握手一秒で、人生の記憶が飛びました
「では、握手をしよう」
王太子エリオットが、明るくそう言った。
王宮の小広間にいた貴族たちの扇が、いっせいにこちらへ向く。
昨夜の大広間ほど広くはない。
壁には淡い金の織物がかかり、窓辺の花瓶には白と青の花が飾られている。
昼の茶会に使うための部屋で、夜会より距離が近い。
逃げ場も少ない。
リリア・ルヴェリエは、白い手袋の中で指先をそっと握った。
(握手。あの方と。手を。いえ待ってくださいませ。握手とは、礼儀上ごく普通の行為です。王侯貴族の社交において、お互いの敵意がないことを示す穏当な儀礼。つまり大丈夫。大丈夫でございます。私の手が相手に触れるという一点を除けば、何も問題はありません)
「昨夜は正式な挨拶だけだったからね」
エリオットはにこやかに続けた。
「北部騎士団を代表するヴァルグレイ卿と、支援に尽くしてくれたルヴェリエ家の令嬢が、改めて友好を示すのはよいことだ。慈善基金の場としても、形になるだろう」
言葉は自然だった。
北部遠征の功績者。
負傷兵と遺族を支える慈善基金。
支援側の侯爵令嬢。
その二人が握手をする。
たしかに、何もおかしくない。
おかしいのは、リリアの心臓だけだった。
エリオットが右手を軽く差し出す仕草をした。
貴族たちの視線が、リリアの白い手袋と、レオニスの黒い手袋を往復する。
もう、なかったことにはできない。
エステル・フォルテが、リリアの半歩後ろで一瞬だけ目を伏せた。
それは、殿下、その方法はおそらく火に油でございます、という顔だった。
「ご配慮、痛み入ります」
リリアは微笑んだ。
白百合令嬢の微笑みである。
昨夜から胸の奥で鳴り続けている警鐘など、外へ出してはいけない。
正面のレオニス・ヴァルグレイも、表情を変えずに一礼した。
「殿下のお考えに従います」
短い声だった。
冷たく、低く、隙がない。
ただ、その黒い手袋の指先だけが、ほんのわずかに動いた。
(昨夜、彼女に断る役を負わせた。今日は違う。ここで拒めば、また彼女に噂を背負わせる。握手だけだ。礼儀として触れるだけだ。彼女の白い手を、俺の欲の言い訳にしてはならない)
レオニスは一歩だけ進んだ。
貴族たちの囁きが止まる。
昨夜の慰労夜会で広間の空気を凍らせた北部騎士団長が、今はただ一人の令嬢の前に立っている。
リリアの視界に、黒い手袋が入った。
北部遠征の記事の切り抜き。
端を傷めないように挟んだ薄紙。
公開訓練の日に握りしめた小さな観覧用レンズ。
刺繍糸の箱の中で、なぜか一番減りが早い銀灰色。
誰にも見せられない観察記録の隅に、丁寧に描いた黒手袋の皺。
それらが、一瞬で頭の中を埋める。
(現物。現物が近いです。黒手袋。昨夜も黒手袋。本日も黒手袋。ありがとうございます。いえ、ありがとうございますではなく、落ち着きなさいリリア。これは礼儀です。社交です。あの方の手ではありません。あの方の手です。違います。黒手袋越しの社会的接触です。つまり、あの方の手です。キャー! 違います、声には出しておりません。出しておりませんが、心の中では客席総立ちでございます)
「ルヴェリエ嬢」
レオニスが右手を差し出した。
リリアは、自分の右手を見た。
白い手袋。
昨日、刺繍針でほんの少し指先をつついたため、手袋の内側に薄い布を重ねている。
誰にも気づかれない程度のことだ。
彼女はそれを気にして、袖口から指を出す角度を少しだけ変えた。
レオニスの目が、そこへ一瞬だけ落ちた。
だが、すぐに戻る。
(見るな。気づくな。気づいたとしても、ここで触れるな。彼女が隠しているものを暴くな。守ることと、覗くことを混同するな)
リリアは静かに手を差し出した。
白い手袋と黒い手袋が、王太子の前で触れた。
時間にすれば、一秒ほどだった。
(手。あの方の手でございます。黒手袋越し。硬い。大きい。温度は手袋越しでは分かりませんが、存在感だけで国境の城壁くらいあります。この手で北部を守り、この手で剣を握り、この手で魔獣を退け、この手で今、私の手を。いえ違います、私の手ではなく社交儀礼上の握手対象を。キャー! 黙って、私の内心。今ここで黄色い悲鳴を上げたら白百合ではなく奇声百合になります)
リリアは微笑んだ。
首の角度も、背筋も、指先の力加減も、礼儀作法の教本に載せられるくらい正しい。
ただし、頭の中では遠征記事の切り抜きが白い花吹雪のように舞い、王宮の天井から黒手袋の挿絵だけが祝福のように降っていた。
その正面で、レオニスもまた、動かなかった。
黒い手袋越しに、リリアの指が触れている。
軽い。
信じがたいほど軽い。
戦場で剣を受け止めた時とは、手の使い方そのものが違う。
彼は、握り返す力を限界まで殺した。
(触れた。彼女が、俺の手に触れた。いや、握手だ。殿下の前で行う普通の挨拶だ。ここに意味を持たせるな。彼女の手に触れた一秒を、俺だけの記念にするな。だが、今この瞬間だけは、どうか誰も急かさないでくれ)
「よいね。これで支援側と騎士団側の結びつきも、皆に伝わっただろう」
王太子の声で、二人は同時に手を離した。
本当に同時だった。
リリアは、ヴァルグレイ卿に余計な負担をかけないために。
レオニスは、白百合の手を長く拘束しないために。
その後、王太子が何を言ったのか、リリアは三秒ほど覚えていない。
見えていたのは、自分の右手だけだった。
「まあ、早い」
「やはり苦手なのでは」
「ヴァルグレイ卿、まるで任務を終えたような顔でしたわ」
「ルヴェリエ嬢も、笑みが綺麗すぎて逆に冷たいわね」
エリオットの笑みが、わずかに固まった。
彼は善意で握手を提案した男の顔をしている。
つまり、自分の善意がまた別の方向へ走り出したことに、まだ半分しか気づいていない。
リリアは手を下ろした。
右手が熱い。
いや、熱いはずがない。
手袋越しである。
たった一秒である。
社交儀礼である。
何も起きていない。
何も起きていないのに、リリアの指先は、今この瞬間から一生分の職務を終えたような顔をしている。
(右手、あなたはよくやりました。キャー! いえ、あなたに叫んでも仕方ありませんね。ですが、よくやりました。本日より休暇を与えたいところですが、まだ茶会が残っております。がんばってください。私もがんばります)
「ルヴェリエ嬢」
レオニスが言った。
「指先を、痛めておられるのでは」
リリアは、一瞬だけ呼吸を忘れた。
エステルの視線が背後から刺さる。
お嬢様、見抜かれましたね、という静かな圧だった。
「大したことではございません。刺繍の途中で、少し針が触れただけです」
「手当ては」
「済ませております。ご心配には及びません」
「そうか」
短いやり取りだった。
だが、レオニスの声は、ほんの少し低かった。
戦場の怪我を問う声ではない。
責める声でもない。
リリアはそれを聞いて、今度こそ膝が危うかった。
(気づかれました。ヴァルグレイ卿が、私の指先に。いえ、これは北部騎士団長としての観察力。そうです。怪我を見逃さない英雄の目でございます。私個人ではございません。ございませんが、その観察力で私の小さな針傷を拾われるのは、心臓に悪すぎます。国の宝であるその目を、どうかもっと重要なものへお使いください。魔獣とか。国境とか。私の袖口ではなく)
レオニスは、すぐに目を伏せた。
(踏み込みすぎた。彼女が隠したものを、俺が人前で口にした。最悪だ。心配という名で、彼女の静かな努力を暴いた。守るとは、そういうことではない)
「失礼した」
レオニスは、ほんの少しだけ頭を下げた。
「余計なことを申し上げました」
「いいえ。お気遣い、恐れ入ります」
礼儀正しい。
あまりに礼儀正しい。
扇の陰では、また別の意味が生まれ始めていた。
「怪我の話をして、すぐ謝ったわ」
「踏み込まれたくなかったのでは?」
「ルヴェリエ嬢も、あの笑み。受け入れたようには見えませんわね」
「本当に相性が……」
エステルは、リリアの背後で一度だけまばたきをした。
クライヴ・アスターは、部屋の反対側で眉間に指を当てた。
二人とも同じことを考えた。
違います、と。
茶会が終わるまで、リリアとレオニスは完璧に距離を保った。
リリアは、ヴァルグレイ卿の名誉をこれ以上傷つけないために。
レオニスは、彼女の評判をこれ以上汚さないために。
互いに相手を思って、近づかなかった。
その結果、二人は一度も私語を交わさなかった。
◇
帰りの馬車で、リリアは右手を膝の上に置いたまま動かなかった。
エステルが向かいの席からじっと見ている。
「お嬢様」
「何も言っていません」
「まだ何も聞いておりません」
「この右手は、社交上の責務を果たしただけです」
「私はまだ右手とも言っておりません」
「エステル」
「はい」
「本日の私は、よく耐えました」
「はい。お顔は完璧でした」
「お顔だけ?」
「呼吸は三度ほど職務放棄しておりました」
リリアは右手をそっと胸元へ寄せかけ、途中で止めた。
ヴァルグレイ卿と握手した手を胸に当てるなど、あまりに重い。
誰も見ていない馬車の中でも、それはしてはいけない気がした。
(触れたのは手袋です。握手です。礼儀です。あの方の人生には何の影響もありません。だから大丈夫。私が勝手に覚えているだけなら、迷惑にはなりません。たぶん。おそらく。いいえ、記憶にも重さはありますか? あるなら、私は今日だけでかなり重い女でございます)
エステルは、ため息をつきながらも、何も言わなかった。
◇
その頃、騎士団詰所では、レオニスが右手の手袋を外さずに書類を見ていた。
副官のクライヴ・アスターは、入口で三秒ほど立ち止まったあと、静かに扉を閉めた。
「団長」
「何だ」
「手袋をしたまま、報告書の署名はできません」
「問題ない」
「インクが伸びています」
「……替える」
「外す、ではなく?」
「替える」
クライヴは机の横に置かれた小さな木箱を見た。
保存用の乾いた布が入っている。
しかも新しい。
「団長、その箱は」
「手袋の保管用だ」
「本日の手袋だけ、なぜ保管用の箱が必要なのですか」
「汗を吸った」
「北部騎士団長が、汗を吸った手袋を箱に保管するのは衛生面でも精神面でも問題です」
レオニスは沈黙した。
クライヴはその沈黙に、だいたいの答えを見た。
「団長。その沈黙は、ルヴェリエ嬢案件ですね」
「……装備の管理だ」
「装備は思い出ではありません」
レオニスは、ゆっくりと右手を見た。
黒い手袋。
ほんの一秒だけ、白い手袋に触れたもの。
それを保存したいという衝動は、確かにあった。
(彼女が触れたから残したい。そう思った時点で、これは装備管理ではない。俺の欲だ)
彼女に知られなければいい。
その考えが浮かんだ時点で、レオニスは木箱から手を離した。
保存用の布が、使われないまま白く残る。
「洗浄に回す」
「賢明です」
「ただし、丁寧に扱え」
「通常の装備として丁寧に扱います」
「……通常の装備としてだ」
「はい。通常の装備として」
クライヴは深く追及しなかった。
ただし、保存用の木箱は無言で回収した。
◇
その夜、王都の噂は少し育った。
白百合令嬢と氷の騎士団長は、握手すら一秒で終わらせたらしい。
しかも、その後はほとんど言葉も交わさなかったらしい。
噂を聞いたエステルは、リリアの部屋で銀灰色の刺繍糸を片づけながら、目を閉じた。
同じ頃、クライヴは騎士団詰所で、没収した空の木箱を棚の上へ置いた。
「違います」
「違うな」
別々の場所で、二人の声だけが正しく噂を否定した。
もちろん、王都には届かなかった。
そして翌日、負傷兵と遺族を支える慈善基金の小茶会で、リリアとレオニスはまた同じ席に近づけられることになった。




