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私の推し、私のことが好きすぎる  作者: あゆと


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4/7

推しの手袋に、小さな百合を縫ってしまいました

 翌朝、リリア・ルヴェリエの机には、黒い男性用手袋の見本が三組並んでいた。


 三組とも黒。

 けれど、指の長さと、手の甲の広さが少しずつ違っている。


 その横には、銀灰色の糸。


 昨夜のうちに、エステル・フォルテがルヴェリエ家に出入りしている手袋職人へ連絡を入れていた。

 命を助けていただいたお礼として、北部騎士団長へ実用品を贈りたい。

 礼装にも使え、剣を握る邪魔にならないもの。

 手の甲を、少しだけ守れるもの。

 職人は事情を聞き、朝一番で見本を持ってきた。


 昨日、レオニス・ヴァルグレイの黒手袋は裂けた。

 手の甲に、血がにじんだ。

 だからリリアは、お礼として手袋を贈ることにした。

 ただし、手の甲だけは自分で補強刺繍を入れる。


「エステル。これは、お礼です。念のため、もう一度申し上げますが、お礼です」

「存じております」

「負傷された騎士の方へ、必要なものをお届けするだけです。北部へ慰問品を送る時と同じです」

「はい。ですので、実用品として作ります。まず大きさをお選びください」


 エステルが、三組の手袋をリリアの前に並べ直した。

 リリアは三組を見た。

 そして、迷わず真ん中の一組を取った。


「こちらでお願いします」


 エステルが、ほんの少しだけ目を細めた。


「大きさは迷われないのですね」

「迷いません。公開訓練で剣を握られた時の指の長さ、北部遠征記事の挿絵、昨日の握手。すべて一致しています」

「昨日の握手は、一秒ほどでございましたが」

「十分です」

「……承知いたしました」


 職人が、手袋を持ったまま固まっている。

 エステルは職人を見ないふりをした。


「では、お嬢様が迷うのは」

「革です。手の甲を守れて、剣の邪魔をしないものを選びたいの」


 エステルは、からかいかけた言葉を飲み込んだ。

 リリアの視線は、黒い革ではなく、その下にあるはずの手を見ていた。

 昨日、血がにじんだ手。

 問題ありません、と隠された手。


(渡す。つまり、ヴァルグレイ卿の手元へ届く。私の選んだ手袋が。私が入れた刺繍が。……お礼です。これはお礼です。北部で傷ついた方へ必要なものを届けるのと同じです。昨夜、あの手の傷が気になって何度も目を覚ました女の、重すぎる贈り物ではございません。ただの、お礼です!)


 リリアは、選んだ手袋を職人へ戻した。


「この大きさで、黒の手袋を一組。礼装にも使える艶で、けれど剣を握る邪魔にならない革にしてください」

「かしこまりました」

「手の甲の内側に、薄い当て革を入れてください。厚くなりすぎないように」

「外から留めますか」

「はい。そこは、私が刺繍します」


 言った瞬間、リリアの胸が少しだけ熱くなった。


 私が刺繍します。


 それはつまり、レオニスの手の甲に触れるかもしれない場所へ、自分の針目を残すということだった。


 職人は深く頭を下げた。


「明日の午前には、お届けいたします」

「お願いします」


 職人が退室したあと、机の上には銀灰色の糸だけが残った。

 リリアは、その糸を見つめた。

 派手すぎない。

 白すぎない。

 黒い革の上で、光を受けた時だけ細く浮く色。

 昨日の裂け目を覆うには、どこからどこまで縫えばいいのだろう。


 細く。

 目立たず。

 でも、ちゃんと守れるように。


 その日、リリアは何度も銀灰色の糸を見た。

 手袋はまだない。

 けれど、手の甲ににじんだ赤だけは、まぶたの裏に残っていた。



 翌日の午前、黒い手袋が届いた。


 昨日リリアが迷わず選んだ大きさで、きちんと仕立てられている。

 革は柔らかい。

 指の形も、甲の広さも、リリアの記憶と合っていた。

 手の甲の内側には、薄い当て革が入っている。

 そこを外から刺繍で留めれば、昨日裂けた場所を少しだけ守れる。


 机の上に、黒い手袋。

 その横に、銀灰色の糸。

 針。

 小さな鋏。

 手元を照らす燭台。


 リリアは椅子に座り、深く息を吸った。


 これから、レオニスの手の甲を守る場所に刺繍を入れる。


(刺繍なら、何度もしてきました。ハンカチにも、襟にも、飾り布にも。慰問品に添える布にも。けれどこれは、ヴァルグレイ卿の手の甲に触れるかもしれない場所でございます)


 リリアは針を持った。

 銀灰色の糸が、黒い革の上を細く渡る。


 一針目。


 革に針が入る感触は、布より少し重かった。

 内側の当て革がずれないよう、浅く、細かく、糸を通す。

 リリアはゆっくり針を引いた。


 昨日の赤が、頭をよぎる。

 黒い革の裂け目。

 隠された右手。

 問題ありません、と即答した低い声。


 問題がない人の手袋は、裂けたりしない。


 二針目。

 三針目。


 ただの縫い目にすればよかった。

 その方が軽い。

 その方が、お礼として正しい。

 けれど、何も入れないことができなかった。


 大きな花にはしない。

 名前も入れない。

 誰が見ても分かるほど、白百合らしくもしない。


 それでも、手の甲の端に、小さな百合を一輪だけ縫った。


 補強の縫い目に紛れるくらい、小さく。

 近くで見なければ、花だと分からないくらい控えめに。


 午前の光が、机の上をゆっくり移っていく。

 リリアは針を進めた。

 小さな百合は、手袋の甲の端に静かに形を持ちはじめた。

 内側の当て革を留める糸が、そのまま小さな花になっていく。


(どうか、邪魔になりませんように)


 一針。


(どうか、重くありませんように)


 また一針。


(どうか、もしまた何かを受け止める時)


 リリアは糸を引いた。


(この刺繍が、ほんの少しでも役に立ちますように)


 ただの補強刺繍のはずだった。

 けれど一針ごとに、願いごとのようになっていく。


 手が冷えてきても、リリアは針を止められなかった。

 急いではいけない。

 強く引きすぎてもいけない。

 見せるためではない。

 それでも、消えてしまうほど弱くもしたくなかった。


 最後の一針を入れた時、リリアはしばらく息を止めていた。

 針を抜き、糸を整え、裏を確かめる。


 銀灰色の補強刺繍は、黒い手袋の手の甲にだけ控えめに収まっていた。

 手の甲の端には、小さな百合が一輪。

 補強の縫い目に隠れるように咲いている。


 完成した。


 そう思った瞬間、胸の奥が変なふうに熱くなった。

 キャーではなかった。

 もっと静かで、もっと困る熱だった。


「……できた」


 リリアの声は、思ったより小さかった。

 エステルはしばらく手袋を見ていた。

 それから、静かに言った。


「よくできております。補強としても自然です」

「よかった」


 リリアは手袋を持ち上げた。


 黒い革。

 銀灰色の補強刺繍。

 手の甲の端に、小さな百合が一輪。


 リリアは沈黙した。


(……百合です)


 どう見ても、百合だった。

 小さい。

 控えめ。

 補強の縫い目に紛れている。


 けれど、百合だった。


(なぜ、百合を縫ったのですか、私)


 ただの縫い目でもよかった。

 小さな星でもよかった。

 何の形にも見えない線でもよかった。

 でも、リリアの針は百合を縫った。

 白百合令嬢と呼ばれる、自分の花を。


 渡したい。

 使ってほしい。

 昨日、血がにじんだ場所を、少しでも守りたい。


 なのに、渡した瞬間、これはもうリリアの机の上の手袋ではなくなる。

 ヴァルグレイ卿の手元へ行く。

 あの方が見る。

 あの方が、触れる。

 あの方が、この小さな百合に気づいてしまうかもしれない。


「お嬢様」

「……入れなければ、よかったかもしれません」

「百合を、でございますか」

「ええ。途中までは、ただの補強だったのです。でも、気づいたら百合になっていました。小さいし、目立たないし、補強の一部ですと言い張れます。言い張れますけれど」


 リリアは手袋を見つめたまま、声を落とした。


「……私の花です」


 エステルはすぐに答えなかった。

 黒い手袋の甲を見て、銀灰色の百合を見て、それからリリアの指を見た。

 針を持っていた指先は、少しだけ赤くなっている。


「お礼としては、礼を尽くしております。悪いものなら、私は途中で止めております」

「でも、重くないかしら」

「軽くはございません」


 リリアは息を止めた。

 エステルは淡々と、小箱の内側に柔らかい布を敷いた。


「ですが、軽ければよいというものでもございません。少なくとも、これは見せびらかすための花ではないでしょう」

「……守りたかったの」

「存じております」


 その一言で、リリアはようやく手袋から指を離した。


 エステルは手袋を小箱に入れた。

 銀灰色の小さな百合が、箱の中で細く光った。


 リリアは小箱の蓋に手をかける。

 閉めようとして、止まった。


 これは、お礼。

 これは、実用品。

 これは、手の甲を守るための補強。

 分かっている。

 分かっているのに。


(……私、これを渡せるのかしら)


 小箱の中で、小さな百合だけが、銀灰色に光っていた。

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