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私の推し、私のことが好きすぎる  作者: あゆと


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1/7

正式な挨拶で、推しが私の名前を呼びました

「目を合わせるな。氷狼だ」


 王宮大広間の端で、その一言が落ちた。


 笑っていた令嬢たちの扇が、半拍だけ止まる。

 楽師の弓は変わらず弦の上を滑っているのに、広間の端だけ音が薄くなった。


「北部帰りのヴァルグレイ卿ですわ」

「王都へ戻られたのは、半年ぶりかしら」

「今宵も笑わないのね」

「笑われた方が怖いだろう」

「声を落として。聞こえたらどうするの」


 黒い礼服の男が、広間を横切る。


 レオニス・ヴァルグレイ。

 王国北部騎士団長。王都では氷の騎士団長と呼ばれ、北部の兵たちはもっと短く、氷狼と呼ぶ。


 吹雪の夜でも足音を立てず、敵の喉元に食らいつく男だと。


 今宵の夜会は、北部遠征の慰労を兼ねていた。

 魔獣討伐から戻った騎士たちを称え、負傷兵と遺族を支える慈善基金のお披露目も行われる。


 つまり、レオニス・ヴァルグレイが出席する。


 その報せを聞いた日から、リリア・ルヴェリエは朝の紅茶に砂糖を入れ忘れ、刺繍糸を三度取り違え、予定帳の余白に小さく「王都」と書いてしまっていた。


 推しが、王都にいる。

 しかも、同じ夜会にいる。

 その事実だけで、侯爵令嬢としての精神は何度か膝をついた。

 もちろん、外側は倒れていない。


 白百合令嬢は、推しが王都へ戻ってきた程度で崩れ落ちたりしない。

 少なくとも、外側は。


 リリアは白い扇の陰で、静かに息を止めた。


(本物でございます。肖像画ではなく、遠征記事の挿絵でもなく、本人。実在。呼吸。歩行。黒手袋。銀刺繍。あの銀刺繍、北部式礼服の意匠でしょうか。号外の端に描かれていたものより細い。いいえ、今は分析している場合ではございません。キャー!)


「お嬢様」

 背後で侍女のエステル・フォルテが囁いた。

「扇が逆でございます」

「エステル」

「はい」

「あの方、歩いていらっしゃるわ」

「生きている方は、だいたい歩きます」

「記事では歩かないもの」

「お嬢様、声量をお戻しください。白百合令嬢ではなく、怪しい観察者になっております」


 リリアは扇を持ち替えた。

 指先は震えていない。

 侯爵令嬢としての訓練は、命の危機にも仕事をする。


 社交界で、彼女は白百合令嬢と呼ばれている。

 清楚で、穏やかで、誰に対しても礼を欠かさない。

 今日のドレスも白を基調に、裾にだけ薄い銀糸を走らせたものだ。

 ルヴェリエ侯爵家は、今回の慈善基金に花と慰問品を提供している。

 負傷兵へ届ける包帯、遺族へ贈る花、片手を怪我した兵でも家族へ便りを出せるように整えた便箋。

 その一部を、リリアも手配した。

 だから今宵、彼女は支援側の令嬢としてここにいる。


 問題は、その支援対象の中心に、人生最大の推しがいることだった。


「お嬢様、息をしてください」

「しています」

「している方は、もう少し胸が動きます」

「動いていませんか」

「止まっております」

「外側だけは白百合でいたいのです」

「中身の話をしますと、先ほどからかなり不審でございます」


 エステルが小さくため息をついた時、王太子エリオットの明るい声が広間を渡った。


「ルヴェリエ嬢」


 リリアは、扇を閉じた。

 閉じられた。

 落としていない。

 声も出ていない。

 まだ白百合令嬢でいられる。


「はい、殿下」

「ヴァルグレイ卿とは、まだ正式に挨拶をしていなかったね。今宵はよい機会だ。北部を守った騎士団長と、支援に尽くしてくれたルヴェリエ家の令嬢が言葉を交わすのは、自然なことだろう」


 リリアは、王太子の言葉を聞いた瞬間、微笑みを少しだけ深くした。


(終わりました。いえ、終わってはなりません。今からです。正式な挨拶。正式。公式記録に残る可能性のある接触。推しの前に立ち、推しへ名乗り、推しから返答をいただく流れでございます。無理でございます。王宮の床よ、今だけでよいので私の膝を支えてください。できれば明日まで支えてください)


 リリアは歩いた。

 膝は折れていない。

 床も傾いていない。

 エステルが後ろで何かを祈るように手を組んだ気がしたが、確認する余裕はない。


 王太子の隣に立つレオニスが、こちらを見る。


 灰青の目。

 遠征新聞の粗い印刷では分からなかった。

 氷というより、冬の朝の湖に近い。

 冷たいのに、底が深い。


「お初にお目にかかります、ヴァルグレイ卿。リリア・ルヴェリエでございます」


 リリアは、北部遠征慰労夜会の真ん中で完璧な礼をした。


 声は震えなかった。

 背筋も崩れない。

 白百合令嬢は、推しを前にしても礼を間違えない。

 少なくとも、外側は。


 レオニスは、ほんのわずかに目を伏せた。


「こちらこそ、ルヴェリエ嬢。レオニス・ヴァルグレイだ」


 低い声が、彼女の名を呼んだ。


(私の名前を)

(推しが)

(声帯で)


(終わりました)


 リリアは微笑んだまま、内心で床に崩れ落ちた。


 実際の身体は一寸も揺れていない。

 白百合令嬢は、推しに名を呼ばれた程度で倒れたりしない。

 少なくとも、外側は。


 その正面で、レオニスも表情を変えずに立っていた。

 黒い手袋の指先だけが、ほんの少し曲がる。


(リリア・ルヴェリエ嬢が、俺に礼をした)


 白百合の君。


 北部の砦に届いた慰問品の手配者欄で、その名を初めて見た。

 煮沸済みの包帯。

 夜番の兵の手首を冷やさない布。

 片手を負傷した兵でも家族へ便りを出せるように整えられた便箋。

 遺族へ届ける、香りの強すぎない白い花。


 戦場の外にいる者が送る、綺麗なだけの祈りではなかった。

 こちらの痛みを、遠くから具体的に見ようとしている支援だった。

 その名の主が、今、目の前で礼をしている。


(白百合の君が、血と泥の匂いが染みついた男に、名を呼ばせてくださった。今日まで生きていてよかった。いや、落ち着け。ここは戦場ではない。膝をつくな。剣を捧げるな。王宮夜会で臣下の礼を深くしすぎれば、彼女の迷惑になる)


 レオニスは、そこで自分の呼吸を細くした。


 近すぎる。

 彼女の空気に、自分の息が混ざってしまう。


 リリアの右手は、礼を終えたあとも袖口の陰にそっと残っていた。

 白い指先を、周囲から見えないように隠している。


 針傷か。

 袖で隠しているのか。


 そこまで考えて、レオニスは視線を落とした。


(見るな。近づくな。守るとは、見続けることではない。彼女の社交の場を、俺の影で汚すな)


「二人とも、そう固くならなくていい」

 王太子エリオットが楽しげに笑った。

 本人は善意だった。

 善意ほど、時に逃げ道を塞ぐものはない。


「せっかくだ。最初の曲ではないが、次の曲を二人でどうかな。遠征の功績者と、支援側の令嬢が踊れば、今宵の趣旨にも合うだろう」


 周囲の貴族たちの視線が集まった。

 リリアの耳に、楽師が弦を整える音が届く。

 リリアは、扇を持つ指に力を込めた。


(踊る。この方と。手を取り、同じ音楽の中で、同じ床を歩く。無理でございます。そのようなことをすれば、私は明日の朝日を拝めません。いえ、朝日どころか今夜のデザートにも辿り着けません。推しの貴重なお時間を、私のような重い女が奪うなどあってはならないのです。北部からお戻りになったばかりのお身体を休めていただくべきで、私と一曲踊るなど、国の損失。王国損失でございます)


 リリアは、胸の奥で転げ回る自分を踏みつけ、上品に微笑んだ。


「光栄なお言葉でございます。ただ、ヴァルグレイ卿は北部よりお戻りになったばかり。私などが貴重なお時間をいただくわけにはまいりません」


 完璧な辞退だった。


 その言葉を聞いた瞬間、レオニスの胸の奥で、何かが静かに沈んだ。


 顔には出ない。

 肩も動かない。

 氷狼は、王宮夜会の真ん中で失望を見せたりしない。

 ただ、黒い手袋の中で、指先だけが強く握られた。


(そうか。彼女は、俺と同じ音楽の中に立ちたくないのだ。当然だ。白百合の君を、戦場帰りの男の隣に立たせてよいはずがない。王太子殿下の前で、彼女に断る役を負わせた。俺が、彼女に恥をかかせた)


 レオニスは短く息を整えた。


「ルヴェリエ嬢のお心遣い、痛み入ります。私も、今宵の場を妨げるつもりはありません」


 今度はリリアの胸に、氷の槍が刺さった。


(推しに、遠慮された。いえ、違います。これはご配慮。ご配慮でございます。私は傷ついてなどおりません。少しだけ世界が終わっただけでございます。ヴァルグレイ卿はお優しい。だからこそ、私のような者に気を遣わせてしまったことが問題であり、つまり私は今すぐ壁の装飾に戻るべきなのです)


 王太子は、二人の間に流れた沈黙を見て、軽く眉を上げた。


「そうか。では、また機会を改めよう」

「恐れ入ります」

「ご配慮に感謝いたします」


 二人の返答は、よく整っていた。


 整いすぎていた。


 そのせいで、周囲の貴族たちは好き勝手に意味を乗せた。


「まあ、互いに譲ったというより、拒んだように見えましたわ」

「ルヴェリエ嬢の笑みが固かったもの」

「ヴァルグレイ卿も、あれでは壁に返事をしたのと同じだ」

「慰労夜会であれでは、相性が悪いのでしょうね」

「支援側と騎士団長があの距離では、少し気まずいですわ」


 扇の陰で囁きが転がる。

 誰かが声を潜め、誰かが目を細め、誰かが面白い話を見つけた顔をした。


 リリアはその囁きを聞き、血の気が引いた。


(私のせいで、ヴァルグレイ卿が無礼をしたように見えたのでは。推しの名誉を、私が。いえ、落ち着いて。ここで倒れたら、さらにご迷惑です。白百合令嬢として立ちなさい、リリア。今だけは根性で根を張りなさい)


 レオニスは別の囁きを拾い、手袋の指先を握った。


(俺のせいで、ルヴェリエ嬢が冷たい令嬢に見られた。これ以上、彼女の近くに立つな。守るなら、まず距離を取れ。彼女の評判に俺の影を落とすな)


 二人は同時に、相手へ一歩引いた。


 周囲には、その一歩が決定的に見えた。


 エステルはリリアの後ろで、閉じた扇をそっと受け取った。

 扇の骨は、主人の指に強く握られて少しだけ軋んでいる。


「お嬢様」

「分かっています。私は平気です」

「平気な方は、扇に親の仇のような力を込めません」

「ヴァルグレイ卿の評判に、傷がついたかもしれません」

「お嬢様の指にも傷がつきます。まず扇をお放しください」


 エステルはそれ以上言わなかった。


 リリアが、自分の心ではなくレオニスの名誉だけを心配していると分かったからだ。


 少し離れた場所で、レオニスの副官、クライヴ・アスターは黒い手袋の指先を見ていた。


「団長」

「問題ない」

「問題がない時の団長は、手袋を殺しません」

「任務中だ」

「夜会は任務ではありません。少なくとも、今この場に魔獣はいません」

「噂はある」

「魔獣より厄介なものを相手にする顔をなさらないでください」


 レオニスは返事をしなかった。

 視線だけが、白いドレスの背を一瞬追い、すぐに床へ戻る。

 クライヴは胃のあたりを押さえた。

 これは、面倒なことになる。


 広間の楽師が次の曲を始めた。

 貴族たちは何事もなかったように踊り出す。

 白いドレスと黒い礼服は、広間の端と端で、互いを見ないように立っていた。



 その夜、王都に小さな噂が広まった。


 白百合令嬢と氷の騎士団長は、どうやら不仲らしい。


 噂を聞いたエステルは、リリアの部屋の前で額を押さえた。

 同じ頃、騎士団詰所で報告を受けたクライヴ・アスターも、眉間を押さえていた。


「違います」

「違うな」


 二人の忠臣は、別々の場所で同時に呟いた。


 ただ、王都の噂はもう走り出していた。


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