小さな百合は、届いてしまいました
贈り物の白い小箱は、翌朝もリリア・ルヴェリエの机の上にあった。
黒い手袋。
銀灰色の小さな百合。
前夜、蓋を閉めるまであれほど時間がかかったのに、朝になっても重さは少しも軽くなっていなかった。
「使いの者に届けさせましょうか」
エステル・フォルテは、そう尋ねた。
リリアはうなずきかけて、白い小箱を見た。
使いに任せれば、礼としては足りる。
けれどこの中には、先日の茶会で見た血と、一針ごとに膨らんでしまった願いと、縫うつもりではなかった小さな百合が入っている。
自分の手から離すなら、せめて自分の足で届けたかった。
「騎士団詰所まで、私が持っていきます。直接お渡しできるかは、まだ分かりません」
エステルは余計なことを言わず、馬車の用意に向かった。
白い小箱は軽い。
手袋一組と、短い礼状だけ。
それなのに、膝の上に置いたままでは落ち着かず、リリアは騎士団詰所に着くまで両手で抱えていた。
騎士団詰所には、乾いた革と金具の匂いがした。
遠くから、剣の打ち合う音が聞こえる。
ここが、レオニス・ヴァルグレイのいる場所。
そう思っただけで足が止まりそうになり、リリアは白い小箱を抱え直した。
受付にいた若い騎士が、慌てて背筋を伸ばす。
近くの騎士たちも、ちらりとこちらを見た。
白百合令嬢が、騎士団詰所へ来た。
しかも小箱を持っている。
それだけで、視線は十分に集まった。
「ルヴェリエ侯爵家のリリア・ルヴェリエです。先日の茶会で助けていただいたお礼を、ヴァルグレイ卿へお持ちしました」
声は震えなかった。
震えなかったことにした。
若い騎士は丁寧に一礼した。
「副官を呼んでまいります」
本人ではない。
そのことに、リリアは少しだけ息を吐いた。
ほっとした。
ほっとしてしまった。
(私は、何度安心すれば気が済むのでしょう。渡したいのです。届いてほしいのです。けれど、お会いするのは怖い。見られるのも怖い。小さな百合に気づかれるのはもっと怖い。なのに、気づかれないまま使われるのも、それはそれで胸が変なふうに苦しくなるのですから、本当に面倒な女でございます)
すぐに奥の廊下から、レオニスの副官であるクライヴ・アスターが現れた。
「ルヴェリエ嬢。先日は大事なく、何よりでございました」
「こちらこそ、ヴァルグレイ卿には大変なご迷惑をおかけしました」
「迷惑と感じる団長ではございません。むしろ、間に合ったことを安堵しておりました」
間に合ったことを、安堵していた。
その一言で、リリアの中に、裂けた黒手袋と、血のにじんだ手の甲が戻ってくる。
リリアは白い小箱を差し出した。
「先日の件のお礼です。直接お渡しするほどのものではございませんので、副官殿にお預けしてもよろしいでしょうか」
直接渡すほどのものではない。
そう聞こえる言葉を選んだ。
本当は、直接渡せないほどのものだった。
クライヴは白い小箱を両手で受け取った。
「承りました。必ず団長へお渡しいたします」
それだけで、リリアはもう限界だった。
「団長は訓練場におります」
クライヴは一度だけ、奥の廊下へ視線を向けた。
「お待ちいただくこともできます。訓練が終わり次第、こちらへお呼びいたしましょう」
待てる。
その言葉だけで、リリアの指先が白い小箱を探した。
もう手元にはない。
小箱は、クライヴの手の中にある。
今なら、会えるかもしれない。
直接、お礼を言えるかもしれない。
あの手袋を、本人に渡せるかもしれない。
けれど、同時に思ってしまった。
小さな百合を、本人の目の前で開けられるかもしれない。
(無理です。いいえ、無理ではございません。白百合令嬢として、お礼を述べ、箱を差し出し、静かに退室すればよいだけです。ですが、そのあと箱が開き、黒い手袋が現れ、手の甲の端にある小さな百合が見つかり、ヴァルグレイ卿の灰青の目がそこに落ちたら、私はその場で礼儀作法の教本にない倒れ方をする自信があります)
「……いいえ」
リリアは、白百合令嬢として微笑んだ。
「本日は、これで失礼いたします」
クライヴは引き止めなかった。
ただ、深く礼をする。
「確かに、お預かりいたしました」
リリアは騎士団詰所を出た。
馬車に乗っても、膝の上に白い小箱はない。
手もとにない。
机の上にもない。
小さな百合は、騎士団詰所に残ってしまった。
◇
リリアが帰った少しあと、レオニス・ヴァルグレイは訓練場から戻った。
右手には、まだ包帯が巻かれている。
浅い傷だ。
剣は握れる。
けれど、握るたびに皮膚が少し引きつった。
「団長。ルヴェリエ嬢がお見えでした」
クライヴの声に、レオニスの足が止まる。
(ルヴェリエ嬢が、ここへ)
訓練場の砂が、まだ靴裏についている。
上着にも、汗と革の匂いが残っている。
こんな場所に、彼女が。
「怪我は」
「ありません。お顔色も悪くは見えませんでした。こちらをお預かりしております」
白い小箱だった。
余計な飾りはない。
銀灰色の紐がかかっている。
その上に、細い封筒が添えられていた。
レオニスは左手で受け取った。
軽い。
軽いのに、力を間違えれば壊してしまいそうだった。
「訓練が終わるまでお待ちいただくこともできます、とお伝えしました」
「……そうか」
「お帰りになりました」
「そうか」
短い返事しかできなかった。
会えなかった。
いや、会わせなかったのはこちらかもしれない。
汗と砂を落とす前の自分が、彼女の前に出なくて済んだことに、安堵もした。
けれど、胸の奥に小さな空白が残った。
レオニスは先に封筒を取った。
箱を開けるより、そちらの方が礼を失しない気がした。
そう考えた時点で、自分がひどく慎重になっていることに気づく。
封を切る。
便箋を開く。
『先日の茶会では、危ないところを助けてくださり、誠にありがとうございました。
御手を傷められたと伺い、ささやかながら手袋をお送りいたします。
ご迷惑でなければ、日々のご用にお使いいただけますと幸いです。
リリア・ルヴェリエ』
手袋。
日々のご用。
飾るためではない。
箱に収めておくためでもない。
使ってほしいと、そう書いてある。
(使う)
読む前から、答えは決まっていた気もした。
けれど、この一文がなければ、きっと箱ごと保管しかねなかった。
レオニスは便箋を戻し、白い小箱を机に置いた。
中身が手袋だと分かっていても、呼吸は少し浅い。
彼女が、自分の手のために選んだもの。
それだけで、手袋を見る前から、指先が慎重になった。
銀灰色の紐に指をかける。
結び目をほどく。
蓋を少しだけ持ち上げる。
黒い革が見えた瞬間、息が止まった。
黒い手袋だった。
礼装にも使える、品のよい黒。
剣を握っても邪魔になりにくい柔らかな革。
手の甲には、内側の当て革を留めるように銀灰色の補強刺繍が入っている。
レオニスは、手袋へ伸ばしかけた指を止めた。
目が、銀灰色の糸に吸い寄せられる。
手の甲の端に、補強の刺繍がある。
その一部だけ、縫い方が違った。
職人のまっすぐな針目ではない。
ほんの少しだけ、糸の運びが柔らかい。
そして、その違う針目は、小さな花の形をしていた。
百合だった。
(……白百合)
レオニスは息を止めた。
(まさか)
胸の奥が、熱くなった。
(この手のために)
その言葉だけで、しばらく動けなかった。
(いや、そんなはずはない。侯爵令嬢が自分で革の手袋に針を入れる必要などない。職人に任せればいい。礼として贈るなら、それで十分だ)
それでも、刺繍はそこにあった。
ちょうど、レオニスが傷を負った場所を覆うように。
(俺が問題ないと言って背に回した手を、あの方は見ていたのか。見て、覚えて、そこを少しでも守ろうとしてくださったのか。もし本当に、あの白い指でこの革を押さえ、一針だけでもこの手の甲を思いながら糸を通してくださったのなら)
胸の奥が、痛いほど熱くなった。
レオニスは、左手で包帯を巻いた右手をそっと包んだ。
言葉には、ならなかった。
ただ、胸の奥だけが熱い。
戦場で刃を受けた時とは違う。
勝利の報告を受けた時とも違う。
もっと静かで、もっと深く、息の仕方を忘れるような熱だった。
「団長」
クライヴの声で、レオニスはわずかに瞬きをした。
「呼吸を」
「……している」
「している方は、もう少し顔色が戻ります」
レオニスは答えず、小さな百合を見た。
日々の用に、と礼状にはあった。
ならば、飾ってはならない。
けれど、小さな百合と、その周りの針目を見た瞬間、その決意が少しだけ危うくなった。
使うための手袋を、祀りたくなった。
(違う。これは守るための針目だ)
もう一度、手袋を見る。
手の甲の刺繍。
小さな百合。
内側の当て革。
飾りではない。
彼女が、手の甲を守ろうとしてくれたものだ。
「日々、身につける」
レオニスは低く言った。
クライヴはそれ以上、手袋については触れなかった。
ただ、机の上に便箋を置く。
「では、返礼を」
返礼。
レオニスは白い小箱の中の手袋を見た。
礼を返すだけなら、難しくはないはずだった。
受け取ったこと。
感謝していること。
身につけるつもりでいること。
それだけを書けばいい。
ペンを取る。
けれど、便箋に触れる直前で、手が止まった。
手の甲の端。
銀灰色の小さな百合。
その周りの、細かな針目。
(百合、と書くな。誰が縫ったのかも、尋ねるな。彼女は礼状に、そのことを一言も書かなかった。なら、こちらから言葉にして、答えを求めてはいけない)
ただ、何も見なかったように礼を返すこともできなかった。
あの小さな針目を、ただの装飾として流すことはできない。
だから、花の名ではなく、用途だけを書くことにした。
『手袋、確かに頂戴いたしました。
大切に身につけさせていただきます。
手の甲の補強まで、お心遣い痛み入ります。
レオニス・ヴァルグレイ』
そこまで書いて、ペンを置く。
短い。
あまりにも短い。
けれど、長く書けば書くほど、余計なものまでこぼれそうだった。
◇
その日の夕方、ルヴェリエ家に返礼が届いた。
騎士団の封蝋。
レオニス・ヴァルグレイの名。
リリアは指先が冷たくなるのを感じながら、便箋を開いた。
『手袋、確かに頂戴いたしました。
大切に身につけさせていただきます。
手の甲の補強まで、お心遣い痛み入ります。
レオニス・ヴァルグレイ』
(返礼です)
リリアは、便箋を持ったまま動けなくなった。
(ヴァルグレイ卿から、返礼です。騎士団の封蝋。ご本人のお名前。ご本人の署名。つまり、この便箋はヴァルグレイ卿の手元にあり、ヴァルグレイ卿の目がこの文字を追い、ヴァルグレイ卿の手がこの紙に触れ、ヴァルグレイ卿が私の贈った手袋を受け取ってくださり、そのうえ返礼まで書いてくださったということでございます。これは、ただの紙ではありません。侯爵家の宝物庫に納め、鍵付きの小箱で守るべき書状です)
「エステル」
「小箱なら、こちらに」
「……まだ、私は何も言っていないわ」
「お嬢様が便箋を胸に抱えた時点で、必要になると判断いたしました」
エステルは、深い青の、鍵付きの小箱を机の上へ置いた。
湿気を避ける薄紙。
封蝋を傷つけない柔らかい布。
便箋を折り直さずに収められる広さ。
準備がよすぎた。
「私は、そんなに分かりやすいかしら」
「本日は、とても」
リリアは反論しようとして、便箋の文字を見て、反論を忘れた。
大切に身につけさせていただきます。
(身につける)
その一文だけで、胸がいっぱいになった。
(あの手袋を。私が選んだ手袋を。私が縫ってしまった小さな百合を。ヴァルグレイ卿が、身につけると。身につけると書いてくださいました。これは現実でしょうか。現実であれば、本日はもう十分です。明日の私はこの続きを生きます)
リリアは、便箋を胸の前でそっと持ち直した。
受け取ってもらえただけで、十分だった。
迷惑でなければ、それだけでよかった。
返礼など、望んではいけないと思っていた。
それなのに、返ってきた。
レオニス・ヴァルグレイから。
自分の名前へ向けて。
「……すごいことです」
声が、少し震えた。
「私の手袋を、受け取ってくださったのね」
エステルは、いつものように茶化さなかった。
「ええ。受け取ってくださいました」
それだけで、もう胸がいっぱいだった。
それでも、リリアの視線はもう一度、便箋の三行目へ戻った。
手の甲の補強まで、お心遣い痛み入ります。
(手の甲の補強まで)
百合とは書かれていない。
白百合とも書かれていない。
誰が縫ったのかも、尋ねられていない。
でも、手の甲と書かれている。
補強と書かれている。
お心遣いと書かれている。
リリアは便箋を持つ指に、少しだけ力を込めた。
(気づかれたのでしょうか。いいえ、分かりません。でも、手の甲を守りたかったことだけは、受け取ってくださったのかもしれません)
それ以上は、考えると胸が苦しくなる。
けれど、受け取ってもらえた。
大切に身につけると、書いてもらえた。
それだけは、妄想ではなかった。
「……よかった」
ようやく出た声は、それだけだった。
リリアは、便箋をそっと青い小箱へ入れた。
すぐに蓋を閉めかけて、止まる。
「エステル」
「本日、あと何度でもお読みいただけます」
「……まだ何も言っていないわ」
「お嬢様が蓋を閉める手を止めましたので」
リリアは青い小箱から便箋を戻し、また開いた。
騎士団の封蝋。
レオニス・ヴァルグレイの名。
大切に身につけさせていただきます、という一文。
短い返礼だった。
けれど、リリアにとっては、一文字ずつ額装したいほどの返礼だった。
その夜、リリアは、手袋が置かれていた場所を見た。
黒い手袋は、もうない。
銀灰色の小さな百合も、もうここにはない。
あの手袋は、ヴァルグレイ卿の手元にある。
大切に身につけると、あの方は書いてくださった。
リリアは便箋をもう一度開いた。
『手の甲の補強まで、お心遣い痛み入ります。』
(百合に気づかれたのかは、分かりません。私が縫ったと気づかれたのかも、分かりません。でも、手の甲を守りたかったことは、受け取ってくださったのかもしれません)
そこから先は、リリアの願いだ。
そうであってほしいと、勝手に思っているだけかもしれない。
けれど、手袋を受け取ってもらえたこと。
大切に身につけると書いてもらえたこと。
それだけは、妄想ではなかった。
白百合令嬢と氷の騎士団長は、今日も直接会っていない。
交わしたのは、白い小箱と、短い返礼だけ。
それでもリリアだけは知っている。
小さな百合は、もう届いてしまった。




