してくれる。
同じものを一つずつ口へ入れる。
甘さがゆっくり溶けていった。
「おいしいね」
「知ってる」
「機嫌、直った?」
「だから、悪くなってない」
言葉は素っ気ないけれど、さっきまで寄っていた眉間のしわは消えている。
やっぱりチョコレートを持ってきて正解だった。
◇
放課後、帰り支度をしていると、クラスメイトから声をかけられた。
「ひなた、少しいい? 来週の当番表なんだけど」
「いいよ。今行く」
机の横に立ち、鞄を持ち上げる。
「玲奈、ちょっと待ってて」
「先に帰ってる」
「すぐ終わるよ」
「別に待つ必要はないでしょ」
玲奈は本を鞄へ入れながら、こちらを見ようとしない。
昼休みには直ったと思ったのに、また機嫌が悪くなっている。
「じゃあ、あとで追いかけるね」
そう言って歩き出そうとしたとき、制服の袖が後ろへ引かれた。
振り返る。
玲奈の指が、私の袖口をつまんでいた。
「玲奈?」
呼びかけると、玲奈自身も驚いたように手元を見る。
すぐに離すかと思ったのに、その指は動かなかった。
「どうしたの?」
「……チョコレート」
「チョコ?」
「まだ半分残ってる」
「持って帰って食べていいよ」
「一人で全部食べたら甘すぎるから」
「玲奈、甘いもの好きでしょ?」
「毎日食べるほどじゃない」
「今日中に全部食べなくてもいいんじゃない?」
「そういうことじゃなくて」
玲奈の指が、私の袖をもう少し強くつまんだ。
顔は横を向いているけれど、少しだけ寂しそうに見える。
私は玲奈のこういう顔を知っている。
私を突き放すようなことを言ったあと、本当に離れようとすると見せる顔だ。
「分かった。一緒に食べよう」
私が隣の椅子へ座り直すと、袖をつまんでいた指から力が抜けた。
私は当番表を持ったまま待っているクラスメイトへ振り返った。
「ごめん。少しだけ待ってもらってもいい?」
「急ぎじゃないから、明日でも大丈夫だよ」
「本当? ありがとう。明日は忘れないようにするね」
「ひなたが忘れてたら、こっちから声をかける」
クラスメイトは笑って、自分の席へ戻っていった。
「当番表は?」
「明日でも大丈夫だって」
「先に行けばよかったのに」
「玲奈が引き止めたんでしょ」
「引き止めてない」
「じゃあ、これは?」
まだ袖に触れていた指を見る。
玲奈は慌てて手を離した。
「糸が出てたから」
「どこ?」
「もう取った」
「そうなんだ」
糸なんて見えなかったけれど、玲奈がそう言うなら、きっとそうなのだろう。
玲奈がチョコレートの箱を開き、私に一つ差し出す。
さっきと同じ甘さなのに、今度の方が少しだけおいしく感じた。
「そのチョコ、水瀬さんにもあげるの?」
「どうして結衣ちゃんが出てくるの?」
「別に。聞いただけ」
「これは玲奈が好きだから買ったんだよ。玲奈にだけ」
「……そう」
玲奈はチョコレートの箱へ目を落とした。わずかに緩んだ口元を、私に見られたくないように。
「明日も持ってこようか?」
「毎日は飽きる」
「じゃあ、違うお菓子にする?」
「そういう意味じゃない」
「難しいなあ」
玲奈は小さく息をつく。
けれど、その横顔はもう不機嫌には見えなかった。
玲奈の機嫌が悪くなる理由は、今日もよく分からない。
それでも、隣にいれば直ることだけは、昔から知っていた。




