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私の推し、私のことが好きすぎる  作者: あゆと
第1章 不仲説編

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6/10

氷の騎士団長は、その手袋を使っていました

 返礼が届いてから、数日が過ぎた。


 リリア・ルヴェリエは、その数日のあいだに、何度も同じところで考えるのを止めた。


 もし、いつか。

 本当に、あの手袋を使ってくださったなら。


 そこで止める。

 止めるべきだった。

 けれど、止められるなら最初から鍵付きの小箱など用意していない。


(たとえば、王宮の廊下ですれ違った時。いえ、すれ違う予定などございません。ヴァルグレイ卿は北部方面の騎士団長で、普段は王都にいらっしゃらない方。たまたま同じ廊下を歩くなど、都合がよすぎます。ですが、もし。もし偶然に。あくまで偶然にです。廊下の角からヴァルグレイ卿が歩いていらして、右手に黒い手袋をはめていらして、手の甲の端に銀灰色の刺繍が見えて、そこに小さな百合が……)


 リリアは両手で顔を覆った。


「エステル」

「想像だけで限界を迎えるのは、お早いかと存じます」

「私はまだ何も言っていないわ」

「小箱を閉じたまま三度うなずき、四度首を振り、最後に顔を覆われましたので。声に出されるより分かりやすうございました」


 エステル・フォルテは、机の上の小箱へ視線を落とした。


 深い青の、鍵付きの小箱。

 湿気を避ける薄紙。

 封蝋を傷つけない柔らかな布。

 便箋を折り直さずに収められる広さ。


 その中に、レオニス・ヴァルグレイからの返礼は収められている。


 収められている。


 ただし、収められているからといって、開かれていないわけではない。


「本日の開封は、一度でございます」

「数えないで」

「昨日の七度に比べれば、たいへん控えめです」

「昨日の私は少し取り乱していました」

「昨日だけでございましたか」

「エステル、主人の尊厳を薄紙のように扱わないでちょうだい」


 リリアは姿勢を正した。


 白百合令嬢として、返礼の便箋を何度も読み返す程度で狼狽えてはいけない。

 たとえそこに、レオニス・ヴァルグレイの署名があり、自分の贈った手袋について書かれていたとしても。


 便箋の文字は、何度見ても消えていない。


『手袋、確かに頂戴いたしました。

 傷が塞がり次第、大切に使わせていただきます。

 手の甲の補強まで、お心遣い痛み入ります。


 レオニス・ヴァルグレイ』


 手袋。

 傷が塞がり次第。

 大切に。

 使わせていただく。

 手の甲。

 補強。

 お心遣い。


 百合とは書かれていない。

 白百合とも書かれていない。

 自分で縫ったのか、とも尋ねられていない。


 けれど、手の甲の補強には気づいてくださった。

 そこに込めた気遣いだけは、受け取ってくださった。


 それだけで十分だった。


 十分なはずだった。


(受け取っていただけただけで十分。返礼をいただけただけで十分。大切に使うと書いていただけただけで、私の人生はもう一度最初から清書できます。実際に使っていただける日が来るかどうかなど、望んではいけません。ヴァルグレイ卿には騎士団の支給品も、戦闘用も、礼装用も、訓練用もあるはずです。私の手袋がその中の一組になっただけで、十分すぎるほど光栄です)


 そこまで考えて、リリアはまた小箱を見た。


 エステルが、小箱の蓋にそっと手を置く。


「お嬢様。開ける前のお顔です」

「まだ開けるとは言っていないわ」

「鍵を見ています」

「見ているだけです」

「鍵は見るものではなく、開けるものでございます」

「では危険ね。預かってちょうだい」


 リリアは鍵を差し出した。


 エステルは何も言わずに受け取る。

 それがまた、何もかも分かっている侍女の所作だった。



 その日の昼前、王宮からルヴェリエ侯爵夫人宛てに確認状が届いた。


 北部へ送る慰問品のうち、令嬢方から集まった布小物と手紙の控えについて、慈善窓口で確かめたい点があるという内容だった。


 大きな不備ではない。

 包みの数と控えの番号を合わせ、母からの返答をひとこと添えれば済む話だった。


 母は別の来客から離れられない。

 家令に任せてもよかったが、令嬢方から預かった品の控えなら、リリアが見た方が早い。


 リリアは母の手伝いとして、王宮へ向かうことになった。


 確認状のどこにも、レオニス・ヴァルグレイの名はなかった。


 リリアはそれを見て、少しだけ安心した。

 安心したのに、胸の奥が小さく沈んだ。


(会わない方がよいのです。会えば、手袋を見てしまうかもしれません。いえ、そもそも使っていらっしゃるとは限りません。使っていなかったとしても当然ですし、使っていらしたら私は終わります。つまり、どちらにしても危険です)


 エステルが確認状を折りたたんだ。


「馬車の用意をいたします。控えの確認だけなら、長居にはなりません」

「包みの数と番号を合わせて、すぐ戻りましょう」

「小箱の鍵は、このままお預かりします」

「帰ってからも、できればすぐには返さないで」

「お嬢様の呼吸と相談いたします」

「呼吸は戻っているわ」

「戻っている方は、小箱に礼をなさいません」


 リリアは一瞬だけ黙った。


「……出かけましょう」

「賢明でございます」



 王宮の昼の廊下は、夜会の日とはまったく違う顔をしていた。


 窓から淡い光が入り、磨かれた床に細く伸びている。

 壁際の花瓶には、香りの強すぎない白い花が生けられていた。

 遠くで侍従が書類を運び、文官たちが低い声で保管庫の鍵を確認している。


 リリアは、令嬢方から集まった布小物と手紙の控えを腕に抱えて歩いた。

 エステルは半歩後ろについている。


 今日はただの確認だ。


 慈善窓口で、包みの数と控えの番号を合わせる。

 必要なら、母から預かった返答を添える。

 それだけだ。


 レオニス・ヴァルグレイの名は、確認状のどこにもなかった。

 王宮の廊下で偶然会うなど、都合のよい夢でしかない。


 だから、大丈夫。


 リリアはそう思っていた。


 廊下の角を曲がった時、向こうから黒い外套の男が歩いてきた。


 レオニス・ヴァルグレイだった。


(きゃー!)


 叫ばなかった。

 リリアは、叫ばなかった。


(神様、ありがとうございます。今日この時間に、この廊下を、この方が歩いていらっしゃる偶然をありがとうございます。確認状を出した王宮の係官にも、かなり感謝いたします。ですが今は歩いてくださいませ、リリア・ルヴェリエ。足を止めたら終わります。王宮の廊下で侯爵令嬢が突然動かなくなる理由などございません。ございますけれど、表に出してよい理由ではございません)


 外側のリリアは、足を止めなかった。


 北部方面を任される騎士団長としての略礼装。

 夜会の黒い礼服よりも少し実務寄りで、肩の線が鋭い。

 腰には剣。

 歩幅は静かで、無駄がない。


(歩いていらっしゃる。実在していらっしゃる。廊下を歩くというだけで、なぜこれほど整っているのでしょうか。神様、追加で感謝申し上げます。ありがとうございます。あの方をこの世に置いてくださって、ありがとうございます)


 リリアは呼吸を整えた。

 整えた、ということにした。


 白百合令嬢は取り乱さない。

 偶然、敬愛する方が正面から歩いてきただけで崩れるようでは、侯爵令嬢としてあまりに未熟だ。


 そう自分に言い聞かせた時、視線がどうしても落ちた。


 右手。


 包帯はなかった。

 黒い手袋があった。


 手の甲の端に、銀灰色の補強刺繍。

 小さな百合。


 使って、くださっている。


(神様。今の感謝を訂正いたします。先ほどの偶然だけでも十分でしたのに、これは、これはもう、王宮の廊下で受け取ってよい奇跡の量を超えています)


 リリアの顔は、一瞬だけこわばった。


 すぐに微笑みに戻す。

 廊下で礼を交わす侯爵令嬢として、失礼のない顔。

 誰が見ても、少し驚いただけに見える顔。


 けれど、自分の呼吸だけは戻ってこない。


 黒い手袋が、レオニスの手にある。

 箱の中ではない。

 机の上でもない。

 小箱でも、宝物庫でもない。


 レオニス・ヴァルグレイの右手に、ある。


(本当に。使って。くださっている)


 リリアは息を吸った。

 吸えた。

 えらい。

 この状況で息を吸えた自分は、もう少し評価されてよい。


 レオニスも、リリアに気づいた。

 灰青の目が、ほんのわずかに揺れる。

 そして、リリアの視線が自分の右手に落ちたことにも気づいた。


 レオニスは、右手を背に回さなかった。

 銀灰色の刺繍は、廊下の光の中にそのまま残っていた。


「ルヴェリエ嬢」

「ヴァルグレイ卿」


 リリアは礼をした。

 白百合令嬢として。

 外側は、まだ崩れていない。


「王宮へお越しでしたか」

「母の手伝いで、令嬢方から預かった慰問品の控えを確認しに参りました」

「北部へ送られる品ですね。いつも助けられています」


 ただの挨拶。

 王宮の廊下ですれ違った侯爵令嬢と騎士団長として、何もおかしくない。


 けれど、リリアの視線は、もう一度だけ右手へ落ちてしまった。


 レオニスは、その視線を咎めなかった。

 むしろ、ほんの少しだけ右手を前に出した。


「先日は、手袋をありがとうございました」

「こちらこそ、お使いいただき、光栄でございます」

「手に馴染みます」

「それなら、何よりでございます」


 会話は、それだけだった。


 外から見れば、礼儀正しいだけの短いやりとりだ。

 リリアは微笑んでいる。

 レオニスは表情を変えない。

 二人の距離は、貴族同士の挨拶として正しい。


 正しすぎるほどに。


 けれどリリアの中身は、すでに無事ではなかった。


(手に馴染む。手に馴染むとおっしゃいました。今の一言で、私はしばらく生きられます。いえ、しばらくでは困ります。遠征報告を読み続けるためにも、相応に長く生きなければなりません。神様、先ほどは遭遇をありがとうございました。続けて申し訳ありませんが、私に落ち着きもお与えください。寿命より先に、落ち着きが必要です)


 エステルは半歩後ろで、完璧に無表情だった。

 ただし、その無表情は、主人の呼吸が一瞬止まりかけたことを正確に把握している顔だった。


 レオニスは短く礼をした。

 黒い手袋の指先が、外套の縁に触れる。

 その一瞬だけ、手の甲の銀灰色が廊下の光を拾った。


 小さな百合が、動いた。


(動きました)


 リリアは控えを抱える腕に、ほんの少しだけ力を込めた。


(今、百合が動きました。私の刺繍ではありません。いえ、私が縫ったものではありますが、もう私のものではありません。あの方の手の甲で、あの方の動きに合わせて、あの方の日々の一部として動きました。これは、見てよいものでしたか。許される光景でしたか。神様、先ほどから何度も申し訳ございません。ありがとうございます)


 胸の奥を押さえたくなった。

 けれど、両手には控えがある。

 それに、王宮の廊下で胸を押さえる令嬢は、あまりに分かりやすい。


「お引き止めいたしました」

「こちらこそ、失礼いたしました」


 レオニスは礼をした。


 リリアも礼を返す。

 足を止めたのは、ほんの短い時間だけ。

 助けられた令嬢と、その恩人。


 それにしては、あまりにそっけない別れだった。


 レオニスは廊下の向こうへ歩いていく。

 黒い外套。

 無駄のない歩幅。

 右手の黒い手袋。

 手の甲に、銀灰色の小さな百合。


 リリアは、背筋を伸ばしたまま見送った。

 白百合令嬢として、王宮の廊下で固まるわけにはいかない。


 けれど、レオニスの姿が角を曲がって見えなくなった瞬間、控えを抱える腕に少しだけ力が入った。


「エステル」

「控えは無事です。お嬢様も、今のところは」

「私は今、きちんと立っていますか」

「立っておいでです」

「顔は」

「白百合令嬢でございます」

「中身は」

「確認しない方がよろしいかと」

「賢明ね」


 リリアは小さく息を吐いた。


 受け取ってもらえただけで十分だと思っていた。

 返礼をもらえただけで、鍵付きの小箱に入れて一生守れると思っていた。

 大切に使うという一文だけで、もう望みすぎだと思っていた。


 けれど、黒い手袋は小箱に入れられていなかった。

 飾られてもいなかった。

 レオニス・ヴァルグレイの手の甲で、王宮の昼の光を受けていた。


 小さな百合は、もう箱の中にはなかった。


 あの方の日々の中で、静かに動いていた。



 角を曲がってから、レオニスはようやく右手を見た。


(お気づきになった)


 黒い手袋の甲には、小さな百合がある。

 先ほど、リリアの視線はそこに落ちていた。


(隠すべきだった。王宮の廊下で、ルヴェリエ嬢にこの手袋を意識させるべきではなかった。彼女のためを思うなら、右手を背に回し、ただ礼だけを述べて通り過ぎるべきだった)


 だが、できなかった。


(あの方が贈ってくださったものを、見られて困るもののように扱うことだけは、どうしてもできなかった)


 レオニスは指を一度だけ握った。


 革は手に馴染む。

 手の甲の補強も、動きを邪魔しない。


(手に馴染む、などと。あれは言いすぎた。もっと短く礼だけを言うべきだったが、嘘ではない。嘘ではないから、余計に始末が悪い)


 手袋の内側で、右手が熱い。


(これは右手を守るためのものだ。戦場で手を失わぬためのものだ。あの方の気遣いが、この手に残っているなどと考えてはならない。考えてはならないのに、革の感触を意識するたび、そこに彼女の心遣いを探してしまう)


 レオニスは、握った指をゆっくりと開いた。


 熱は引かなかった。


 リリアは、すぐに微笑みに戻った。

 声も乱さなかった。

 礼も崩さなかった。


(だから、自分も崩れてはならなかった。あれ以上言えば、礼を越える。距離を越える。彼女に噂の矢が向く。それだけは避けなければならない)


 銀灰色の小さな百合が、指の動きに合わせてかすかに揺れた。


(大切だからしまっておくのではない。大切だから、使う。そう決めただけだ。彼女の名を口にせず、彼女の刺繍に触れず、ただ日々の用として使う。それが一番穏やかな形のはずだった)


 それだけのはずだ。


 レオニスは息を吐き、手を下ろした。


(……手袋一つで、何をしている)


 彼は歩き出した。



 廊下の柱の陰で、扇がゆっくりと閉じられた。


 ベアトリス・ラングレイ伯爵令嬢は、最初からリリアを見ていた。


 声までは届かなかった。

 黒い手袋の意味も知らない。

 手の甲の端にある小さな刺繍など、柱の陰から見えるはずもない。


 見えたのは、二人の距離だけだった。


 小茶会で、氷の騎士団長が白百合令嬢を庇ったという話は聞いている。

 ならば、恩人と顔を合わせた令嬢は、もう少し柔らかく笑うものではないのか。


 けれど二人の会話は短かった。

 礼儀はある。

 距離もある。


 あまりに、そっけない。


 そのうえ、レオニス・ヴァルグレイが現れた瞬間、リリアの顔は一瞬だけこわばった。


 すぐに微笑みに戻ったが、ベアトリスは見落とさなかった。


「……不仲説は、本当のようね」

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