白百合令嬢は、氷の騎士団長を証人にしない
ラングレイ伯爵家の朝は、いつも整っている。
銀器は曇りなく磨かれ、食卓の花は開きすぎる前に替えられ、新聞は伯爵の手元に置かれる前に、家令によって折り目まで正される。
その食卓の端に、ベアトリス・ラングレイは小さな布包みを置いた。
「お父様。こちらが、先日お話しした包み布と留め紐です」
ラングレイ伯爵は、紅茶のカップを置いた。
「ルヴェリエ嬢から預かった役目か」
「預かった、というほどのものではございません。候補の一つとして、試してみてはと」
「だが、候補には入ったのだろう」
伯爵は包みを手に取った。
以前のベアトリスなら、ここにもっと細い絹紐を使っていただろう。房飾りを長く残し、布地の色合わせに時間をかけ、見た者が最初に「美しい」と言う形にしたはずだ。
けれど、卓の上の包みは違っていた。
紐は少し太い。
結び目の輪は大きく、端はつまめる長さを残してある。
上面と側面には、やや大きすぎるほどの印が付いていた。
「見栄えは落ちたな」
「はい」
ベアトリスは素直に頷いた。
「ですが、片手でもほどけるようにと。夜に積まれても見つけやすいよう、印も上につけました」
「それをルヴェリエ嬢が?」
「北部方面騎士団から戻った回答に、そういった確認があったそうです。受入担当の方々が、実際に見てくださったとか」
伯爵の指が、包みの紐を軽く弾いた。
「騎士団長ではなく、受入担当か」
「手続きとしては、その方が正しいのでは」
「もちろん正しい」
伯爵は穏やかに言った。
その声が穏やかだったから、ベアトリスは少しだけ眉を寄せた。
「お父様?」
「正しいからこそ、見えることがある」
「見えること、でございますか」
「先日の慰労夜会でも、ルヴェリエ嬢とヴァルグレイ卿は距離を保っていた。娘のお前から見ても、ルヴェリエ嬢はあの方と長く言葉を交わしてはいないのだろう?」
「それは……長くは、ございませんでした。でも、ルヴェリエ様がヴァルグレイ卿を嫌っているようには」
「嫌っているかどうかではない。支援の実務で、騎士団長本人との連携が見えているかどうかだ」
ベアトリスは言葉を止めた。
父は、夜会の挨拶も、廊下での短いやり取りも、騎士団から戻った受入担当名義の回答も、同じ皿の上に並べて見ている。
「ルヴェリエ侯爵家は、北部支援の中心だ。そこに疑いはない。だが、中心である家と、北部方面騎士団長との線が細く見えるなら、そこには実務上の不安が生まれる」
「受入担当の方から回答が戻っているなら、不安はないのでは」
「平時はそれでよい。だが、支援は毎回、予定どおりに進むとは限らん」
伯爵は布包みを卓に戻した。
「輸送前に品目が変わることもある。負傷兵の数が増えることもある。雪で街道が遅れれば、便箋より先に防寒布を増やす判断が必要になるかもしれない。そういう時に、騎士団長閣下と直接の連絡を取りづらい家だけを窓口にしておくのは、支援全体にとって不安定だ」
「……」
「だから、補助だ。ラングレイ家が、騎士団側との実務連絡の一部を支える。奪うのではない。支えるのだ」
正しい言葉だった。
少なくとも、間違った言葉ではなかった。
北部支援に関わる家が増えることは、悪いことではない。父が家名を考えることも、伯爵家の当主として当然なのかもしれない。
けれど、ベアトリスは卓の上の包み布を見た。
昨日、何度も結び直した。
針で指を刺した。
見栄えが落ちるたびに、これで本当に令嬢の仕事と言えるのかと不安になった。
それでも、片手で開けられる方が大事だと思った。
その気持ちと、父の言う「線を作る」は、同じ場所にあるのだろうか。
「お父様。私は、ルヴェリエ様の席を奪うために、これを直したのでは」
「席を奪うのではない。連絡の道を一本増やすのだ」
伯爵は微笑んだ。
「今日の小会議で話を出す。お前は、試作品を持ってきちんと座っていなさい。北部支援に携わる令嬢として」
ベアトリスは、膝の上で手を握った。
「……はい、お父様」
伯爵は満足そうに頷き、新聞を開いた。
紙の影で、その目だけは少しも笑っていなかった。
◇
王宮慈善基金の小会議は、昼下がりの東棟で開かれた。
大きすぎない会議室には、王宮慈善窓口の文官が二人、ルヴェリエ侯爵夫人、リリア、ルヴェリエ家の家令、ラングレイ伯爵、ベアトリスが席についている。
卓の上には、次回北部輸送分の一覧が広げられていた。
包み布。
留め紐。
夜間仕分け用の印。
片手でも扱いやすい便箋。
香りを抑えた花包み。
煮沸済みの包帯。
これは品評の場ではない。
どの家の品が美しいかを比べるための卓ではなく、次回輸送までに、どの連絡をどこへ通すかを確認するための場だった。
その端に、ベアトリスが持参した試作品も置かれている。
リリアはそれを見て、少しだけ安堵していた。
ベアトリスの包み布は、きちんと直されていた。見栄えのためではない。北部で開ける人の手のために、形が変わっている。
少なくとも、彼女自身の手は、北部へ向いている。
「ラングレイ伯爵。本日はご提案があるとうかがっております」
王宮文官が促すと、ラングレイ伯爵は静かに頷いた。
「ルヴェリエ侯爵家の長年のご厚意には、かねてより敬意を抱いております。北部支援が今日まで滞りなく続いてきたのは、侯爵家のご尽力あってのことでしょう」
「恐れ入ります」
侯爵夫人は柔らかく答えた。
淡い灰青のドレスに、白い手袋。
表情は穏やかだが、目元には一分の隙もない。
「ただ、支援の規模は年々大きくなっております。慰問品の種類も増え、実務連絡も細かくなっている。侯爵家だけにご負担をおかけし続けるのは、いささか重いのではないかと考えました」
「なるほど」
「そこで、当家も実務連絡の補助に加わることができればと存じます。娘も、包み布や留め紐の改善に関わらせていただきました。小さな部分ではございますが、北部支援の流れを学ぶ機会をいただいておりますので」
ベアトリスの肩が、わずかに動いた。
リリアはそれを見たが、何も言わなかった。
伯爵の言葉は、悪意そのものではない。
支援する家が増えることは、北部にとって悪い話ではない。ルヴェリエ家だけで抱え込むより、協力者が増える方がよい場面もある。
けれど、伯爵はそこで終わらなかった。
「問題は、品の数だけではございません。北部支援には、騎士団側との迅速な連携が必要です。急な品目変更、輸送順の調整、負傷兵の増減による追加要望。そうした判断は、受入担当だけで完結しないこともございましょう」
ラングレイ伯爵は、そこで一度言葉を切った。
「先日の北部遠征慰労夜会でも拝見いたしましたが、ルヴェリエ嬢とヴァルグレイ卿の間に、直接の連携が十分に見えているとは申し上げにくい」
リリアの指先が、膝の上で止まった。
「今回の回答も、騎士団長閣下からではなく、受入担当名義で戻っております。もちろん、手続きとしては正しい。ですが、支援の中心である侯爵家が、騎士団長閣下と直接の連絡を取りづらい状態であれば、今後の大きな輸送に不安が残ります」
不仲、という言葉は出ていない。
けれど、全員がその影を聞いた。
慰労夜会。
ダンスを辞退された夜。
短い挨拶。
握手。
廊下での礼。
受入担当名義の回答。
どれも正しい。
どれも、間違っていない。
それなのに、外から見れば、すべてが距離に見える。
「ルヴェリエ嬢」
伯爵は、リリアへ静かに視線を向けた。
「あなたの細やかな心配りは見事です。だからこそ、そのお立場に過度なご負担がかかるのは惜しい。騎士団長閣下との連携が見えにくいのであれば、当家が実務連絡の補助に入ることも、支援全体の安定につながるのではないかと存じます」
褒めているようで、連絡の道を取りに来ている。
リリアは、それを理解した。
ここで怒れば、未熟に見える。
ここで黙れば、認めたことになる。
伯爵は正論を並べている。
けれど、その正論は、リリアとレオニスの距離を足場にしている。
「ラングレイ伯爵」
侯爵夫人が、静かに口を開いた。
「ご懸念には感謝いたします。ですが、実務窓口を増やすかどうかは、王都側の印象で決めることではございません」
侯爵夫人は、王宮慈善窓口の文官へ視線を向けた。
「北部方面騎士団長レオニス・ヴァルグレイ卿へ、正式に確認をお願いいたしましょう」
リリアの心臓が、強く跳ねた。
「お母様」
声が出た。
出してから、リリアは自分で驚いた。
会議室の視線が、一斉にこちらへ向く。
侯爵夫人も、ラングレイ伯爵も、王宮文官も、ベアトリスも。
リリアは白い手袋の中で指を握り、微笑みを崩さないまま続けた。
「それは、必要ございません」
言った瞬間、空気が細く張った。
「ヴァルグレイ卿は、北部遠征後のご処理でお忙しい御身です。このような場へ、わざわざお越しいただくことでは……」
言い終える前に、失敗を悟った。
このような場。
リリアの中では、それは「噂を混ぜられた場」という意味だった。
けれど、会議室にいる者たちには違って聞こえる。
北部支援の実務確認の場。
王宮慈善基金の小会議。
ルヴェリエ侯爵家とラングレイ伯爵家が、支援連絡の形を協議する場。
そこへ騎士団長を呼びたくない。
そう聞こえた。
「……なるほど」
ラングレイ伯爵は、少しだけ目を伏せた。
責める声ではなかった。
むしろ、心配しているような声だった。
「まさに、そのご反応が私の懸念なのです、ルヴェリエ嬢」
リリアの指先が止まった。
「支援連携の確認でさえ、団長閣下のお手を煩わせるとお考えになる。であれば、今後、北部で急な判断が必要になった時、ルヴェリエ侯爵家はどのように騎士団長閣下と連携なさるおつもりですか」
(違います)
胸の奥で、声が崩れた。
(お呼びしたくないのではありません。お会いしたくないのでもありません。むしろ、ここであの方が来てくだされば、伯爵の言葉はきっと止まります。けれど、そうではないのです。ここであの方のお名前を出せば、ヴァルグレイ卿は私の噂を晴らすための札になってしまいます。北部を守る方を、王都の会議室で、私のために立たせることになってしまいます)
それを、ここで言うことはできない。
言えば、なおさら噂になる。
「リリア」
侯爵夫人の声が、静かに落ちた。
責める声ではなかった。
けれど、逃がす声でもなかった。
「いま問われているのは、あなたのお気持ちではありません」
リリアは、母を見た。
侯爵夫人は微笑んでいた。
いつもと同じ、柔らかな微笑みだった。
その微笑みのまま、文官へ向き直る。
「議題は、ルヴェリエ侯爵家との支援連携に実務上の支障があるかどうか。ならびに、補助窓口を新たに設ける必要があるかどうか、です」
文官が、背筋を正した。
「今から、でございますか」
「ええ。団長閣下との連携が論点になっております。後日に延ばす理由はございません」
ラングレイ伯爵は何も言わなかった。
言う必要がなかった。
リリアが止めた。
それだけで、伯爵の懸念は会議室の中に形を持ってしまった。
「承知いたしました。使いを出します」
◇
扉が閉まる音だけが、やけに大きく響いた。
(違うのです)
リリアは、膝の上で重ねた指に力を込めた。
(お呼びしたくなかったのではありません。避けたかったのでもありません。ただ、ヴァルグレイ卿を、私の噂を晴らすための証人にしたくなかっただけなのです)
それなのに、その言葉は伯爵の懸念に形を与えてしまった。
守ろうとしたはずだった。
あの方のお名前を、王都の噂に差し出さないために。
北部を守る方を、私のための証人にしないために。
それなのに、会議室に残ったのは、リリアがヴァルグレイ卿を避けたように見える沈黙だけだった。
(どうして、こうなってしまうのでしょう)
言い返したかった。
違うのだと、そうではないのだと、今すぐ説明したかった。
けれど説明すればするほど、あの方の名をこの場へ縛りつけることになる。
(申し訳ございません、ヴァルグレイ卿)
胸の中で、悲しさと悔しさと申し訳なさが、ぐしゃぐしゃに絡まっていた。
その時、廊下の向こうから足音が近づいてきた。
文官の足音。
それより重く、迷いのない足音。
「入りなさい」
侯爵夫人が答えた。
扉が開く。
「北部方面騎士団長、レオニス・ヴァルグレイ卿がお見えです」




