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私の推し、私のことが好きすぎる  作者: あゆと
第1章 不仲説編

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8/12

氷の騎士団長は、返事に名前を書かない

「団長。北部慰問品の包み布と留め紐について、確認事項が届いています。王宮慈善窓口経由、差出はルヴェリエ侯爵家です」


 北部方面騎士団の副官クライヴ・アスターは、そう言って一枚の書面を差し出した。


 レオニス・ヴァルグレイは、報告書から顔を上げた。


 王宮の西棟に与えられた臨時執務室は、北部の砦とは何もかも違っている。磨かれた窓硝子、傷のない机、暖炉脇に飾られた季節の花。その中で、黒い軍装を解かずにいるレオニスだけが、午後の光を受けても雪の影を残していた。


「ルヴェリエ侯爵家か」


 声は低く、冷えていた。


 怒りも驚きもない。ただ家名を確認しただけで、近くに控えていた若い騎士が、抱えていた書類を少し持ち直した。


 北部支援の最大の協力者。


 その名だけで、雑な返事は許されない。


 クライヴが、机の端に書面を置く。レオニスの青灰色の目が、紙面の宛先で止まった。


 北部方面騎士団 受入担当御中。


 団長宛ではない。


 騎士団長レオニス・ヴァルグレイの名は、どこにもなかった。


 片手でもほどける結び。冬用手袋でも開けられる包み方。濡れても固くなりにくい紐。確認したい項目は、すべて現場へ向いている。


 レオニスの指先が、書面の端で止まった。


 片腕を吊った兵は、包みを膝で押さえる。冬用手袋を外せば、指先の感覚はすぐに薄れる。濡れた紐は、夜明け前には石のように固まる。


 そうなれば、短剣で切るしかない。急げば中身を傷つける。手元が滑れば、ただでさえ足りない兵の手を、また一つ減らす。


 王都から届く慰問品で、そこまで先に問われることは多くない。


 差出は、ルヴェリエ侯爵家。


 リリア・ルヴェリエの名はない。


 それでも、昨日の王宮の廊下で、こちらの手袋を見ていた白い横顔が浮かんだ。


 何かを誇るでもなく、近づくでもなく、ただ完璧な礼だけを残して距離を取った令嬢。


(もし、ルヴェリエ嬢が)


 そこまで考えて、レオニスは書面の端を指で揃えた。


(違う)


 これはルヴェリエ侯爵家からの確認だ。

 彼女からの手紙ではない。


 誰の意図を読むものでもない。ただ、騎士団として返すべき確認だった。


「クライヴ」

 クライヴが書面を持ち直す。

「補給だけで判断するな。負傷兵、倉庫番、夜番にも確認を取れ」

「そこまで確認を広げますか」

「当然だ。形式だけの返答で済ませるな。騎士団として、きちんと協力しろ」

「補給でまとめ、確認前に団長へお持ちします」

「団長名は出すな」

 クライヴのペンが止まった。

「よろしいのですか」

「宛先は受入担当だ。こちらから団長名を載せる理由はない」

 レオニスの声は、少しも揺れなかった。

「薄い返答は許さない。実際に扱う者の声を返せ」

「承知しました。騎士団の回答として整えます」


 クライヴの視線が、一瞬だけレオニスの右手に落ちた。


 黒い革手袋。

 手の甲の端に、小さな百合。


 レオニスは気づいたが、何も言わなかった。


 クライヴもまた、何も見なかったように書面を持って退出した。



 補給室に呼ばれた兵たちは、卓の上に並んだ小さな包みを見て、そろって困った顔をした。


 赤い紐、細い絹紐、太めの麻紐、輪を大きく取ったもの、布の端に印を縫いつけたもの。


 令嬢方が見れば、美しさを比べるだろう。


 だが、ここにいるのは補給担当の書記、倉庫番、夜番を務める騎士、そして先の遠征で左腕を吊った若い兵である。


 クライヴは、見栄えのよい包みを一つ押した。


「片手で開けろ」

 若い兵は右手だけで紐をつまんだ。

 輪が小さい。端も短い。膝で包みを押さえようとすると姿勢が崩れ、結び目を引こうとすれば紐が滑る。

「戦闘後なら切ります。手袋をしていたら、たぶん結び目も拾えません」

「記録しろ」


 補給書記がペンを走らせる。


 夜番の騎士は、布の端についた小さな印を指で弾いた。

「端だけだと、積んだ時に隠れます。夜は灯りも小さいので、上面にも大きく印が欲しいです」

 倉庫番は、太めの紐を指で揉んだ。

「麻だけだと濡れたあと硬くなります。絹紐は見た目はいいですが、手袋では滑ります。少し柔らかい太紐の方が扱いやすいかと」

「見た目は」

「悪くなります」

「使えるなら、それでいい」


 クライヴは淡々と言った。


 補給室の空気が、少しだけ緩む。


 北部方面騎士団で、美しいかどうかは最後に来る。まず開くか。凍らないか。切らずに済むか。そこで躓く品は、どれほど綺麗でも現場の手間を増やすだけだった。


 クライヴは確認項目に沿って、余計な感想を削らせた。


 結び目の輪は、冬用手袋の指が入る大きさにすること。

 紐の端は短く切り揃えず、つまめる長さを残すこと。

 濡れる可能性のある荷には、細すぎる紐を用いないこと。

 夜間仕分け用の印は、包みの上面と側面に大きく付けること。


 書き上がった紙の余白に、クライヴは確認者を書き足した。


 補給担当、負傷兵、倉庫番、夜番。


 団長の名は、どこにも書かなかった。



 夕刻、回答案はレオニスの机へ戻された。


 レオニスは最後まで無言で読んだ。


 若い補給担当は、緊張して背筋を伸ばしている。クライヴはその横で、いつもの無表情を保っていた。


「悪くない」

 補給担当の肩から、ほんの少しだけ力が抜けた。

 レオニスの「悪くない」は、北部方面騎士団では褒め言葉に入る。

「礼状の扱いは」

 クライヴが尋ねる。

「書け。ルヴェリエ侯爵家に礼を欠くな。ただし、飾るな」

「礼は短く添えます。あとは、実際に扱った者の声が伝わるよう整えます」

「そうしろ。先方が求めているのは賛辞ではない。机上の返答でもない」

「署名は、受入担当名でよろしいですか」

「騎士団の回答として返せ」

「団長確認済みの一文は」

「不要だ」


 答えは早かった。


 北部方面騎士団長レオニス・ヴァルグレイ確認済み。


 その一行を入れることは、不自然ではない。最大支援者への返答なら、礼の形にもなる。


 けれど、その一行がルヴェリエ侯爵家へ届くと考えた瞬間、胸の奥がまた重くなった。


 もし、ルヴェリエ嬢が見るなら。


(違う)


 レオニスは、回答案の末尾を指で押さえた。


 自分の名を届けるための書面ではない。

 宛先は受入担当で、返すのは騎士団の回答だ。


「消せ」


 補給担当が、慌てて紙面を覗き込む。


 末尾には、慣例で小さく一文が入っていた。


 北部方面騎士団長確認済み。


「消せ」


 今度は、さらに短かった。


 補給担当がペンを取る前に、クライヴが細い線を引いた。


 黒い線が、団長の名を沈める。


 レオニスは修正された末尾を見てから、紙面を一度だけ指で叩いた。


「礼はそのまま残せ」

「はい」

「条件に合うものは、次の輸送分から優先して受け入れる。その一文を添えろ」

「騎士団の正式な返答として」

「そうだ」

「最終署名は、北部方面騎士団受入担当」

「それでいい」


 レオニスは修正済みの回答案を机に置いた。


「以上だ」


 補給担当が書面を受け取り、深く頭を下げた。クライヴも続く。


 二人が退出すると、部屋に静けさが戻った。


 レオニスは別の報告書へ手を伸ばした。その前に、右手が一度だけ止まる。


 昨日、王宮の廊下で、彼女はこの手袋を見ていた。


 誇るでもなく。

 何かを求めるでもなく。

 ただ完璧な礼を残して距離を取った。


 手を伸ばしてくるわけではない。

 名を求めるわけでもない。


 それなら、こちらも名を返す理由はない。


(仕事をしろ)


 レオニスは報告書へ戻った。


 右手の百合が、紙の端を押さえる。

 そこに視線を落とさないまま、彼は署名した。



 翌日、王宮慈善窓口へ戻された回答書は、ルヴェリエ侯爵家へ写しとして届けられた。


 差出は、北部方面騎士団受入担当。


 そこに、レオニス・ヴァルグレイの名はない。


「騎士団側から、回答が戻りました」

 エステルが、白い封筒を差し出す。

「団長閣下からではありません。受入担当の方からです」

「それでよいのです。現場の方が見てくださったなら、その方がずっと確かですもの」


 リリアは落ち着いた声で答えた。


 それでよい。


 ヴァルグレイ卿のお時間を、私の動揺のために使ってはいけない。あの方は北部を守る方で、私が近づきたいからといって、呼び立ててよい方ではない。


 リリアは封を開けた。


 レオニス・ヴァルグレイの名はない。


 そこを確かめてから、ようやく本文を読んだ。


 片手で開ける場合、結び目の輪は冬用手袋の指が入る大きさにすること。

 紐の端は短く切り揃えず、つまめる長さを残すこと。

 濡れる可能性のある荷には、細すぎる紐を用いないこと。

 夜間仕分け用の印は、包みの上面と側面に大きく付けること。


 読み進めるうちに、リリアの背筋が少しだけ伸びた。


 答えが、具体的だった。


 丁寧な礼はある。けれど、飾りすぎていない。こちらを褒めるための文章ではなく、北部で本当に使うための答えだった。


「……きちんと、見てくださったのね」


 リリアは小さく言った。


 それだけのはずだった。


 なのに、末尾の署名で手が止まる。


 北部方面騎士団 受入担当。


 最後まで、レオニス・ヴァルグレイの名はない。


 冷たい、とは思わなかった。


 けれど、線が引かれているような気はした。


 ここから先は、騎士団の仕事。

 ここから先は、北部の現場。


 そう言われたような気がした。


(……そうです。それで、よいのです)


 そう思ったのに、胸の奥だけが少し痛かった。


「お嬢様」

 エステルが、控えめに声をかけた。

「署名欄は、読んでも増えません」

「確認していただけです」

「では、なぜ本文よりも長くご覧に」

「エステル」

「失礼いたしました。受入担当の方のご署名が、大変お心に届いたのだと理解しております」


 リリアは反論しようとして、やめた。


 回答書を丁寧に畳む。


 会えなくてよかった。

 名がなくてよかった。


 そう思ったはずなのに、礼状を書くための便箋を前にすると、指が少しだけ迷った。


 宛名を書く。


 北部方面騎士団 受入担当御中。


 そう書くべきだ。

 そう書かなければならない。


 なのに、筆先は一度だけ、別の名前へ向かいかけた。


 ヴァルグレイ卿へ。


 そこまで書いて、リリアは息を止めた。


「……違うわ」


 小さく呟き、まだ乾ききらない文字の上に、細く線を引く。


 新しい行へ、今度こそ正しい宛名を書いた。


 北部方面騎士団 受入担当御中。


 エステルは何も言わなかった。


 リリアも何も言わない。


 ただ、机の端に置かれた小さな銀の器を取り、砂をひとつまみ落とす。


 乾かし砂が、正しい宛名の上に白く散った。


 それでも、消した文字の端にだけ、ほんの少し黒い線が残っている。


 リリアは、消した宛名の上に、もう一度だけ乾かし砂を振った。

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