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私の推し、私のことが好きすぎる  作者: あゆと
第1章 不仲説編

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7/11

白百合令嬢と氷の騎士団長は、距離があるそうです

 王宮へ向かう馬車の中で、リリア・ルヴェリエは膝の上の手を見ていた。


 そこにあるのは、いつもの白い礼装用の手袋だった。


 昨日、王宮の廊下で見た黒い手袋ではない。

 レオニス・ヴァルグレイの右手を包み、自分が縫った銀灰色の補強刺繍を光らせていた、あの手袋ではない。


 分かっているのに、一度思い出すと駄目だった。


 手袋をしたレオニスの指が、ほんのわずかに動く。

 そのたびに、手の甲の端に縫った小さな百合まで動いて見えた。


(……あれは、いけません)


 リリアは、静かに息を吸った。


(私の刺繍が、あの方の手で動いておりました。あれは、いけません。心臓によくありません)


 今日は北部慰問支援の茶会である。


 母の手伝いとして、令嬢方から集まる慰問品の話を受ける日だ。包み布や留め紐、手紙、便箋、布小物について話す日であって、レオニス・ヴァルグレイの右手を思い出す日ではない。


(右手ではございません。支援です。北部支援です。王宮に着いたらまた廊下で偶然お会いできるのでは、などと考える日でもございません)


「お嬢様」


 正面に座るエステル・フォルテが、静かに声をかけた。


「本日のご用件は、騎士団長様の右手を確認することではございません」

「分かっているわ」


 答えが少し早すぎた。


 エステルは、主人の顔を見た。

 責める目ではない。ただ、すべてを分かっている目だった。


「今日は北部慰問支援の茶会ですもの。令嬢方から預かった品について、お母様の代わりにお話を受けるだけよ」

「はい」

「ヴァルグレイ卿が王宮にいらっしゃるかどうかは、私には関係のないことです」

「はい」

「まして、手袋をお使いかどうかなど」

「はい」

「……エステル」

「はい」

「今の三つめは、聞かなかったことにしてちょうだい」

「かしこまりました。お嬢様の尊厳のために」


 リリアは窓の外へ視線を向けた。


 王宮の尖塔が、薄い春の光を受けて白く霞んでいる。

 昨日と同じ王宮で、昨日と同じ道を通っている。


 リリアは膝の上の手を重ね直した。


 北部の夜は冷える。

 手がかじかんだまま紐を解く人がいる。

 便箋一枚で、家族へ言葉を返せる人がいる。


 今日、前に出すべきなのはその人たちのことだ。

 レオニス・ヴァルグレイの右手ではない。


「行きましょう、エステル」

「すでに向かっております」

「心の話よ」

「そちらも、できるだけ前へお進みくださいませ」


 リリアは小さく息を吐き、白百合令嬢としての顔を整えた。


 ルヴェリエ侯爵家の娘として。

 北部へ届く品を預かる者として。


 王宮の門が、静かに近づいてきた。



 慈善茶会が開かれたのは、王宮の奥にある小さな応接室だった。


 淡い色の絨毯の上に丸い卓が置かれ、銀の茶器と薄く焼かれた菓子が並んでいる。花瓶には、香りの強すぎない白い花が生けられていた。


 窓際には、北部へ送る品の見本として、布小物や便箋、包み紐が控えめに置かれている。


「今年はどちらのお家が冬布を?」

「便箋は、ルヴェリエ様のところで揃えてくださったのよね」

「封を簡単に開けられる紐があるそうですわ。北部では、手がかじかむことも多いとか」


 茶器を取る声の合間に、家名と品名が混じる。


 リリアは、中央に近い席へ案内された。


 北部慰問支援は、母と家令、王宮の慈善窓口が本筋を回している。リリアは母の手伝いとして、令嬢方から集まる慰問品や手紙を整えるだけだ。


 それでも、ルヴェリエ侯爵家の令嬢である。

 白百合令嬢である。


 自然と、声はリリアの方へ向いた。


「ルヴェリエ様、先日の小茶会では大変でございましたわね」

「ヴァルグレイ卿がいらしたからよかったものの、どれほど驚かれたことでしょう」

「それに、あの後もいろいろと囁かれておりますでしょう。お疲れではなくて?」


 リリアは、微笑んだ。


「ご心配をおかけいたしました。ヴァルグレイ卿のお働きには、ただ感謝するばかりです」


 声は穏やかに。

 目線は少し伏せる。

 必要以上に親しげにはしない。


(ヴァルグレイ卿のお働き。はい。あの時もお働きでした。昨日も歩いていらっしゃいました。黒い外套で。右手に手袋で。いけません。今はそこではございません)


 外側のリリアは、少しも揺れなかった。


「北部支援も、私ひとりの力ではございません。母をはじめ、皆様のお力添えあってのことですもの」


 自分を大きく見せない。

 けれど、中心から降りもしない。


 白百合令嬢の微笑みは、そこで静かに場を受け止めた。


 その様子を、ベアトリス・ラングレイ伯爵令嬢は見ていた。


 薄い菫色のドレスに、細い金の髪飾り。派手ではないが、手入れの行き届いた装いだった。


 リリアの名が呼ばれるたびに、ベアトリスは扇の骨を指で押さえた。


 白百合令嬢。

 北部支援。

 氷の騎士団長に庇われた令嬢。


 今日も、リリア・ルヴェリエには話題がある。


 ラングレイ伯爵家には、ない。


「ラングレイ様のところは、今年も冬布をお出しになるの?」

「ええ。母が、反物問屋にいくつか見繕わせておりますわ」

「助かりますわね。北部は布がいくらあっても困らないでしょうし」


 そこで会話は、隣の婦人が持ち込んだ薬草軟膏の話へ移った。


 ベアトリスは、扇の陰で唇を結んだ。


 褒められていないわけではない。

 無視されているわけでもない。


 けれど、ラングレイ家の話は続かない。


 ルヴェリエ家には、今語られる支援がある。

 ラングレイ家にも、今語れる手柄がほしい。


 王宮の要職でなくてもいい。

 大きな軍功でなくてもいい。

 王家を動かす婚約話でなくてもいい。


 北部支援に、ラングレイ家の役割が一つできればいい。


 冬布、包み布、留め紐。


 ラングレイ家が出せるものは、派手ではない。

 けれど、北部支援にまったく関われないほど空っぽでもない。


 そして、昨日見た。


 王宮の廊下で、リリア・ルヴェリエとレオニス・ヴァルグレイが向かい合っていた。


 声までは届かなかった。


 それでも、親しげには見えなかった。

 レオニスが足を止め、リリアが礼を返し、短く言葉を交わす。


 それで終わり。


 小茶会で身を挺して庇った相手にしては、静かすぎる。


 そのうえ、レオニスが現れた瞬間、リリアの顔はほんの少し固まった。


 苦手なのだろうか。


 なら、間に入れる。


 騎士団側とつながる口実になる。

 北部支援に関われる。

 ラングレイ家の名も、残せる。


 ベアトリスは扇を閉じた。



「ルヴェリエ様」


 ベアトリスは、リリアの前で一段深く礼をした。


 伯爵令嬢として、侯爵令嬢に向けるべき礼。そこに乱れはない。


 リリアは、穏やかに微笑んだ。


「ラングレイ様。本日はお越しくださり、ありがとうございます」

「こちらこそ、お招きに感謝いたします。ルヴェリエ様は本日も、皆様をよくお迎えになっていて、さすがでございますわ」


 周囲の婦人たちが、少しだけ視線を向ける。


 リリアは笑みを深くしすぎずに受けた。


「迎えているなど、とんでもございません。皆様のお力添えがあってのことです」


 ベアトリスは、扇を胸元に添えた。


「北部支援は、年々大切なお役目になっておりますもの。ルヴェリエ家ばかりに頼りきりでは、皆様も心苦しく思われるのではないかしら」


 言葉は柔らかい。

 けれど、場の空気がほんの少し動いた。


 ルヴェリエ家ばかり。


 リリアは、怒らなかった。


「私ひとりの力ではございませんわ。母も、家の者も、王宮の方々も、そして本日お集まりの皆様も、北部の方々を思ってくださっていますもの」


 自分だけの支援ではない。

 けれど、場の中心は渡さない。


 ベアトリスの指先が、扇の骨をなぞった。


「ラングレイ家は、大きなお役目こそございませんけれど、反物問屋や仕立て屋とは少しご縁がございます。包み布や留め紐のような細かなものなら、何かお役に立てることもあるかと思いましたの」


 リリアは、ベアトリスを少し長く見た。


 反物問屋。

 仕立て屋。

 包み布。

 留め紐。


 華やかなものではない。

 けれど、北部へ送る荷には必要なものだ。


「それは、ありがたいお話ですわ」


 リリアは言った。


「包み布や留め紐は、目立つものではありませんけれど、届いた先ではとても大切ですもの」


 ベアトリスの表情が、ほんの少し明るくなる。


 けれど、彼女はそこで終わらせなかった。


「それに……差し出がましいことを申し上げますけれど」


 ベアトリスは、少しだけ声を落とした。


「先日の小茶会のあと、皆様、少し気にされているようですわ」


 リリアは微笑みを崩さなかった。


「気にされている、でございますか」


「ええ。ヴァルグレイ卿がルヴェリエ様をお守りになったことは、皆様よく存じております。けれど、その後のお二人があまりに静かでいらっしゃるものですから」


 近くの婦人が、扇の陰で目を動かした。


 リリアは、その視線を受けても姿勢を変えなかった。


 あの噂は、まだ消えていない。


 ヴァルグレイ卿と、ルヴェリエ家の令嬢は親しくない。

 庇われたあとでさえ、ろくに言葉を交わさない。


 そう見えているのだと、リリアは知っている。


 違う。

 嫌っているのではない。

 嫌えるはずがない。


 ただ、近づきすぎれば、自分が何を言い出すか分からないだけだ。


 けれど、そんなことを茶会で説明できるわけもない。


「ご心配をおかけしているのでしたら、申し訳ないことですわ」


 リリアは、穏やかに言った。


「ただ、ヴァルグレイ卿は北部を守る大切なお立場の方です。私が軽々しくお引き止めするべき方ではございませんもの」


 その言葉に、ベアトリスの目がほんの少しだけ動いた。


「でしたら、騎士団側とのやりとりは、どなたかが間に入った方がよろしいかもしれませんわね」


 リリアは、ベアトリスを見た。


 ベアトリスは柔らかく微笑んでいる。


「ルヴェリエ様からは、ヴァルグレイ卿へ直接お声がけしづらいこともございましょう。よろしければ、わたくしが騎士団側への確認をお引き受けいたしますわ」


(違います)


 リリアは、微笑んだまま思った。


(ご事情はあります。ありますが、ラングレイ様が思っていらっしゃるものではございません)


 ベアトリスの言葉は、気遣いの形をしていた。


 けれど、見えている。


 ヴァルグレイ卿と話すきっかけ。

 騎士団側とのつながり。

 北部支援の中に置かれるラングレイ家の名前。


 リリアは、それを責めなかった。


「ありがとうございます、ラングレイ様。お力添えいただけるなら、とても心強く存じます」


 ベアトリスの目が、ほんの少し明るくなった。


 リリアは、卓の上に置かれていた小さな布包みを取った。


「では、お声がけの前に、一つだけ確かめてもよろしいでしょうか」

「ええ、もちろんですわ」


 リリアは、その包みをベアトリスの前へ置いた。


「こちらを、片手だけでほどいていただけますか」


 ベアトリスは瞬きをした。


「片手、でございますか」

「はい。もう片方の手を負傷された方にも開けられるかどうか、見ておきたいのです」


 室内が、静かになった。


 ベアトリスは扇を置き、右手だけを伸ばした。


 包みは小さい。

 結び目も美しい。


 けれど、片手でつまむと、紐は思ったほど動かなかった。輪に指を入れようとしても、細い紐が滑る。結び目を押さえる手がもう一本ないだけで、急に扱いづらくなる。


「……思ったより、難しいのですわね」


「ええ。ですから、騎士団側に伺うなら、どなたにお願いするかより先に、何を伺うかを整えたいのです」


 リリアは、ほどけかけた紐へ視線を落とした。


「片手でもほどける結び。冬用の手袋でも開けられる包み方。濡れても固くなりにくい紐。必要なのは、ヴァルグレイ卿とのお席ではなく、現場で困らない条件ですもの」


 ベアトリスは、言葉を失った。


 責められたわけではない。

 拒まれたわけでもない。


 むしろ、協力は受け入れられている。


 ただ、騎士団長との華やかな窓口は、いつの間にか、片手でほどけない留め紐の前に置き換えられていた。


 婦人の一人が、感心したように息をついた。


「確かに、こちらでは綺麗に見える結びでも、北部では解きにくいかもしれませんものね」

「包み直しの手間が増えては、かえってご迷惑ですわ」

「ラングレイ様のお家なら、紐の種類にもお詳しいのではなくて?」


 話題が、少しだけ動いた。


 ラングレイの名は、今この場の話の中に残った。

 ただし、騎士団長への窓口としてではない。


 包み布と留め紐を整える者として。


 ベアトリスは、ゆっくりと微笑んだ。


「……ええ。いくつか、候補を探してみますわ」


「ありがとうございます」


 リリアは、柔らかく頷いた。


「騎士団側への確認は、王宮の慈善窓口を通してお願いしましょう。団長閣下を名指しするのではなく、実際に支援品を受け取り、仕分けてくださる現場の方へ」


 ベアトリスは、ほんの少しだけ眉を動かした。


「現場の方へ」

「はい。その方が、きっと正確ですわ」


 リリアは、卓の上の布包みへ視線を戻した。


「ラングレイ様には、冬用手袋でも扱いやすい紐と、濡れても固くなりにくい包み布を、いくつか見ていただけますか。こちらからは、騎士団側へ伺う項目をまとめます」


 ベアトリスは笑っていた。


 きちんと笑っていた。


 けれど、胸の内で小さく計算が外れた音がした。


 ヴァルグレイ卿への窓口は取れなかった。

 だが、北部支援には入れた。

 ラングレイ家の名も残った。


 負けではない。


 けれど、思っていた勝ち方ではなかった。


「承知いたしました。ルヴェリエ様のお役に立てるよう、努めますわ」


「心強く存じます」


 リリアは、白百合令嬢の顔で微笑んだ。


(危のうございました)


 内心では、深く息を吐いていた。


(ヴァルグレイ卿のお時間を、社交の噂のために使うところでした。いけません。あの方には、北部のための時間があります。私が一秒でも奪ってよいものではございません)


 けれど、胸の奥では別の声も小さく動く。


 少しでも近づけるなら。

 同じ席にいられるなら。

 あの声で、北部の話を聞けるなら。


(……いけません)


 リリアは、微笑んだまま、指先に力を入れた。


(そのために支援を使ってはいけません)


 リリアはその日のうちに、騎士団側へ確認したい項目を王宮慈善窓口へ預けた。


 団長閣下を名指しするのではなく。

 実際に支援品を扱う現場の方へ。


 片手でもほどける結び。

 冬用手袋でも開けられる包み方。

 濡れても固くなりにくい紐。


 必要なことだけを、必要な形で。


 それでよかった。



 その日の夕刻。


「団長。北部慰問品の包み布と留め紐について、確認事項が届いています。王宮慈善窓口経由、差出はルヴェリエ侯爵家です」


 北部方面騎士団の副官クライヴ・アスターは、そう言って一枚の書面を差し出した。

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