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私の推し、私のことが好きすぎる  作者: あゆと


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3/7

氷の騎士団長は、推しの危機だけ見逃さない

 慈善基金の小茶会で用意された座席表は、たいへん親切だった。


 親切すぎて、エステル・フォルテは小広間の入口で一度だけ目を閉じた。


「お嬢様。こちらの座席表を決めた方は、善意の方でございますね」

「ええ。善意だけで、私の正面にヴァルグレイ卿のお名前を置かれました」

「たいへん恐ろしい配置でございます」

「エステル。座席表の文字が輝いて見えるのだけれど」

「輝いているのは、お嬢様の目でございます」


 小広間には、昨日と同じ白と青の花が飾られていた。

 壁際には、北部騎士団へ届けられた慰問品の見本が並べられている。

 包帯。

 膝掛け。

 代筆用の便箋。

 遺族へ贈る花の目録。

 昨夜の慰労夜会で披露された慈善基金について、支援者と騎士団関係者が改めて言葉を交わすための小茶会だった。


 丸い卓が三つ置かれ、招待された貴族たちはすでに席へ案内されている。

 入口に置かれた座席表では、リリア・ルヴェリエの名の正面に、レオニス・ヴァルグレイの名があった。


 北部騎士団長。

 氷の騎士団長。

 氷狼。


 昨日、握手を一秒で終えた相手である。


(正面。正面でございます。ヴァルグレイ卿が、正面。視線を上げればヴァルグレイ卿。視線を落とせば紅茶。つまり本日の茶会は、紅茶とヴァルグレイ卿の往復運動。無理ではございませんか。いえ、白百合令嬢として耐えます。ヴァルグレイ卿の前で茶器を割る女にはなりません。キャー! 座席表だけでこの破壊力!)


 リリアは外側だけ完璧に微笑み、席へ着いた。

 正面では、黒い礼服のレオニスが静かに椅子を引いている。

 昨日と同じ黒手袋。

 礼装用のものだが、指の動きに無駄がない。

 茶会の席なのに、そこだけ北部の冷えた空気を連れてきたようだった。


 レオニスが座る。

 灰青の目が、ほんの一瞬だけリリアへ向いた。


(近い。昨日より近い。卓を挟んでいるとはいえ近い。紅茶の湯気がヴァルグレイ卿の方へ流れた場合、それはもう間接的に私の茶葉選択があの方へ届くということであり、待ってくださいませ、茶葉選択に責任が発生しています)


 その正面で、レオニスは表情を動かさず、椅子の背に手を置いた。


(正面か。主催側は、俺を試しているのか。いや、違う。善意だ。分かっている。ここで視線を向けすぎれば彼女の負担になる。だが、見ないふりをして、彼女の小さな異変を見落とすのも違う。見るな。見守れ。境界線を越えるな)


 レオニスの視線が、卓上を一周した。

 銀の茶器。

 白磁の皿。

 砂糖壺。

 花瓶。

 天井から下がる小さな硝子飾り。

 慈善基金の披露に合わせて飾られた、北部産の硝子細工だと説明されていた。


 その硝子飾りの鎖が、ほんのわずかに鳴った。


 ちり、と。


 誰も気にしないほど小さな音だった。

 だが、レオニスの目だけが上へ動いた。


「昨日の握手は、実に友好的だったね」


 王太子エリオットが明るく言った。

 彼はこの小茶会の主催者ではない。

 けれど慈善基金に王家が関わっている以上、臨席するのは自然だった。

 そして、善意で場を和ませようとしている。


 そこが、少しだけ怖い。


「今日はもっと気楽に話すといい。ルヴェリエ嬢、ヴァルグレイ卿は北部の話も詳しい。ヴァルグレイ卿、ルヴェリエ嬢は刺繍と古い詩に造詣が深いそうだ」

「まあ、素敵」

「北部の話ですって」

「詩と氷狼。少し意外な組み合わせですわね」


 扇の陰で、令嬢たちが笑う。

 リリアは微笑んだ。


「北部のお話は、私にはもったいないほど興味深く存じます」


 レオニスは短く頷いた。


「必要であれば、分かる範囲でお答えします」


 礼儀正しい。

 冷たくはない。

 だが、温かくも見えない。

 周囲はまた勝手に意味を乗せ始めた。


「やはり距離があるわ」

「会話が公務のようですもの」

「殿下も大変ね」


 リリアは内心で頭を抱えた。


(違います。ヴァルグレイ卿はお優しいだけです。私のような重い観察者に話題を与えすぎないよう、慎重に言葉を選んでくださっているだけです。いえ、もしかして本当にご負担でしょうか。私が正面にいるだけで北部防衛力が低下している可能性は。ありません。あってはなりません)


 レオニスは、囁きではなく天井を見ていた。

 硝子飾りの鎖。

 その根元。

 金具の一部が、細く開いている。

 茶会のざわめき。

 食器の触れる音。

 誰かの笑い声。

 すべての中で、鎖がもう一度だけ鳴った。


 ちり。


 次に、金具が裂ける音がした。


 ぱきんっ!


 レオニスの黒手袋が、椅子の背から離れた。


 天井の硝子飾りが落ちた。


 がしゃんっ!


 銀の輪が卓の縁を打ち、硝子片が白磁の皿へ跳ねた。

 真下には、リリアの肩がある。

 悲鳴が上がるより早く、黒い影が卓を回り込んだ。


 リリアは、何かが光ったのを見た。

 それが落ちてくるものだと理解する前に、身体が横から包まれた。

 紅茶の香りが遠ざかり、黒い礼服の布地と、冷えた空気が近くなる。


 耳元で、さらに硬い音が弾けた。


 きんっ!


 レオニスの短剣が、跳ねた銀の輪を弾く。


 しゃりんっ!


 硝子片が彼の袖と黒手袋に当たり、細かく砕けて卓の端へ散った。


「きゃあっ!」

「何が!?」

「飾りが落ちたのか!」

「ヴァルグレイ卿!?」


 リリアは、息を忘れていた。

 目の前に、レオニスの肩がある。

 腕がある。

 黒い袖。

 硬い腕。

 自分を囲う、北部騎士団長の腕。


(腕です)


 頭の中で、何かが跳ねた。


(ヴァルグレイ卿の腕です。腕。腕でございます。待ってくださいませ、これはどういう状況でしょうか。私はいま、守られています。抱き込まれています。つまりヴァルグレイ卿の腕の中におります。近い。近すぎます。紅茶どころではございません。呼吸も礼儀も一度棚に上げてよろしいでしょうか。キャー!)


 いつもなら、そのまま胸の内は黄色い悲鳴で埋まるはずだった。

 けれど、リリアの視線が止まった。

 黒い手袋の甲に、細い裂け目が入っている。

 そこから、赤がにじんでいた。


(血)


 さっきまで頭の中を埋めていた声が、消えた。

 ヴァルグレイ卿が近い。

 腕の中にいる。

 黒手袋が目の前にある。

 けれど、黒い革の下に、血のにじむ手がある。


(怪我を、なさっている)


「ルヴェリエ嬢」


 レオニスの声が落ちた。

 低い。

 昨日よりもさらに低く、硬い。

 けれど、その奥がほんの少しだけ震えていた。


「お怪我は、ありませんか」


 リリアは、ようやく顔を上げた。

 灰青の目が、すぐ近くにあった。

 周囲の悲鳴も、割れた硝子も、王太子の声も、少し遠い。

 レオニスはリリアだけを見ていた。

 怪我がないか。

 怯えていないか。

 息ができているか。

 それだけを確かめる目だった。


「……ございません」


 リリアの声は、かすかに遅れた。


「ヴァルグレイ卿が、守ってくださいましたので」


 レオニスは一瞬だけ目を伏せた。


「当然のことをしたまでです」


 そう言って、彼はすぐに腕を離した。

 離すのが早すぎた。

 リリアに余計な噂が立たないように。

 彼女が人前で抱き込まれたと見られないように。

 その配慮まで分かってしまって、リリアの胸が痛んだ。


 周囲は、やはり別の意味を拾った。


「義務で助けただけ、ということかしら」

「あの離れ方、早かったわね」

「でも、動きはすごかったわ」

「リリア様には、特別に何かおっしゃった?」

「お怪我は、とだけ聞こえましたわ」


 エステルがリリアの椅子の横に来た。


「お嬢様、お立ちになれますか」

「ええ」

「お怪我は」

「私はありません」

「私は、でございますね」


 エステルの視線が、レオニスの右手へ向く。

 リリアも同じところを見た。

 黒手袋の裂け目。

 細い赤。

 レオニスは、その手を背に回した。

 リリアの胸が、きゅっと縮んだ。


(隠されました。私に気を遣わせないために。きっとそうです。けれど、違います。違うのです。私は、ヴァルグレイ卿を怪我ひとつしない遠い英雄として見ていたのではありませんか。黒手袋の皺を三頁も記録しておきながら、その下にある手が傷つくことを、本当に分かっていたのでしょうか)


 王太子エリオットが青い顔で近づいてきた。


「ルヴェリエ嬢、怪我はないか。ヴァルグレイ卿も」

「問題ありません」


 レオニスは即答した。

 その即答が、リリアには痛かった。

 問題がない人の手袋は、裂けたりしない。


「天井の金具が緩んでいたようだな」


 クライヴ・アスターが、落ちた銀の輪を拾い上げた。

 いつの間にかレオニスの横に来ている。


「茶会前に点検は?」

「したはずです」


 王宮の侍従が青ざめて答える。


「では、した者の名を」


 クライヴの声は穏やかだったが、笑っていなかった。

 レオニスは床に落ちた硝子片を見たあと、リリアへ視線を戻しかけ、途中で止めた。


(見るな。彼女は無事だ。無事なら、それでいい。ここで俺が長く近くにいれば、また彼女の噂になる)


 レオニスは一歩下がった。


「殿下。念のため、この場の吊り飾りをすべて外させてください」

「分かった。すぐに」

「ルヴェリエ嬢は、別室へ」


 その言い方は命令に近かった。

 戦場の声だった。

 だが、すぐにレオニスは息を飲む。


「……失礼。別室でお休みいただくのがよろしいかと存じます」


 リリアは、その言い直しを聞いてしまった。

 危険を前にした瞬間は、彼は迷わない。

 短く、強く、最善を選ぶ。

 けれど、リリアに向ける言葉だけ、あとからそっと角を削る。


(ああ)


 胸の奥で、何かがほどけた。


 リリアは立ち上がった。

 膝は少しだけ震えたが、エステルがそっと支える。


「ヴァルグレイ卿」


 レオニスの視線が戻る。

 リリアは、白百合令嬢として礼をした。

 けれど、声だけは少し柔らかくなってしまった。


「助けてくださり、ありがとうございました」

「当然のことです」

「当然でも、私は助かりました」


 レオニスの黒手袋が、わずかに動いた。

 裂け目を隠すように。


 周囲は静まり返っていた。

 先ほどまで囁いていた令嬢たちも、今は言葉を探している。

 その中で、誰かが小さく言った。


「やはり、義務なのね」

「ええ。北部騎士団長ですもの」

「でも、あの速さで……」


 噂は不仲のまま、少しだけ形を変えていった。


 白百合令嬢と氷の騎士団長は不仲らしい。

 けれど氷の騎士団長は、彼女が危ない時だけ、誰よりも早く動くらしい。



 別室へ向かう廊下で、リリアは自分の右手を見た。

 昨日、握手で記憶が飛んだ右手。

 今日は、その手ではなく、レオニスの裂けた黒手袋が頭から離れない。


「エステル」

「はい」

「男性用の手袋を贈るのは、失礼にあたりますか」

「命を助けていただいたお礼なら、自然でございます」

「では、黒で。銀糸は控えめにして、手の甲のあたりは少し厚く」

「手の甲、でございますか」

「……また、怪我をなさるかもしれませんから」


 エステルは、そこで初めてからかう言葉を飲み込んだ。


「承知いたしました。実用品として、きちんと仕立てましょう」

「お願いします」


 エステルはそれ以上、何も追及しなかった。

 ただ、リリアの視線がもう一度だけ茶会の方へ戻ったのを、見逃さなかった。



 その頃、小広間では、クライヴがレオニスの右手を見下ろしていた。


「団長」

「問題ない」

「問題がない方は、手袋から血を出しません。浅くても手当てします」

「後でいい」

「今です。ルヴェリエ嬢の前で隠した意味がなくなります」


 レオニスは沈黙した。

 クライヴはため息をつき、手当て用の布を差し出した。


「今の動きですが」

「吊り飾りが落ちた」

「落ちました。ですが、団長が動いたのは悲鳴の前です」

「音がした」

「ええ。普通の方なら、聞き逃します。団長は、ルヴェリエ嬢の上に落ちる音だけ、よく聞こえるようですね」


 レオニスは答えなかった。

 裂けた黒手袋を外し、血のにじむ手の甲を見た。


(守れた。それでいい。彼女が無事なら、それでいい)


 そう思ったはずなのに、耳には彼女の声が残っている。


 当然でも、私は助かりました。


 当然。

 ただの職務。

 そう言い切るには、あの声はあまりに柔らかかった。


「団長、手を」

「……ああ」


 クライヴが手当てを始める。

 レオニスは、外された黒手袋を一度だけ見た。

 硝子片を受けた甲の裂け目。

 リリアの肩へ落ちるはずだったものを止めた跡だ。


「そちらは洗浄に回します」

「処分はするな」

「通常の装備として、ですね」

「通常の装備としてだ」

「承知しました。通常の装備として、丁重に扱います」

「丁重である必要はない」

「ございます」


 クライヴはそれ以上言わず、黒手袋を布に包んだ。

 その顔は、完全に分かっている副官の顔だった。



 翌朝、リリアの部屋の机には、黒い手袋用の布と、銀灰色の糸が並んだ。


 それはまだ、贈り物ではない。

 ただの憧れでもない。

 眺めて満足するためのものでもない。


 ただ、銀灰色の糸を選ぶ指だけが、昨日より少し慎重だった。

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