白百合令嬢と氷の騎士団長は、距離があるそうです
王宮へ向かう馬車の中で、リリア・ルヴェリエは膝の上の手を見ていた。
そこにあるのは、いつもの白い礼装用の手袋だった。
昨日、王宮の廊下で見た黒い手袋ではない。
レオニス・ヴァルグレイの右手を包み、自分が縫った銀灰色の補強刺繍を光らせていた、あの手袋ではない。
分かっているのに、一度思い出すと駄目だった。
手袋をしたレオニスの指が、ほんのわずかに動く。
そのたびに、手の甲の端に縫った小さな百合まで動いて見えた。
(……あれは、いけません)
リリアは、静かに息を吸った。
(私の刺繍が、あの方の手で動いておりました。あれは、いけません。心臓によくありません)
今日は北部慰問支援の茶会である。
母の手伝いとして、令嬢方から集まる慰問品の話を受ける日だ。包み布や留め紐、手紙、便箋、布小物について話す日であって、レオニス・ヴァルグレイの右手を思い出す日ではない。
(右手ではございません。支援です。北部支援です。王宮に着いたらまた廊下で偶然お会いできるのでは、などと考える日でもございません)
「お嬢様」
正面に座るエステル・フォルテが、静かに声をかけた。
「本日のご用件は、騎士団長様の右手を確認することではございません」
「分かっているわ」
答えが少し早すぎた。
エステルは、主人の顔を見た。
責める目ではない。ただ、すべてを分かっている目だった。
「今日は北部慰問支援の茶会ですもの。令嬢方から預かった品について、お母様の代わりにお話を受けるだけよ」
「はい」
「ヴァルグレイ卿が王宮にいらっしゃるかどうかは、私には関係のないことです」
「はい」
「まして、手袋をお使いかどうかなど」
「はい」
「……エステル」
「はい」
「今の三つめは、聞かなかったことにしてちょうだい」
「かしこまりました。お嬢様の尊厳のために」
リリアは窓の外へ視線を向けた。
王宮の尖塔が、薄い春の光を受けて白く霞んでいる。
昨日と同じ王宮で、昨日と同じ道を通っている。
リリアは膝の上の手を重ね直した。
北部の夜は冷える。
手がかじかんだまま紐を解く人がいる。
便箋一枚で、家族へ言葉を返せる人がいる。
今日、前に出すべきなのはその人たちのことだ。
レオニス・ヴァルグレイの右手ではない。
「行きましょう、エステル」
「すでに向かっております」
「心の話よ」
「そちらも、できるだけ前へお進みくださいませ」
リリアは小さく息を吐き、白百合令嬢としての顔を整えた。
ルヴェリエ侯爵家の娘として。
北部へ届く品を預かる者として。
王宮の門が、静かに近づいてきた。
◇
慈善茶会が開かれたのは、王宮の奥にある小さな応接室だった。
淡い色の絨毯の上に丸い卓が置かれ、銀の茶器と薄く焼かれた菓子が並んでいる。花瓶には、香りの強すぎない白い花が生けられていた。
窓際には、北部へ送る品の見本として、布小物や便箋、包み紐が控えめに置かれている。
「今年はどちらのお家が冬布を?」
「便箋は、ルヴェリエ様のところで揃えてくださったのよね」
「封を簡単に開けられる紐があるそうですわ。北部では、手がかじかむことも多いとか」
茶器を取る声の合間に、家名と品名が混じる。
リリアは、中央に近い席へ案内された。
北部慰問支援は、母と家令、王宮の慈善窓口が本筋を回している。リリアは母の手伝いとして、令嬢方から集まる慰問品や手紙を整えるだけだ。
それでも、ルヴェリエ侯爵家の令嬢である。
白百合令嬢である。
自然と、声はリリアの方へ向いた。
「ルヴェリエ様、先日の小茶会では大変でございましたわね」
「ヴァルグレイ卿がいらしたからよかったものの、どれほど驚かれたことでしょう」
「それに、あの後もいろいろと囁かれておりますでしょう。お疲れではなくて?」
リリアは、微笑んだ。
「ご心配をおかけいたしました。ヴァルグレイ卿のお働きには、ただ感謝するばかりです」
声は穏やかに。
目線は少し伏せる。
必要以上に親しげにはしない。
(ヴァルグレイ卿のお働き。はい。あの時もお働きでした。昨日も歩いていらっしゃいました。黒い外套で。右手に手袋で。いけません。今はそこではございません)
外側のリリアは、少しも揺れなかった。
「北部支援も、私ひとりの力ではございません。母をはじめ、皆様のお力添えあってのことですもの」
自分を大きく見せない。
けれど、中心から降りもしない。
白百合令嬢の微笑みは、そこで静かに場を受け止めた。
その様子を、ベアトリス・ラングレイ伯爵令嬢は見ていた。
薄い菫色のドレスに、細い金の髪飾り。派手ではないが、手入れの行き届いた装いだった。
リリアの名が呼ばれるたびに、ベアトリスは扇の骨を指で押さえた。
白百合令嬢。
北部支援。
氷の騎士団長に庇われた令嬢。
今日も、リリア・ルヴェリエには話題がある。
ラングレイ伯爵家には、ない。
「ラングレイ様のところは、今年も冬布をお出しになるの?」
「ええ。母が、反物問屋にいくつか見繕わせておりますわ」
「助かりますわね。北部は布がいくらあっても困らないでしょうし」
そこで会話は、隣の婦人が持ち込んだ薬草軟膏の話へ移った。
ベアトリスは、扇の陰で唇を結んだ。
褒められていないわけではない。
無視されているわけでもない。
けれど、ラングレイ家の話は続かない。
ルヴェリエ家には、今語られる支援がある。
ラングレイ家にも、今語れる手柄がほしい。
王宮の要職でなくてもいい。
大きな軍功でなくてもいい。
王家を動かす婚約話でなくてもいい。
北部支援に、ラングレイ家の役割が一つできればいい。
冬布、包み布、留め紐。
ラングレイ家が出せるものは、派手ではない。
けれど、北部支援にまったく関われないほど空っぽでもない。
そして、昨日見た。
王宮の廊下で、リリア・ルヴェリエとレオニス・ヴァルグレイが向かい合っていた。
声までは届かなかった。
それでも、親しげには見えなかった。
レオニスが足を止め、リリアが礼を返し、短く言葉を交わす。
それで終わり。
小茶会で身を挺して庇った相手にしては、静かすぎる。
そのうえ、レオニスが現れた瞬間、リリアの顔はほんの少し固まった。
苦手なのだろうか。
なら、間に入れる。
騎士団側とつながる口実になる。
北部支援に関われる。
ラングレイ家の名も、残せる。
ベアトリスは扇を閉じた。
◇
「ルヴェリエ様」
ベアトリスは、リリアの前で一段深く礼をした。
伯爵令嬢として、侯爵令嬢に向けるべき礼。そこに乱れはない。
リリアは、穏やかに微笑んだ。
「ラングレイ様。本日はお越しくださり、ありがとうございます」
「こちらこそ、お招きに感謝いたします。ルヴェリエ様は本日も、皆様をよくお迎えになっていて、さすがでございますわ」
周囲の婦人たちが、少しだけ視線を向ける。
リリアは笑みを深くしすぎずに受けた。
「迎えているなど、とんでもございません。皆様のお力添えがあってのことです」
ベアトリスは、扇を胸元に添えた。
「北部支援は、年々大切なお役目になっておりますもの。ルヴェリエ家ばかりに頼りきりでは、皆様も心苦しく思われるのではないかしら」
言葉は柔らかい。
けれど、場の空気がほんの少し動いた。
ルヴェリエ家ばかり。
リリアは、怒らなかった。
「私ひとりの力ではございませんわ。母も、家の者も、王宮の方々も、そして本日お集まりの皆様も、北部の方々を思ってくださっていますもの」
自分だけの支援ではない。
けれど、場の中心は渡さない。
ベアトリスの指先が、扇の骨をなぞった。
「ラングレイ家は、大きなお役目こそございませんけれど、反物問屋や仕立て屋とは少しご縁がございます。包み布や留め紐のような細かなものなら、何かお役に立てることもあるかと思いましたの」
リリアは、ベアトリスを少し長く見た。
反物問屋。
仕立て屋。
包み布。
留め紐。
華やかなものではない。
けれど、北部へ送る荷には必要なものだ。
「それは、ありがたいお話ですわ」
リリアは言った。
「包み布や留め紐は、目立つものではありませんけれど、届いた先ではとても大切ですもの」
ベアトリスの表情が、ほんの少し明るくなる。
けれど、彼女はそこで終わらせなかった。
「それに……差し出がましいことを申し上げますけれど」
ベアトリスは、少しだけ声を落とした。
「先日の小茶会のあと、皆様、少し気にされているようですわ」
リリアは微笑みを崩さなかった。
「気にされている、でございますか」
「ええ。ヴァルグレイ卿がルヴェリエ様をお守りになったことは、皆様よく存じております。けれど、その後のお二人があまりに静かでいらっしゃるものですから」
近くの婦人が、扇の陰で目を動かした。
リリアは、その視線を受けても姿勢を変えなかった。
あの噂は、まだ消えていない。
ヴァルグレイ卿と、ルヴェリエ家の令嬢は親しくない。
庇われたあとでさえ、ろくに言葉を交わさない。
そう見えているのだと、リリアは知っている。
違う。
嫌っているのではない。
嫌えるはずがない。
ただ、近づきすぎれば、自分が何を言い出すか分からないだけだ。
けれど、そんなことを茶会で説明できるわけもない。
「ご心配をおかけしているのでしたら、申し訳ないことですわ」
リリアは、穏やかに言った。
「ただ、ヴァルグレイ卿は北部を守る大切なお立場の方です。私が軽々しくお引き止めするべき方ではございませんもの」
その言葉に、ベアトリスの目がほんの少しだけ動いた。
「でしたら、騎士団側とのやりとりは、どなたかが間に入った方がよろしいかもしれませんわね」
リリアは、ベアトリスを見た。
ベアトリスは柔らかく微笑んでいる。
「ルヴェリエ様からは、ヴァルグレイ卿へ直接お声がけしづらいこともございましょう。よろしければ、わたくしが騎士団側への確認をお引き受けいたしますわ」
(違います)
リリアは、微笑んだまま思った。
(ご事情はあります。ありますが、ラングレイ様が思っていらっしゃるものではございません)
ベアトリスの言葉は、気遣いの形をしていた。
けれど、見えている。
ヴァルグレイ卿と話すきっかけ。
騎士団側とのつながり。
北部支援の中に置かれるラングレイ家の名前。
リリアは、それを責めなかった。
「ありがとうございます、ラングレイ様。お力添えいただけるなら、とても心強く存じます」
ベアトリスの目が、ほんの少し明るくなった。
リリアは、卓の上に置かれていた小さな布包みを取った。
「では、お声がけの前に、一つだけ確かめてもよろしいでしょうか」
「ええ、もちろんですわ」
リリアは、その包みをベアトリスの前へ置いた。
「こちらを、片手だけでほどいていただけますか」
ベアトリスは瞬きをした。
「片手、でございますか」
「はい。もう片方の手を負傷された方にも開けられるかどうか、見ておきたいのです」
室内が、静かになった。
ベアトリスは扇を置き、右手だけを伸ばした。
包みは小さい。
結び目も美しい。
けれど、片手でつまむと、紐は思ったほど動かなかった。輪に指を入れようとしても、細い紐が滑る。結び目を押さえる手がもう一本ないだけで、急に扱いづらくなる。
「……思ったより、難しいのですわね」
「ええ。ですから、騎士団側に伺うなら、どなたにお願いするかより先に、何を伺うかを整えたいのです」
リリアは、ほどけかけた紐へ視線を落とした。
「片手でもほどける結び。冬用の手袋でも開けられる包み方。濡れても固くなりにくい紐。必要なのは、ヴァルグレイ卿とのお席ではなく、現場で困らない条件ですもの」
ベアトリスは、言葉を失った。
責められたわけではない。
拒まれたわけでもない。
むしろ、協力は受け入れられている。
ただ、騎士団長との華やかな窓口は、いつの間にか、片手でほどけない留め紐の前に置き換えられていた。
婦人の一人が、感心したように息をついた。
「確かに、こちらでは綺麗に見える結びでも、北部では解きにくいかもしれませんものね」
「包み直しの手間が増えては、かえってご迷惑ですわ」
「ラングレイ様のお家なら、紐の種類にもお詳しいのではなくて?」
話題が、少しだけ動いた。
ラングレイの名は、今この場の話の中に残った。
ただし、騎士団長への窓口としてではない。
包み布と留め紐を整える者として。
ベアトリスは、ゆっくりと微笑んだ。
「……ええ。いくつか、候補を探してみますわ」
「ありがとうございます」
リリアは、柔らかく頷いた。
「騎士団側への確認は、王宮の慈善窓口を通してお願いしましょう。団長閣下を名指しするのではなく、実際に支援品を受け取り、仕分けてくださる現場の方へ」
ベアトリスは、ほんの少しだけ眉を動かした。
「現場の方へ」
「はい。その方が、きっと正確ですわ」
リリアは、卓の上の布包みへ視線を戻した。
「ラングレイ様には、冬用手袋でも扱いやすい紐と、濡れても固くなりにくい包み布を、いくつか見ていただけますか。こちらからは、騎士団側へ伺う項目をまとめます」
ベアトリスは笑っていた。
きちんと笑っていた。
けれど、胸の内で小さく計算が外れた音がした。
ヴァルグレイ卿への窓口は取れなかった。
だが、北部支援には入れた。
ラングレイ家の名も残った。
負けではない。
けれど、思っていた勝ち方ではなかった。
「承知いたしました。ルヴェリエ様のお役に立てるよう、努めますわ」
「心強く存じます」
リリアは、白百合令嬢の顔で微笑んだ。
(危のうございました)
内心では、深く息を吐いていた。
(ヴァルグレイ卿のお時間を、社交の噂のために使うところでした。いけません。あの方には、北部のための時間があります。私が一秒でも奪ってよいものではございません)
けれど、胸の奥では別の声も小さく動く。
少しでも近づけるなら。
同じ席にいられるなら。
あの声で、北部の話を聞けるなら。
(……いけません)
リリアは、微笑んだまま、指先に力を入れた。
(そのために支援を使ってはいけません)
リリアはその日のうちに、騎士団側へ確認したい項目を王宮慈善窓口へ預けた。
団長閣下を名指しするのではなく。
実際に支援品を扱う現場の方へ。
片手でもほどける結び。
冬用手袋でも開けられる包み方。
濡れても固くなりにくい紐。
必要なことだけを、必要な形で。
それでよかった。
◇
その日の夕刻。
「団長。北部慰問品の包み布と留め紐について、確認事項が届いています。王宮慈善窓口経由、差出はルヴェリエ侯爵家です」
北部方面騎士団の副官クライヴ・アスターは、そう言って一枚の書面を差し出した。




